死刑廃止論者・死刑存置論者に考えてほしいこと
未だに死刑廃止論者と死刑存置論者の議論が続いている。私はどちらかというと死刑存置論者だが、いったん、その前提を置いて、死刑というもの、冤罪、そして死刑判決を受けたもの、その家族、被害者、被害者家族、司法関係者について考えてみたい。
当たり前だが、死刑と言うのは国家が合法的に犯罪を犯したものを殺す、つまりこの世から退場を強制する刑罰である。一度執行されると、死刑方法が未熟であった昔ならともかく、今現在、その死を取り消すことはできない。もし後にそれが冤罪であると判明しても、もはや失われた命は戻ってこない。この取り返しのつかなさが死刑廃止論者の主な論拠である。
まず考えてもらいたいのは、死刑と冤罪は別問題であるということである。法的あるいは法理的にこれを分割して考えることは意味がないという議論もあるだろう。現実の理念や実際の運用としてはそうだと思う。だが、ここではいったん、死刑を念頭から払って、冤罪について集中して考えていただきたい。その上でたとえ、立ち小便のような微罪ともいえないような軽犯罪から死刑が判決と出る凶悪犯罪まで、冤罪が許されてよいはずがないのは、論を俟たないであろう。死んでないから冤罪でも構わないよね、などという者はいないはずだ。もしいたらそれは狂人である。それこそ社会の敵だ。かつて紅林麻雄という警察官がいた。次席警部にまで出世した人である。この人やこの人の薫陶を受けた警察官が冤罪を量産したことは有名な話である。死刑廃止論者も死刑存置論者もこの人物やその後輩たちのしたことを、まあ戦前、戦後の混乱期の話だから、と許せるだろうか?そんなはずはない。仮にも司法に携わる者が恣意的に犯人を根拠なく決めつけ、無実とわかっていながら刑罰を犯人としてでっち上げた人物に押し付けるなど、むしろその当人こそ死刑にすべきだったとすら筆者は考える。それが極論であることは認める。しかし、紅林氏は二階級降格という罰を受けただけで、自宅で死去している。この世に正義はないのか、と嘆く人もいただろう。
まさか、死刑廃止論を支持するからと言って冤罪は仕方ないね、などという主張する司法関係者はいまい。しかしここでまずいったん考えてもらいたい。死は取り返しがつかないというなら、死刑判決が出るような犯罪の被害者は加害者によって殺害されている。それこそ取り返しがつかない。死刑は廃止すべきだが、殺された被害者はそのための犠牲になっても仕方ないという者もいないだろう。なぜ被害者は死ななくてはならなかったのか?加害者はどう責任を取るべきなのか、被害者家族にも犯人へ極刑を望む人もいれば、望まない人もいるだろう。しかし、それを被害者家族の感情としてそのまま受け取ってよいのだろうか?犯人が死刑になろうがなるまいが、被害者はもう戻ってこないのである。中には裁判などどうでもよいという方がいてもおかしくない。どんな感情を抱いたところで被害者が返ってくることはないのだから。例えば、銀座母娘殺し事件という、第二東京弁護士会副会長の妻と次女が殺害された事件がある。この事件で副会長は「犯人の死刑を望まない」と公言している。そもそも死刑廃止論者であった副会長は、自らの家族が犯罪被害に遭って殺害されてもその持論を曲げることはなかった。大変立派な態度である。自分の家族が殺されたなら、怒りのあまり死刑存置論者へ転向したとしても誰もそれを責めることはできないはずだが、この方は自らの信念を貫き通した。揶揄や嫌みなどではなく本当にこの方は立派だと思う。筆者も信念を持つと言うことはこの方のようでなくてはならないと自戒の思いを新たにさせられた。しかし繰り返すが犯人にどんな処罰が下ったところで、被害者が生き返ることなどないのだ。そう考えると、自分の信念を曲げたところでもう取り返しがつかないのなら、敢えてそうする必要もないということもまた事実である。