さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも大海人皇子と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。
一方の大海人皇子は複雑であったかも知れません。自分の祖国は「白村江の戦い」でぼろぼろになってしまいました。オオキミすら捕虜になったのです。オオキミが死んでいれば、皇太子—あるいはそれは大海人皇子自身だっかかも知れません—が跡を継いで国を復興すべく一丸となって努力することもできたでしょう。しかし、オオキミは生きて唐に連れ去られたままです。賠償も過酷なものが課されたでしょう。自らは避難してきた身です。身を寄せた国に貢献するのは当然として、祖国とは異なり、たちまち国力は充実し、今や彼我の差は逆転しているかも知れません。
そんな日々を過ごす大海人皇子の元へ「倭國」のオオキミが帰還したという知らせが入ります。同時に朝廷にも知らせが行ったでしょう。帰国することを考えなかったはずはありません。しかし、今更帰ってどうするのか、オオキミが受難の間、難を避けるためとはいえ、逃げていた自分はどんな顔をして帰ることができるでしょう。そして「大皇弟」という尊称はあっても平和になり、落ち着いた大和朝廷では逆に浮いてしまったのではないでしょうか。帰るに帰れず、しかし今いるところも終の棲家とならざる様子にひとり懊悩したものと推察されます。
両者沈思黙考の日々が続いたのでしょう。しかし周りは放っておいてはくれません。大友皇子の近臣は皇太子とはいえ、多大な実績のある大海人皇子を警戒しています。当然天智天皇に大海人皇子を遠ざけるように進言したでしょう。一方の大海人皇子周辺も「日本國」が立ち直れたのは自分たちの貢献を大としていますから、そのような朝廷の空気に拒否感を持つものもいたと思われます。当然、実力で地位をもぎ取るべしと進言する者もいたでしょう。そうしているうちに、大友皇子派の豪族に押されたのか、天智天皇は、大友皇子を太政大臣に任命します。あるいは大友皇子が皇太子であればこの叙任はなかったかも知れません。いずれにせよ、大友皇子が執政権を一手に握ることを天智天皇が許したことになります。それは、婉曲に大海人皇子に手を引くことを求めたことになるのです。
むろん、天智天皇が生きている間は、大過なく過ごすことができました。大友皇子にあっては父天皇ですし、大海人皇子にあっては避難してきた自分を受け入れてくれた恩人です。両者ともその顔を潰すことなどできませんでした。
しかし、天智天皇10年(西暦672年)、天智天皇は崩御します。そして、当然大友皇子は即位したでしょう。
『日本書紀』は、天智天皇の死の間際、大海人皇子は出家して吉野に隠遁することを願って許されたと書いています。ただちに吉野へ赴き、出家入道して修行を重ねていたところ、近江の朝廷が大海人皇子を謀殺するという情報を掴んで挙兵したことになっていますが…ここが一番怪しいのです。大友皇子が大海人皇子を謀殺する理由がありません。大人しく出家していてくれれば、自然に影響力も衰え、放っておいても脅威ではなくなるのです。
もう当然だと思いますが、大海人皇子が自ら立って実力で大和朝廷を奪うことを決意したと私は考えます。大友皇子は余裕綽々ですが、大海人皇子の方は時間が経てば立つほど功績を忘れ去られ、異邦人として拠って立つ地もなく消えゆく運命です。大海人皇子は赤い旗を掲げたとされていますが、これは漢の高祖劉邦に自らをなぞらえたのだとする説があります。漢の高祖劉邦は、赤帝の子を自称し、赤い旗印を使い、一介の布衣から身を起こし、秦帝国を倒して、項羽との天下分け目の戦いに勝って、新たに王朝をひらき、漢帝国を建てました。その劉邦に自らをなぞらえたということは、大海人皇子が大和朝廷とは関係のない人であったことを示します。そして、即位の際には新たに王朝を開くことを宣言したと言いますから、天智天皇と同母の兄弟であったというのは、後世の粉飾であることがわかります。これには傍証があり、『新唐書』東夷伝日本条に永徽初めのこととして、「天智死子天武立」「天智死して子の天武立つ」とあります。唐に献上されていた史書では、そのように書かれていたのでしょう。続柄が変わると言うことは、粉飾であることの証左です(この一文、2013年6月22日に追記)。閑話休題。
