『古事記』は次に見る序文によると、天武天皇が諸氏に伝わる帝紀・旧辞に虚偽が多く、このままでは正しい歴史が伝われなくなってしまうと嘆き、まさしく「正しい」歴史を編纂するために稗田阿礼に誦習させたものを採録したものである。つまり、天武天皇の信ずる「正しい」歴史が随所に反映されており、必ずしも正確な歴史書であるとは言えない。しかしながらだからと言って妄語が連ねてあるわけではなく、その祖神、王権の創始者、歴代の天皇について史実を全く無視した荒唐無稽な説話集というわけでもない。読者は何らかの歴史的事実の反映としてこれを批判的に読み、解釈する努力を怠ってはならない。
臣安萬侶言夫混元既凝氣象未效無名無爲誰知其形然乾坤初分參神作造化之首陰陽斯開二靈爲群品之祖所以出入幽顯日月彰於洗目浮沈海水神祇呈於滌身故太素杳冥因本教而識孕土產嶋之時元始綿邈頼先聖而察生神立人之世寔知懸鏡吐珠而百王相續喫劒切蛇以萬神蕃息與議安河而平天下論小濱而淸國土是以番仁岐命初降于高千嶺神倭天皇經歷于秋津嶋化熊出川天劒獲於高倉生尾遮徑大烏導於吉野列儛攘賊聞歌伏仇卽覺夢而敬神祇所以稱賢后望烟而撫黎元於今傳聖帝定境開邦制于近淡海正姓撰氏勅于遠飛鳥雖步驟各異文質不同莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶
臣安萬侶言す。夫、混元既に凝まりて、氣象未だ效はれず。名もなく爲もなし。誰か其の形知らん。然して、乾坤初めて分て、參神造化の首を作し、陰陽斯に開け、二靈群品の祖と為る。所以に、幽顯出入し、日月目を洗ふに彰はれ、海水に浮沈して、神祇身を滌ぐに呈はる。故、太素は杳冥、本教に因りて土を孕み嶋を產みし時を識り、元始は綿邈なれど、先聖に頼りて神を生み人を立てし世を察りぬ。寔に知る、鏡を懸け珠を吐きて、百王相續し、劒を喫み蛇を切りて、萬神蕃息せしことを。安河に議りて天下を平け、小濱に論ひて國土を淸めき。是を以ちて、番仁岐命、初めて高千嶺に降りたまひ、神倭天皇、秋津嶋に經歷したまふ。化熊の爪を出だして、天劒を高倉に獲、生尾徑を遮ぎり、大烏吉野を導びく。儛を列ね賊を攘ひ、歌を聞きて仇を伏す。卽ち、夢に覺りて神祇を敬ひたまふ。所以に賢后と稱す。烟を望みて黎元を撫でたまふ。今に於いて聖帝と傳ふ。境を定めて邦を開き、近つ淡海に制したまふ、姓を正して氏を撰び、遠つ飛鳥に勅したまふ。步驟各異にし、文質同じからずと雖も、古を稽へ風猷を既に頽るに繩し、今に照らして以て典教を絶へんと欲するに補なはずということ莫し。
臣、太安萬侶が申し上げます。原初に渾沌が初めて凝り固まったとき、万物の形というものはありませんでした。名前もなく、何かをするとか、何かになるということもなく、誰もその 形を知りません。その後天地が初めて分かれ、三柱の神様が現れになられて世界の起源となり、これによって陰陽が発生して、陰陽の二柱の神様が万物の創造主となりました。その後、(伊邪那岐神は)冥界と現世を往復され、日と月、二柱の神様が目を洗ったときにお生まれになり、海水で身を洗ったときに、諸々の神様方が出現なされまさいた。そうして、世界の始まりは暗くてはっきりしませんが、神代からの伝承によって、(神様が)国土や島々をお生みになった時のことが分かり、元始はあまりにも遠いのですが、いにしえの聖人の伝えによって、神様がお生まれになり人が出現した頃の世界が分かるのです。鏡を掛け、珠を吐いて、代々の王が皇統を守り、劔を噛み、蛇を退治して、神々の子孫が繁栄したことが分かります。(神々は)天の安河で相談なさって天下を平定され、小濱で(国譲りの)議論をされて国土を清くされました。これによって番能(ほの)邇邇藝(ににぎ)の命は初めて(高天原から)高千穂の嶺に降られ、神倭伊波禮毘古(神武)天皇は(日向から)大和に移って都を構えられました。