日本のフェミニズムの総括とこれから
前回、Gemini との問答を記事にして日本のフェミニズムの大きなうねりは終わりを迎えつつあると書いた。それは別にフェミニズムそのものが終了するわけではなく、それはそれで研究分野や実践活動として残りつつも、LGBTQ+ や DEI といった課題を含むより大きなフレームワークに取り込まれて議論される方向へ向かうのではないかとも書いた。その末尾でバージョンアップ以降、Gemini が議論の相手としてユーザーの意見に阿るようになったのではないかという疑念を抱いたことを記したのだが、以下に挙げる前回と同じプロンプトを ChatGPT に与えてみた。
相変わらずツイフェミと呼ばれる集団は、ミサンドリーを前面に押し出しながらとにかく男性を奴隷化しようとする言説を隠しもしていません。むろん、彼女たちはむきつけにそんなことを書いたりしませんが、根底にあるのはラディカル・フェミニズムに共通する男性排斥で、ひょんなところでそれが顔を出します。その嚆矢は何と言っても上野千鶴子氏でしょう。単に過激な議論と言えば田嶋陽子氏も同じですが、田島氏が公共メディアで時に論破され歯を食いしばって自らの論理の欠陥を修正して再度議論に挑むのに対し、上野氏は基本著書で書きっぱなし。その内容は啓蒙と言うより例えば女は嫁に行くのが一番などという輩は犯罪者として逮捕すべきなど気に入らない者は排除するという姿勢が明確です。また結婚に対して非常に否定的で結婚しているフェミニストは信用できないとまで言っています。彼女なりの理屈があるのでしょうが、こういう言説の端々にミサンドリーの影が見え隠れするのは否定できません。では何か建設的な研究を完成させたとか、社会にムーブメントを起こしたとかそんな実績も全く聞きません。はっきり言って東大は女性運動家に媚びるために上野氏を教授職に就けただけで、そこにアカデミズムに蔓延する旧時代の左翼思想と上野氏のフェミニズムに高い親和性があったことが窺えます。建設的なことは何も献策できずただ否定のための否定を繰り返す点など両者ともまったく同じです。私の恩師は東大文学部の国語学科の教授へ転任していって、あれほどの方なんだから当然だと内心誇りに思っていたのですが、上野氏の教授就任を聞いて汚された思いがしたものです。彼女は結婚しない女を著書でさかんに自立した女と持ち上げて、それを信じた独身中年女性を大量に産み出しておきながら自分はちゃっかり恋人と親しく交際していたなど主張と行動が一貫しないことも多く(一時期女性が結婚しなかったのは、クロワッサンという雑誌の影響も大きかったのですが、その思想ベースはフェミニズムでした)、なぜあんな程度の実力しかない、はっきりいって故市川房枝女史などと比べれば何段階も格下のちんぴらじみた立ち位置でしかないのにやたら持て囃されたのは、職業にも結婚にも恵まれず、独身で生きざるを得なかった惨めさを男性への憎悪へ誘導し、現在のツイフェミと呼ばれる集団を形成する端緒となった戦犯だと思っています。さて、私の上野千鶴子評は以上の通りですが、ジェンダー論や女性学で彼女が提唱した革新的な理論としてはどのようなものがあるでしょうか。またそれは本当に革新的なものだと断定できる根拠があるのでしょうか。彼女は全共闘で学生運動を経験していますが、全共闘というのは無知な大衆を目覚めた先達である我々が導いてやらねば成らぬという非常に独善的な運動で、独善的であるがゆえに内部分裂からの内ゲバが多発し、ついにはテロ組織を産み出すに至ったと考えています。上野氏の言説もその影響を多分に受けており、いちいち上からの物言いに信を置くことはとてもじゃないですが、できません。
すると、以前とは異なりバージョンアップした ChatGPT は柔軟に議論を繰り広げることができるようになっており、思いがけず議論の内容が深まったので、それを放置するのも勿体ないということで、ブログ記事にすることにしたのだが、結構細かく議論が行きつ戻りつしていたので、そのまま示しても内容を掴みづらい文章になってしまう。そこで、やはり ChatGPT に議論の内容を整理してブログ記事にまとめてもらった。以下、その文章を示す。
