『古事記』上つ巻、神代(二)

古事記 上つ巻

神代(二)

於是天神諸命以詔伊邪那岐伊邪那美命二柱神修理固成是多陀用幣流之國賜天沼矛而言依賜也故二柱神立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時自其矛末垂落之鹽累積成嶋是淤能碁呂自淤以下四字以音

ここ天神あまつかみもろもろみこと[]ちて、伊邪那岐いざなぎのみこと伊邪那美いざなみのみことの、二柱ふたはしらの神に、多陀用幣流ただよへる國を修理つくり固め成せとのりごちて、天沼矛あまのぬぼこたまひて、ことさしたまなりかれ二柱ふたはしらの神を天浮橋あめのうきはしに立たし立を訓よんで「たたし」と沼矛ぬぼこを指し下ろしてきたまえば、しお許々袁々呂々邇こおろこおろに此この七字は音を用ゐるき鳴し鳴をんで「なし」と、引き上げたまふ時に、ほこさき垂落しただしお累積つもりて、しまと成る。これ淤能碁呂おのごろのしまなり。り以下四字は音を用ゐる。

このとき天のたくさんの神様から、伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神様に仰せがあり、「この漂っている国を造り固めて、国土を完成させよ」と仰って、天沼矛(あまのぬぼこ)をお授けになられた。そこで二柱の神は天の浮き橋に立ち、その沼矛を指し下ろして、かき回したのです。海水をこおろこおろと音を立ててかき回して引き上げたとき、矛の先から滴り落ちる塩が、積もり積もって嶋となりました。これが淤能碁呂嶋(おのごろのしま)です。

於其嶋天降坐而見立天之御柱見立八尋殿於是問其妹伊邪那美命曰汝身者如何成答曰吾身者成成不成合處一處在爾伊邪那岐命詔我身者成成而成餘處一處在故以此吾身成餘處刺塞汝身不成合處而以爲生成國土奈何訓生云宇牟下效此伊邪那美命答曰然善爾伊邪那岐命詔然者吾與汝行廻逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比此七字以音如此云期乃詔汝者自右廻逢我者自左廻逢約竟廻時伊邪那美命先言阿那邇夜志愛袁登古袁此十字以音下效此伊邪那岐命言阿那邇夜志愛袁登賣袁各言竟之後告其妹曰女人先言不良雖然久美度邇此四字以音興而生子水蛭子此子者入葦船而流去次生淡嶋是亦不入子之例

しま天降あもりまして、天之御柱あめのみはしら見立みた[]八尋殿やひろどの見立みたてたまひき。ここいも伊邪那美いざなみのみことに問ひていはく、が身は如何いかに成れる。答へていはく、が身みは、成り成りて成り合はざるところ一處ひとところり。ここ伊邪那岐いざなぎのみことのりたまひつらく、が身は、成り成りて成りあまれるところ一處ひとところり。ゆゑが身の成りあまれるところを以ちて、が身の成なりあはざるところを刺しふさぎ、國土くに生み成さんと以爲おも奈何いかん[]生をみて「うむ」とふ。しもこれならふ。伊邪那美いざなみのみこと、答へていはしかし。ここ伊邪那岐いざなぎのみことのりたまひき、しから天之御柱あめのみはしらを行きてめぐりて逢ひて、美斗能麻具波比みとのまぐはひ此この七字は音を用ゐる。んと[]かくごとちぎりて、すなはのりたまひき、みぎりめぐり逢へ、は左めぐり逢はん[]ちぎへてめぐります時に、伊邪那美いざなみのみこと阿那邇夜志愛あなにやしえ袁登古袁をとこを此この十字は音を用ゐる。下も此これに效ならふのりたまひ、後のちに伊邪那岐いざなぎのみこと阿那邇夜志愛あなにやしえ袁登賣袁をとめをのりたまいき。おのおののりへたまひてのちに、いもに告げていはく、女人おみなこと先だちてふさはず。雖然しかれど久美度邇くみどにの四字は音を用ゐる興してみこ水蛭子ひるこを生みたまひき。みこ葦船あしぶねに入れてまがてつ。次に淡嶋あはしまを生みたまいき。これまた子のかずに入れず[]

