共同体を名乗る企業に縁があったらここを突け
昨今、共同体を名乗る企業がぽつぽつと出てきている。ただし、その多くは共同体などではない。共同体とは何か、どんな歴史があるのか、そしてなぜ昨今の企業が共同体を騙っていると断定できるのか。この記事ではそれを論考しようと思う。
時代的には縄文時代あるいはそれ以前の石器時代、人類は血縁集団=氏族でまとまって暮らし、食料を調達して、移動もした。その頃の宗教は祖霊礼拝とそれを伴うアニミズムであり、祖霊=神であり、自然物には別の神=精霊が宿っていたり、自然現象を起こすのも別の神=精霊が起こすものとされていた。自然=神は人間に食料と言う貴重なリソースを提供するありがたい存在であり、一方で猛威を振るって集団を窮地に追い込む恐ろしい存在でもあった。最終決定権はリーダーが持っており、リーダーの決断に集団は従うという規範があったが、それでも集団の構成員は必死で議論し、全力で生き延びる算段をつけそれを実行した。リーダーが決しかねる問題は、祖霊=神降ろしや祖霊=神の言葉を伝達する役目が与えられていたシャーマンが担った。
この血縁による共同体は「性」と「死」を包含していた。子どもが産まれないと集団が将来的に維持できなくなるし、現代人同様、病気や老いて仕事ができなくなった老人を見捨てることはなかった。もちろん、それを証明する一次資料は存在しないが、文化人類学による狩猟採集民の血縁集団共同体ではその紐帯が非常に強固であることが示されている。
太古の氏族共同体と現代の家族共同体
群婚にせよ、妻問婚にせよ、古代の婚姻制度において父親は実質的に子の養育に関与せず、子どもを養育するのは一貫して母族側であった。父親という存在が概念的に認知されていたとしても、実際の集団における血筋、すなわち社会の再生産システムが母系によって繋がっていたのは、神話学や民俗学の知見に照らしても否定できない事実である。実際に、縄文遺跡から出土する土偶や祭祀土器が、圧倒的に「母(女性)」を象ったものである一方、父親を表す意匠が皆無である点もこれを裏付けている。言語学的に見ても、父親を指す「ちち」という語の定着は『万葉集』の時代まで下ると考えられており、それ以前の精神世界において血のつながりの中心にいたのがどちらであったかは明白である。もちろん、血統が「母系」であることと、社会の権力を女性が握る「母権社会」であることは別問題である。最終決定権を持つリーダーが別にいたとしても、それは集団を維持する役割分担に過ぎない。本質は、子どもが「氏族の子ども」として母系の紐帯の中で大切に養育され、傷病者や老人の生存もその血のつながりによって当然のごとく保証されていた、という点にある。
このことは、現代の共同体である家族でも事情は変わらない。もちろん、当時と同じ価値観だと言うつもりはない。しかし戦力にならない=生産活動に従事できない子どもに食料を与え成人つまり一人前になるまで育て、また老いて身体の自由がきかなくなった親の面倒を子どもがみる(実態は介護施設に入居させるだけであったとしても)。例外はもちろんあるし、自分たちの老後は子どもに迷惑をかけないようちゃんと計画を立てている親世代も少なくない数が存在する。しかし、怪我や病気になった時、普通は家族が集まり介護や怪我が治るまでの生活をどうするか話し合いくらいは設けられる。血縁集団の共同体性はまだ残っている方だと言える。
また、親たちが死んだら葬儀を営み、屈葬で葬った(ただし縄文時代では特定領域を占める墓地がなく、貝塚や廃棄物捨て場に死体を安置する程度ですませた地域もあった)。そこは家族が行う現代の葬儀と同じである。葬儀の前、親たちが年老いて働けなくなった時は氏族が食料を分けてやり、生活を保証していた。現代は年金があるため直接的な支援を行う子は少ないだろうが、いないわけではない。つまり半分崩壊しかかっているとは言え、家族共同体は何とかその命脈を保っているのである。
姥捨てや棄老について