「家父長制」という言葉ですべてを説明してよいのか
――上野千鶴子からツイフェミ、そして男女平等の原則まで
私はこれまで、上野千鶴子氏についてかなり辛辣なことを書いてきた。
率直に言えば、当初は上野氏の著作や言説に対して、かなり強い違和感を持っていた。特に「家父長制」という概念を広範な社会現象の説明原理として用いることに疑問があり、さらに現在SNS上で「ツイフェミ」と俗称される一部の過激なフェミニストの言説を見るにつけ、「こうした人々が権威として担ぎ上げている上野氏の理論には、そもそもどの程度の学問的妥当性があるのだろうか」と考えるようになった。
しかし、ここで注意しなければならないことがある。
上野氏個人に遺恨があるわけではない。フェミニズムそのものを否定したいわけでもない。女性差別をなくし、「女だから」「女だてらに」などという理由で女性の可能性を狭める社会に異議を唱えてきた女性解放運動には、歴史的に大きな意義があったと思っている。
だからこそ、フェミニズムを一枚岩として扱うのではなく、その理論を一度分解して検証してみたいと思った。
そして実際に検討してみると、当初考えていたよりもはるかに複雑な問題が見えてきた。
1.まず「ツイフェミ」とフェミニズムを分ける
最初に断っておきたい。
ここでいう「ツイフェミ」とは、X(旧Twitter)上でフェミニストを自称し、女性差別や性的表現などについて非常に攻撃的な言説を繰り返す一部のアカウントを指す俗称であって、フェミニスト全体を意味するものではない。
X上では、
- 男性を「チー牛」「弱者男性」などと一括りにして嘲笑する
- 男児を持つ女性を「将来の性加害者を育てている」などと攻撃する
- 社会的に成功した女性がフェミニズムに批判的な意見を述べると「名誉男性」と決めつけ非難する
- 女性に対する性的表現について極端に敏感に反応する
- 自分たちへの批判を「ミソジニー」「女性差別」として封じようとする
といった言説が目立つことがある。
献血ポスターをめぐる騒動などはその一例である。原作から胸の大きく描かれたキャラクターを起用した広告に対し、女性の性的搾取だとして大きな批判が起こった。しかし、仮にその広告を問題視することに成功したとして、それが女性の社会的地位や待遇を具体的にどう改善するのかという点については、別途説明が必要である。
「不快である」と「差別である」は同義ではない。
さらに、
不快である
↓
差別である
↓
公共空間から排除すべきである
という三段階には、それぞれ独立した論証が必要だろう。
これはフェミニズムに限った話ではない。
2.上野千鶴子氏をなぜ問題にしたのか
私が上野氏に注目したのは、日本の現代フェミニズムにおいて非常に大きな影響力を持った人物だからである。
上野氏の功績として少なくとも認めるべきなのは、欧米で展開されたマルクス主義フェミニズムなどを日本の社会に適用しようとし、日本の女性学・ジェンダー研究に大きな影響を与えたことである。
したがって、
上野氏の理論には問題がある
ということと、
上野氏には学問的功績がない
ということは全く別の話である。
ところが、SNS上では上野氏が日本フェミニズムの象徴、あるいは権威として利用されることがある。
そこで私は、
上野氏の理論を批判的に検証することによって、「フェミニストだから正しい」という権威主義的な議論を崩せるのではないか
と考えた。
ただし、ここでも重要なのは、
とはならないということである。
上野氏の理論を批判するなら、あくまでその理論そのものを批判すべきである。
3.「家父長制」とは何なのか
ここで最初の問題に突き当たった。
「家父長制」という言葉は頻繁に使われる。しかし、その意味は論者によってかなり異なる。
単純には、
男性が女性より上位に置かれる社会構造
と定義できる。
しかし、それだけでは説明になっていない。
なぜ男性が上位なのか。
いつ成立したのか。
どのような制度によって維持されるのか。