その島に天降り、天の御柱をお立てになり、広大な宮殿をお建てになりました。そして伊邪那岐命は、伊邪那美命に「あなたの体はどんな風にできているのか」とご質問なされたところ、「申し分なくできていますが、体の一箇所が足りないようです」とお答えになった。そこで伊邪那岐命は「私の体は申し分なくできているが、一箇所余っているようだ。あなたの体の足りないところを私の余っているところで刺しふさいで、国土(くに)を生もうと思うが、どうだろう」と仰ったところ、伊邪那美命は「それがいいでしょう」とお答えになった。それで、伊邪那岐命は「それなら、あなたと私がこの天の御柱の周りを廻り、巡り会ってみとのまぐわいをしよう」と仰った。こう約束して「あなたは右から回りなさい。私は左から回ろう」と仰った。互いに約束し終えて、いよいよ柱の周りを回って出会うとき、まず伊邪那美命が「ああ、美しい男の方だこと」と声を挙げた。後で伊邪那岐命が「ああ、美しい女の方だ」と仰った。それが済んでから、伊邪那岐命は「どうも、女の方が先に物を言うのは良くない」と仰った。それでも寝所に入ると、産まれた子は水蛭子であった。この子は葦船で海に流し、お捨てになった。次に淡島をお生みになったが、これも御子の数にはお入れにならなかった。

於是二柱神議云今吾所生之子不良猶宜白天神之御所卽共參上請天神之命爾天神之命以布斗麻邇爾此五字以音ト相而詔之因女先言而不良亦還降改言

ここ二柱ふたばしらの神は議云はかりたまいらく、今、が生めりしみこふさはず。なほ天神あまつかみ御所みもと[]まうすべしとのりたまひて。すなはち共にまゐのぼりて、天神あまつかみめいを請ひたまひき。ここ天神あまつかみめい布斗麻邇爾ふとまにに[]の五字、音を用ゐるを以ちてうらえてのりたまいらく、おみなことさきだちりてふさはず。またかへくだりて改めて言へ[]

そこでお二神は相談して仰った。「今私たちが生んだ子は良くなかった。この上は、天つ神の御所で相談してみよう」。そこで二神ともに天に昇られ、天つ神のお言葉を請いねがった。天つ神の判断を太占(ふとまに)で占った結果、「女の言葉が男に先だって発せられたために良くなかったのである。もう一度帰って、言い直しなさい」と詔(みことのり)があった。

故爾反降更往廻其天之御柱如先於是伊邪那岐命先言阿那邇夜志愛袁登賣袁後妹伊邪那美命阿那邇夜志愛袁登古袁如此言竟而御合生子淡道之穗之狹別嶋訓別云和氣下效此次生伊豫之二名嶋此嶋者身一而有面四毎面有名故伊豫國謂比賣此三字以音下效此也讚岐國謂飯依比古粟國謂大宜都比賣此四字以音土左國謂建依別次生隱伎之三子嶋亦名天之忍許呂別許呂二字以音次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四毎面有名故筑紫國謂白日別豐國謂豐日別肥國謂建日向日豐久士比泥別自久至泥以音熊曾國謂建日別曾字以音次生伊伎嶋亦名謂天比登都柱自比至都以音訓天如天次生津嶋亦名謂天之狹手依比賣次生佐度嶋次生大倭豐秋津嶋亦名謂天御虛空豐秋津根別故因此八嶋先所生謂大八嶋國