化け物のような熊が現れて爪を出せば、高倉下(たかくらじ)に下された神剣がもたらされて神武天皇を助け、尾の生えた人が現れて行く手を遮ると、八咫烏(やたがらす)が現れて吉野山中の道案内をしました。久米の子らに舞をさせて八十建を討ち、歌を歌わせて登美毘古(兄の仇)を討ちました。たとえば崇神天皇は、夢に大神の言葉を聞いて神祇をお祭りになったので賢后(賢君)と讃えられ、仁徳天皇は烟を見て民の暮らしを慰撫されたので、今も聖帝と呼ばれております。上は水垣の宮の御世のこと、下は高津の宮の御世のことで、いずれもその段に出ている。「后」は「君」のことです。「黎元」というのは民のことです。天智天皇は国の境を定めて多くの国を開かれ、近江の宮で政務を執られ、允恭天皇は姓を正し氏を明らかにされ、遠飛鳥の宮で世を治められました。このように御代御代の天皇の政治はそれぞれ緩急があり、才能や資質もいろいろでいらっしゃいましたが、いずれの天皇もいにしえのことをよく考えて、風儀や道徳が廃れようとしていてもまた正しくされ、今のことを考えて正しい人の道が絶えようとしていても、また新たに力を加えて復興なされました。
曁飛鳥清原大宮御大八洲天皇御世濳龍體元洊雷應期開夢歌而相纂業投夜水而知承基然天時未臻蝉蛻於南山人事共給虎步於東國皇輿忽駕淩渡山川六師雷震三軍電逝杖矛擧威猛士烟起絳旗耀兵凶徒瓦解未移浹辰氣沴自淸乃放牛息馬愷悌歸於華夏卷旌戢戈儛詠停於都邑歲次大梁月踵夾鍾淸原大宮昇卽天位道軼軒后德跨周王握乾符而摠六合得天統而包八荒乘二氣之正齊五行之序設神理以奬俗敷英風以弘國重加智海浩汗潭探上古心鏡煒煌明覩先代
飛鳥淸原大宮に大八洲を御めしし天皇の御世に曁びて、濳龍元を體し、洊雷期に應ず。夢の歌を聞きて業を纂がんことを想ひ、夜の水に投りて基ひを承けんことを知ろしめす。然ども、天時未だ臻らざりしかば、南山に蝉のごとく蛻けたまひ、人事共に洽くして、東國に虎のごとく步みたまひき。皇輿忽にして駕し、山川を淩え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝く。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けつ。未だ浹辰を移さずして、氣沴自から淸まりぬ。乃ち、牛を放ち馬を息え、愷悌して華夏に歸り、旌を卷き戈を戢め、儛詠して都邑に停まりたまふ。歲大梁に次り、月夾鍾に踵り、淸原大宮にして、昇りて天位に卽きたまふ。道は軒后に軼ぎ、德は周王を跨えたまふ。乾符を握りて六合を摠え、天統を得て八荒を包ねたまふ。二氣の正しきに乘り、五行の序を齊えたまふ、神理を設けて以て俗を奬め、英風を敷きて以て國を弘めたまふ、重加智海浩瀚にして、潭く上古を探り、心鏡煒煌にして、明らかに先代を覩たまふ。
飛鳥浄御原の宮で国の政治をなされた天武天皇の御世に到って、水底に潜む龍(伏竜鳳雛を表す)だった陛下が皇位に着かれ、雲の向こうでしきりに鳴っていた雷(伏竜と同義。姿は見えないがすさまじい力を持つことを表す)であった陛下が、活躍される時期が到来しました。夢の歌をお聞きになって、皇業の継承を思い立たれ、夜、名張の横河のほとりに行かれて、鴻基を受け継ぐ身であるとお知りになりました。しかしながら、まだ時期が到来しなかった頃は、蝉が脱皮するようにするりと吉野に逃れられ、お味方が多く集まった時は、虎のように雄々しく東国を歩まれました。天皇が自ら出陣され、山川を越えて進まれると、全軍は雷のようにとどろき、稲妻のように進みました。誰もが一斉に杖や矛を差し上げ、勇猛な兵士は至る所から湧き出で、赤い旗が軍を耀かせるようにひるがえって、賊軍はあっという間に滅びました。(陛下は)ここで戦闘に使った牛を解放し、馬を休め、凱歌を上げて都にお帰りになられました。旗を巻き、武器を収め、舞い歌いして都に留まられました。