財産制度が原因なのか。
婚姻制度が原因なのか。
戦争なのか。
宗教なのか。
生産様式なのか。
それとも、それらの結果として生じた状態をまとめて「家父長制」と呼んでいるだけなのか。
ここを曖昧にすると、
という循環論法になってしまう。
「家父長制」が独立した説明変数なのか、それとも様々な歴史的要因によって生じた結果をまとめる記述概念なのか。
これは極めて重要な問題である。
4.日本史に「家父長制」をそのまま適用できるのか
日本史を考えると、この問題はさらに難しくなる。
日本で最も明確な家父長的規範を持っていた階層の一つは、江戸時代の武家であった。
- 家長権
- 男女の役割分担
- 相続
- 婚姻
- 家族内の上下関係
などが強く規定された。
しかし武士人口は日本人全体の少数である。
一方、人口の大部分を占めていた農民や都市の庶民について考えると、事情はかなり違ってくる。
農村では女性も農作業に参加した。
都市でも女性が商売、内職、奉公などを行うことは珍しくなかった。
つまり、
男は外で働き、女は家で家事だけをする
という現在の意味での「専業主婦」モデルを、そのまま江戸時代の庶民社会に投影することは難しい。
5.専業主婦は歴史的に普遍的な女性の姿ではない
これは今回の議論で特に重要だった。
日本でも欧米でも、「男性が賃金労働を行い、女性が家庭を管理する」という専業主婦モデルが一般化したのは、歴史全体から見れば比較的新しい。
日本の場合、特に高度経済成長期からバブル期にかけて、いわゆる専業主婦世帯が大量に形成された。
ところがそれ以前の農村社会では、女性も家業に貢献する必要があった。
農家の妻は、
- 農作業
- 家畜の世話
- 食事の準備
- 衣服の製作・修繕
- 保存食の加工
- 子育て
- 高齢者の世話
などを同時に担っていた。
都市でも事情は同様で、女性が家事だけをしていれば生活できる家庭は限られていた。
したがって、
とは言えない。
むしろ、専業主婦を大量に成立させるには、女性が家業から切り離されても家族が経済的に成立するだけの余剰が必要だった、と考えることもできる。
6.産業革命は家庭と生産を分離した
ここからヨーロッパの歴史を見る。
産業革命以前には、家庭と生産活動は現在ほど明確に分離していなかった。
農家なら農地と家が一体であり、職人なら工房と住居が一体だった。
商家などでは、雇用主の家族と奉公人を含む「家」が一種の生活共同体として機能していた。
ところが産業革命によって、
生産設備=工場
住居=家庭
という分離が進む。
初期の工業化社会では、むしろ女性も子供も工場労働に動員された。
賃金が低かったからである。
したがって、少なくとも産業革命初期のイギリス社会を、
男性が外で働き、女性が専業主婦として家庭にいる社会
と捉えることはできない。
7.では「Family Wage」は何だったのか
しかし工業化が進むと、労働運動などを背景として「Family Wage」、つまり男性労働者一人の賃金で妻子を養えるようにするという理念が形成されていく。
これは興味深い。
なぜなら、
資本家階級の家父長的家族モデル
↓
労働者階級がそれを理想として要求する
という解釈が可能だからである。
つまり、家父長制が下から上へ強制されたというより、
上位階級の生活様式への憧れが下層階級に広がった
という側面も考えられる。
これは現代の「男らしさ」にも応用できる。
自分が家族を養い、妻子を守り、外敵から共同体を守る。
そうした「頼りになる強い男」という男性像は、単なる女性支配だけではなく、一種の男性側のロマンティシズムとして形成された可能性もある。
もちろんこれだけで説明できるわけではない。
しかし「家父長制」という一語だけで済ませるより、はるかに複雑な歴史的過程を考えることができる。
8.日本ではなぜ違ったのか
ここで日本史との比較が面白くなる。
日本の農村では、女性の労働力が不可欠だった。
稲作は、
- 水田の造成
- 田植え
- 除草
- 水管理
- 収穫
- 脱穀
- 加工
など、多くの工程を必要とする。