そんなことをいうと、全国に姨捨山の伝承や世界各地で棄老の歴史があるのはどうなんだ、という反論が予想される。しかし、姥捨てが「平時から機械的に行われていた悪習」かといえば、それは大いに疑問である。実際の飢饉(江戸の三大飢饉や昭和の東北飢饉など)において、生存のために真っ先に行われたのは娘衆を女衒に売り飛ばすことであり、次いで間引きや堕胎であった。記録を見る限り、真っ先に老人が組織的に排除された形跡は見受けられない。つまり、平時において共同体は、生産に寄与しない老人であってもその生存を当然に保証していたのである。むろん、極限の飢餓において、老人が自ら氏族の足手まといになることを恐れ、氏族の生き残りを優先して自ら再び氏族の者と出会わないようなような地へ去るような緊急避難措置(棄老行動)が古代になかったとは言わない。たとえばイヌイットなどの事例も、極限環境下で「集団から受けた恩に対するお返し」として自発的に死に場所を求めた側面が大きい。つまり、これらは「冷酷に見捨てた歴史」ではなく、ふだんは生産性のない人間をも包摂(包含)する強固な紐帯があったからこそ、最後の局面に起きた悲劇なのだ。それに対して、最初から老後の闘いを個人の責任として知らんぷりする現代企業が、彼らの苦渋の決断を「姥捨ての歴史」と同列に語り、自らの無責任を正当化することは許されない。
また、姥捨てには、たとえば年老いた母を姥捨てのため山へ赴いたが、いよいよという場面で母の愛に感動して連れ帰ったとか、領主が老人を捨てるよう振れを出したがどうしても姥捨てができず、家にかくまっていた母が隣の領主が攻め入る口実を作るため難題を出して解けなければ攻め込むと宣言してきたのに対し、捨てられる予定だった母が見事に解いて老人を捨てるおふれを撤回した類いの美談が多く、むしろ安易に老人を追いだすなという教訓を浸透させるために流された噂が伝承化されたものではないかとすら筆者は考える。
それに対して、自ら富を再生産せず、外部からの資源奪取(掠奪経済)を主たる生存戦略としていた移動型の軍事集団などでは、機動力を維持し食いぶちを減らすために、一定の年齢に達した老齢者を組織的に排除・抹殺する事例も実際に確認されている。これは生命を包含する共同体性の違いというより、その集団が選択した経済的な生存戦略(生業)の違いによるところが大きいのだろう。
共同体を自称する企業
さて、ここまでの説明で共同体とは本来どんな集団だったかがおわかり頂けたかと思う。性つまり性交の結果生まれた子どもを扶養し、大怪我をしたり病気になった仲間を看病して決して見捨てず、さらにはロクな働きができなくなった老人もちゃんと扶養する。そして死ねば葬儀を営んで遺体を葬る。歴史的に見るとここまでやって初めて共同体と言えるのである。それに対して今の企業はどうだろうか。性やその結果の子どもは家庭に押し付けて我関せずだし、今は産休、育休が充実しているとはいえ、それを取得した女性のキャリア形成が損なわれる体質が残っていたりする。また適当な年齢になったら定年と称して放逐し、老いとの闘いは個人の責任と知らんぷりをする。揚げ句死んでも弔電ひとつも打たない。病気が長引けば法定期間である6ヶ月を過ぎたら解雇になるし、一体そんな体制を維持しながらなぜ平然と人が居着かない、優秀な人材ほど辞めていくと愚痴れるのだろう。頭の良い人間は金には渋いくせに要求だけは図々しい日本の企業に辟易しているのである。意外と自称共同体企業も似たことをしている。人材とは活かすものであり、使い潰すものではないのだ。もし自称共同体企業が同じ状況にあるのなら、実はそれが嘘っぱちであることを社員は既に見抜いているのである。つまり、すべてはまやかしなのだ。我々は共同体だから全員が対等で業務は自主管理で進める、と言っている一方で組織のヒエラルキーは厳然として存在し、上司は部下より大きな権限を持たされ、上司の資質によっては一般企業と何ら変わりない仕事が続く。つまりは、企業の自称共同体はすべて嘘っぱち、まやかしなのだ。だが、共同体であることをを掲げると、理想に燃える、あるいは感化された若者を一定数引きつけることができる。そしてやりがい搾取を利用して、ひどいところでは社員全員が取締役だとして本当に法務局に登記するが、いかんせん経験不足で声を挙げることが難しい上に、取締役だから即日解雇も合法だと嘯く。結果、残業代もなくあるいはみなし残業でごまかされ、徹夜を含む無茶苦茶な労働環境が放置されたりしている。だから、騙されてはいけない。日本には真に「共同体」として完成された組織も、それを真剣に目指して制度を着々と整えている企業も存在しないのである。そこで待っているのは「ひとりはみんなのために身命を賭して業務に邁進し、みんなはひとりのためにほとんど一般企業と同程度かそれ以下のことしかしてくれない」組織ばかりなのだ。所詮は現代の思想基盤になっている私有制度を無条件で肯定し、共同体とはどうあるべきかを真剣に考え、その思想的バックグラウンドを考えようともしない手抜き経営の言い訳に過ぎないのだ。マルクスを持ち出すまでもなく、共同体を真に実現することと、私益追求が至上命題である資本主義とそのバックグラウンドである私有制は相いれないのだ。