「白村江の戦い」で大敗してもなお「大倭國」の残照は余命を保っていました。美濃やほかの東国諸国から援軍を得ることができたのはそのおかげでしょう。大和の地で大伴吹負が挙兵したり、河内国守来目塩籠が近江朝廷に背いたのは、大海人皇子の器量を見込んだところが大でしょう。近江の羽田矢国が寝返ったのも、大海人皇子の挙兵に狼狽える近江王朝を見限ったからだと思います。こうして、大海人皇子の挙兵は成功し、近江朝廷は滅びました。大海人皇子はしばらく美濃で戦後処理にあたっていましたが、それを終えると飛鳥の地に入り、即位しました。しかし天武天皇は、天智天皇の恩を忘れたわけではありませんでした。弘文天皇は死んでも、他にも天智天皇の皇子は生きていたのです。彼らとともに「吉野の盟約」を結び、今後は一致団結することを子供らに誓わせています。
さて、世に言う「壬申の乱」が終結した後、私は天武天皇が一族を「倭國」から呼び寄せたと考えています。それは、
- 天武天皇の政治は「皇親政治」と呼ばれていますが、それは大和朝廷の皇族だけでなく、自分の一族を使ったと思われること。
- 「倭國」で重要だったと思われる施設が、大和の地へ移築されていること。
移住に当たって貴重品を持参するのは当然ですが、持ち運べない建物のようなものでも、移築が可能なら、その方が手間がありませんし、目に馴染んだものの方が喜ばれたでしょう。その代表が法隆寺だと言う人がいます。え? じゃあ山背大兄王が立てこもったのはどこになるのよ? と言う人もいるでしょうが、それが若草伽藍として残っているんじゃないでしょうか。『日本書紀』は天智天皇の9年(西暦670年)に「夏四月癸卯朔壬申夜半之後災法隆寺一屋無餘」と一切合切が焼失したと伝えていますが、釈迦三尊像とか薬師如来像は明らかに火災の影響を受けていません。どうやって火事の中運び出したんでしょう。謎ですね。それはともかく、逆に「日本國」が「唐」と手を組んで、掠奪したのだという人がいますが、持ち運びのできる金銀財宝はともかく、建物などを移してどうしようというのでしょう。むしろ、移住にあたり、故地を偲ぶ気持ちを慰めるため、自分たちで運んでいったという方がよほど筋が通ります。
- 「倭國」が『舊唐書』より後の中国の正史に全く現れなくなり、国としては滅びたと思われること。
によります。言葉を変えると、「倭國」による「日本國」乗っ取りです。別の言い方をすれば、「日本國」が「倭國」を併呑させられたことになります。もっと別の言い方をすれば、「倭國」による「日本國」の簒奪という言葉も使えます。天網恢々疎にして漏らさず。継体天皇はあの世で歯がみして悔しがったでしょう。
ところで、天武天皇は非常に不思議な天皇で、
- それまで当然であった豪族たちによる政治を排除して、「皇親政治」という皇族だけで執り行う政治を実施した。
専制的とまではいかないにしても、権力をトップに集中させて、官僚を手足のように使う政治に慣れていた様子が覗えます。それは「倭國」で行われていた政治形態をそのまま持ってきたものでしょう。
- 律令制を指向している。
- 冠を被ることを強制している。
- 官人に武装させている。
- 恒久的な都を建設することを考えていた。
- 複都制を指向した。
- 史書の編纂を発起した。
- 五節の舞、新嘗祭、大嘗祭など主要な宮廷儀式を集大成した。
おそらく、それまで「倭國」で行われていた儀式を移したのでしょう。
- 国家神道を形成した。
- 仏教を手厚く保護した。
- 新羅と手を結んだ
とこれだけ独特なことをしています。それまでの天皇観を破壊するがごときです。しかし、見方を変えれば、「倭國」で実際に行われていたことを移しただけであり、天武天皇自身は、特別なことをしているとは思ってもいなかったでしょう。
「倭國」は消え去りましたが、なくなってしまったわけではありません。日本の中に溶け込んで今もその血を伝えているのです。