売国奴お断り - No Traitors Allowed

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フェミニズムを実現するための婚姻様式とは?

2026-07-03 婚姻

生物学上の差異によるものを除く、完全に対等な男女関係というものが存在するならば、まず多数派が属するであろう男女関係—すなわち婚姻関係—は、思想的、倫理的にどうあるべきかをまず考えることが必要でしょう。観念的でしかなかったり、個別事情的すぎる判断ばかりでは、社会を運営していくことはできません。確固たる背景思想、断固とした倫理観、その二本柱に貫かれた、最低でも世紀単位で現実に運用可能な様式の確立は、きっと実りある人類の将来と約束された輝かしい男女関係の成果をもたらしてくれるに違いありません。

意外と知らない人が多いのですが、実は男女の婚姻関係には実に多様な歴史があり、日本だけを見ても複数の婚姻関係が過去に存在したことがわかっています。あるべき未来を議論する前に、まず過去にどんな例がありそれがどういう由来で、どのような結果に繋がったかを知っておくことが必要でしょう。日本の婚姻史の概要については、「日本婚姻史概説」という記事を既にまとめてありますが、いささか単線式分類の時系列で分割しすぎたきらいがあり、より網羅的で階級差も考慮した歴史を見ておきたいと思います。

旧石器時代から縄文時代

日本に人が住始めたのがいつの頃からなのか、はっきりしたことはわかっていません。しかし、後期旧石器時代には既にヒトが居住していたことは相沢忠洋さんが岩宿で発見した旧石器の発見により確定しています。それ以前となると、長野県飯田市竹佐中原遺跡が良く取り沙汰されますが、遡っても中期旧石器時代から後期旧石器時代へ移り変わる時期とされています。日本はこの時期から既に森がちであり、栗をはじめとした木の実、海辺での貝や魚類の採集でそれなりに暮らしていける基盤が存在していました。また。また氷期には大陸と陸続きであったため、ヒトや動物の移動は容易であったと考えられています。この頃の人類の婚姻様式がどのようなものであったかを窺える遺跡は存在しないので想像するしかないのですが、後の縄文時代における痕跡から群婚だったのではないかと私は考えます。よく群婚を乱婚と混同する者がいますが、乱婚が無秩序な性関係であるのに対して、群婚は集団内部の適齢期男性が全員適齢期女性の夫であるという多夫多妻制です。中には一対となって生涯を過ごしたカップルもいたかもしれませんが、夜ごとの性交渉で相手を定めるのは祖霊=神であり、神聖な営みでした。つまりこの時代の婚主(結婚相手を定める主体)は祖霊=神だったのです。むろん、これには考古学者や文化人類学者からは懐疑的な見方がされており、群婚が存在したことについて否定的な立場が一般的ですが、万葉集には歌垣があったことがわかる歌がいくつも収録されており、中でも「鷲の住む 筑波の山の 裳羽服津の その津の上に 率ひて 未通女壮士の往き集ひ かがふ嬥歌に 他妻吾も交らむ 我が妻に 他も言問へ この山を領く神の昔より 禁めぬ」【鷲が住む筑波山の裳羽服津(もはきつ)の津の上に、男女が連れ立って集まり、歌を掛け合う嬥歌(かがひ=歌垣)をする。そこでは、「私も他人の妻と交わろう、あなたの妻にも他の男が言い寄っても構わない」と許容し合っている。この山を支配する神も、昔から(このような男女の交際を)禁じてはいないのだ】と高橋虫麻呂(たかはしのむまろ)が詠んだとされている歌はかつて群婚が存在したことを窺わせます。

夜ごとに相手を変えるなど、なんてふしだらな!と思うのは現代人の倫理観であって、祖霊=神が定めたまう決まりにヒトが異を唱えるなど、当時においてはそれこそ、祖霊=神をないがしろにする、非常識かつふしだらな思考だったのです。現代の価値観を歴史に持ち込んではならないということは歴史学を学ぶ上で再三強調されることですが、確かに科学的には現代の方が優れてはいても、古代の人々が道理を弁えないケダモノのような人々であったかのように見下す姿勢もまた強く非難されるべき非常識であり、彼らには彼らの掟があり、独自の世界観と宗教で自らを律していた立派な人々だったのです。その点は現代の我々と何ら変わることなどありません。歴史を見る場合、その視点を忘れないようにしなくてはなりません。

日本の婚姻がそのような形に収束したのは、大陸と違って比較的温暖であったこと、ヒトを襲う危険な動物が熊や猪、あと狼くらいしかおらず、危険な肉食動物がほとんどいなかったこと。熊や猪は彼らの縄張りを荒らさなければ何もしてこないことを考えると、とても住みやすい環境だったからだと言えます。つまり、生存圧力が弱まったのです。従って、大陸のように緊迫した家父長制やそれが基づく一夫一妻制あるいは一夫多妻制の必要がほとんどなかったと考えることができます。しかしだからといって放置して乱交状態に陥れば社会基盤自体が混乱して群れ=集団が崩壊しますので、それなら一部の人間が女性を独占したり、ガチガチに規範を固めて強固な制度を作るより、全員でその状態を享受した方がよほど集団の結束に繋がります。だからこそ、群婚を経験しなかったとする説に肯んじることは出来ないのです。

さて、旧石器時代から縄文時代へ移り変わると氷期は完全に終了し、縄文海進と呼ばれる海水位上昇とともに温暖な季節が日本をめぐるようになります。人口は増え、ヒトは日本列島の各所へ分散していきます。縄文時代には九つの文化圏があったとされており、ヒトは分散居住しながらも他の氏族=集団と接触を保ちながら狩猟採集を行いつつ定住を始めるようになります。現代の隣近所とは訳が違いますが、自分たちの縄張りのそばに別の集団の縄張りがあって、場合によってはそれが近接していたため、無視などできません。また、文化圏としてまとまりがあったということは集団間の交流があったと考えるのが自然で、それが婚姻様式に影響を与えないはずがありません。ここで妻問婚が登場したと考えるのが民俗学的には必然ではないでしょうか。妻問婚において求婚は市と呼ばれる交易の場で催された歌垣で男性が女性へ歌を贈ることで行われ、女性側が承諾すれば夜ごと女性が住む集落へ男性が通う形式となりました。市は数々の氏族が出会う場でもあり、もちろんその場は祖霊=神の監視下でありかつ守護下でもあると考えられていました。だからそこで求婚することはすなわち互いの祖霊=神々の承諾を得ることでもあったのです。もちろん、昔からモテる女性というものはいたもので、複数の男性が同じ女性に求婚する場合もありました。そこでは闘歌といって、歌を競い合いこれに勝利することが婚姻の重要な要素とされたのです。その判定は歌垣に参加したり、見物していた人たちの総意という形での祖霊=神の裁定があると信じられており、集団同士互いの祖霊=神もまた競い合い、あるいは話し合って最終的な採決が下るものと考えられていました。このように考えると、縄文時代でも市が立ってそこで他氏族との交流や歌垣、女性への求婚があったと考えるのが自然だと思います。そして、ここで重要なのは婚主はやはり祖霊=神であったものの婚姻の主導権は女性側にあったということです。女性側が求婚を受け入れるかどうかを決定するのであって、男性側はその決定を待つしかありませんでした。では群婚はなくなったのかというと、それは集団ごとに事情が異なっていたと思われます。ここで完全に群婚がなくなっていたら、万葉集に残る高橋虫麻呂の歌も存在しえなかったでしょう。少なくとも彼が生きていた時代には昔の風習として知られている程度には残ったと思われます。

この間、つまり縄文時代ではまた海上交通も活発に行われており、大陸から日本へやってくる人々もまた後を絶ちませんでした。縄文時代後期には大陸で商(殷)という国が勃興し、高宗武丁王のように中国大陸南部まで攻め入り、これを支配下に置いた時代もあったので、そこを追われた難民の中には日本列島へたどり着いた人たちもいたでしょう。その商(殷)に倒され、縄文時代晩期に中国大陸は西周が支配するところとなります。この頃、と呼ばれた日本から何らかの勢力を代表する使節が大陸へ朝貢を行っており、それは中国側の資料でも確認できます。といっても同時代資料はさすがに現存しないのですが、後漢の時代に王充という文人が書いた「論衡」という書物があり、その中で「之時天下太平人來獻暢」(の時代、天下泰平であり人が朝貢にやって来て暢を献上した)「時天下太平越裳獻白雉人貢鬯草」(の時代天下泰平のおり、越裳が白雉を献上し、は鬯草を貢納した)「成王之時越常獻雉人貢暢」(成王の時代、越常が雉を献上し、人が暢を貢納した)という文が残されています。王充は当時流行していた讖緯説陰陽五行説といった迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理を徹底的に批判するために「論衡」を著しました。従って、ここで登場する王充が勝手に創作したり、あるいは単なる架空の伝説の類いを記述したとは考えにくく(嘘八百を告発する文書に嘘を書くなど論理破綻です)、何らかの資料を参照してこれを書いたと思われます。ここでなぜか「論衡」で登場するに住んでいた民族のことであって日本人ではありえない、などと虚言を弄する日本人学者がいるのですが、私からするとそこまで日本を貶めたいくらい狂っているのか、と考えざるを得ません。中国では古代より四夷来朝説が固く信じられていたので、同じの地方から朝貢があったと重ねて書くことはありえない、故にこの人は東方=日本の倭人を指すものと見なすべきであり、王充の弁論の方法は実証を重視しているので、列挙した史料は確かな根拠のある歴史的事実である、と当の中国の学者であり、北京大学歴史学部に勤めておられた沈仁安教授は断定されています。王充後漢書東夷伝に登場する倭奴國の使者が朝貢に来たときに生きていた同時代人なので、王充が何の註もなくと書いたならそれは日本列島のどこかからの使者に違いないのです。