特に田植えには女性が参加することが多く、早乙女という女性集団が農村文化の中で一定の宗教的・儀礼的意味を持つこともあった。
ここで注意したいのは、
神聖視されることと社会的地位が高いことは同じではない
ということである。
神社の巫女が神聖性を帯びているからといって、宮司と同じ社会的地位にあるわけではないのと同じである。
したがって、早乙女の神聖性をそのまま「女性の社会的地位の高さ」の証拠とすることには慎重であるべきだろう。
9.「犁耕」と家父長制
ところが世界的に見ると、農耕形態と男女関係の関連を検討する研究がある。
特に、
犁(すき)を使う農耕
↓
男性の筋力への依存
↓
男性中心の労働分業
↓
男女役割の固定化
という仮説である。
確かに犁を使った耕耘では、筋力の差が生産性に影響する可能性がある。
しかし、これだけでは説明として十分ではない。
女性が犁を扱えないわけではないからである。
そこで、私は別の変数を考える必要があるのではないかと思った。
10.「女性を農作業に出せるか」という安全保障上の問題
その一つが戦争と婚姻制度である。
もし部族間の略奪や女性の誘拐が頻繁に発生する社会であれば、
女性を共同体の外に出すことは危険である
という規範が形成される可能性がある。
実際、歴史上、女性の略奪・誘拐を伴う婚姻の例は世界各地に見られる。
チンギス・カンの母ホエルンがメルキト族などとは別の部族の人物に奪われたことは、遊牧社会における婚姻と略奪の関係を考える際の有名な例である。
ただし、個別の歴史的事件から、
女性誘拐が長期間続いたから女性隔離制度が生まれた
と直ちに結論することはできない。
ここは今後さらに比較研究が必要な部分である。
しかし、
農業技術だけではなく、戦争・人口構造・婚姻制度・安全保障を組み合わせて考える
という発想には一定の合理性がある。
11.日本の「家」は西欧の家族と同じなのか
ここでも日本は興味深い。
日本では「家」を維持することが、必ずしも血統の純粋性を維持することと同義ではなかった。
婿養子が典型例である。
家を継ぐべき男子がいなければ、他家から男性を迎えて家を継がせる。
徳川将軍家ですら、直系が断絶すれば紀伊徳川家から吉宗を迎えるなど、血統そのものより「家」の継続が優先される場合があった。
これは、
「血筋を絶対視する家」
というヨーロッパや中国の一部に見られる継承観とはかなり違う。
日本の家は、血縁だけではなく、
財産
職業
地位
名跡
祭祀
家業
などをまとめて継承する制度として理解する必要がある。
この点は、日本の男女関係を欧米の家父長制モデルだけで説明することが難しい理由の一つだろう。
12.日本の婚姻制度も単純ではない
日本史では、妻問婚、婿取婚、嫁入り婚など、時代・階層・地域によって異なる婚姻形態が存在した。
貴族社会では、妻方の家との関係が子供の養育や出世に影響することもあった。
地方の土豪層では、婚姻は勢力拡大のための政治的手段でもあった。
したがって、
日本は母系社会だった
あるいは、
日本は父系社会だった
と一語で片付けるのは危険である。
むしろ、父系・母系・双系の要素が時代や階層によって複雑に組み合わされていたと見る方が妥当だろう。
魏志倭人伝や隋書の記述などから見ても、古代日本を単純な母系社会として一括することには慎重であるべきである。
13.「母系」と「父権」は必ずしも反対概念ではない
ここも重要である。
母系社会だから女性が政治的に優位とは限らない。
逆に父系社会だから女性が完全に無能力者だったとも限らない。
例えば、
財産は母系で継承するが、政治権力は男性が握る
という社会も理論的には成立する。
反対に、
父系で財産を継承するが、家庭内で女性の財産権が強い
という社会も成立する。
したがって、
血統・相続・居住・婚姻・政治権力・財産権・労働分業
を一つの「家父長制」という箱に押し込むことは危険である。
14.そして「ケア」の問題が残る
家事・育児を資本主義との関係で考えることには確かに意味がある。
労働者が翌日も労働できるよう、
- 食事
- 洗濯