その一方で呆れた犯罪者も存在する。銀座ママ殺人事件として知られる殺人事件の犯人とされた平田被告は、折しも昭和天皇の崩御が噂されていたことから、恩赦が出るのではないかと早とちりし、地裁でも高裁でも死刑判決が出ているにも関わらず上告せずに刑を確定させた。恩赦は刑が確定している者が対象だからだ。むろん、そんな恩赦が出るはずもなく死刑は執行された。しかもこの男、銀座のクラブのママだけでは飽き足らず、当時港区在住だった風俗嬢を四国に呼びだし、これも殺害に及んでいる。この犯人は反省していたか?もし生き延びることができていたら更生に努力したか?筆者はとてもそう思えない。そんな人間が恩赦を期待して、つまり確実に生き延びられると思い込んで墓穴を掘っただけである。反省などあるはずもない。同様の事件に、夕張保険金殺人事件がある。夫婦で保険金詐取目当てで自社の社員に命じて会社の寮に放火させ六人を焼死させた事件である。この事件では、一審の地裁で死刑判決が出た後、いったんは高裁に控訴したものの、昭和天皇崩御にともなう恩赦を期待して自ら控訴を取り下げ、あえて死刑判決を確定させた。間抜けとしか言いようがない。これも反省など微塵もしていないことが明らかだ。なぜなら、死刑囚への恩赦などないことを理解した途端、「あの控訴取り下げは無効だった」と大慌てで裁判所に訴え出たからだ。当然そんな勝手を裁判所が認めるはずもなく、高裁も最高裁も控訴取り下げは無効だという訴えを棄却した。既に死刑執行済みである。もちろんのことだが、死刑囚が全員そんな人間ばかりだと言いたいわけでもない。多くの死刑囚は改悛し、死刑を真剣に受け止めていると思う。その一方で上記で述べたような者もいるのも事実なのである。それでも一律に生を許すべきか?
注意してほしいのは、被害者が死んでるんだから加害者も死ぬべきだというような単なる応報論を私は述べているのではない。死刑という刑罰の不可逆性を問題にするのならば、刑事司法の根幹である「犯した罪の重さに応じた責任を負わせる (責任主義)」という原則において、すでに発生している被害者の生命剥奪という最大の不可逆性とどうバランスをとるのか、という疑問を覚えているのである。あるいは死刑廃止論者からは、「国家が法秩序を維持し、将来の犯罪を予防するためにあるとしても、あえて国家が生命を剥奪するという極刑を選ばなくても社会秩序は維持できるはずだ」という反論がされるかもしれない。しかし私はそれを、目の前にある過酷な現実からの逃避ではないかと疑う。加害者へ回復不可能な刑罰を科すことを恐れるあまり、加害者がもたらした「被害者の回復不可能な命の喪失」という事実を、刑罰の選択(量刑)から切り離して論じるべきではない。刑事司法は、既に生じた回復不能な被害に対して、社会の正義としてどのような責任を果たすべきなのか。その責任を真っ正面から考えずに、国家による生命剥奪の是非だけを切り取って死刑制度を論じるのは、議論として片手落ちではないだろうか。
そして社会感情も無視できない。強盗殺人や放火殺人などで人を自分勝手な欲望で殺しておいて犯人をのうのうと生かしておいて良いのかという義憤は正当なものである。なぜなら、次その被害に遭うのは自分かもしれないからだ。自分はむざむざと殺されたのに、その犯人は法の手厚い守りによって命を永らえる。これを理不尽と思うものがいて当然だろう。もちろん、世間にだって死刑廃止論を堅持している人も死刑存置を求める人もいる。全員が同じ意見のはずがない。だが、犯人に厳罰を求めること(それが死刑か無期懲役かは別として)は共通している。その議論の分かれ目はどう捉えれば良いのだろうか。
ここで少し立ち止まってみたい。廃止論者は冤罪リスクを警戒している。だが今ひとつ考えてもらいたい。死ななければ取り返しがつくから OK なのか?