でも大陸と交流があったのなら、大陸の婚姻様式が伝来していてもおかしくはないのでは?という疑問を持たれた方もいらっしゃるかもしれません。仮に、商(殷)の婚姻制度がどのようなものだったかはわからないとしても、は確実に家父長制で嫁取婚だったはずだと。その通りです。家父長制で嫁取婚でした。ところが、日本はその影響をあまり、もしくはほとんど受けていません。商(殷)に関しては、妻、つまり女性の地位が高かったことがわかっており、実際、甲骨文などから、高宗武丁王の妻、婦好の地位がとても高く、軍を率いて戦争に赴いたことも何度もあったことがわかっています。また、武王商(殷)王朝のことを「牝鶏晨す」と非難していて、これは商(殷)紂王が妻の妲己に骨抜きにされて悪政を行っている様を憎んで言った言葉と解釈されていますが、逆に商(殷)は女性の地位が高かったのでそのような事態も起こりえたと解釈することもできます。ただ、紂王妲己のご機嫌取りばかりしていたかのような言い方は、西周が滅亡する原因を作った幽王が、妻である褒姒のご機嫌取りに血道をあげていたエピソードと共通しており、本当に紂王妲己のご機嫌取りで政治を行っていた証拠はありません。紂王は宗教行事を再興したり、東方への侵攻を熱心に推進していた優れた王であり、商(殷)の主力が東方に向かっている隙を狙ってが戦争を仕掛け、革命を成功させたという説を唱える方もいらして、真実は薮の中です。しかしながら、このように大陸の進んだ文化や激動の歴史と地続きでありながらも、日本列島が大陸型の苛烈な家父長制に同化しなかった事実は注目に値します。これは文明の優劣ではなく、ただ単に「列島の平穏な実情に合わなかった」からこそ、先人たちは外来の婚姻規範に染まることなく、独自の婚姻の形を維持し続けたと言えるでしょう。

さてそんな西周とも交流を持っていた、つまり日本ですが、後の時代に、例えば古事記には、顕宗天皇は菟田首(うだのおびと)の娘大魚(おうお)をめぐって志毘臣(しびのおみ、日本書紀で言う平群鮪(へぐりのしび)と同一人物とされる)と歌垣闘歌を行い、そのやり取りで志毘臣と大魚がただならぬ関係であると悟って、志毘臣に夜襲をかけて殺したというエピソードがあります。日本書紀では武烈天皇物部麁鹿火の娘、影姫をめぐって平群鮪と闘歌で競い、やはり平群鮪を誅殺しています。この通り、結婚にあたって歌垣闘歌を行うのは妻問いのためであって、縄文時代にあえて嫁取婚を積極的に取り入れた形跡は見られません。

ところで、縄文時代の住居は既に竪穴式住居でしたが、その収容人数がせいぜい数人であることや、住居址から男性一人、女性二人、子ども一人の骨が出土し、男性と女性の一人とは血が繋がっていたことで、当時から日本は一夫一妻制であり、群婚あるいは妻を複数娶る妻問婚などなかったとする説を主張する方が多いのですが、その結論に至る論理が余りに雑で、本当にこれが専門家の論考なのか疑わしい説が跋扈している有り様です。そもそも当時の建築技術や入手可能な木材など部材(木は同時にその実を食せる食料源でもあったので無闇に伐ってしまうと入手できる食料が減る)では大人数を収容できる建築物をほいほい建設するのが難しかっただけだと考えれば、何ら問題はありません。また、婚姻関係にある男女は同居しているはずだという認識も現代的価値観からの決めつけに過ぎません。

  1. 住居=性行為の場という現代的偏見
  • 空間の私有化という罠

現代人は、性行為を閉鎖的な私的空間で行うという認識を持っていますが、それは家庭が公の場から切り離された近代以降の話であって、縄文時代も同じであったとする根拠はありません。民俗学の研究を待つまでもなく現代でも個人個人に部屋がある住宅にすべての日本人が住めているかと言うとそんなはずはなく、親の性行為を子どもが認知していることも結構あります。近代以前も平屋のワンルーム(長屋などを想像してください)で親兄弟が雑居して寝ており、性行為は直接見なくとも気配を察することがあったものです。私の父母は鹿児島県出身でしたが、私が子どもの頃は部屋がいくつもあったわけではなく、その部屋の仕切りも襖だけという状態で、親が何をしているかなど丸分かりの住居でした。つまり、住居が少人数向けだから、家族も少人数だったとか、性行為は必ず住居内で密かに行われていたということにはならないのです。

  • 広場—祭祀空間としての群婚

縄文集落の中心には、しばしば大型の「配石遺構(ストーンサークル)」や中央広場、そして三内丸山遺跡に見られるような「大型竪穴建物(共同作業所・祭祀場)」が存在します。当時の性や繁殖は、個人の恋愛ではなく「集落全体の生命力を維持するための祭祀(マツリ)」と直結していました。要するに「普段の食事や就寝は管理しやすい少人数の竪穴住居で行い、祝祭の夜には広場や大型建物で集団的な交合(群婚)が行われていた」というモデルは、当時の世界観として十分に成り立ちます。住居のサイズだけで「一夫一妻の核家族だった」と結論づけるのは、片手落ちの議論というものです。

  1. 血縁=性的関係の不存在という現代的偏見
  • 血縁関係と性的関係の罠

これは平安時代まで続きますが、古代において異母兄弟、異母姉妹は身内とは考えられていませんでした。なぜなら子どもは母族で育てられるものであり、父親が同じだったとしても顔を合わせることすらなく赤の他人と認識されていたからです。日本書紀にも叔姪婚や異母兄妹、異母姉弟で結婚した例は山ほど出てきます。これに対して同母の兄妹が契ることは重大な倫理違反でした。「木梨軽皇子と同母妹の軽大娘皇女」が禁を破って私に婚姻したことを『古事記』は「国人皆これを憎み、木梨軽皇子は皇太子を廃され、伊予に流された。軽大娘皇女は後を追い、二人して伊予で死んだ」と書き、『日本書紀』では「允恭天皇の食事で夏の盛りに羹(あつもの、熱い汁物)が凍るという奇怪な出来事を占ったことから二人の密通が発覚し、軽大娘皇女が伊予に流された」と記されています。皇太子ですらこの扱いです。庶民は言うまでもないでしょう。しかし、逆に言うと同母でなければたとえ血が繋がっていても結婚関係には支障がなかったのです。

  • 「異父」と「異母」の非対称性

群婚や妻問婚の環境下では、父親が誰であるかは曖昧、あるいは問題にされず、「母方が誰か」だけで社会が回っています。現代の遺伝子分析は「父系・母系の一律な血の濃さ」だけを測定するため、当時の「誰と誰なら交わってよかったか」という社会的なルール(文化)を無視してしまっているのです。

  • 歌垣(かがひ)に見る群婚の残映

筑波山などで催された歌垣では、その日だけは「誰の妻という縛りを外して、自由に交わる」ことが神聖な儀礼として許されていました。先に上げた高橋虫麻呂の歌の他にも「筑波嶺の 会ひ見む日まで 袖振らむ 我は心どもなし」(筑波山でまた会える日まで、私は袖を振り続けます。心を抑えることなどできません)という歌も万葉集には収録されています。これは単なる不倫や乱行の記録ではなく、かつて列島に存在した「特定の個人に縛られない、集団と神々が承認する性(=群婚の精神)」が、祝祭という形で一年に数日だけタイムカプセルのように残されていた姿です。これらを「単なる一時的な無秩序・お祭り騒ぎ」として片付け、日本民族のベースには最初から一夫一妻制があったと強弁する学者たちは、まさに「現代の一夫一妻制が最も進歩した正しい形であり、古代人もそれに準じた理性的(現代的)な生活を送っていたはずだ」という「現在の自己肯定」のための歴史歪曲に無自覚であると言わざるを得ません。

弥生時代から古墳時代、飛鳥時代

縄文時代に続く、弥生時代も同様に妻問婚であったと考えられています。ですが、ここでとても有名な文書が登場します。『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳、通称魏志倭人伝です。その中に「屋室有りて、父母兄弟、卧息は處を異にす」という記述があります。「屋根が付いていて部屋割りもされているちゃんとした家があって、父母と男性の子どもたちは別々のところで就寝する」の意味ですが、これはモンゴルなどで見られるゲルのような簡易な住宅ではなく、ちゃんとした木造の家に住んでいるという意味であり、子どもでも男性は両親とは別の住居で眠っているという意味でもあります。ここで「父母兄弟」であって姉妹は含まれていないことに注意してください。ゲルでは家族全員が同じ建物の同じ室内(住居=一部屋なので当然ですが)で就寝しますが、親とはいえ、同時に性的関係でもある夫婦と同室で眠るというのは、中国の儒教的価値観からすると禁忌にあたる行為であり、ケダモノ同然の行いであると非難、軽蔑されていたからです。あれ、子どもの女性、つまり姉妹には触れてないの?とお考えになったあなた、その通りです。正史とは書かれた時代の王朝の史官(記録官)が記した公的文書に基づいて書かれます。従って政治的に表舞台に立って活躍した男性にのみ視線が固定されているわけですね。何それ、女性差別じゃん!と思ったあなた、はいその通りです。というか、東洋の男尊女卑って中国儒教家父長制価値観が根源なんですよ。その本家大元なんだから、それで当たり前なんです。で、次になぜわざわざ「屋室有りて」って書いてあるかと言うと、北狄西戎南蛮と呼ばれた中華の周辺民族はモンゴルの人がゲルに住んでいたように、中華のなど知らない野蛮人だと当時の人は考えていたのです。はそういった野蛮人の一角である東夷に属しているはずが、他とは違って中華同様に木造だけどちゃんとした固定の建物を建てて住んでるぞ、ってまずそこに驚いているのです。次に「父母兄弟、卧息は處を異にす」って皆で雑魚寝じゃないぞ、それぞれ別々に過ごしていて、中華のをわかっているようだ、ってところにまた驚いているのです。これは一般に別々の部屋で就寝していると解釈する人が多いようですが、それなら単に中華と同じですませればよかったり、あるいは「父母子女」とか「家族はそれぞれ別々に就寝している」とか書けばよい話で、なんでわざわざ「兄弟」は「卧息は處を異にす」と注記する必要があるのでしょうか。私は妻問婚で成人した男性は妻のところに出かけてたり、あるいは若衆宿などへ集まって不在なので、中華の人々は別の部屋で寝ればよいだけなのに、わざわざ出かけて別の場所で就寝しているらしい、なぜそんなことをするのか不思議ではあるが、東夷らしいの表し方なのだろうと捉えたのだと思います。婚姻制度が窺える記述としてはさらに「其の俗國の大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦(その習俗において国の貴族では妻が四人か五人、庶民でも二人、あるいは三人の妻を持つ者がいる)」とあり、妻が複数いるのが普通であると紹介しています。嫁取婚では妻と同居のところへさらに妻を迎えると大変な問題になりますが、「婦人は淫ならず、妒忌せず(婦人は浮気をせず、嫉妬をしない)」と続いており、浮気をしないのはともかく、嫉妬もしないとあるのは、実際は妻問婚であるため、夫が通ってこない夜にどこにいるか知りようがなかったので嫉妬のしようもなかったからだと私は解釈しています。