- 住居の維持
- 育児
などを誰かが担わなければならない。
これを「労働力の再生産」と捉えることはできる。
しかし、老人介護をどう説明するのか。
引退した老人は、資本制の中で労働力を再生産する存在ではない。
それでも人間社会は老人をケアする。
ここから、
人間社会に必要なケアと、資本主義に必要な労働力再生産は同一ではない
という問題が出てくる。
15.家族は「資本が押し付けた残余」なのか
私はむしろ、ここについて次のような仮説を考えている。
古い共同体では、
生産
育児
老人扶養
病人の看護
性と婚姻
教育
死者の処理
宗教儀礼
などが一体となっていた。
ところが生産手段が共同体から外部化される。つまり、農地、工場、商店、企業などが家庭から分離される。教育も国家が必要とみなせば行政の手に移る。
その結果、
市場で処理できるものは市場へ移る。
国家が必要とみなしたものは行政へ移る。
しかし、
市場に乗せにくいもの
行政の手が回りにくいもの
が家庭に残る。
育児、介護、家事、親族関係の維持などである。
すると現代の家庭は、
かつて共同体全体が担っていた仕事の残余を引き受ける最後の共同体
とも考えられる。
この見方をすると、ケア問題を「女性が男性に支配されている」という一点だけから説明する必要はなくなる。
むしろ、
共同体の解体と生産活動の外部化によって、何が市場化され、何が家族に取り残されたのか
という社会史として分析できる。
16.専業主婦の成立も、この文脈で見直せる
こう考えると、専業主婦の成立も面白い。
農家の妻なら、家事の合間に農作業をすることができる。
商家の妻なら商売を手伝える。
家内工業なら家庭そのものが生産現場である。
ところが近代工業社会では、
生産=会社・工場
家庭=生活
と分離される。
しかも昔の家事は極めて重労働だった。
火を起こす。
水を運ぶ。
薪を用意する。
炊事する。
洗濯する。
掃除する。
衣服を修繕する。
現代の家電製品に囲まれた生活とは比較にならない。
したがって、会社勤めの男性の妻は、
家事の合間に家業を手伝う
という仕事を失った一方で、
フルタイムの賃金労働をするほどの時間的余裕もない
という中途半端な位置に置かれた。
家庭が十分に豊かなら、女性は専業主婦になれる。
貧しければ内職などをする。
この意味で、専業主婦の大量発生は「古代から続く女性支配の完成」というより、近代工業社会と中流階級の成立が生み出した特殊な家族形態と見る余地がある。
17.フェミニズムが「性」に集中しすぎる問題
現代のラディカル・フェミニズムを考える際には、ここにも問題がある。
女性の性的搾取、性暴力、ポルノ、売買春、広告表現などは重要な問題である。
しかし、
性的表現
=女性支配
=家父長制
という三段論法ですべてを説明しようとすると、かえって説明力を失う。
人間には権力だけでなく、
- 性欲
- 愛情
- 快楽
- 身体性
- 市場
- 個人の選択
も存在するからである。
性的問題をすべて権力問題に還元するのは無理がある。
18.「女性」という主体も一枚岩ではない
さらにフェミニズムには、
女性
という集団をどう定義するのかという問題がある。
女性の中にも、
- 富裕層と貧困層
- 雇用主と労働者
- 若者と高齢者
- 健常者と障害者
- 既婚者と未婚者
- 子供を持つ人と持たない人
など、大きな違いがある。
女性解放という言葉だけでは、この違いを説明できない。
「女性」というカテゴリーを大きく括るほど、内部の利害対立が消えてしまう。
反対に細分化しすぎると、「女性」という政治主体そのものが成立しにくくなる。
これは現代フェミニズムにとってかなり根本的な難題だろう。
19.「差別」と「不快」も区別しなければならない
SNS時代には、これが特に重要だと思う。
ある表現を見て、
「私は不快だ」
という感情は尊重されてよい。
しかし、
「私は不快だ」
から、
「これは女性差別だ」
を導くには論証が必要である。
さらに、
「女性差別だ」
から、
「社会的に禁止すべきだ」
となるには、さらに別の論証が必要になる。
