売国奴お断り - No Traitors Allowed

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婚姻制度の歴史を考える—⑦禁婚

婚姻を考察する上で、必ず考慮しなくてはならない要素に「禁婚」がある。文字通り、結婚してはいけない相手を定めることである。

現在の日本においては、

  • 民法734条「直系血族又は3親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない。ただし、養子と養方の傍系血族との間では、この限りでない。」と禁婚の範囲が定められている。これには附則があり「2 第817条の9の規定により親族関係が終了した後も、前項と同様とする。」
  • 同735条「直系姻族の間では、婚姻をすることができない。第728条又は第817条の9の規定により姻族関係が終了した後も、同様とする。」と姻族でも直系は不可とする規定がある。
  • 同736条「養子若しくはその配偶者又は養子の直系卑属若しくはその配偶者と養親又はその直系尊属との間では、第729条の規定により親族関係が終了した後でも、婚姻をすることができない。」で、一度養子を取ったら縁組みを解消しても結婚できないよと定めている。

小難しい言葉が出てくるが、簡単に言うと「直系の血縁(親子孫祖父母など)+三親等以内の血縁(兄弟姉妹オジオバ甥姪)と、結婚した相手の親および連れ子とは離婚しても結婚できないよ。一度養子しちゃったらそれも同じ」ということだ。今の日本では当たり前すぎて誰も疑問を抱かないだろうが、これ、近代国家の禁婚規定としてはかなり甘い制度であると述べたら読者は驚かれるであろうか。

例えば、儒教の影響が大きい中国では、同姓とは結婚できないという社会通念がある。これは、古代中国のさらに古代に存在した族外婚(群婚)から引き継がれた禁婚規定であると考えられる。族外婚(群婚)は、ある集団の男性は必ず別の決まった集団の女性(ただし相手は不特定)と婚姻関係を結ばなくてはならない。女性も同様である。従って「同集団=同じ氏族=同姓」の者との「性交=婚姻」は禁止される。この禁婚は有史以前から存在し、もちろん中国が歴史時代に入ってからも墨守され、儒教によって補強された上で、現代に至るまで根強い禁婚観念を形作っている。中国が夫婦別姓なのは、このタブーに抵触していないことを明らかにするためであり、別段進んだ夫婦関係があるからではない。朝鮮も儒教の影響下でこの禁婚観念を受け入れたため、長らく同姓同本貫は禁婚であった。今は法律上少し緩められているが、避けられるものなら避けるのではないだろうか。

そこまで極端ではなくても、血族との結婚を避ける国は多い。通常、いとこは余裕で禁婚範囲である。逆に、いとこと結婚できる国は日本を除けば、イスラム諸国くらいなものではなかろうか。もっとも法律を論えば、存外規制がゆるやかな国も多いだろう。同性婚でも許される時代である。例えばスウェーデンでは、異父、異母の兄弟姉妹とは法律上は結婚できる。しかし、この項で論じたいのは、法律がどうなっているかより、社会通念がどのような禁婚観念に従っているかである。可能であるということと、それが一般的であるということは違うのだ。

さて、日本は元より、イスラム圏を含む世界各国に近親の婚姻を禁止する法律があるのは、私有財産制度の要請に基づく。現代の私有財産制度は一夫一婦もしくは一夫多妻の私有婚に依存しており、父と母から子へまたその子へと地位や財産が継承されていくことが保証されなくてはならない。近親婚は、この継承を混乱させるので、禁止されているのである。もちろん、歴史的な経緯が国毎に違うので、どこまでを禁婚範囲とするかは、宗教や国ごとに異なる。基本、直系は不可。祖父母まで遡ると同じ系になる近親も不可。というところではないだろうか。

高群逸枝氏の『日本婚姻史』によると、日本が嫁取婚=現代に続く私有婚に移ったのは、室町時代以降である。むろん、鎌倉時代以前、院政期、あるいはそれよりもっと以前から召上婚、進上婚といった形で、嫁取りは存在していた。これが一般化したのが室町期に見て取れるのである。召上、進上といった言葉でもわかるように、この頃から嫁は所有されるものであり、血筋は男が保証するものに変わっていた。戦乱とそれに対抗する暴力支配とその正当化の必要から、男系が何よりも重視され、地位、財産の継承に男系が要求されるようになっていた。従って、他の男の種による子供が生まれることは忌避されるべきことであり、女性の浮気は姦通と見なされ、禁止対象となり、上層の武家では奥と表が分離され、男がみだりに奥へ入ることは忌避されるようになっていく。その上で、近親との婚姻も禁止されたことは想像に難くない。おそらく、禁婚観念は現在とさほど変わらないものであったと思われる。この嫁取婚を取り入れたのは、地方の武士階級だと言われている。俗に言う土豪である。