妻問婚弥生時代で終わったわけではなく、古墳時代飛鳥時代にも続きます。日本では飛鳥時代になるの時代の正史である、『隋書』東夷傳に俀國条があり、その中に「婚嫁に同姓を取らず。男女相悦べば即ち婚と爲す。婦、夫家に入るに必ず先に犬を跨ぎ、乃ち夫と相見まみえる。婦人婬妬せず」という記述があります。「婚嫁に同姓を取らず」とは、同姓の女性と結婚しないという意味ですが、中華では同姓不婚のタブーがあり、同姓=同族なので同じ一族の女性とは結婚してはいけないとされていました。つまり夫と妻、即ち父と母は別族ということになるのですが、これは中華のの基礎となったに属したそれぞれの氏族が、かつては群婚において別氏族と婚姻関係を結んでいた風習が存在しており、その名残が同姓不婚というタブーとして残ったと思われます。高群逸枝氏は、日本婚姻史において、中華最古の辞書である「爾雅」にある「昭穆」という言葉が上古、の昭族と穆族で行われた群婚の結果生じる縁戚関係を説明したものと解かれました。春秋時代、葬儀の喪主は死者の孫が勤めると決まっていました。これも父と子が異族であった頃の名残でしょう。「男女相悦べば即ち婚と爲す」は、男女が出会って性的関係を結べばそれを結婚としたという意味です。結婚の儀式?そんなものはなかったのです。なぜなら妻問婚が続いていたから。ただ、少し気になるのは市における歌垣で求婚して祖霊=神の許しを得るのが妻問婚の作法でしたが、その点には触れていません。あるいはこの時期、既に婚主が祖霊=神からヒト、特に母親に移っていたからではないかと考えます。そうすると、形式としては残っていたとしても実質は母親が許可を出せばすぐに結婚できたわけです。「婦、夫家に入るに必ず先に犬を跨ぎ、乃ち夫と相見まみえる」は、嫁が夫の家へ入る前に必ず犬を跨がせて、それから夫と顔を合わせるのであるという意味ですが、中華は既に嫁取婚でしたから嫁は夫の家に入るものとしてすんなり理解したでしょうが、日本は妻問婚でした。つまりこれは嫁入りの儀式ではなく、本当に異族であった妻が夫の家を訪れることがあれば、の話だったのでしょう。一般には犬とあるのは火の誤りであり、これは嫁入り時の「火跨ぎ」を表していると解釈されていますが、そうなると話は変わってきます。というのも中華でも太古から犬は嗅覚が鋭く、悪霊や邪気にいち早く気がついて吠えたり、唸ったりして大人しくヒトに跨がせないと考えられていたとしてもおかしくはなく、火の誤りであるとする通説が間違っている可能性もあるからです。太古より祖霊=神は自分たちを守護すると同時に子孫があまりに不甲斐ない場合それに怒る祟り神の性質も持っていました。ましてや異族の祖霊=神です。ことによればこんな族と関わりを持ちおって!…と周りを含めて祟りを振りまくこともあると思われたかもしれず、それを恐れてまず犬に試させたのかもしれません。最後に「婦人婬妬せず」とあるのは、魏志倭人伝で「婦人は淫ならず、妒忌せず(婦人は浮気をせず、嫉妬をしない)」とあったのと同じ意味で、余程羨ましかったんだろうなあという感想をつい抱いてしまいます。

古墳時代に関しては、空白の四世紀があることもあって、中華の正史には登場せず、好太王碑(広開土王碑)など限られた資料から高句麗が激突を繰り返していた様子がわかるだけで、ヤマト王権がどのようにして日本列島を掌握していったのか、この頃の婚姻様式はどうだったのかなどがわかる資料が残されてはいません。ただ古墳時代を挟む前後の時代で妻問婚であったことは変わっていないので、古墳時代妻問婚が主流であったことは断定してよいと思います。

奈良時代と平安時代

乙巳の変蘇我氏宗家が滅び、壬申の乱を経て天武天皇が即位します。天武天皇飛鳥浄御原宮を造営し、その後を継いだ持統天皇藤原京へ遷都し、さらにその子である文武天皇の頃に平城京の造営が構想され、その娘である用明天皇が遷都しました。以降を奈良時代と呼びます。

奈良時代で誰もが知っていることと言えば、三世一身法墾田永年私財法の発布でしょう。これは新たに開墾した田や畑は開発した者の私有地として認める、という趣旨の法です。天武天皇は中央集権を推し進め、とりわけ天皇へ権威と権力が集中するよう腐心し、その後を継いだ持統天皇も、それ以降の天皇もその路線を継承しました。それが一応の完成を見たのが、大宝律令の制定です。律令制度においてすべての土地は天皇のものであり、臣下や庶民にはそれを貸し出しているに過ぎないという体裁を取りました。そのため戸籍を作って班田収受を行い、朝廷に仕える貴族には位階と役職に応じて土地を貸す体でその分の収穫を収入として与えたのです。ところで大宝律令が制定されたのは大宝元年(西暦 701年)で三世一身法が律令に加えられたのは、養老 7 年(西暦 723 年)、墾田永年私財法が制定されたのは、天平 15 年(西暦 743 年)と非常に早い段階でその体裁が崩れたのがわかります。理由は言わずもがな、地方から相当な反発があったからだと思われます。当然のことながら、地方ではその地の実力者が人手を集めてせっせと開墾を行って収穫を増やしていたのです。そのような者たちを「殷富百姓」と呼んでいました。それまでは特にその土地が誰のものという決まりもなかったので、当然開墾した者にその権利があると考えたでしょう。それがいきなり全部天皇のものでお前達には貸してるだけだと言われたのです。収穫もそれまで全部総取りだったのに、一部とは言え租税として中央に納めなければならなくなりました。そりゃ黙っていないでしょう。特に国造として地方を統治していた勢力もその一部をなしていたでしょうから、中央の朝廷にかなりの程度反発したはずです。彼らは国津神の系譜を引いた歴史がありますから、中央へのパイプもありましたからかなり強力な運動が展開されたはずです。おそらく下手をすると反乱が起きる可能性も否定できなかったでしょう。従って妥協するしかなかったのですが、私有期間を限定した三世一身法では満足させることはできず、最終的に完全な私有を認める墾田永年私財法を発布するしかなかったのです。

ではそれだけの力を持った地方豪族はどんな婚姻制度をとっていたのでしょう。無論、妻問婚も続いていたでしょうが、まにせ開墾にはマンパワーが必要です。娘がいたら中央の兼職にある一族の子弟などを婿取りという形で自族に組み込み中央へのパイプを強化したり(後世の婿取りと同じ意識があったかどうかは別として京から地方へ下るのですから、当然妻問いで通えるわけなく、実質的に婿取りになったでしょう)、一方息子がいた場合は他族に取られると労働力が減るわけですから、進上婚、召上婚などの形で嫁取りをしたりと、柔軟に対応してとにかく労働力の中心となる男をかき集めたと考えられます。便利な機械などない時代でしたからものを言うのは人での数てことですね。中央の貴族というのは伝統的に非常に保守的ですから当然妻問婚を維持したでしょうが、実際に開墾を行う地方は伝統墨守だけでは勢力を糾合できないのでありとあらゆる手段をとったはずです。なら婚姻も柔軟に都合の良い方式を採用していたと考えるのが妥当でしょう。一方で庶民は群婚は既に遺風となっていたかもしれませんが、妻問婚は続いていたでしょう。しかし、上が婿取りだの嫁取りだのを始めたら自然、下もそれに習うものです。この時期、複数の婚姻制度が並行し、地域の実情に応じて使い分けられたり、少しずつそれらが伝統化していったのだと思います。

ただ、嫁取りは最初はあったとしても極めて少数の事例があっただけでしょう。なぜなら他の集団から婿取りをすることは、男を新たに迎え入れる、あるいは交換するといういずれにせよ損がない婚姻だったので、不満がそれほど出なかったことと、都の貴種を迎えることについては庶人には関係がありませんしてから。娘しかいない者には婿を迎えることは単なる通いだと労働力としては期待できないけど、婿として自族に取り込むことは男手が増えることを意味します。それに対して嫁取りは自分の息子を他族にやらずにすみますが、豪族とは違って庶民は他族の女を取り上げる力などありません。いずれにせよ、奈良時代で、貴族は妻問婚で通えるわけなく、実質的に婿取りだったからそれしかなかったんだと考えるのは早計です。もちろん、そんな何でもありだったということを証明する書簡や記録があるわけではありません。なんせ地方のことですし。ですが、法で婚姻制度が定められていたわけでもなく、単純に当時の常識やあるいは豪族は豪族の、庶民は庶民の思惑があってそれに沿って結婚生活を営んでいたわけですから、何でもありだっとしても否定はできないのです。

平安時代になると、貴族は順次婿取婚へ移行します。さすがに保守的で伝統墨守の貴族と言えど、世間の変化に置いてきぼりのままでよいわけではありません。尤も、平安時代になったからといってすぐに婿取婚になったわけではありません。最初は妻問婚でした。有名な源氏物語のストーリーをご存知の方もいらっしゃると思いますが、光源氏は最初左大臣の娘葵上と結婚します。その他にも六条御息所夕顔花散里などの女性たちと数々の浮き名を流しますが、すべて通い婚であったことが物語から浮かび上がってきます。ところが光源氏葵上の息子夕霧は妻である雲居の雁と同居しており、通いではないことが記されています。では完全な婿取りかというとそうでもありません。夕霧は三条殿で雲居の雁と同居していましたが、後に落葉の宮を源氏から譲り受けた六条院に住まわせて交互に通う生活を送るようになります。光源氏自身も二条院において、紫上を正室としながらも、明石の方花散里末摘花を迎えて住まわせています。後に女三宮を迎えますが、やはり二条院に迎えています。

しかしこれは通い婚婿取婚がなかったわけではなく、たとえば蜻蛉日記の作者、藤原道綱母藤原兼家藤原道長の父親—と結婚していましたが、兼家は婿入りが一般的になりつつあった当時に、頑なに通い婚を続けた人として「これはまた古風で雅なお方よ」と噂された人でもあります。兼家は後に最初の妻、時姫を自宅に迎え正妻とします。通い婚の場合、正妻は最初から決まっていたわけではなく、複数の妻のうちから正妻とする女性を自宅に迎えたのです。この兼家のエピソードからわかりことは、10世紀前半には既に貴族も婿取婚が一般的になっていたことを表しています。