この三つを一緒にしてはいけない。
20.草津町長問題が突きつけたもの
この問題を考える上で象徴的なのが草津町長をめぐる一連の騒動である。
性被害の告発は重大な問題である。
しかし、
告発された
=有罪
ではない。
まして、
性被害を訴えた女性
=常に真実を語っている
という原則を採用することもできない。
逆に、
女性の告発はすべて嘘
と考えることも当然できない。
必要なのは、
性別ではなく証拠によって判断する
という原則である。
もし誤った告発によって無実の人が社会的制裁を受けたのであれば、それを検証し、誤りがあった側は訂正・謝罪する必要がある。
これは被害者支援を否定することではない。
むしろ、被害者支援制度を長期的に維持するためにも必要な原則である。
21.フェミニズムへの反動もまた危険である
ここで最も注意すべきことがある。
フェミニズムの一部に問題があるからといって、
「女性に権利を与えたから調子に乗った」 「やはり家父長制が正しかった」
と考えるのは論理の飛躍である。
女性が男性を侮辱したとしても、
その女性の行為が間違っている
というところまでしか導けない。
そこから、
女性に男性と同じ権利を与えるべきではなかった
という結論は出てこない。
これは男性についても同じである。
男性が犯罪を犯したからといって、
男性に自由を与えすぎた
とはならない。
個人の行動と集団の権利を混同してはいけない。
22.だから「フェミニズムを信じろ」ではなく「フェミニズムも疑え」と教える
私は、若い男性が過激なフェミニズムに嫌気が差していること自体を、単純に悪い現象だとは思わない。
問題は、
フェミニズムを批判する
ことから、
男女平等そのものを否定する
ことへ移ってしまうことである。
だから必要なのは、
「フェミニズムは正しい。だから理解しなさい」
という教育ではない。
むしろ、
「フェミニズムも一つの思想である。正しい部分もあれば間違った部分もある。自分で証拠を調べて判断しなさい」
という教育だと思う。
これはフェミニズムだけでなく、保守思想にも、左翼思想にも、宗教にも、ナショナリズムにも同じように適用すべきである。
23.権利には責任も伴う
男女平等についてもう一つ重要なのが、
権利と責任
の問題である。
女性が働く自由があるなら、働かない自由もある。
女性が結婚しない自由もある。
しかし、
結婚しない自由
と、
社会がその選択によって生じるすべての経済的リスクを無条件に引き受ける義務
は別問題である。
男性についても、
子供を作る自由
と、
子供を養育する責任を免除される権利
は同じではない。
男女双方について、
自由
権利
責任
結果
を分けて考える必要がある。
24.「女性差別があった」ことと「フェミニストの主張が正しい」は別問題
ここが最終的に一番重要だと思う。
歴史的に女性差別が存在した。
これは否定する必要がない。
だからこそフェミニズムは重要な社会運動になった。
しかし、
という推論は成立しない。
同じように、
という推論も成立しない。
どちらも同じ論理的誤りである。
25.私自身の出発点も、最後には修正された
最初、私は上野千鶴子氏についてかなり悪し様に書いた。
彼女が「結婚しない女」を自立した女性として持ち上げ、その後「おひとりさまの老後」を論じるようになったことや、結婚に対する発言と自身の晩年の選択との関係などについて、言論人としての自己総括が十分だったのかという疑問も持っている。
しかし、議論を進めるうちに、
「上野氏には理論的問題がある」
ということと、
「上野氏には功績がない」
ということを分けなければならないことも明確になった。
さらに、上野氏の理論への批判はフェミニズムの外部からだけ出ているわけではない。
フェミニズム内部でも、家父長制と資本制の関係、資本蓄積論との接続、階級とジェンダーの関係などについて議論が積み重ねられている。
したがって、上野氏を批判することは「フェミニズムを否定すること」ではなく、フェミニズムを普通の学問として扱うことにほかならない。