かれすなはかへくだりまして、さら天之御柱あめのみはしらを先のごとく往きめぐりたまひき。ここ伊邪那岐命いざなぎのみこと阿那邇夜志愛袁登賣袁あなにやしえをとめをのりたまひ、のちいも伊邪那美命いざなみのみこと阿那邇夜志愛袁登古袁あなにやしえをとこをのたまひき。かくごとのりたまひへて御合みあいまして、みこ淡道之穗之狹別嶋あわじのほのさわけのしまを生みたまふ。別をみて「わけ」とふ。しもこれならふ。次に伊豫之二名嶋いよのふたなのしまを生みたまふ。しまは、身一つにしておも四つ有り。おもごとに名有り。かれ伊豫國いよのくに比賣ひめの三字は音を用ゐる。しもこれならなりひ、讚岐國さぬきのくに飯依比古いいよりひこひ、粟國あはのくに大宜都比賣おほげつひめの四字は音を用ゐるひ、土左國とさのくに建依別たけよりわけふ。次に隱伎おき三子みつごしまを生みたまふ。またの名は天之忍許呂別あめのおしころわけ許呂の二字は音を用ゐる。。次に筑紫つくししまを生みたまふ。しままた、身一つにしておも四つ有り。おもごとに名有り。かれ筑紫國つくしのくに白日別しらびわけひ、豐國とよくに豐日別とよびわけひ、肥國ひのくに建日向日豐久士比泥別たけひむかいとよくじひねわけり泥に至るまで音を用ゐるひ、熊曾國くまそのくに建日別たけびわけ曾の字は音を用ゐるふ。次に伊伎いきしまを生みたまふ。またの名は天比登都柱あめひとつばしらり都に至るまで音を用ゐる。てん むことあめごとふ。次に津嶋を生みたまふ。またの名は天之狹手依比賣あめのさでよりひめふ。次に佐度嶋さどのしまを生みたまふ。次に大倭豐秋津嶋おほやまとあきづしまを生みたまふ。またの名は天御虛空豐秋津根別あまのみそらとよあきづねわけふ。かれ八嶋やしまぞ生みませるくになるにりて、大八嶋國おほやしまくに[]

そこで天を下って地上に帰り、もう一度天の御柱をお廻りになりました。こんどは伊邪那岐命が先に「ああ、美しい女の方だ」と仰いまして、その後で伊邪那美命が「ああ、美しい男の方だこと」と仰いました。それから体をお合わせになり、最初に淡道之穗之狹別嶋(あわじのほのさわけのしま、淡路島)をお生みになられました。次に伊予の二名の島(四国)をお生みになられました。この島は四つの顔があり、それぞれに名前が付いています。伊予の国を愛媛と言い、讃岐の国を飯依比古と言い、阿波の国を大宜都比賣、土佐の国を建依別と言います。次に隠岐の(三つ子の)島をお生みになられました。次に筑紫の島(九州)をお生みになられました。この島も四つの顔があり、それぞれに名前があります。筑紫の国を白日別と言い、豊の国を豊日別と言い、肥の国を建日向日豊久士比泥別、熊襲の国を建日別と言います。次に壱岐の島をお生みになられました。この島は、別名を天一つ柱と言います。次に対馬をお生みになられました。この島は別名を天之狹手依比賣と言います。次に佐渡島をお生みになられました。次に大倭豊秋津嶋(本州)をお生みになられました。この島は別名を天御虚空豊秋津根別と言います。こうして八つの島を生んだので、(日本のことを)大八洲の国といいます。

然後還坐之時生吉備兒嶋亦名謂建日方別次生小豆嶋亦名謂大野手比賣次生大嶋亦名謂大多麻流別自多至流以音次生女嶋亦名謂天一根訓天如天次生知訶嶋亦名謂天之忍男次生兩兒嶋亦名謂天兩屋自吉備兒嶋至天兩屋嶋幷六嶋

さてのち還坐之かへりましし時に、吉備兒嶋きびのこじまを生みたまふ。またの名は建日方別たけひがたわけふ。次に小豆嶋あずきしまを生みたまふ。またの名は大野手おほぬで比賣ひめふ。次に大嶋おほしまを生みたまふ。またの名は大多麻おほたま流別るわけり流に至るまで音を用ゐるふ。次に女嶋ひめじまを生みたまふ。またの名は天一根あめひとつねてんみはあめごとふ。次に知訶嶋ちかのしまを生みたまふ。またの名は天之忍男あめのおしおふ。次に兩兒嶋ふたごのしまを生みたまふ。またの名は天兩屋あめふたやふ。吉備兒嶋きびのこじま天兩屋嶋あめふたやのしまに至るまで、あはせて六嶋むしま