妻問婚はまず男性が女性に文を贈り、互いに短歌をやり取りするところから関係が始まります。貴族の場合はお相手の女性も貴族であることが多いので、当然女性に仕える女官、つまり女房がついているわけですが、もちろん、そちらへの付け届けも欠かせません。何せ、取り次いでもらえないと文も交わせませんからね。で、めでたく結ばれた場合、親は何も気がついていないのかというとそんなはずはありません。そもそも貴族は供回りや護衛を引き連れて移動するので、いくらこっそりと忍んでいくと言っても大人数が移動するのですから気がつかないと思わないほうがどうかしてるのです。むろん、文を受け取った女性だってどんな人なのか女房にくらいは相談するでしょうし、そこから両親に話が伝わらないはずがありません。それを見て見ぬふりをするのです。この場合、婚主は母親もしくは両親ということになります。親は婿となる男性がやってくると、その履を抱いて眠ったと言われています。婿に朝まで帰らず娘を妻として欲しいという親心が婿を帰すまいという行動になって現れたのでしょう。そして三日通えばその翌朝に所顕・露顕(ところあわらし)という儀式を行い、盛大な宴を催して周囲に結婚を披露します。これが、婿取婚になると、まず父親がこれはという若者に目をつけ、けしきばみと呼ばれる結婚の打診を行うことから始まります。むろんそれまでに意中の女性と文を交わしていることもあるのですから、男性の方も委細承知で話に乗る場合もあったでしょう。そして婿が通ってきて三日経つとその翌日に婿や娘は披露宴の前に、三日夜の餅を食べることで同族擬制を行い、一族の者として迎えられたのです。これはへぐひという同じ食べ物を食べることを即ち一族の一員となったのだと言う考えが古来よりあって、その延長線上にある儀式です。一般庶民がどこまでそんな手順を踏んだのかはわかりませんが、少なくともへぐひは行ったと考えられます。この一緒に調理された食べ物を共に食すというのは大変特別視され、遥か後代の江戸時代になっても「同じ釜の飯を食った仲間」は特別であるという意識として残り、これは明治になっても変わりませんでした。

では地方や庶民はどうだったかを考えると、不輸の権不入の権を地方豪族が手に入れて国司に対抗していたと歴史で習ったことを覚えておられる方もいらっしゃるでしょう。律令に基づく班田収受は行われなくなり、荘園が成立していました。

九世紀半ばの承和八年(西暦841年)に、そのような地方豪族は「殷富百姓」と呼ばれていました。その中の一人、武蔵国男衾郡榎津郷の戸主壬生吉志福生(みぶのきしふくせい)郡司に子供たちの庸調一生分を前納したいと嘆願し、それに対してこれを認める太政官符が発行されています。この人物は実はこれだけではなく、焼失した国分寺の仏塔の再建まで請け負っています。『続日本後紀』承和十二年(西暦845年)三月の条に、武蔵国から中央に提出された申請書のことが記載されています。内容は「承和二年に神火(神の祟りの火難)のために同国の国分寺の七層塔が一基焼失してしまった。それから十年も経つがまだ塔は再建に至らない。前男衾郡外従八位上壬生吉志福生が聖朝のために塔を造りたいと官に申し出た」もちろん政府はこの申請を許可しました。それだけでなく、官位を進めたでしょう。八世紀以来、定められた時期に調庸を納められない農民が激増していました。そのため、政府の督促は厳しくなり、郡司、土豪、「殷富百姓」らは進んで代納していたのです。政府もそれを奨励して特に外従五位下を与えたりしていました。延暦一三年(西暦794年)の平安遷都から半世紀しか経っていませんが、地方には彼ら隠然たる勢力が根を張っていたのです。彼らは先に述べたような方便以外にも様々な伝手を頼って官位を手に入れ、国司郡司といった地方官に対抗していきます。しかし、普通、地方民と国司=中央派遣の官僚であれば、国司の方が官位は上です。

そこで、中央貴族に手づるを求めて不輸の権や、不入の権と言われている特権を獲得していきます。では地方豪族や地方の実力者は不輸の権不入の権をどうやって手に入れたのでしょうか。いくら収穫の一部を貢納するからといっても何の伝手もなければ申し入れることもできません。そうです。中央や中央に近い貴族の男子を婿に迎えてつながりを作り、その伝手を辿って有力者とコンタクトをとったのです。開墾を進めて農地を広げ、収穫物をよりたくさん手に入れるには、男手はいくらあっても足りると言うことはありません。なので、娘には婿をとり、息子がいれば召上げ、進上などで嫁を取り、そしておそらく自分の一族にも同じことをさせたでしょう。取り立てが過酷な土地から逃散してきた農民も受け入れることもあり、荘園を広げて勢力をどんどん伸ばしていきました。その中で庶民は群婚を営んだり、妻問いを続けたりもしています。そう、あらゆる婚姻制度が混在して並立していたのです。よく、平安時代、特に後期は一夫一妻制だったとする研究者がいますが、妻問いにはツマドイモノと呼ばれる一種のお土産を持参して妻を経済的に助けるのは当たり前でしたし、婿入婚では妻の家に夫が入るのですから、資産のない庶民はそんな何人も妻を持つことなどできません。だから一夫一妻に見えるだけで、それが婚姻の本質ではなかったのです。

それはともかく、そうやって地方の「殷富百姓」が力をつけていくと、国司郡司の方も力で強行しようという動きが出てきます。対する「殷富百姓」の方も手数を集めます。こうして郎党(郎等)と呼ばれる者が組織されていきます。それらが平安時代末期になると、平氏源氏のもとに糾合され、武士階級を形成していき、最終的に武家政権、つまり鎌倉幕府を組織するまでになります。

鎌倉時代

平安時代も後期や末期になると京の街ですら、強盗や殺人が頻発するようになります。というかもはや日常となります。貴族は護衛を引き連れることが出来ますが、庶民となるとそうはいきません。もちろん強盗だって貧乏人からは財物を取ることなどできないことはわかりきっていますから、そういう者たちは狙われません。必然的に金のある層、貴族がターゲットになります。女性の勾引かしなど日常茶飯事ですし、病気になった従者や女房、下働きは屋敷を追い出されて路上にうち捨てられ、死を待つのみというのが普通にありました。中でも女性を掠奪するのは、女性の親が結婚を許さなかったので無理やり攫って結婚するという、今で言う駆け落ち同様のものもありましたが、当然ながら本人の同意を得ずに無理やり誘拐して妻に据えるという行為も横行しており、さらには人買いに売り飛ばす者もいたりと、まさしく犯罪という行為も少なくなかったのです。女性を攫って妻に据えるという風習は、実は薩摩、つまり鹿児島などにはかなり遅くまで残っていたようで、これをおっどい嫁じょと呼んでいました。これに関する最新の事件に、「昭和34年(西暦1959年)6月19日の鹿児島地裁判決」があります。この事件は鹿児島のある村の青年が16歳の女性に結婚を申し込んで拒絶されたけども、諦め切れず、従兄と叔父とで謀議した結果、女性を誘拐して、結婚を承諾させることにしたというものです。そして、通学中の女性を計画通り拉致し、従兄と叔父も加わって三人で馬小屋において無理やり姦淫に及びました。それを知った青年の両親は、青年と一緒になって喜んだといいます。当然、青年は警察に逮捕され誘拐と強姦の罪で裁判にかけられたのですが、弁護人はこの地方には婚姻に同意しない婦女を承諾させるため、その婦女を強いて姦淫する「おっとい嫁じょ」と呼ばれる慣習があり、被告人はこの慣習に従って行為に及んだもので、違法性の認識を欠き故意がないと、無罪を主張したのです。また、村も全村民の署名を集め彼の無罪を嘆願したのです。ちなみに、青年の母親もまた家族と食事中に青年の父親に拉致され強姦されそのまま結婚したと伝えています。こういった誘拐は鎌倉時代になるとますます盛んになり、遂には御成敗式目で独立の条文として人さらいに関する罰則が設けられるまでになります。罰則の中には僧侶が誘拐におよんだ場合の罰則も記述されており、聖職者が何やってんだ…と世の無常を感じさせるものでもあったりします。まあ聖職者が性犯罪を犯すことがあるのは洋の東西、時代を問わないようですが。

実は現代の一夫一妻制や一夫多妻制をとる民族は、この略奪婚(誘拐婚)を必ず経験しています。言葉を変えると、現代の一夫一妻制や一夫多妻制は私有婚、姓の私有の名残なのです。ぶっちゃけて言えば、現代の一夫一妻制や一夫多妻制は、女性をモノ扱いし続けてきた結果なのだと言うこともできます。世のフェミニストはよくそんな制度をありがたがってるなあと思わないでもあ[りません。もちろん、そんな価値観に現代人の私たちが付き合う道理はありませんが、歴史的事実としてはしっかい抑えておかなくてはなりません。

ということは何を表しているかと言うと、鎌倉時代は、嫁取婚が本格的になってきた時代ということが言えます。では完全にそうなったかというとそうでもない過渡期とも言えます。例えば、源頼朝の妻、北条政子は後に鎌倉幕府を仕切った北条氏の出ですが、比企能員の変など重要な局面では、故頼朝御恩を強調して並み居る御家人を味方につけたり、政治的にかなりの力を発揮しています。これは、初代将軍頼朝の妻であり、二代将軍三代将軍の母であるという事実がまだ無視できない影響力を持っていた証であると言えます。

なお、この時代には少なくとも東国の武士階級は男系相続を基本とするようになっています。最初は女性を含めて財産をすべての子に相続させていましたが、「戯け」の語源が「田分け」であるという俗説があるように、分割相続していくと個々の所領がどんどん小さくなって貧しくなる一方なので、戦で手柄を挙げて新しい所領を褒美としてもらうか、分割相続をやめるか、いずれにせよそのままでは実質の財産が目減りするということで、まず女子に対する相続は一期分といって相続した女子が生きている間はその女子のものだけど、死んだら惣領に戻されるようになり、次いで時代が変わる頃には惣領息子がすべてを相続して、女子の面倒は惣領が見るようになりました。他の男子は分家を作って惣領に仕える家臣になるか、後の部屋住みのように婿養子に求められるのを待ったり、あるいは一生飼い殺しとなる単独相続に至りました。当時の武士にとって所領は何よりも大切なもので、元寇の際に武士が東国から駆けつけたのも戦で手柄を挙げれば新たな所領がもらえるという目論見があったからこそです。一生懸命は一所懸命が語源で、所領を獲得してこれを守って子どもに受け継がせることに文字通り命を懸けていたのが鎌倉武士です。ところが元寇では幕府も国内の勢力と争って新たな領土を獲得したわけでもないのに、元と朝鮮の軍勢に勝ってしまったものだから、褒美を渡す必要が出てきました。当然、幕府の手元に新たな土地などありませんので幕府北条氏の所領を割いたりして与えたのですが、元寇で命を張って闘った武士達を宥められるほどの報償が出せるはずもなく、これが鎌倉幕府滅亡の原因のひとつになったと言われています。そもそも頼朝が幕府を立てることができたのは、朝廷の支配が特に東国では弱くて所領争いなどが起きた場合にこれを調停する存在がなかったことが大きな理由のひとつでした。さすがにゴブリン呼ばわりされたりすることもある鎌倉武士とはいえ、年中そんな争いばかりしていては、農作業どころではありません。そのため自分の所領を安堵してくれる偉い人がいてくれた方が都合よかったのです。実際、幕府が設立されると土地をめぐる裁判が押し寄せることになりました。それまでは京の朝廷へ嘆願が集まっていたのですが、当時の都の貴族はこれに対処することがまったくできませんでした。平清盛が上り詰めて平氏が政権を握った時には多少配慮がありましたが、「平氏にあらずんば人にあらず」という言葉が残っているように身内贔屓が激しく、東国武士の不満が蓄積していたのです。また、こうして惣領が所領をすべて相続し、監督する形へ移行する過程で、「家制度」が成立していきました。