(陛下は)酉の年二月に、飛鳥浄御原宮で即位されました。(陛下の)行いはあの軒后(黄帝)にも優り、その徳は周王をも超えていました。(陛下は)天つ御璽を受け継がれて天地を治め、皇統を嗣いで遠い異国までも王化されました。(陛下は)陰陽二気を正しくされ、五行の循環を整えられました。(陛下は)神の理を明らかにして風俗を正しく良いものにさせ、優れた教えで国を発展させられました。そればかりでなく、(陛下の)智恵は海のように広大で、上古のことを深く探求され、心は澄み切って、まるで目の前のことのように古い時代のことを見通されました。
於是天皇詔之朕聞諸家之所賷帝紀及本辭既違正實多加虛僞當今之時不改其失未經幾年其旨欲滅斯乃邦家之經緯王化之鴻基焉故惟撰錄帝紀討覈舊辭削僞定實欲流後葉時有舍人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聰明度目誦口拂耳勒心卽勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭然運移世異未行其事矣
是に天皇詔したまはく、朕聞く、諸家の賷たる所の帝紀及び本辭、既に正實に違ひ、多く虛僞を加ふ。今の時に當たりて其の失を改めずば、未だ幾の年を經ずして其の旨滅びんとす。斯乃ち、邦家の經緯、王化の鴻基焉。故惟、帝紀を撰錄し、舊辭を討覈して、僞を削り實を定めて、後の葉に流えん。時に舍人有りて、姓は稗田、名は阿禮、年是廿八。人爲り聰明にして、目に度れば口に誦み、耳に拂れば心に勒す。卽ち、阿禮に勅語して、帝皇の日繼及び先代の舊辭を誦み習はしむ。然ども、運移り世異にして、其の事を未だ行なひたまはず。
ある時、天皇は詔して仰いました「諸々の家で保有している帝紀(天皇の記録)と本辞(各家の史録)は、もう事実と違っていて、偽りのことも多く付け加えられているそうだ。今速やかにその誤りを正さなければ、遠からず真の伝えは失われてしまうだろう。それはつまり国の成り立ちのいきさつ、天皇の治世を広めて行く事業の歴史である。だから今帝紀を撰び、古い言い伝えを考察して、虚偽を除き真実を選び定めて、後世に伝えたい」このとき、稗田阿禮という舎人がいました。年齢は二十八、たいへん聡明で、一度でも見た書はすぐに憶えて暗誦することができ、耳から聞いたことも、決して忘れませんでした。そこで阿禮に帝皇日継と昔の言い伝えを暗誦し、学習するようにおおせつけられました。けれども、天皇が崩御され、世代が変わって、(後の天皇は)史書の編纂をまだ実行されようとしませんでした。
伏惟皇帝陛下得一光宅通三亭育御紫宸而德被馬蹄之所極坐玄扈而化照船頭之所逮日浮重暉雲散非烟連柯幷穗之瑞史不絶書列烽重譯之貢府無空月可謂名高文命德冠天乙矣
伏して惟ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三を通じて亭育したまふ。紫宸に御して德は馬蹄の極まる所に被び、玄扈に坐して化は船頭の逮ぶ所を照らしませり。日浮かびて暉を重ね、雲散りて烟に非ず。柯を連ね穗を幷す瑞、史書しるすことを絶たず、烽を列ね譯を重ぬる貢、府空しき月なし。名は文命よりも高く、德は天乙よりも冠れりと謂ひつ可し。
おそれながら、元明天皇は、帝位におつきになって徳を天下に広められ、天地人の三才に通暁せられて、民を化育なさっておられます。宮中におられながらにして、その徳は馬が走る限りの距離に達し、皇居に居ながらにして、その徳化は卑しい船頭が漕いで行ける限りの範囲に届いています。太陽が出て耀き渡り、空には雲が散って煙でないというめでたい徴が現れています。:連理の木や嘉禾の出現が相次ぎ、史官はその記録を絶つことがありません。またのろしを連ねなければ連絡できない国、通訳を幾人も重ねなければ言葉の通じないような遠い国からの朝貢が、毎月のように官府の倉に参っております。その名は夏の禹王より高く、徳は殷の湯王にも優っていると言うべきでしょう。
