売国奴お断り - No Traitors Allowed

日本のことについてとりとめのないことを綴っていくブログです。日本が嫌いな人は見てはいけません

日本の古代史を考える—補足「倭人」について

2013-06-16 歴史 日本史

あちこちウェブで古代日本の資料を渉猟していると、『論衡』に見られる「倭人」は江南人のことで、日本にいた倭人ではないとする主張をよく見かける。というか、皆そういう主張をしていることに驚いた。してみると『論衡』を書いた王充はそれを知らずに引用したのだろうか。王充が生きた後漢時代では「倭」といえば日本のことだったから、知っていれば一言追記したであろうから、知らなかったのだという意見に一応肯けないこともない。しかし、

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事実に基づく歴史を伝えよう

2013-06-16 歴史 日本史

婚姻制度の変遷から日本の古代史と、随分書いてきましたが、その目的は正しい歴史を知ることにありました。正しい=事実に基づいた歴史です。

とはいえ、婚姻制度が原初「族長婚」であったというのは、完全な想像です。ただ、過酷な生存環境にあってヒトの族が生き延びる道はリーダーに委ねられており、その見返りに性が与えられたというのは、全くの妄想であるとも思っていません。ヒトの性欲の強さと常時発情しているという特異性、性欲の強さに比例する以上に強烈な快感は、裏返せばそれほど激烈でなければ極限まで追い詰められたヒトの救いとならなかったことを示します。よく女性の性における快感は男性の比ではないと言いますが、そこまで強固に性への動機付けを女にも必要としたのは、何も出産負担が異常に重いというだけではなく、常時リーダーを挑発して性交させる=緊張を発散させるという必要があったからでしょう。リーダーはそのメンバーの生存に懸ける期待に応えるため、不可能な課題に取り組まざるを得ませんでした。もちろん、全員で取り組んだでしょうが、決定はリーダーが下します。その中で祖霊との対話欲求が言葉を生み出し、同時に宗教を生み出したことを書きました。よくヒトは二足歩行をしたことにより空いた手を使うことを考え出し、そこから道具を発明し、道具の発展が言葉をもたらしたと説明されますが、それは学者の妄想にすぎません。道具を発明するためには、その効果と使用法がまず概念として先行して必要です。その概念は言葉によって支えられています。つまり、初めに言葉ありきなのです。ニホンザルやチンパンジーにおける実験や観察でも明らかなように、道具を使えるからといって言葉を生み出すことはできません。このまま気が狂って死んでしまうのではないかというくらい、何百万年も頭脳を酷使し続けたことが、言葉を見いだし、宗教を見いだし、遂には道具を見いだしたのです。

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日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子

2013-06-15 歴史 日本史

法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。(右から縦書きしています)

法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼 前太后崩明年正月廿二日上宮法 皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並 著於床時王后王子等及與諸臣深 懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋 像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安 住世間若是定業以背世者往登浄 土早昇妙果二月廿一日癸酉王后 即世翌日法皇登遐癸未年三月中 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴 具竟乗斯微福信道知識現在安隠 出生入死随奉三主紹隆三寳遂共 彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁 同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

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日本の古代史を考える—⑲壬申の乱

2013-06-14 歴史 日本史

さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも[大海人皇子]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87()と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。

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日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

2013-06-13 歴史 日本史

蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされており、葛城氏を出自とする一族とも言われています。あるいは百済系の渡来人とする人もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうし、出自が古代の名族葛城氏とはいえ、実質たった四代で成り上がったほとんど新興と言ってよい豪族なのは間違いありません。

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日本の古代史を考える—⑰大化改新(前編)

2013-06-13 歴史 日本史

古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。

ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祀るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。

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日本の古代史を考える—⑯九州王朝について補足

2013-06-12 歴史 日本史

九州王朝について補足しておきます。

1. 北九州は大陸、朝鮮半島に対する表玄関である。

これは地図を見れば明らかですね。縄文時代より大陸、朝鮮半島から渡来人/帰化人がやってきて住み着いたとすれば、

遼東→朝鮮半島→対馬→壱岐→博多湾岸のルート
江南→(台湾)→琉球→南西諸島→薩摩、天草、北九州

のいずれかのルートで到来したことは明白です。常に先進文明を真っ先に受容する地に日本最初の王権が登場したとして何の不思議があるでしょう。奈良の田舎に誕生したとする現在の学説の方がよほど奇異です。

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