室町時代・戦国時代・江戸時代

室町時代に入ると、「ヨメトリ」という言葉が文献に表れるようになります。多くの歴史学者は、室町時代に入って完全に嫁取婚が日本に定着したと考えています。ただし、この点には注意が必要です。

婿取婚を含むそれまでの婚姻制度では子を育てるのは基本的に母族であり、財産の相続も母系が基準になっていました。しかし、嫁取を基本とする武士階級は、戦や紛争で重要になる男手を重視するようになり、財産も男系つまり父系で相続されるようになります。それが日本中に広がっていったのです。つまり、財産相続の継承基準の変化と嫁取婚への移行は表裏一体のものなのです。そしてそのために誕生したのが「家制度」でした。これらはバラバラに発生したものではなく、すべてが絡み合って誕生しています。これらは室町時代になって一度に誕生したのではなく、平安時代末期には既に武士の間で行われていたことが広まっていった結果、室町時代になってようやく全国に波及、みなの多くが嫁取で結婚するようになったというわけです。その場合、婚主は家父長となり、集団の内のことに関しても外のことに関しても家父長がいっさいの決定権を握ります。そしてそれに歩調をあわせたのかどうかまではわかりませんが、「夜這い」風習も広がります。

夜這い」はもともと「呼ばふ」から来ているとされており、妻問婚でも所顕(露顕)までは建前上こっそり親に知られずに通っていましたが、その際に女性に声をかけることを「呼ばふ」と言い、それが婚姻制度の変化に伴って「夜這い」へ変化したとされることが多いようです。さて、夜這いというと柳田國男が「淫風陋習」と非難したようにまるで邪悪な習慣かのように言われることもありますが、要は昔の自由恋愛であり、男女双方の合意がないと男が夜這いをかけても振られるのが関の山でした。つまり、男が無理やり女を襲う制度なんかじゃなかったのです。一般に夜這いムラ若者組が誰に誰が夜這いをするかを管理しており、むろんムラごとに違いはあれど、ちゃんとした掟があって違反した場合には罰せられました。男は何らかの通過儀礼を経て一人前になったと見なされた歳(武士などでは元服した歳で、戦が多かった時代は初戦を経験してから)、女はこれもムラによって違いがありますが、おおむね初潮がきて、陰毛が生えそろい、腰つきがしっかりしてきた頃、要は子どもが産める歳になると女衆が許可を出し、始めては水揚げと呼んで熟練の経験者に相手をしてもらい、その後夜這い仲間に加わりました。男の場合、はじめてはフンドシ祝いといって一人前になった証として人生初のフンドシを着用するのですが、その世話を親族や近所の女衆がしてついでに筆下ろしもしていました。昔の人はいかに取り繕うとも若い男女が揃うと性的な関係が避けられないことをよく知っており、男女とも一人前になったのなら、労働の責任を負わされますが、一方で性も開放してバランスをとっていたのです。むしろ今のように責任だけは喧しく言い募るくせに年頃の男女を集めておいて性だけがいけないものかのように唾棄する二枚舌が紊乱する現代の方がとても異常なわけで、不純異性交友だの望まぬ妊娠だのと騒ぎ立てるなら、いっそのこと大昔の儒教のように「男女七歳にて席を同じうせず」を貫徹したほうがよほど健全というものです。日本だって戦前は小学校は別として年頃になった男女は別々の学校に通っていたわけで、男女を一緒にしたら性的関係に発展する場合があることをよく知っていたのです。今でも元生徒と結婚する教師がいますが、明治の頃だってたとえば与謝野鉄幹は最初女学校の教師をしていたのですが、その間に三人の女生徒と関係を持っており、そのうちのひとりには同棲して子どもまで産ませています。子ども同士が不純というなら、この手の大人はどうなんでしょうね?

でもそれじゃあ子どもができたらどうしてたの?という疑問が出るでしょうが、その場合はムラの男に嫁入りさせる、あるいは他所のムラであっても委細呑み込んでくれる男に嫁入りしたのです。子どもはムラという共同体で育てるものという気風が残っていたので万事問題はなかったのですね。最近の例になりますが、西原理恵子さんの著書『女の子ものがたり』第2話「お葬式」で同氏が育った高知県の田舎町で実際にあった話として、近所のおじいさんや親族が亡くなった際、葬式の準備をしながら「誰を呼ぶか」で揉め、田舎ならではの「あそこの山向こうの誰それも、あのじいさんに顔がそっくりだから絶対に種違い(あるいは腹違い)の子供だ、呼んでこい」といったやり取りがユーモラスかつ切なく描かれています。それは別にそのじいさんが不倫をしていたということではなくて、夜這いの結果娘が孕んだので親が慌てて嫁に出した結果生じたことだったと思われます。

話は変わりますが、ではその間の女性の扱いはどうだったのかというと、鎌倉時代は先に延べたように女子にも相続権がありました。後に一期分に限るとなったとはいえ、所領を自分で所有、管理し、たとえ結婚してもそれは妻の財産であり、夫の家は口出しできなかったのです。自分の所領ですから自ら地頭も務めました。そういうおんな地頭の記録がいくつも残っています。ですので、武士階級であっても実家の実力を背景として同じ嫁取婚であっても後の時代と異なり、女性の立場は非常に強かったのです。夫と不仲になっても妻は自分の財産を持っていましたから比較的自由に離婚、再婚を行っており、決して婚家の言いなりになどなりませんでした。農民だって妻問いだの婿取りだのがなくなったわけではないので、別段婚家の言いなりになる必要もなく、気に入らない?じゃあ離婚ね。とあっさり離別して再婚したりしていました。今で言う膿家脳など存在しなかったのです。これが室町時代に入り、惣領による単独相続が当たり前になると、女性の立場は急速に弱体化します。結婚式などの儀礼は夫方の家、つまり婚家で行いますが、その後しばらくは妻方の実家に夫が通ったり、あるいは妻方の女性親族が花嫁に付き添い、一定期間婚家で同居する「足入れ婚」が行われたりもしましたが、鎌倉時代のように自由に離婚、再婚とはいかなくなりました。ですが女性の財産権まで否定されていたわけではなく、たとえば応仁の乱の引き金を引いた足利義政の妻、日野富子は莫大な財産を持ち、それを夫である足利義政に高利で貸し付けたりしています。

ここでおや?と思った方は鋭いです。源頼朝の妻は北条政子足利義政の妻は日野富子。そうです。夫婦で苗字が違うのです。元々日本は妻問婚が長く、夫と妻は別族であるというのが常識でした。従って結婚後も苗字を変えることがなく、それが長く伝統になっていたのです。はい。日本は古来より夫婦別姓だったのですね。むろんたまたま親戚だったので同姓のままという場合もあったでしょうが、基本は別姓です。昨今の夫婦別姓論者が聞いたら喜びそうな伝統ですね。もちろん、別段先進的な男女平等観があったはずはなく、上記の通りの事情に過ぎなかったわけですが。

さて、女性の立場が弱体化したとはいってもそれは鎌倉時代に比べれば、の話であって後の江戸時代のように女性が無能力者であると見なされたとか、財産権を否定されたというわけではありません。少し時代が下り戦国時代キリスト教が伝来しますが、その宣教師の一人、ルイス・フロイス(永禄六年「西暦1563年」来日、慶長二年「西暦1597年」に長崎で死去)は、以下のような内容を書き残しています。

  • 日本の女性は処女の純潔を重んじない。それを欠いても栄誉も結婚する資格も失わない。
  • 日本では男性は望みのままに何人でも離別する。離別されても栄誉も結婚する資格も失わない。
  • 日本ではしばしば妻たちが夫を離別する。
  • 日本では娘や妻が、両親や夫の許可なく、自由に行きたいところへ行く。
  • 日本では親族の女が誘拐されようとしても、父母兄弟が見て見ぬふりをしてすごす。親戚同士の情愛がうすく、たがいに見知らぬもの同士のようにふるまう。
  • 日本では夫婦のおのおのが自分のわけまえや財産を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸しつける。
  • ヨーロッパでは女性が文字を書く心得は普及していないが、日本の貴婦人はその心得がなければ格は下がるものとされる。
  • 女性の飲酒は頻繁で祭礼にはたびたび酩酊するまでのむ。
  • いともふつうに堕胎が行われ、二〇回も堕ろした女性がいる。

あなたはフロイスが何に驚いたかわかるでしょうか。当時の西洋において、女性は結婚するまで純潔であることは当然でしたし、カトリックは離婚を認めていませんでしたし、女性が家父長の許しなく外出するなどありえませんでしたし、女性に財産権など存在しませんでしたし、女性が酒に酔うなどふしだらきわまりないと思われていましたし、堕胎など論外でした。日本の女性は西洋の女性に比べるとずっと自由で気ままだったのです。この価値観の違いがわかっていないと西洋の女性解放運動から続くフェミニズムが何を目指しているか理解することはできません。その一方で日本のフェミニストが一部「ツイフェミ」などとなぜ揶揄されているかも理解することができません。女性観や女性性の歴史的由来がまったく異なるのです。