昔、NHK の「ねほりんぱほりん」という番組で痴漢冤罪をかけられた人が出演したことがある。冤罪をかけられたキヨシさんは二年かけて裁判を戦い、無罪を勝ち取った。92 日間拘置所に拘留されていた間、毎日子供たちに手紙を書いたという。決してくじけなかったその姿勢は素直に尊敬に値する。日本の司法は「疑わしきは罰せず」が基本精神である。しかるに被害者の証言だけでこんな不当な扱いを受けてしまう。実際の事件捜査にあたってはそんな綺麗事を言っていられず取り調べに当たった刑事が居丈高なのは仕方ないことなのかもしれない。だが、仮に裁判で無罪を勝ち取れたとしても、一度逮捕されてしまえば警察の記録には「逮捕歴」が残る。なんだ、前科がつかないのなら実生活上は問題ないではないか、と言う人がいるかもしれない。しかし社会はそんなに甘くない。世間からは「無罪になったようだけど、逮捕されたのは確かなんだから、何か怪しいことをしたんじゃないか」と、逮捕歴があるというだけで後ろ指をさされることは珍しくないのだ。キヨシさんの例は妻や子供たちといった家族が支えてくれたのが大きかったのだと思う。しかし、ネット上で大きな話題となった、あるスリ冤罪の事例もある。奥さんは完全に我を忘れ、激しく夫をなじり、子供たちを連れて離婚してしまった。件の男性は無実を主張するも裁判で有罪判決が出て、服役することになってしまった。出所後、その女性が同じような犯罪を続けていたことで別件で逮捕されたらしく、この事件が完全な冤罪であり、まったくの無実の人を長い間刑務所に監禁していたことが判明したのである。奥さんがそのことを知った時は後の祭り。男性は苦しいときに支えるどころか激しく罵倒して離婚した奥さんを赦せず、子供たちは真実を知って奥さんを強くなじって距離を置き、一人の男性と罪のない子供たちの人生が完全に壊されてしまった。あるいは近しい事例のひとつに乳腺外科医事件がある。一審は無罪だったものの検察がそれを不服として控訴。二審で有罪、懲役二年の判決が下った。もちろん被告人はすぐさま上告。最高裁は高裁へ差し戻しとし、改めて裁判が行われて無罪が確定した。この事例で被害を訴えた女性は手術後の譫妄状態にあったとの見方が一般的で、一審無罪で終わりだと多くの医療関係者は楽観していたという。ところが二審で有罪とされて医学界は騒然とした。それはそうだ。ありもしない被害が認定されてしまっては今後女性患者への執刀も予測される外科医を志望する医学生がいなくなってしまう。それ以前に術後譫妄を理由に訴えられるという前例ができてしまえば、女性患者への執刀を躊躇したり断る医師が出てくるかもしれないのだ。さらに痛ましいのは、二審で有罪判決が出たことを苦にして被告人の息子さんが自殺してしまったのである (無罪判決を伝えるPRESIDENT Online の記事)。もはや取り返しようがない。第三者からすればせめて最高裁の判断を待っていれば…と安易な感想が出そうだが、それほど追いつめられていたのだろう。最終的に無罪になったとはいえ、あまりにむごいことではなかろうか。それと死刑廃止や存置と何の関係が?と思われるかもしれない。そうではない。廃止論者が言う、生きていれば取り返しがつくという発想は本当に正しいのか問うているのである。痴漢冤罪で収監されたという事実、性犯罪で有罪判決が出たという事実は、後から冤罪だったと判明しても何の慰めにもならない。乳腺外科医事件で被告人であった医師は勤務先病院の理解があり、仕事を続けることができたようだが、普通なら仕事は懲戒解雇となり、その後で無実だったからといって企業が何か補償してくれることなどない。国相手に損害賠償を請求すればよいではないか。それで少しは気が晴れるだろうと思う人がいるかもしれない。しかし国家賠償は一般市民が想像するほど簡単には認めてもらえない。