では、それ以前の日本はどうだったのだろうか。嫁取婚の前は、婿入婚であり、その前は妻問婚である。

婿入婚と妻問婚は、婿が妻のもとに通うか、妻の家に住み込むかが大きな違いである。もちろん、婚主が妻の父母か、氏族のオヤであるかなど歴史的に見ればこの転換には議論すべき点が多々あるものの、禁婚観念という観点からは大きな違いは無い。

この時期の禁婚観を取り上げる上で無視できないのは「記紀」に記された允恭天皇の皇子軽太子(かるのみこのみこと)皇女軽大郎女(かるのおおいらつめ)の説話である。『古事記』では、二人は同母の兄妹でありながら密通したので、軽太子(かるのみこのみこと)は臣下は元より天下の人に背かれ、兵を起こすも弟の穴穗命(あなほのみこと)に敗北し、伊予に流されてしまう。軽大郎女(かるのおおいらつめ)は後を追い、二人寄り添って死んでいる。『日本書紀』では夏の盛りに「御膳(おもの)羹汁(しる)」が凍り付いてしまい、これを怪しんだ天皇が占わせたところ、二人の密通が露見したとある。軽大郎女(かるのおおいらつめ)が罪を負い、伊予に流されることでいったんは落着する。ところがその18年後、軽太子(かるのみこのみこと)は淫虐暴嗜で国人に誹られ、群臣に背かれる。ここで弟の穴穗命(あなほのみこと)が兵を起こし、軽太子(かるのみこのみこと)を殺して一件は落着する。

これを見て明らかなのは、同母の兄弟姉妹は(もちろん、直系親族も)禁婚の対象になっていることである。このタブーに触れることは、皇太子といえども流罪にされる程であり、また、弑逆の正当な理由となるほどのことなのである。妻問婚にしても、婿入婚にしても、子が妻の実家で育てられるのは変わらず、従って同母の兄妹は同族になる。この期間、母系であるとされるのは、子が母方で育てられ、財産が母系により継承されたためである。その意味では財産が母系に保存されるので、問題ないように見えるが、男は他所に婿へ行くのが通念であり、氏族の外交上もそれが求められるため、実家に留まり子をなすのは奇異なこととなる。また、女子も立場が逆なだけで同じである。一方で、氏姓制度律令制の官位に見られるように、子は父の地位を受け継ぐ、または父の地位により優遇される制度がある。ゆえにその間で近親婚があると、その継承に混乱を来す。以上の理由で、直系親族および同母の兄弟姉妹間での婚姻が禁じられたと考えられる。逆に、兄弟姉妹の場合、異母である場合は父が同じでも族が異なるので、婚姻に全く差し支えなく、事実、異母兄弟姉妹の結婚事例は山ほどある。敏達天皇推古天皇が代表例である。また、おじと姪の結婚も珍しくない。天武天皇持統天皇が該当する(尤も天武天皇天智天皇が同母の兄妹ということ自体が怪しいのだが)。

ここで明らかなのは、私有財産発生以前でも、妻問婚における同母の兄弟姉妹との禁婚に見られるように、氏族の社会的要請に背く婚姻は禁婚とされたこと、私有財産あるいは地位の継承に問題がある婚姻が歴史的に禁婚とされてきたことである。では、その前、つまり妻問婚に先立つ、群婚の場合はどうだったのだろうか。日本の場合、群婚は遺風として記録されているか、あるいは祭りなどのハレの場の儀式として営まれていただけであり、それが主たる婚姻の風俗であった時代の記録はない。しかし、そこから推測することは可能である。

日本の場合、群婚は族内婚であったことは既に述べた。性が共有されていたことは、すなわち、財産も共有されていたと推定できる。これは、妻問婚の場合も同じで、財産は母系で継承されたといっても、後世現れるような自立した「家」という単位は未だ存在していない。従って、その財産も氏族で管理されていたわけであり、これが氏族外に出ない限りはその継承者が男であろうと女であろうと問題が無かった。これが婿入婚に移行するのは、墾田の開発が活発になる頃からであり、他所から通ってくる婿も労働力として組織化する要求が豪族層にあり、これに対応して通いから同居、すなわち婿取りに進んだものと考えられる。婿入婚では露顕(ところあらはし)と三日餅(みかのもちひ)が重要な儀式であるが、露顕は文字通り男が通ってきていることを妻方の親族が実見し、婚姻を了承することであり、三日餅は通ってきて三日目頃に餅を婿に食べさせて同族に擬制する儀式である。後世このふたつの儀式はともに最初の通いから三日後くらいに実施されるようになった。同じ釜の飯を食うということが特別な友人関係を表すことが現在でも言われるが、これは神話のヘグヒから来ている古来からの風習である。同族なればこそ首長の指揮下に入るのは当然とされ、これを以て婿入りの実となしたのである。婿取られた男が財産を作ったとしても、それは「同族」たる妻方の資産となるので、やはり母系の継承に破綻はなかった。従って禁婚も妻問婚から引き継ぎ、直系親族と同母の兄弟姉妹を禁婚とする以上のタブーはなかったのである。