26.結局、「家父長制」という概念は捨てるべきなのか
私はそうは思わない。
世界各地で、
男性が政治権力・財産・軍事力などを優先的に掌握する社会構造
が繰り返し現れてきたことは事実である。
したがって、男性優位の社会構造を分析する概念として「家父長制」は依然として有用だと思う。
ただし、
家父長制という概念が存在する
ことと、
あらゆる男女差を家父長制で説明できる
ことは全く違う。
むしろ、
- 生産様式
- 農業技術
- 戦争
- 婚姻
- 相続
- 居住
- 宗教
- 国家
- 生物学的性差
- 階級
- 市場
- 家族
- ケア
などとの関係を個別に検証しなければならない。
家父長制は「万能変数」ではない。
27.そして日本を特殊例として扱いすぎない
今回の議論からもう一つ見えてきたのは、
日本は家父長制ではなかった
と結論するのも、
日本も欧米と同じ家父長制だった
と結論するのも危険だということである。
日本には男性優位の制度も存在した。
一方で、女性の財産権、婚姻、労働、家族内での役割などを見ると、ヨーロッパや中国と単純に同一視できない部分も多い。
つまり、
「家父長制」という同じ名前を持つ社会でも、その内実は大きく異なり得る。
これは比較社会史において重要な視点だと思う。
「男が女より上位だった」という観察事実から直ちに、世界中に同じ社会構造が存在したと考えるべきではない。
28.最後に残る問い
結局、私が今回の議論で一番重要だと思うようになったのは、次の問いである。
人間社会において、男女の差異はどのように制度化され、それがどの時点で「支配」へ変わるのか。
そして、
生産、再生産、育児、介護、婚姻、相続、軍事、宗教などは、どのような歴史的条件のもとで分離され、再び家族という単位に押し戻されたのか。
この問いに対して、
「全部家父長制です」
と答えるだけでは不十分である。
同じように、
「全部資本主義のせいです」
でも不十分である。
さらに、
「男と女には生物学的な違いがあるからです」
だけでも説明できない。
おそらく必要なのは、それらを相互作用する複数の変数として扱うことだろう。
おわりに――男女平等は「フェミニズムを信じること」ではない
私はフェミニズムを否定したいわけではない。
女性が、
「女だから」
という理由だけで教育・職業・財産・政治参加などの可能性を制限される社会に異議を唱えることには、疑いなく大きな意味がある。
アメリカの公民権運動が黒人の尊厳を取り戻すために果たした役割を高く評価するのと同じように、日本の部落解放運動にも歴史的意義があったと考えている。
フェミニズムについても同じである。
しかし、正しい目的を掲げた社会運動だからといって、その運動に属する人間の全ての主張や行動が正当化されるわけではない。
女性差別を批判することもできる。
フェミニズムを批判することもできる。
男性差別を批判することもできる。
反フェミニズムを批判することもできる。
そして、これらをすべて同じ原則で検証できなければならない。
女性だから正しい、ではない。
男性だから正しい、でもない。
フェミニストだから正しい、でもない。
反フェミニストだから正しい、でもない。
重要なのは、
その主張にはどのような根拠があるのか。
反証する事実はないのか。
別の説明は可能ではないのか。
その政策によって誰が利益を得て、誰が負担するのか。
そして、同じ原則を男女逆転させても適用できるのか。
を一つ一つ検証することだと思う。
フェミニズムが本当に目指してきたものが「女性を男性と同じ人間として扱うこと」であるなら、最終的に必要なのは「女性を無条件に擁護する社会」ではない。
女性も男性も、同じ一人の人間として扱われる社会である。
その社会では、女性の主張も男性の主張も批判できる。
女性の権利も男性の権利も守る。
女性の責任も男性の責任も問う。
そして何より、
どんな「イズム」を名乗る人間であっても、その言説を批判から免除しない。
私は、それこそが男女平等を本当に定着させるために必要な態度なのではないかと思っている。