当時の捜査では誤認もやむをえなかったとして賠償が認められないケースは少なくないのだ。死刑がどうこう以前に、痴漢を含め性犯罪という殺人に比べたらいくぶん軽いと世間一般では見なされている罪でもこの体たらくである。むろん、痴漢は卑劣な犯罪である。女性が周囲や自分の評判を気にして羞恥で声を上げられないことをよいことに無遠慮に体をまさぐるなど、たかが半年や一年収監されたからと言って許されて良い罪ではない。だが、その冤罪をかけられただけでも人生を破壊されるには充分なのだ。それを死んでないから取り返しがつくよと本当に言えるのだろうか。
死刑判決が出た世に名高い冤罪事件はやはり何と言っても袴田事件であろう。詳細は Wikipedia などを参照していただきたいが、1966 年の逮捕から再審無罪確定の 2024 年まで実に 57 年もの歳月を要した文字通りの大事件であった。真犯人の公訴時効は法改正によって制度上は消滅したものの、事件からこれほどの歳月が流れた今、当然ながら事実上の捜査や処罰はとうの昔に不可能となっており、真犯人は結果的に逃げおおせたと言わざるを得ない。この事件を通じ、もし被告人であった袴田氏の死刑が執行されていたら、確かに取り返しのつかない事態となっていただろう。いや、既に死刑が執行されたことを理由に再審申請が棄却され続けたかもしれない。そういう意味では死刑を執行されずによかったとは言える。
しかし、その 57 年間のほとんどの期間、袴田さんは殺人犯の汚名を着せられ、むろん自由を奪われ、その家族も殺人犯の家族として世間から後ろ指を指され、息子は施設で養育してもらうほかなかったなど、本人も含め家族が舐めた辛酸は筆舌に尽くしがたい。無罪を信じ、支援をかかさなかった人たちにもちろん袴田さんは感謝を忘れなかっただろう。だが、これを死ななくて良かったね、で片づけて良いのだろうか。もちろんそんなことはない。苦痛に満ちた 57 年間をなかったことにはできないし、逮捕当時 30 歳とまだ壮年であった袴田さんは無罪確定時には 88 歳になっていた。再審判決に先立ち、袴田さんは 2014 年に釈放されていたが、その時点でも既に 78 歳である。その時間をなかったことにはできない。
繰り返すが、死刑廃止論者は冤罪リスクをその根拠に据えていることが多い。それがすべてはないが、最も恐れているのはそこだろう。そのリスクは確かに否定できない。だが、袴田さんのように仮に終身刑なり無期懲役などで何十年も服役した後で、実は無罪でした。死刑にならなくてよかったですね。と本当に言えるだろうか?実はそれでよかった助かったと思うのは、無責任な第三者か司法関係者だけであって、家族の舐めた塗炭の苦しみや冤罪で収監されていた冤罪被害者は納得できるだろうか。袴田さんは釈放後も拘禁反応で随分と苦しんだと伝えられる。それを死刑を廃止したらそんなリスクもなくなる、つまり万事解決するのだと言いたげな言い分をする人がいることに私は強く違和感を抱くのである。もちろん、死刑廃止論者だって現状を事件前に完全に回復できるなどと夢想してはいまい。だが何らかの償いは可能なはずだし、死んでしまえばそれも不可能なのだから死刑に比べたら救済の可能性は残るという議論には肯んぜざるを得ない。しかしやはりここで先ほどの疑問、つまり、では司法はあるいは国家は殺人の対象となってもはや救済などありえない被害者にどのような責任を負うつもりなのだろうか。司法関係者なのに司法上の責任は取れませんなどと言わないだろう。言えば社会からの信頼を根こそぎ裏切ることになる。