さて、元に還って、吉備の児島をお生みになられました。この島は別名を建日方別と言います。次に小豆島をお生みになられました。この島は別名を大野手比賣と言います。次に大島をお生みになられました。この島は別名を大多麻流別と言います。次に姫島(女嶋)をお生みになられました。この島は別名を天一根と言います。次に知訶島をお生みになられました。この島は別名を天之忍男と言う。次に兩兒嶋をお生みになられました。この島は別名を天兩屋と言います。吉備の児島から天兩屋嶋まで、合計六つの島です。

既生國竟更生神故生神名大事忍男神次生石土毘古神訓石云伊波亦毘古二字以音下效此也次生石巢比賣神次生大戸日別神次生天之吹上男神次生大屋毘古神次生風木津別之忍男神訓風云加邪訓木以音次生海神名大綿津見神次生水戸神名速秋津日子神次妹速秋津比賣神自大事忍男神至秋津比賣神幷十神

既に國を生みえられて、更に神を生みましき。かれ、生みませる神の名は、大事忍男神おほことおしおのかみ。次に石土毘古神いはつちびこのかみ石をんで「いは」とひ、また毘古(びこ)二字は音を用ゐる。しもこれならなりを生みまし、次に石巢比賣神いはずひめのかみを生みまし、次に大戸日別神おほとびわけのかみを生みまし、次に天之吹上男神あめのふきおのかみを生みまし、次に大屋毘古神おほやびこのかみを生みまし、次に風木津別之忍男神かざげつわけのおしおのかみ風をむに「かざ」とふ、木をむに音を用ゐるを生みまし、次に海神わたのかみみな綿津見神おほわたつみのかみを生みまし、次に水戸神みなとのかみみな速秋津日子神はやあきずひこのかみを生みまし、次にいも速秋津比賣神はやあきづひめのかみを生みましき。大事忍男神おほことおしおのかみ秋津比賣神あきずひめのかみに至るまで、あはせて十神とばしら

国を生み終わられて、続いて神々をお生みになりました。初めにお生みになった神の名は大事忍男神。次に石土毘古神をお生みになりました。次に石巣比賣神をお生みになりました。次に大戸日別神をお生みになりました。次に天之吹男神をお生みになりました。次に大屋毘古神をお生みになりました。次に風木津別之忍男神をお生みになりました。次に海の神で名を大綿津見神と仰る神様をお生みになりました。次に水戸の神で名を速秋津日子神と仰る神様をお生みになりました。次にその妹、速秋津比賣神をお生みになりました。大事忍男神から秋津比賣神まで、あわせて十柱の神様です。

此速秋津日子速秋津比賣二神因河海持別而生神名沫那藝那藝二字以音下效此次沫那美那美二字以音下效此次頰那藝神次頰那美神次天之水分神訓分云久麻理下效此次國之水分神次天之久比奢母智自久以下五字以音下效此次國之久比奢母智自沫那藝神至國之久比奢母智神幷八神

速秋津日子はやあきづひこ速秋津比賣はやあきづひめ二神ふたばしらのかみ、河海にりて持ち別けて、生みませる神の名は、那藝あわなぎのかみ那藝(なぎ)の二字は音を用ゐる。しもこれなら、次に那美あわなみのかみ那美(なみ)の二字は音を用ゐる。しもこれなら、次に那藝つらなぎのかみ、次に那美つらなみのかみ、次に天之水分神あめのみくまりのかみ分をみて「くまり」とふ。しもこれなら、次に國之水分神くにのみくまりのかみ、次に天之久比奢母智あめのくいざもちのかみ以下五字は音を用ゐる。しもこれなら、次に國之久比奢母智くにのくいざもちのかみ沫那藝神あわなぎのかみ國之久比奢母智神くにのくいざもちのかみに至るまで、あはせて八神やばしら