しかしこれも江戸時代に入り、朱子学が奨励されるようになるとまた変わります。特に武士階級において女性の財産権は否定され、三従の教え(幼い時は親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う)が当然の道徳とされ、女三界に家なしとまで言われるようになりました。この男尊女卑思想は、儒教が元々持っていた男女観を朱子が煮詰めた結果生まれたもので、時代が進むとともに武士階級に浸透し、上級武士から下級武士に至るあらゆる武士にまで浸透しきったところで、幕末を迎えます。じゃあそんなに厳しかったのだから、女性の浮気、不倫はさぞかし少なかったのだろうと思いがちですが、そんなことはありません。確かに現代に比べたら少ないのですが、妻の浮気が発覚して間男ともども四つに折って切り捨てたなんてこともそれなりにあったのです。本当に四つに折る人はごく稀にしかいませんでしたから実際にそんなことをした人が現れたら瓦版なんかがこぞってかき立てたりしていましたが、幕府も不義密通を厳しく取り締まっていましたので、現場を抑えられたりでもしたら、切り捨てられるのは当然でした。あるいは現場を抑えることができなくとも、世間の目をごまかすことはなかなかに難しいものです。そういう場合、周囲には理由を告げずに妻を離縁して実家に戻すだけで騒ぎ立てたりしない人も少なくはありませんでした。今でもそういうところがあるのですが、妻を寝取られた間抜けな旦那という風評がたって家の評判に傷がつくことを恐れたのです。その幕府にしたって江島生島事件江戸時代中期、七代将軍家継の時に起き、生島との密通を疑われた大奥御年寄江島(絵島)は一貫して否定していましたが、疑いを持たれるような行動をしたのが既に罪と言わんばかりに死罪の評議が出るも、罪一等を減じて遠島、その後さらに罪一等が減じられて高遠藩内藤清枚へお預けとなる沙汰が下りました。江島(絵島)の異母兄であった旗本、白井勝昌は切腹を認められずに斬首となり、他の関係者も遠島に処されたりかなり厳しく罰せられました。

さて、武士はわかった。では国民の大多数を占めていた農民はどうだったのだ、というと、先に書いた夜這いはもちろん、婿取りも行われていましたし、妻問いの風を残していた地方もありました。表向きは嫁取婚の一夫一妻でしたが、都市部の大多数の町人同様、たいていの農民は複数人の妻を養えるほどの資産はないので、むしろ一夫多妻にせよという方が無茶でしたし、何より女性も重要な労働力だったので、武士より女性の立場はずっと強いものでした。今もなお続く嫁姑のバトルもだからこそ舅や息子が口を挟んだくらいで収まらなかったわけで、稀に婿入りの際の婿いじめや嫁入りの際の嫁いびりは文化的によそ者であることを確認する制度、儀礼の一環であったとか寝言を言う人がいますが、よそ者がいやなら他のムラから嫁を迎えなければよい話であってそれは文化でも儀礼でもありません。婿いじめは要するに新参者をからかうだけの話であって、あまり長く続いたりしないのですが、嫁いびりは主婦権を誰が持っているか=家政を誰が管理しているかの争いでもあったので下手すると姑が死ぬまで続きました。要はよそ者が気に入らない。ただそれだけの話です。今も嫁いびりをするような姑には嫁のことを他人だとか、家族じゃないとか言って憚らない人もいるではありませんか。

加えて、何やら時代を遡るほど女性は虐げられていて、男性と比べると大変な辛酸を舐めていたのだ、と主張する人がいますが、たとえば離婚ひとつを取ってみても、それは誰のことを言ってるの?と疑問になります。よく時代劇などにも俗に「三行半」という離縁状を亭主が書けば夫はいつでも簡単に妻を捨てられたのだ、と見てきたように言う人がいますが、江戸時代の離婚率を知らないのでしょうか。特に江戸はずっと女日照りが続いていたので慢性的に女性不足で、女性は案外簡単に再婚できたのです。それに三行半とは実は再婚許可証でもあり、亭主がこれを書くのは、この女はもう結婚していないので以後誰と再婚しようが不倫だとか迷惑料を払えとかの文句を言いませんという書状だったのです。それに確かに書くのは亭主の方でしたが、妻が迫って無理くり書かせた報告も数多くあり、実は亭主が離婚したくなくても妻が強硬に主張するので仕方なく書いた時も多かったのです。中には長屋の女衆が結託して泣いていやがる旦那に無理やり筆を持たせて線を三本半書かせてこれを以て離縁状としたこともあり、それを奉行所も追認していたのです。ええと、どこが虐げられていたのでしょうね。さらに、嫁取婚において妻側は持参金を用意してこれを夫に渡したのですが、離婚時には持参金を返さなくてはなりませんでした。夫がこれを使い込んだりしていると返済できずに離縁状を妻に受け取ってもらえず、だらだらと離婚が引き伸ばされる例もありました。つまり、武士と町人や農民では離婚事情が異なっていたのです。表にすると以下の通りです。

項目武家(支配階級)庶民(農民・町人)
結婚の目的「家禄(給与・領地)」を存続させるための政治的契約日々の生活・労働を営むための共同経営
主導権家長(父親)が絶対的権力を持つ夫婦の相性や、実家・地域共同体の合意が重視される
離婚のハードル幕府や主君への届け出が必要で、家の体面に関わるため極めて困難当事者(と仲介者)の合意、および「三行半」の発行だけで即日成立
離婚後の女性「実家の恥」とされ、再婚の選択肢も狭まる「即戦力の労働力」としてすぐに次の嫁ぎ先が決まる

要するに、武士にとって結婚は「国家(幕府・藩)に対する義務」だったためガチガチに硬直化していましたが、庶民にとって結婚は「生活の手段」だったため、お互いにメリットがなくなれば解消して再スタートを切る方が、社会全体(コミュニティ)にとっても合理的だったのです。

でも逆にいくら妻が離婚を迫っても頑として夫が三行半を書かなければどうしたの?という疑問を持つ向きもあるでしょう。その場合に登場するのが縁切寺です。縁切寺には幕府公認のところまであり、歴とした公的機関です。つまり、そこへ駆け込めばいかに亭主が嫌がっても離婚が成立するのです。とにかく夫側の追手に追いつかれるまでに身に付けている物、たとえば草履や簪でも何でもいいので投げ込んでしまえば駆け込み成功です。縁切寺を管轄していたのはむろん寺社奉行でしたから、それを無視して連れ帰ろうとすれば夫側が奉行所から罰せられました。この場合の離婚のプロセスは次の通りです。

事情聴取と夫への呼び出し状
駆け込み直後
寺の役人が女性から駆け込みの理由(DV、夫の浮気、働かない等)を聞き取ります。その後、寺から夫、夫の属する地域の「名主(なぬし・村長)」や「大家」に対し、速やかに出頭するよう公式な呼び出し状を送ります。
第1次調停(内済の推奨)
出頭後
寺の役人が間に入り、夫側に対して「妻はこれだけ嫌がっている。今ならお互いの傷は浅いので、三行半(離縁状)を書いて別れなさい」と説得(内済・示談の勧告)を行います。実際、寺の権威に恐れをなして、この段階で夫が折れて三行半を書くケースが全体の半数以上でした。
寺入りの決定(調停決裂の場合)
夫が拒否した場合
夫がどうしても離婚を拒否した場合、女性は正式に「寺(尼僧)の弟子」として籍を入れます。これを「寺入り」と呼びます。
24ヶ月(のちに20ヶ月)の「お勤め」
離婚への待機期間
女性は寺の中で、朝晩の読経、裁縫、畑仕事、あるいは寺が開いていた手習い塾(学校)の先生などをして過ごします。この期間、夫側は妻に一切接触できません。
自動的な離婚成立
期間満了
規定の期間(24ヶ月または20ヶ月)が無事に満了すると、夫が三行半を書く・書かないに関わらず、寺の権威によって強制的に離婚が成立します。女性は晴れて自由の身となり、実家に戻るか、新しい人生を歩むことができました。

ところで女性がお勤め中の費用はどう工面したのでしょうか。

「寺入り」の費用は誰が払うのか?

2年間お寺で暮らすための食費や管理費(御山入用)は、本来は女性側(実家)が支払うルールでした。しかし、実家が貧しくて払えない場合、あるいは実家が夫側を恐れて味方してくれない場合、寺が夫側に対して「お前が妻の滞在費を全額支払え」と命令することができました。 夫としては、妻を監禁されている上に毎月生活費までむしり取られるわけですから、「これならさっさと三行半を書いて別れた方がマシだ」となるわけです。夫側を経済的に追い詰める、極めて合理的な仕組みでした。

離婚後の再婚も完全保証

寺を通じて離婚が成立した女性には、寺から公式な「お墨付き(離縁証明書)」が発行されます。これを持った女性を元夫が邪魔することは絶対に許されず、女性は堂々と次の結婚へ向かうことができました。

どうでしょうか。あなたが持っていた嫁取婚は、嫁側に不利なばかりのガチガチな旧制度のイメージではありませんでしたか。実態はセーフティネットまで用意され、女性に不利な点はできるだけ補おうとした面も存在したのです。ではなぜ現代の我々は昔の嫁取婚が女性に不自由ばかり強いる非道な制度だと思ってしまったのでしょうか。

明治時代・大正時代・昭和時代(戦前)

内戦を経て明治維新が成立し、江戸幕府は解体されます。大名や大身の旗本などの上級武士は華族として祭り上げられて政治の実権から遠ざけられ、政治は下級武士出身の政治家が行うようになりました。すると、当然様々な局面で彼らの倫理観が法律などに盛り込まれるようになります。維新後頻発した反乱も西南の役を最後に落ち着き、不満を抱いた元の武士階級は自由民権運動に身を投じていきます。一方で様々な法律が発布されましたが、民間制度の集大成として、明治29年(1869年)に民法が制定されます。ここで家族法が規定されるわけですが、婚姻は女性が婚家に嫁入りする形しか認めず、江戸時代に地方ごとに残っていた様々な婚姻様式は実質的に禁止されました。単に下級武士が常識と思っていた婚姻様式を明文化しただけですが、これを庶民にまで強制したことで、庶民が多様な婚姻関係を享受していた時代は終わりました。子どもに男子がおらず、次の戸主が娘である場合は、の存続に関わることなので婿養子は公式に認められていましたが、基本は嫁入りです。また夜這いなどの風習も欧米諸国の目を気にして、国民道徳の向上を掲げ、夜這いを恥ずべき風習と断じ、一夫一妻制の徹底と姦通の罰則化、結婚前に性的関係を持つことの道徳的退廃を学校教育を通じて教え込む一方で、性的欲求不満を解消するために遊廓を公認、あるいは黙認することで若者のガス抜きとしました。また、国民皆兵のもと徴兵検査が始まると、成人は検査時の二十歳に引き上げられ、また各所に遊廓ができたこともあって、若い男性の初体験は遊廓ですませるようになっていきました。夜這いなど民俗学の研究のために柳田國男らがフィールドワークを行いましたが、彼は夜這いを激しく否定し、廃止すべき恥だと断定しましたが、そこは取材を受ける庶民もわかっており、「死んだ爺さん達が若い頃にはあったと聞いたけど…」とか「今どきそんなことをムラぐるみでやるなんてありえないですよ」と言ってごまかし、実は続けていたことが赤松敬介氏らの研究でわかっています。まあいかにもお役所から派遣されてきた風情のお偉い学者さんには真実を話したりして揉め事が起きるのを避けたのでしょう。赤松によれば夜這い風習は戦後まで生き残っていたとあり、知らぬはお上だけという状態だったらしいです。まあ昔は明らかなよそ者にムラの内情をぺらぺら喋る頭が御花畑の村人などいなかったのですね。