その上で重ねて言うが、本当に裁かれるべきは冤罪を作り出した関係者であり、本当に努力すべきは冤罪の防止であり、死刑云々は単なる欧米追従の司法関係者の自己満足ではないだろうか。たとえ人殺しでも安易に死刑にしないのが意識高いかっこいい司法の姿だと寝ぼけてはいまいか。検察にしても弁護人にしても判事にしても、もし死刑判決が出て被告人の死刑が執行され、その後に冤罪であることがわかったらその良心の呵責は単に心が痛むどころの話ではないだろう。その恐ろしさについて私も理解できないわけではない。だが、だからといって真実の凶悪犯、何人も手をかけ無残に命を奪った者に死を以て償わせることを躊躇うのは、実は職務の重圧からの逃避ではないだろうか。最高裁が死刑判決について永山基準を目安にしているのは安易な死刑判決を出さず、たとえ不当な判決を出してしまったとしても命さえ助かっていれば取り返しのつかない事態を防げるかもしれないという裁判官の呵責の産物ではなかったか。その基準を作った最高裁の判事たちも、だから死刑を定めた条文がある刑法を違憲であると判決しなかった (そんな要求があったわけでないのは百も承知であるが)。本当は死刑が問題なのではないことがわかっていたからではないだろうか。
人間は誤りを犯すものである。それは警察関係者、検察、弁護士、裁判官のいずれにも当てはまる。だから、その過ちによって命を奪ってよいことにはならないという理屈もまあわからないではない。果たして国家にその権限があるか大いに疑うその姿勢も理解を越えた範疇にあるわけではない。では問おう。今現在はともかく、かつてはどんな国にも死刑は存在した。なぜだろうか。人は過ちを犯すものだと嘯く一方で殺してもよい相手を見極めて残虐な死に方をさせて当時の人々が溜飲を下げていたとでも言いたいのだろうか。すべての刑罰には拠ってきたる必然がある。死刑が存在したのは昔の人が野蛮だったからでも被害者やその関係者の復讐心を慮ったからでもない。刑務所への収監は世間からの隔離によって社会へ害を為せないようにするためだった。教育、更生という考え方は近代になって芽生えた問題意識である。江戸時代の日本には払や遠島といった追放刑があった。生活基盤がある住所やその近辺、あるいは江戸からの追放が明日の食いぶちにすら困る罰になることが明らかだったからだ。場合によっては間接的に死んでしまったとしても仕方ないという判断である。当然死罪もあった。火刑、磔刑、鋸引きなどなど。中国には凌遅刑という現代の我々が聞くとそのおぞましさに言葉が出ない処刑法があった。江戸時代やそれ以前の人間は野蛮で残酷な支配者しかいなかったのかというとそれは違う。そうしないと犯罪から社会秩序を守れないと考えられていたからである。社会秩序を守るために時には罪人に死を与えなくてはならないくらい治安維持に不安があったのだ。だが、現代に火あぶりだの串刺し刑だのを復活させようという人はいないだろう。しかしその不安が現代では完全になくなったとなぜ言えるのだろうか。死刑廃止は冤罪リスクをその根拠に据えていることが多い。それがすべてはないが、最も恐れているのはそこだろう。そのリスクは確かに否定できないが、今なお死刑廃止に賛成する者が多数派にならない大衆の不安を司法関係者は理解しているだろうか。
ところで、人の生死に関わる職業としては、医師も該当する。その医師が医療においてミスを犯すと損害賠償の訴訟を起こされ、多額の賠償金の支払いを命じられることがある。もちろん、患者を死なせてしまうといううっかりを他の医療関係者が見逃すはずもない。医師としての職業生命はその時点で絶たれるのである。詫びようにもその対象である患者は既に死んでいる。この構図、何かに似ていないだろうか。なぜ医師はそんなリスクを負っていても医療に従事し続けるのだろうか。多少収入がよいからといってもリスクの間尺に合うとは思えない。人によって程度は異なるにしてもそこに人を救うという高潔な意志がなければとても勤まるものではないだろう。ではなぜ司法関係者はその責任から逃げようとするのか?それこそ道理に合わないではないか。