この速秋津日子と速秋津比賣の二柱の神様は、それぞれ港の河の側と海の側を分担して支配し、まずお生みになられた子は沫那藝神、次に沫那美神、次に頬那藝神、次に頬那美神、次に天之水分神、次に國之水分神、次に天之久比奢母智神、次に國之久比奢母智神。沫那藝神から國之久比奢母智神まで、八柱の神様です。

次生風神名志那都比古神此神名以音次生木神名久久能智神此神名以音次生山神名大山上津見神次生野神名鹿屋野比賣神亦名謂野椎神自志那都比古神至野椎幷四神

次に風の神、名は志那都比古神しなつこのかみの神の名は音を用ゐるを生みまし、次に木の神、名は久久能智神生くくのちのかみの神の名は音を用ゐるを生みまし、次に山の神、名は大山上津見神おほやまつみのかみを生みまし、次にの神、名は鹿屋野比賣神かやぬひめのかみを生みましき。またの名は野椎神ぬづちのかみまうす。志那都比古神しなつひこのかみ野椎ぬづちに至るまで、あはせて四神よばしら

次に風の神、志那都比古神をお生みになられました。次に木の神、久久能智神をお生みになられました。次に山の神、大山津見神をお生みになられました。次に野の神、鹿屋野比賣神、別名野椎神をお生みになられました。志那都比古神から野椎まで、四柱である。

大山津見神野椎神二神因山野持別而生神名天之狹土神訓土云豆知下效此國之狹土神天之狹霧神國之狹霧神天之闇戸神國之闇戸神大戸惑子神訓惑云麻刀比下效此大戸惑女神自天之狹土神至大戸惑女神幷八神也

大山津見神おほやまつのかみ野椎神ぬづちのかみ二神ふたばしら山野やまぬりて持ち別けて、生みませる神の名は、天之狹土神あめのさづちのかみ土をんで「づち」とふ。しもこれなら、次國之狹土神くにのさづちのかみ、次天之狹霧神あめのさぎりのかみ、次國之狹霧くにのさぎりのかみ、次天之闇戸神あめのくらどのかみ、次國之闇戸神くにのくらどのかみ、次大戸惑子神おほとまとひこのかみ惑をんで「まとひ」とふ。しもこれなら、次大戸惑女神おほとまとまとひのかみ天之狹土神あめのさづちのかみ大戸惑女神おほとまとひのめがみに至るまで、あはせて八神やばしらなり

大山津見神と野椎神はそれぞれ山と野を担当し、まず天之狹土神をお生みになられました。次に國之狹土神、次に天之狹霧神、次に國之狹霧神、次に天之闇戸神、次に國之闇戸神、次に大戸惑子神、次に大戸惑女神。天之狹土神から大戸惑女神まで、合計八神です。

次生神名鳥之石楠船神亦名謂天鳥船次生大宜都比賣神此神名以音次生火之夜藝速男神夜藝二字以音亦名謂火之炫毘古神亦名謂火之迦具土神迦具二字以音因生此子美蕃登此三字以音見炙而病臥在多具理邇此四字以音生神名金山毘古神訓金云迦那下效此金山毘賣神次於屎成神名波邇夜須毘古神此神名以音波邇夜須毘賣神此神名亦以音次於尿成神名彌都波能賣神和久產巢日神此神之子謂豐宇氣毘賣神自宇以下四字以音伊邪那美神者因生火神遂神避坐也自天鳥船至豐宇氣毘賣神幷八神伊邪那岐伊邪那美二神共所生嶋壹拾肆嶋神參拾伍神是伊邪那美神未神避以前所生唯意能碁呂嶋者非所生亦姪子與淡嶋不入子之例也