また、それまで夫々のムラで判断していた成人であることの儀式も、徴兵令が敷かれ、20歳の時に徴兵検査を全国民男子が受けることになると、成人年齢も表向きは20歳ということになってしまい、検査が終わってから花街に繰り出して遊ぶという風習が根付きました。夜這いは夜這いで続けていたのですが、田舎の垢抜けない女子と比べて花街に在籍している女性はきちんと化粧もし、見目もよかったので、今更田舎の女に夜這いを×のもなあ、という空気が産まれ、少しずつ夜這いの風は衰退していきました。

ところで実は、旧民法制定前、平民苗字必称義務令が明治8年(1875年)に発布されていたのですが、旧民法で夫婦同姓としたことに保守派から大変な批判を受けました。夫婦同姓は日本の伝統に反するという主張です。夫と妻は別族であり、妻が子どもを産むことを借り腹などと称する向きもあったりして、同姓=同族を意味するのでよろしくないという声があがったのです。しかし、明治政府の中心となった元々の下級武士は大変貧しかった人が多く、嫁をよそ者で子どもを産むために借り受けた人と扱うと生活できないと言う切実な事情がありました。まさしく家族一丸となって生活を営まないと破綻していた状態が長く続いていたのです。そのため実情は別家の人などという感覚は乏しく。ひとつの家族なのだから苗字も同じものを名乗るのが当然だと言う倫理観からその声を抑えたのです。

以上のような変化を経て、武士階級の規範であった女は無能力者、資産を持たせるなどとんでもないし、男や目上の人間の言うことをはいはい聞いていればよろしい、という考えが広がり始め、それが今日女性達から蛇蝎のごとく嫌われている膿家脳へとなっていったのです。この点に関して戦犯は明治政府ということになります。

しかし、だからといって若い女性が萎縮するばかりだったかというとそんなことはありません。大体国民の多くは無産階級であり、代々引き継いでいくべき資産などないのですから、戸主権を振り回そうにも実態が伴いません。性は夜這いで解決されてるし、仕事をしっかりやるのは当然のことなのでみんなそう働きますし、むしろムラの代表などに頭を下げて嫁を世話してもらわないといけないし、迎えたら迎えたで嫁姑バトルが始まったりして家の中が落ち着かなくて身の置き所に困る場合も出てきたり、案外息子とか舅である戸主は閉口していたものです。都会は都会でモボ・モガといった大人の言うことなどどこ吹く風といった若者が溢れ、大正デモクラシーの最中には旧弊な見合いや仲人による紹介など古くさい、これからは恋愛結婚こそが至上だなんて価値観まで登場して親としては相当手を焼いたでしょう。その戸主だって父親や夫が死んでしまって男がいなくなると当たり前に女がその地位に就きましたから、はてどれほどの独裁権があったものやら。横溝正史金田一耕助シリーズでよく田舎の旧家が舞台になっているのは、莫大な財産の相続に絡んだドロドロとした人間関係が輻湊したとんでもない状況があったに違いないという大衆の思い込みにのっかったからでして、逆に言うと庶民の親は苦労ばかりで戸主権、何それおいしいの状態だったのかもしれません。

いずれにせよ、戦後になって憲法民法が改正されるまで、女は夫の家に嫁入りし、義両親を実の両親以上に敬い、婚家に尽くすのは至極当然のことであるとする価値観は、旧民法制定から敗戦までのわずか 50 年ほどで普及した一時的な価値観に過ぎず、一体なぜそんな価値観を墨守する老害が今でも生きているのか不思議なくらいです。

昭和時代(戦後)〜現代

さてさて第二次世界大戦が終わり、GHQ の指令で新憲法が制定され、民法も一新されました。私有婚による一夫一妻制を基本にしているとはいえ、結婚は両性の同意によって行われると改めて規定し直され、法律上家制度は解体され、民法も男女が対等であることを意図した条文に変えられました。

むろん、最初はただの理念でしたが、世代が交代するたびに実情もそれにあわせるように変化していき、現在では完全に「」に縛られて結婚生活を送る夫婦はおりますまい。現代日本の一夫一妻制は私有婚から始まる私有制度に立脚していると、以前の記事で分析しました。現代の私たちがそんなカビの生えた価値観に付き合う必要はまったくありませんが、元々は何だったのかを知っておくことは大切なことです。結婚時に女性の立場がどうなるのかを考えた時、今でも古くさい観念を振りかざす人の心の奥底では、まさしく「嫁」や「性」は男の私有物であるということを意識的であれ無意識であれ前提としているものです。私有物だから嫁をどう扱うかは婚家(多くの場合、夫や姑)の都合次第だし、それに嫁自身が異を唱えることなどあってはならないのです。姑自身が同じように嫁いびりされて苦しんだ経験があったとしてもです。

しかし戦後教育が進むにつれ、男女平等の意識は少しずつであれ着実に子どもたちの心に定着していきました。とはいえ何の価値観でもそうですが、一夜にして劇的に変わることなどありません。60年安保世代、つまり今生きていれば 85歳前後かその少し上の世代は、マルクス・レーニン主義こそ真に目指すべき理想を実現できる思想であると結論づけ、岸信介内閣がアメリカと締結した新しい日米安全保障条約に真っ向から反発し、大規模なデモをしかけ、大学を占拠したりしました。デモの最中に運動に参加していた女子学生である樺美智子さんが圧死してしまい、学生運動の悲劇として全国に報道されました。野党の反発も大きかった条約の改定で当時未だ不安定だった日本の軍事的な地位を守りたかった内閣と自由民主党条約の批准を強行採決し、安保闘争と呼ばれた学生運動を激化させました。その最中の事件だったのです。

ご存知の通りマルクスが提唱した科学的共産主義は男女平等思想も取り込んでいました。だからこそ女性活動家も多かったのですが、その世代ですら「結婚したら女は家庭に入るもの」「男は外で働いてお金を稼ぎ、女は家庭を守って家事と育児に専念すべし」という考えを平然と受け入れ、また実際にそのように行動しました。女性の社会進出など夢物語で、仮に女性が就職したとしても数年で寿退社が当たり前の時代だったのです。何のために社会主義思想や共産主義思想を勉強したんでしょうね。

安保条約は10年ごとに更新が決まっていたので、次の更新時期であった1970年とその直前にも激しい学生運動が起きました。中心になったのは、今現在だと77歳前後の世代、つまり団塊の世代がまさにその中心にいました。火炎瓶を作っては機動隊に向けて投擲したり、東大安田講堂を占拠したり、果ては思想対立から中核派革マル派に分裂して内ゲバで凄惨な殺し合いをして見たりとやりたい放題やっていました。その頃私は既に小学生でしたが、頭がいいはずの大学生が何やってんだろ、と思ってました。ついでに世代全体の思想改造もやってくれればよかったのに、なぜかこの世代も「結婚したら女は家庭に入るもの」と考える人たちが多数派でした。女性が長く勤めてもああだこうだと世間が言わない職業、看護師や小学校教師など女性が望ましいとされていた職業の場合は結構な数の方が結婚しても長年勤めておられましたが、そうでない職の場合は俗に「腰かけ」と呼ばれ、結婚と同時に退社するのが普通でした。それでも、60年安保の世代、70年安保の世代がやったことが全部デタラメだったかと言うとそんなことはなく、男女平等についても社会に問題意識を投げかけ続けており、私たちの世代、現在 65 歳前後の世代は真面目に男女平等について考えさせられるようになりました。シラケ世代とか言われましたけど、結婚したら少なくとも共働きの間は家事を率先して行って、育児にも積極的に関わることが男性の美徳と言う意識はあったのです。あっただけで実態が伴ってなかったじゃないかと言われれば、仰る通りと恥じ入るしかないのですが。

そんな状況に一石を投じたのが、1999年(平成17年)に制定された、男女共同参画社会の実現を目指した男女共同参画社会基本法などの一連の法律です。2026年(令和8年)現在でもまだ実現に向けた途上ではありますが、少しずつしかし着実に社会は変わっていっているのです。

また、婚姻に関しても一時期は不倫がマスコミで持て囃されはしたものの、世間の見る目は厳しくなっており、不倫をした男女はもちろん、それを庇った者もたいてい社会的な死が待っています。これも昭和の中ごろまでは「浮気も甲斐性のうち」とか言って正当化しようとしたり、実際お妾さんがいた国会議員が「若い頃からよく仕えてくれた女性であり、それを年を取ったからといって今更見捨てることなどできませぬ」と国会で答弁したりしたのですが、年々許されなくなってきており、令和の今に不倫だのお妾さんだのがバレると男女両方とも袋だたきです。

その婚姻事情も昔と今では様変わりしています。以下は結婚におけるお見合い結婚と恋愛結婚の比率をグラフにしたもの(2025年2月14日付 Yahoo! Japan Japニュースより)ですが、一目見ればおわかりの通り、2010年から2014年をピークとして恋愛結婚が急増しています。

恋愛結婚・見合い結婚などの構成比

面白いのはその後、ほんの少しばかりお見合い結婚の比率が上昇していることです。さすがに「若者の恋愛離れ」とは言いませんが、面白い現象です。しかしながら、女性に縁がないから結婚できないという男女が増えているのも確かで、次のグラフのようにネットで婚活をして結婚する人も増えています。結婚相談所とか所謂婚活パーティなどを利用する人はあまり変化がないのも面白い点です。(マッチングアプリの動向調査 - 消費者庁 [三菱 UFJ リサーチ&コンサルティング調べ]より)

2020年婚姻者のうち、ネット系婚活サービスを通じて結婚した人の比率

さらに興味深いのは、婚活サービスを通じて結婚した人の割合が 21 世紀に入ってから急増している点です。(「nippon.com - 婚活サービスを通じて結婚した人の割合推移リクルートブライダル総研調べ

婚活サービスを通じて結婚した人の割合推移

こんなデータもあります。(一般社団法人 日本結婚相手紹介サービス協議会「結婚相談所を利用して出会ったカップルが8割増加!2022年の成婚者数は年間38,000人に!」より)

結婚相談所利用者の成婚数と国内婚姻数の比較

国内全体の婚姻件数はずっと減少基調なのに、結婚相談所を利用して結婚した人はかなり増えています。これは何を示しているのでしょうね。そこで、50 歳時未婚率(昔は生涯未婚率と言いました)の推移を見て見ると、