一方ではミスが原因とはいっても過ちを犯したのは確かなのだから賠償せよと命じ、でも自分たちはうっかり間違いで人を死なせるのは怖いからそれはやめようね、ってまるで随分自分に都合の良い職務放棄にしか感じない。いかに理屈をこねようともそれを最も恐れていると言う事実は変わらない。司法は社会秩序を司る大変厳しい職業である。特に裁判官は己の判断一つで被告人の運命が決まってしまうのだから慎重に慎重を重ね、その上でミスがあっても何とか取り戻せるよう腐心したいという気持ちは分かる。しかしだからといって果たすべき社会的使命から逃げて良いことにはならない。ここで、医師と司法では社会における役割が異なるという反論が出るだろう。医師の使命はあくまで人の命を救うことであり、医療過誤や医療事故、トリアージ(災害時の治療優先度判定)は限られた状況下で「不作為」によって生じる生死の選択に過ぎない。対して死刑は、国家が意図を持って「作為」によって生命を剥奪する制度であり、両者を同列に語るべきではない、と。しかし、私がここで問いたいのは職務の性質の違いではない。生死の判断を迫られるほどの重責から逃げず、最善を尽くそうとする「当事者意識」の有無である。近年の死刑廃止論議を鑑みるに、加害者の生存権や冤罪のリスクを過度に危惧するあまり、あまりにも残虐な手法で突如として生を断たれた「被害者の不可逆的な苦痛と無念」への考慮が著しく欠落しているのではないか。刑事司法の本質は、単に被告人の人権をデュー・プロセス(適正手続き)によって守ることだけではない。理不尽に命を奪われた被害者の尊厳を、法の手続きを通じて社会的に回復すること、そして残された遺族や社会全体の「正義の感覚」を満たすこともまた、等しく重要な使命のはずである。
さて、死刑とは国家による殺人であるとよく口にされる。その通りである。人が人を殺す判断をしてもよいのか、そんな権限が人にもそして国家にも存在しないのではないかと言いたい気持ちもわからなくもない。ならなぜ犯人が死刑を判決される可能性のある犯罪、殺人を犯しても赦せと言えるのだろうか。国家ですらその資格はないのである。当然一私人に過ぎない犯人にもそんな権限はない。道徳的にも法的にもそれは犯してはならない禁忌であると定められている。それを知らないものなどいはしない。なぜ殺人犯にはその権限があってそれを裁く側にその権限がないと一方的に決めつけることができるのか。それで本当に法秩序あるいは社会秩序を守っていると言えるのだろうか。殺人と一口に言っても相手によって追いつめられ精神的に視野狭窄を起こして思い詰めた揚げ句の発作的な犯行と、まるでそれが快楽であるかのように (実際快楽を覚えた者もいたらしい) さしたる理由もなく次々と犯行を重ねる者を同列に語ってよいとは思わない。しかしだからといって究極の刑罰である死刑をもしミスったら困っちゃうから廃止しようね、としてしまってはじゃあなぜ被害者は殺されなければならなかったと彼ら、彼女らは遺族や自分の子孫に語るつもりなのだろうか。誰にも存在しない権限を法を犯した者には実質的には認めているという事実から目をそらしているのではないか。そして死刑を避けるなら、それは情状の酌量という法で定められた手続きにおいて行われるべきであり、軽々に制度を変更してよいという結論に飛びつくのは間違ってはいないか。それで責任を果たせると思っているのは司法関係者だけなのではないか。