次に生みませる神の名は、鳥之石楠船神とりのいわくすぶねのかみまたの名は天鳥船あめのとりぶねまうす。次に大宜都比賣神おほげつひめのかみの神の名は音を用ゐるを生みましき。火之夜藝速男神ひのやぎはやおのかみ夜藝(やぎ)の二字は音を用ゐるを生みましき。またの名は火之炫毘古神ひのかがびこのかみまうし、またの名は火之迦具土神ひのかぐつちのかみ迦具(かぐ)の二字は音を用ゐるまうす。みこを生みますにり、美蕃登みほとの三字は音を用ゐる見炙やかえて病み臥在こやせり。多具理邇たぐりにの四字は音を用ゐるりませる神の名は、金山毘古神かなやまびこのかみ金をみて「かな」とふ、しもこれなら、次金山毘賣神かなやまびめのかみ。次にくそに成りませる神の名は、波邇夜須毘古神はにやすびこのかみの神の名は音を用ゐる、次波邇夜須毘賣神はにやすびめのかみ此(こ)の神の名はまた音を用ゐる。次に尿ゆまりに成りませる神の名は、彌都波能賣神みつはめのかみ、次和久產巢日神わくむすびのかみの神のみこ豐宇氣毘賣神とようけびめのかみり以下四字は音を用ゐるまうす。かれ伊邪那美神いざなみのかみは、火の神を生みませるにりて、つひ神避かむさりましき[十一]天鳥船あめのとりふね豐宇氣毘賣神とようけびめのかみに至るまで、あはせて八神やばしらすべ伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみ二神ふたばしらのかみ、共に生みませる嶋壹拾肆嶋しまとおまりよしま神參拾伍神みそじまりいつばしら伊邪那美神いざなみのかみいま神避かむさりまさざりしさきに生うみましつ。ただ意能碁呂嶋おのごろしまは、生みませるならず。また姪子ひるこ淡嶋あはしまは、みこかずれずなり

次にお生みになられた神様の名は、鳥之石楠船神、別名を天鳥船と仰います。次に大宜都比賣神、次に火之夜藝速男神、別名を火之炫毘古神、あるいはもう一つの別名を火之迦具土神と仰る神をお生みになられました。この子をお生みになったので性器を焼かれ、病みついてしまわれました。吐瀉物から神様が生まれ、名は金山毘古神、次に金山毘賣神。大便からお生まれになった神様の名は波爾夜須毘古神、次に波爾夜須毘賣神。次に小便からは彌都波能賣神と和久産巣日神がお生まれになりました。この神は豊宇氣毘賣神をお生みになりました。こうして伊邪那美の神は、火の神をお生みになったために、とうとうお隠れあそばされました。天鳥船から豊宇氣毘賣神まで、合計八柱の神様です。伊邪那岐と伊邪那美の二神が共にお産みになられた島は、十四島。神は三十五神。これは伊邪那美神がまだお隠れになる前にお産みになられました。ただ、意能碁呂嶋はお産みになられた島ではありません。また、姪子と淡嶋は御子の数に入れていません。