50 歳時未婚率(生涯未婚率)
年次
19202.171.80
19301.681.48
19401.751.47
19501.451.35
19601.261.88
19701.703.33
19802.604.45
19905.574.33
200012.575.82
200515.967.25
201020.1410.61
201524.7714.89
202028.2517.81

という結果がありました。このまま推移すると、2030 年には男性の未婚率が 30%、女性の未婚率が 20% を超えそうな勢いです。若い人たちはだんだん結婚しなくなってきているし、実際に結婚した人も自然な出あいで恋愛関係になって結婚したのではなく、何らかの結婚サービスを通して本気で結婚したい相手の中から選ぶ方向へ進んでいるようです。

ここでおさらいです。現代日本における結婚は、男女双方の合意で結婚します。かつては婚主が祖霊=神だったり、両親、母親、父親だったのが、今はそんな決定権者がおらず、結婚は自分たちで決める個人的なイベントになっています。つまり、口を出して結婚を強制する人がいないのです。実はフェミニストにとって現在の状況はとても喜ばしいことです。誰からも強制されず、自分が気に入らなければ簡単にお断りができ、さらには互いに気に入った相手と自由に結婚できるのですから。

一方の離婚の方はどうでしょうか。以下のグラフをご覧ください(オンライン離婚相談home - 3組に1組が離婚は本当?世界・年齢・都道府県別の比較と離婚の原因より)。

離婚率の推移

ひと頃、今の日本は三組に一組が離婚している!結婚制度は終わりだ〜!なんていう言説が流行りましたが、あれは同じ年の離婚件数を結婚件数で割っただけの話で意味のある数字じゃないのです。それでも私は離婚率は上昇し続けていると思っていたのですが、豈図らんや。2000 年をピークに減ってきてるんですね。結婚サービスを使う人が増えて相性を事前にしっかり承知してから結婚しているためでしょうか。喜ばしいことです。

となると、結婚する男女は確かに減っているけど、お互いが納得して婚姻を継続しているということで、フェミニストさんからすればやっぱり喜ばしい状況でしょう。今どき、一夫一妻制は私有婚、つまり女の私有から始まったロクでもない制度だ!なんて言う人もおりますまい。でも私にはちょっと引っかかるんですよ。

未来

どういうことかというと、この程度の男女平等で満足するの?という疑問です。現在の一夫一婦制が女の私有である私有婚から始まり、それが私有制度の礎になったと書きました。本当はその頚木から解放されていないことがわかっているから何かあるとすぐに女性差別だ!女性をバカにしている!と SNS などで声を挙げるのではないでしょうか。どんなに男性の意識を変えようと、そもそもの制度が自由で対等な男女平等を前提とした制度ではないのですから、不満がくすぶり続けるのではないですか?それに、そのことを抜きにしても婚姻率は下がり続ける一方で、そうすると現在問題となっている少子化も解決しません。中には子どもさえいれば男なんて不要だ、いやむしろ邪魔だ、と言ってのけて実践している剛の者もいらっしゃるでしょうが、太古より婚姻してからその結果として子を授かるというのが人類の常識でした。その常識は今でも変わっていません。もちろん、無秩序な乱交、乱婚の類いは論外です。今や婚姻した夫婦を中心とした家族は、社会の根幹をなす極めて重要な運命共同体です。そこの倫理を壊すとどんな無秩序状態が産まれるかわかりません。女性一人で子どもを育てることが経済的に可能な女性ばかりになったとしても、父親と母親が揃っているのが普通の家庭だ、という了解がある限り、子どもはなぜ自分には父親がいないのかと疑問に思うでしょうし、母親がそれにいかに言葉を尽くしてもいないものはいないのですから、うちは普通じゃないんだ…となってしまっても不思議はないのです。子どもができたら子どもの福祉を最優先にするのはあらゆるほ乳類にとって当たり前のことです。だからこそ産んでから乳をあげ、下の世話をしてと、大切に育てるのですから。その基本が崩れていると子どもの福祉と言う観点から見て、本当に大丈夫と言えますか?

私が不思議なのは、子どもの将来も見据えた上で、男女が真に平等な新しい婚姻関係を結ぶのが真のフェミニズムではないかと誰も言わないことです。男が作った制度をありがたがっているくせに男女平等って成り立つの?本気でそう思っているのか、と言いたいのです。

ここでヒントになるのは、古代の制度です。日本が鎌倉時代を嚆矢として私有婚としての嫁取婚が始まり、明治時代になってそれが全国に徹底されました。平塚らいてうは、自らも創刊に関わった「青鞜」に「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である(大昔は女性は自らいきいきと輝いていたが、今は自分の力で輝けない)」との文を寄せました。卑弥呼や古代に活躍した女性天皇たちの例を出すまでもなく、堂々と自分の意志で人生を生きていたのです。温故知新という言葉があります。新たに真の男女平等を実現する社会を建設するために、古代の知恵を借りるのはどうでしょうか。

古代は群婚から妻問婚への変化があったと最初に書きました。その頃の女性は差別されず、妊娠と出産、授乳という男性が変わることができない事情を除いて自由な関係を男性と築いていました。そこに女性が押さえつけられるような事情など存在しませんでした。婿取婚も嫁取婚も男の都合が全面に出てきた結果生まれた婚姻様式です。ならいっそ現在の結婚の前提となっている嫁取婚とその結果である一夫一妻制を一度捨ててみてはどうでしょうか。色々と検討したり試行錯誤した結果、形として同じ一夫一妻制に戻ってくるならそれはそれでよいでしょう。しかし、なぜそんな面倒くさくて大層なことをしなくてはならないの!対等で平等じゃなくて女を優遇してくれるだけでいいのよ!という女尊男卑の本音が隠れていたりしませんか?それではいくら平等を謳っても同じ女性からすら信用されません。

今までにも多くの女性解放論者やフェミニストが男女平等を実現するための社会体制作りに奔走してきました。平塚らいてうの協力者に、高群逸枝という詩人で女性史学の創始者でもあった女性がいらっしゃいました。彼女は母系的な紐帯を持った共同体集団を構築し、男はそこへ自由に通う形の婚姻を提唱しました。残念ながら日中戦争に続いて第二次世界大戦が始まってしまい、彼女が唱えた新体制は忘れ去られてしまいました。ソ連建国時の革命家にアレクサンドラ・コロンタイという女性がいました。彼女は「コップ一杯の水理論」を提唱しました。共産主義社会における性欲の充足は、コップ一杯の水を飲むのと同じくらい自然で、道徳的義務(一夫一婦の誓い)に縛られるべきではないと主張し、結婚や離婚は役所へのハガキ一枚で成立するようにすませ、子どもは国家(保育所)が育てることで、男女は「家」から完全に解放されるはずだと考えてそれを実践しました。その結果、わずか十数年で社会が崩壊の危機に瀕したのです。責任の伴わない自由な性関係の結果(つまりは乱交、乱婚)、無数のシングルマザーとストリートチルドレン(遺棄児)が溢れかえり、治安と労働生産性が著しく低下しました。結局、国家の安定(次世代の労働力の確実な育成)のために、スターリン政権によって「一夫一婦制の強化(離婚の厳罰化、堕胎禁止)」へと時計の針が巻き戻されました。19世紀のアメリカにオナイダ・コミュニティという集団がありました。その指導者だったジョン・ノイズは「天国には私有財産も、特定の誰かとだけ結ばれる婚姻もない」とし、コミュニティ内の全員が全員の妻であり夫であるという「複婚」つまりは群婚を導入しました。特定の二人が恋愛関係になること(排他的な愛)は「エゴイズム(私有欲)」として禁止され、性交渉の相手はコミュニティの委員会によって決定されました。経済的には共同体として大成功(銀器製造で富を築いた)しましたが、「人間の感情(嫉妬・排他性)」と「世代交代」で破綻しました。若い世代が「特定の誰かを愛したい」という欲求(ロマンチック・ラブ)を抑えきれなくなり、カリスマ指導者ノイズの高齢化とともに、内部から崩壊して普通の一夫一婦制の会社組織へと移行したのです。これらすべての失敗は施行前に世論から忘れ去られたり、共同体集団の外は旧来の価値観で厳然と存在して運営されている、つまりは自分たちがマイノリティであり、容易に社会からの圧力に屈してしまうことがわかっていなかったのです。戦後アメリカや日本で流行したヒッピー文化から影響を受けた様々なコミュニティ作りも同じ理由で失敗しました。自分たちだけでもまずやろうという試みはすべて挫折しているのです。従って社会全体を変えないと問題は解決しません。

むろん、今の結婚制度を壊すということは、私有財産制度も壊すことになります。だって私有という基礎を崩すんですからその上にのっかってる制度なんて残るはずがないでしょう?当然ですが、そんな改革をたかが百年程度の短期間で試してみたりしたら現代経済の基礎インフラをぶっ壊してしまって人類が滅亡しかねません。生存の基盤となっているものを変えるときは、あるいはそれが変わる時は少しずつ少しずつゆっくりと何百年、ことによったら何千年もかけて行うものなのです。

その上で古代の叡知を参考に、たとえば母系の共同体集団が子を育てる責任を全面的に負い、女性は集団の外に住んでいる男で気に入った者の子を産んで、相手の男がロクでなしだとわかったり箸にも棒にもかからない器の小さな男だとわかったり、あるいはもう興味がなくなっただけだとしても、すぐさま男を捨てる。男性も女性に、女性も男性にこびへつらう必要なく、誰が誰の子かなど関係なく自分が属する集団、共同体を構成し、時に男性と女性が協力し、時に共同体を守るために闘う。そんな社会になって初めて真の男女平等が実現すると思いませんか?

私は単純に過去の制度を取り戻せばよいなどという幻想を語っているのではありません。過去は過去。同じことをしても良い結果が返ってくることはありえません。参考にしつつは参考にし、新しい価値観と新しい体制を持った社会の実現の第一歩を踏む。自分たちが生きている間でそんな社会は実現できないでしょう。歴史を振り返ればわかるように、社会の本質的な変化は実にゆっくりしており、人の一生程度の時間では変化を実感することはできません。でもあなたの子どものそのまた子どもの、さらにその子の…と血が続いている限りいつかは到達できるはずです。未来の子孫のために今から努力する、真に男女が平等な社会を未来の世代に謳歌してもらう、そう考えることは出来ませんか?もしできないとお考えながら、残念なことにあなたが目指しているのは男女平等でも何でもなく、ただ自分をえこひいきして欲しいだけの浅ましい自分勝手に過ぎません。男女関係なく子の幸せを願うのが人間ではないでしょうか。その連鎖の一人目になることは難しいですか?あなたがフェミニストを自称するなら、そしてその理想が本物だと思うなら、私有制度といえどもぶっ壊して理想を実現する努力ができるはずです。少なくとも私はそう考えています。

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