これに対して企業側は「社会保険料の半分を負担し、税金を払うことで間接的に社会保障(死の包含)に関与している」と言い張るかもしれない。しかし、実態はどうか。日本の企業(特に大企業)は、国民に消費税増税の痛みを押し付けるのと引き換えに、自らの法人税負担をトコトン引き下げさせてきた。社会保険料の負担についても、正社員の雇用を非正規雇用へと置き換えることで、その負担すら合法的に逃れ、コストカットに狂奔してきたのがこの数十年の姿である。恐ろしいことに社会保険料の半額負担は不当だと言いだす経営者までいる始末だ。つまり彼らは、国家の福祉システムにフリーライダー(ただ乗り)するか、あるいはその負担をできる限り社会に押し付けながら、自らの利益(私有物)を最大化することしか考えていない。間接的な責任すら骨抜きにしているのが実態なのだ。だが、少し考えれば、自社の労働者は巡り巡って自社製品を利用した商品の最終顧客になる場合もあるとは考えないのだろうか。購買力を削っておいて商品が売れないのは不況のせいだとしたり顔の経営者がよくいるが、頭が悪いとしか言い様がない。自分たちで売れなくしていることに気付いていないのである。
また、少々意地悪だが、自称共同体企業にこんな質問をしてみても面白いかも知れない。「御社は『みんなで会社を経営する、フラットな共同体だ』と胸を張ります。ではお聞きしますが、御社の言う共同体は、私が病気で働けなくなったとき、あるいは老いて生産性がゼロになったとき、私の『死』に至るまでの生存を組織の責任として保証してくれるのですか?在職中に数パーセントの割引が効くような『福利厚生』や、業務の意思決定を構成員に丸投げする『全社会議』なら、どんな資本主義企業でもポーズとして導入できます。真に『共同体』を名乗るのであれば、私たちが健康なときだけでなく、『働けなくなったとき(性と死の局面)』の責任を引き受けて初めて成立するはずです。現実の経済状況でそれが『できっこない』と分かっていながら、耳障りの良い組織論だけを並べて『共同体』の帰属意識や自己犠牲を求めるのは、労働力を都合よく搾取するための『言葉の詐欺(イデオロギー)』ではないですか?」
最期に
最近、静かな退職が密かに流行しているという話がある。昇進に難色を示す若者も少なくないという。もはや企業は昔のような求心力を持っていない。バブル時は散々煽てて大金使って接待をして人材を集めていた企業が、突然不景気だからと新卒の多くをを労働市場から締め出したのである。割を食ったのが就職氷河期世代と呼ばれる団塊ジュニアだちである。そして今現在、募集しても集まらないということで初任給を大きく上げたり様々な方策を取っているが、やはり氷河期世代は置き去りである。そんな無責任経営で高給を受け取っている無能経営者を見ていたら、馬鹿馬鹿しくなって世代問わず、静かな退職が蔓延るのも当然だろう。中小企業はそこまで給与を出すことができないからまさに危機的状況にある企業もあるし、黒字なのに従業員不足で仕事が回らず倒産する企業も増えている。目先の利益ばかり追いかけて10年20年50年先を見据えた経営戦略など当時の経営者は考えもしなかったし、現在の経営者も考えることを放棄している。言葉を変えると無能だ。よく代表取締役のイスに座ってられるな、とその度胸には本当に心服する。無能に重大な責任を負わせるのがいかに危険かは歴史が明している。それは自称共同体企業でも同じである。尤も私もすべての自称共同体企業を知悉しているとまでは言いきれないので、もし「いや、こんな企業がありますよ!まさしく共同体です!」という企業があれば、是非コメントに残してご教示願いたい。もちろん、一般の企業と代わり映えのしない経営しか出来ていなかったら…大声で「嘘つきやりがい搾取集団め!」と罵ってやろう。