於焉惜舊辭之誤忤正先紀之謬錯以和銅四年九月十八日詔臣安萬侶撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者謹隨詔旨子細採摭然上古之時言意並朴敷文構句於字卽難已因訓述者詞不逮心全以音連者事趣更長是以今或一句之中交用音訓或一事之內全以訓錄卽辭理叵見以注明意況易解更非注亦於姓日下謂玖沙訶於名帶字謂多羅斯如此之類隨本不改大抵所記者自天地開闢始以訖于小治田御世故天御中主神以下日子波限建鵜草葺不合尊以前爲上卷神倭伊波禮毘古天皇以下品陀御世以前爲中卷大雀皇帝以下小治田大宮以前爲下卷幷錄三卷謹以獻上臣安萬侶誠惶誠恐頓首頓首
焉に、舊辭の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さんとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔して、稗田阿禮誦する所の、勅語の舊辭を撰錄して以ちて獻上せしむてへり。謹みて詔旨に隨ひ、子細に採り摭ふ。然るに、上古の時、言意並びに朴にして、文を敷き句を構へること、字に於いて卽ち難し。已に訓に因りて述べたるは、詞心に逮ばず。全く音を連ねるは、事の趣更に長し。是を以ちて今、或いは一句の中うち、音訓を交へ用ゐるなり。或一事の內、全く訓を以ちて錄す。卽ち、辭の理見え叵きは、注を以ちて意を明らかにす、況や解かり易きは、更に注非ず。亦、姓に於いて日下を、玖沙訶と謂ひ、名の帶の字に於いて、多羅斯と謂ふ、此の如きの類ひ、本に隨ひて改めず。大抵記す所は、天地開闢自り始めて、以て小治田の御世に訖ふ。故、天御中主神より以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前を、上卷と為す、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀の御世以前を、中卷と為す、大雀皇帝以下、小治田の大宮以前を、下卷と爲す。幷せて三卷を錄し、謹みて以て獻上し。おみ安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
ところが旧辞に誤りが多いことを残念に思われ、先代の古い記録が間違っているのを正そうと、和銅四年の九月十八日、わたくし安萬侶におおせがあり、稗田阿禮がおおせによって暗誦する旧辞を、文書に記録して献上せよとのことでした。謹んで仰せにしたがい、阿禮の言葉を子細に記録しました。しかし、上古においては言葉も心も至って素朴でしたので、文として文字に書き写すのは、大変なことでした。すべてを訓(読み)で書いたら、言葉は心を表せません。しかしすべて音で書いたのでは、いたずらに長くなってしまいます。このため、時に一句の中でも音と訓を混用しています。また時には、一つのこと全体をすべて訓で書いています。そのため、言葉の筋が分かりにくい時は、注を付けて意味を明らかにしました。意味が分かりやすい場合は、あえて注しませんでした。一例を挙げますと、人の姓の「日の下」を「くさか」と読み、人の名の「帯」を「たらし」と言いますが、これらは元のままに読んで、改めませんでした。内容の概略を言えば、天地の始まりから、小治田の御世(推古天皇)までです。天御中主神から日子波限建鵜草葺不合命(神武天皇の父)までを上巻に書いております。神武展から應神天皇までを中巻とし、仁徳天皇以降推古天皇までを下巻としました。全部で三巻に記しました。謹んで献上いたします。臣安萬侶、心から恐れ入っております。
和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