さらに言えば、なぜ死刑だけが特別なのか?たとえどんな犯罪であっても有罪判決が出て服役したら、冤罪であった場合その者もその家族の人生をも粉々にしてしまうことに変わりはない。犯罪を犯したと判決が出た瞬間から社会の多くは受け入れを拒む。私はそれこそ「魂の殺人」とでも呼ぶべきではないかと考えている。オンラインパロディ辞書「アンサイクロペディア」にこんな記事がある。パロディとはいえ笑い事ではない。こんな事態が生じたら一体誰が責任を取るのか、いや責任など取れるのか。そして、そんな魂の殺人と呼ぶべき罪を犯してよいのか。そもそも死刑だけが本当に問題なのか。その論理を突き詰めていけば、人が人を裁く制度自体が人の思い上がりでしかないという結論にたどり着いてもおかしくはない。だが、人が裁かねば誰が裁くのか、どうやって社会秩序を保つのか。先ほどの「アンサイクロペディア」にあった記事の通り、冤罪被害者が死を選んでしまったら、倫理的に死刑を科すのと何が違うのか。国家が積極的に手を下そうとするか、自らの意志で命を絶ったかどうかが異なるということだろうか。どっちにしても死んでしまえば救済の可能性などゼロである。そこに違いはない。国家の誤った刑事手続きによって追いつめられて自殺に追い込まれてしまうという事実と国家が生命を剥奪する死刑という行為の結果がどこまで違うというのだろうか。国家が与したという事実に何の変わりもないのにである。
結局のところこの問題は、冤罪をどう防ぐのか、が問題なのであって、死刑を維持するか廃止するかは本質的には別問題なのである。実務的には切り離せないといかに言葉を尽くしても結局、問題はそこに帰ってくる。確かに捜査に手落ちがあって冤罪で死刑となったら取り返しがつかないだろう。その可能性を完全に消し去ることもできないだろう。でもそれは、冤罪に苦しんで自ら命を絶つことを許してしまう事例が起きれば、錯誤を国家が権力を以て行うことが原因で結果が同じことになってしまうことと何が違うのか。あるいはまた、医療において医療過誤や医療事故で死ぬ人をなくすことができないのとも同じではなかろうか。しかるに、なぜ司法関係者の中に一見するとその責任を果たさなくて良いように見える方向へ議論を持っていく者が絶えないのか。死刑廃止論を唱える司法関係者が全員そんな怯懦な考え方をしているとは言わない。真摯に問題に取り組み。様々な疑問と背景から法理的に許せないという人も少なくないと考える。しかし一歩司法から離れた立場に立つとどうしてもそのように見える人たちがいることもまた事実なのである。人の生死という重い責任を負いたくないのは誰でも同じだ。だがだからといって誰もその職責を果たさねば現場は崩壊する。誰も得をしないどころか、誰も救えない状況に陥りかねない。その責任についてはどう考えているのだろうか。私はここで問いたい。誰もが何かの責任を負わされている。人によってその責任には軽重があるかもしれない。だからといって誰も責任を取らなくても大丈夫な社会や制度など決してありはしないのだ。司法関係者は一体社会に対していかなる責任を負って、いかなる義務を果たそうとしているのか。
紀元前に司馬遷によって著された中国の有名な史書である「史記」の列伝は伯夷・叔斉伝で始まる。司馬遷はその終わりに「天道是か非か」という問いを置いている。言葉を変えれば「神は本当に平等なのか」と言っているに等しい。二千年以上前には既に哲理として人類はそこへ到達していた。司馬遷は武帝の前で李陵をかばい、それが武帝の勘気に触れて宮刑に処される。漢の武帝は儒教の普及に熱心であった。その儒教には「身体髪膚、之を父母に受く。敢て毀傷せざるは、孝の始めなり」という教えがある。また中国には春秋時代より「礼は庶人に下らず。刑は大夫に上らず」という思想があった。いやしくも貴族であるなら疑われただけでも自裁しろという価値観であり、刑を受けるのはこれ以上のない恥辱であったのである。司馬遷はその屈辱に耐え「史記」を編んだ。その上で「天道是か非か」を問うた。現代を生きる我々も変わらない。その問いに結論を出すことはできるだろうか。まさに神ならぬ身であるが故にその罪を負っていきなければならないのは、皆同じであり、逃げることは許されないのである。