  1. 先に伊耶那岐命伊耶那美命が二神で現れたと書いておきながら、どこからともなく数多の天つ神が登場する。この神々はどこから現れたのだろうか。言うまでもなく、伊耶那岐命伊耶那美命の部族の者たちであることは明らかである。本居宣長はその前に現れた十柱の神々のことだとしているが、それでは「神世七代」と称する意味がない。特に「國之常立神」と「豐雲上野神」はお隠れになったとはっきり書いているのだから数に含めるべきではない。
  2. 天之御柱と八尋殿は別々に立てたのである。本居宣長には柱だけ立てることが意味不明だったので、御殿の柱としているが誤っている。御殿を建てるのは当然としても、なぜ天之御柱、つまり柱を立てるのか。実は中国の苗族に、春祭りに豊饒の柱を山上に立てて、男女がその回りをまわり、結婚を祝う風習がある。伊耶那岐命伊耶那美命はこれから結婚するので柱を立てたのだ。苗族には江西にいた、もしくは東方の大きな川(長江河口付近か?あるいは淮河?)の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っているので、古代はまさしくの勢力圏内で居住していたことがわかる。高宗武丁王が江南を侵略した際に東西に避難したことは疑いなく、東に向かった族の一部が対馬海流に乗って日本へたどり着いていたとしても何らおかしくはない。あるいは春秋時代の滅亡に巻き込まれて避難した部族の中に苗族もいただろう。最終的には代以降の漢族の南下に伴って、揚子江流域から山岳内陸部に移動したと推定される。
  3. 男女の性器もこう表現されると何やら奥ゆかしい。ここは性器の合一つまり性交が出産に結びついていることを説明する説話である。
  4. 奥ゆかしいとか言っていたら「みとのまぐはひ」とダイレクトに来た。宣長によると「みと」は「御所」で夫婦の寝所を表す。「まぐはひ」は無論、性交である。
  5. 女性が右回り、男性が左回りになっている。苗族の伝承では左回りが「天」の巡り方、右回りが「地」の巡り方とされ、より高貴な方が左を回るべきだとされています。つまり、ここでは男性優位を主張しているのです。
  6. ところが産まれた子は具合がよろしからず、葦船に乗せて流してしまう。問題なく産まれたのに殺してしまったのでは神のすることではないと伝承者は考えたのだろう。まあ遠回しな嬰児殺しであることに違いはないが。
  7. 天つ神がいるところは、高天原と決まっている。してみるとオノゴロ島と高天原は行き来できる場所であったと思われる。
  8. 「ふとまに」は「太占」のことで、獣骨を火で焼いて生じるひび割れで吉凶を判断する占い方である。中国では「骨卜」といい、の時代(紀元前十七世紀〜紀元前一〇四六年)、特別な場合に行われる古い(言葉を変えれば原始的な)占い方法であった。この占い方は次のの時代(紀元前一〇四六年〜紀元前七七一年)には受け継がれず廃れている。それが伝わっているということは、それを行っていた民族の一部が渡来してきたことを意味している。ちなみに本居宣長は「神なのに誰の教えを請うために占いをするのか、などと言い立てるのがこの世の漢意に囚われたさかしら人」と学者をケチョンケチョンに貶している。
  9. 占いの結果をとやかく言っても仕方がないことはわかっているが、それでもなぜ女が先に声をかけたことがいけないとされたのか考えざるをえない。母権母系の否定であり父権父系の神託だと言って言えないことはないが、それにしては言い方がそこはかとなくしすぎている。よくわからない。
  10. ここで産まれた国土(くに)に注意を払わねばならない。淡路島、四国、九州、壱岐、対馬、佐渡島、本州である。北海道は蝦夷の地であったので、存在が知られていなかった。故に産まれていない。次の六嶋をどこに比定するかが問題だが、種子島、屋久島とおぼしき名前が見られないのは、当初は隼人の勢力圏であって知られていなかったことが考えられる。それで伝承されていないのであろう。五島列島ではないかと思われる名前も挙げられていないことが気にかかる。なぜならばここで名前が出た国土(くに)や島は当然、伊耶那美命が産んだため新しくできたところだが、産まなかったところ、つまりそこに含まれていないところに高天原があるということだからである。神話全体を想像の産物と切って捨て、そのような詮索を無用とするのは確かに容易い。しかし、全くの想像は、古代人にとっても全くの妄説ということであることに、学者は注意を払わなさすぎる。ご先祖様は確かに現代科学とその認識を持っていたわけではなかったが、古代の論理の中においてはやはり合理的であったのである。自分たちの因ってきたる由縁が全くの妄説であるならどうして存在理由をそこに求められるであろう。馬鹿なのはそう決めつけて恥じない学者どもである。
  11. ここで伊耶那美命が死んでしまうのはなぜだろうか。そもそも次の段落で明らかな通り伊耶那岐命一人でも神を生み出せるのであり、そうである以上、なぜ夫婦神として登場したのかがよくわからない。もちろん子は夫婦の間にできるものであることは自明であり、自然である。それが一応の答えとなるが、それなら死んでしまったことが解せない。古代の人もそう考えたはずである。あるいは、伊耶那美の族を伊耶那岐の族長が管轄する正当性を述べているのかも知れない。

二〇一三年八月十一日 初版