群婚の場合も財産を継承するのは氏族である。しかし性が共有されているということは、生物学的な母は特定可能だとしても、社会的には意味を持たなかった。それは血筋を特定することが困難だからである。妻問婚の場合、離婚が簡単かつ曖昧であったとは言え、ある特定の期間に通う男は基本的に一人(もちろん例外もある)なので、誰との子であるか特定が可能である。これによって氏姓制度や律令制の官位—つまり、男系での地位の継承が初めて可能になった。この血の連鎖が「血筋」として尊ばれるようになり、奈良時代になると、氏族の中にはじめて「家」というものが登場してくる。それは氏族に包み込まれていることが前提であるとはいえ、ある特定の血筋に固有の財産なり地位なりを継承させることが求められた結果である。これには少なからず中国の影響があることを意識しなくてはならない。しかし、原則は氏族側にあり、同父であっても異母の場合、氏族が異なるわけだから、これを禁婚とする社会的要請がない。氏姓制度も律令制もどの父の子かは問題としても、誰の子孫かまでは問わない。そう捉えれば、藤原氏の同族内での骨肉相食むがごとき政争も理解できるのではないだろうか。

さて、群婚に話を戻すと、相手を特定することは不可能である。あるいは例外として一夫一婦のようなものを契るカップルはあったかも知れない。しかし、それが制度として存在しない以上、血筋など氏族というくくりでしか存在し得ない。そして人々がその氏族の中で生活している以上、「系」は男女いずれであっても問題にしようがなかったのである。また社会的にもそれを要請する原因となるものがない。とすると答えはひとつである。禁婚という観念自体がなかった、あるいは百歩譲って直系の母子ならば禁婚とされたかも知れない。多くの学者は母子は禁婚だったとしているが、私はそうは思わない。なぜなら、母子を禁婚しても意味がないからである。群婚においては「血筋」は問題にならない。メンバー全員等しい。そこに現代の倫理観を持ち込むから意味不明な理由付けが必要になってくるわけで、仮に母子で番となって子ができても、氏族で育て、氏族で生きるのだから何の支障もない。実際、後世の群婚遺制を見ても、そこに禁婚という野暮な概念は持ち込まれていない。性の相手は神が決めるのであり、渺々たる人の身でそれに抗ったと考える方が愚かなのである。遺伝的な問題が云々とか、近親相姦を避ける本能が云々とか下らない戯れ言を真顔で言う似非学者が数多いが、それが科学的に厳密に証明されたことなどただの一度も無い。つまり「ない」のである。

では、さらにその前段階である「族長婚」ではどうだろうか。これはもう考えるまでもない。性が解放されていたのは「族長」のみ、つまり婚姻可能なのも「族長」のみであり、禁じるとか何とか議論すら無駄である。では近親相姦があったのかと言うと、族を構成しているのは、先代の長の子や先々代の長の子、つまり全員親族であり、近親である。早い話が 100% 近親相姦だったと言える。これは、族内婚に移行しても同じである。族を移動する者が皆無であったとは言わないが、全員がよその群から移ってきたハグレモノでは、族の統一性が保たれない。ヒトの認識は生まれ育った環境に大きく左右されるから、部族が異なるということは、宗教も風俗も習慣も異なり、さらには当初、言語すら通じなかった可能性もある。他の族と接して交渉が本格的に始まる段階—妻問婚まではそうではなかったか。そんなところにポンと身一つで入っていけると考えるのは極めて現代的発想である。祖霊に祝福されない他集団に我から望んで加わっていくのは、それこそ狂気の沙汰であろう。とすると、族の人間は皆身内なのであり、やはり近親婚であったと見なすべきである。

現代日本に取り分け近親相姦が多いなどという言説が児童虐待と絡めてまことしやかに言われるが、昔から変態は一定比率で存在したのであり、現代になって急に増えたとする理由はない。生まれ落ちたときから近親でセックスはしないもの(だから親のセックスも基本的に隠そうとする。貧乏人には無理だが)という刷り込みが行われている以上、禁婚観念は立派に機能していると言える。だから、昔は近親相姦全開だったからと言って、別段現代を否定されるような心境になる必要はない。現代で近親相姦を試みる者がいるからと言っても、アウトローはいつだって存在するものなのである。しかしだからと言って、現代的観点—つまり、現在の認識から過去を判断しようとすると過ちを犯す。それは歴史を考究する以上、当然のことではないだろうか。しかしながら、婚姻の歴史といった際どい命題になると、途端に馬脚を現す者の多いこと多いこと。以て自らの戒めとすべきであると愚考する。