『古事記』上つ巻、神代(二)
古事記 上つ巻
神代(二)
於是天神諸命以詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神修理固成是多陀用幣流之國賜天沼矛而言依賜也故二柱神立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時自其矛末垂落之鹽累積成嶋是淤能碁呂嶋自淤以下四字以音
是に天神諸の命[一]以ちて、伊邪那岐命、伊邪那美命の、二柱の神に、是の多陀用幣流國を修理り固め成せと詔ごちて、天沼矛を賜ひて、言依さし賜ふ也。故、二柱の神を天浮橋に立たし立を訓よんで「たたし」と云ふ、其の沼矛を指し下ろして畫きたまえば、鹽許々袁々呂々邇此この七字は音を用ゐる畫き鳴し鳴を訓んで「なし」と云ふ、引き上げたまふ時に、其の矛の末自り垂落る鹽、累積()りて、嶋()と成る。是()淤能碁呂嶋()なり。淤自()り以下四字は音を用ゐる。
このとき天のたくさんの神様から、伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神様に仰せがあり、「この漂っている国を造り固めて、国土を完成させよ」と仰って、天沼矛(あまのぬぼこ)をお授けになられた。そこで二柱の神は天の浮き橋に立ち、その沼矛を指し下ろして、かき回したのです。海水をこおろこおろと音を立ててかき回して引き上げたとき、矛の先から滴り落ちる塩が、積もり積もって嶋となりました。これが淤能碁呂嶋(おのごろのしま)です。
於其嶋天降坐而見立天之御柱見立八尋殿於是問其妹伊邪那美命曰汝身者如何成答曰吾身者成成不成合處一處在爾伊邪那岐命詔我身者成成而成餘處一處在故以此吾身成餘處刺塞汝身不成合處而以爲生成國土奈何訓生云宇牟下效此伊邪那美命答曰然善爾伊邪那岐命詔然者吾與汝行廻逢是天之御柱而爲美斗能麻具波比此七字以音如此云期乃詔汝者自右廻逢我者自左廻逢約竟廻時伊邪那美命先言阿那邇夜志愛上袁登古袁此十字以音下效此後伊邪那岐命言阿那邇夜志愛上袁登賣袁各言竟之後告其妹曰女人先言不良雖然久美度邇此四字以音興而生子水蛭子此子者入葦船而流去次生淡嶋是亦不入子之例
其()の嶋()に天降()りまして、天之御柱()を見立()て[二]、八尋殿()を見立()てたまひき。是()に其()の妹()伊邪那美命()に問ひて曰()く、汝()が身は如何()に成れる。答へて曰()く、吾()が身みは、成り成りて成り合はざる處()一處()在()り。爾()に伊邪那岐命()詔()たまひつらく、我()が身は、成り成りて成り餘()れる處()一處()在()り。故()に此()の吾()が身の成り餘()れる處()を以ちて、汝()が身の成なり合()ざる處()を刺し塞()ぎ、國土()生み成さんと以爲()は奈何()[三]。生を訓()みて「うむ」と云()ふ。下()も此()に效()ふ。伊邪那美命()、答へて曰()く然()善()し。爾()に伊邪那岐命()詔()たまひき、然()ば吾()と汝()と是()の天之御柱()を行きて廻()りて逢ひて、美斗能麻具波比()此この七字は音を用ゐる。爲()んと[四]。此()の如()く云()ひ期()りて、乃()ち詔()たまひき、汝()は右()自()り廻()り逢へ、我()は左自()り廻()り逢はん[五]。約()り竟()へて廻()ります時に、伊邪那美命()、先()ず阿那邇夜志愛()上袁登古袁()此この十字は音を用ゐる。下も此これに效ならふと言()たまひ、後のちに伊邪那岐命()、阿那邇夜志愛(上袁登賣袁()と言()たまいき。各()言()竟()へたまひて後()に、其()の妹()に告げて曰()く、女人()を言()先だちて良()はず。雖然()も久美度邇()此()の四字は音を用ゐる興して子()、水蛭子()を生みたまひき。此()の子()は葦船()に入れて流()し去()てつ。次に淡嶋()を生みたまいき。是()も亦()子の例()に入れず[六]。
その島に天降り、天の御柱をお立てになり、広大な宮殿をお建てになりました。そして伊邪那岐命は、伊邪那美命に「あなたの体はどんな風にできているのか」とご質問なされたところ、「申し分なくできていますが、体の一箇所が足りないようです」とお答えになった。そこで伊邪那岐命は「私の体は申し分なくできているが、一箇所余っているようだ。あなたの体の足りないところを私の余っているところで刺しふさいで、国土(くに)を生もうと思うが、どうだろう」と仰ったところ、伊邪那美命は「それがいいでしょう」とお答えになった。それで、伊邪那岐命は「それなら、あなたと私がこの天の御柱の周りを廻り、巡り会ってみとのまぐわいをしよう」と仰った。こう約束して「あなたは右から回りなさい。私は左から回ろう」と仰った。互いに約束し終えて、いよいよ柱の周りを回って出会うとき、まず伊邪那美命が「ああ、美しい男の方だこと」と声を挙げた。後で伊邪那岐命が「ああ、美しい女の方だ」と仰った。それが済んでから、伊邪那岐命は「どうも、女の方が先に物を言うのは良くない」と仰った。それでも寝所に入ると、産まれた子は水蛭子であった。この子は葦船で海に流し、お捨てになった。次に淡島をお生みになったが、これも御子の数にはお入れにならなかった。
於是二柱神議云今吾所生之子不良猶宜白天神之御所卽共參上請天神之命爾天神之命以布斗麻邇爾上此五字以音ト相而詔之因女先言而不良亦還降改言
是()に二柱()の神は議云()たまいらく、今、吾()が生めりし子()良()はず。猶()天神()の御所()[七]に宜()すべしと白()たまひて。卽()ち共に參()上()りて、天神()の命()を請ひたまひき。爾()に天神()の命()、布斗麻邇爾()[八]上此()の五字、音を用ゐるを以ちてト()えて詔()たまいらく、女()お言()先()に因()りて良()はず。亦()還()り降()りて改めて言へ[九]。
そこでお二神は相談して仰った。「今私たちが生んだ子は良くなかった。この上は、天つ神の御所で相談してみよう」。そこで二神ともに天に昇られ、天つ神のお言葉を請いねがった。天つ神の判断を太占(ふとまに)で占った結果、「女の言葉が男に先だって発せられたために良くなかったのである。もう一度帰って、言い直しなさい」と詔(みことのり)があった。
故爾反降更往廻其天之御柱如先於是伊邪那岐命先言阿那邇夜志愛袁登賣袁後妹伊邪那美命言阿那邇夜志愛袁登古袁如此言竟而御合生子淡道之穗之狹別嶋訓別云和氣下效此次生伊豫之二名嶋此嶋者身一而有面四毎面有名故伊豫國謂愛上比賣此三字以音下效此也讚岐國謂飯依比古粟國謂大宜都比賣此四字以音土左國謂建依別次生隱伎之三子嶋亦名天之忍許呂別許呂二字以音次生筑紫嶋此嶋亦身一而有面四毎面有名故筑紫國謂白日別豐國謂豐日別肥國謂建日向日豐久士比泥別自久至泥以音熊曾國謂建日別曾字以音次生伊伎嶋亦名謂天比登都柱自比至都以音訓天如天次生津嶋亦名謂天之狹手依比賣次生佐度嶋次生大倭豐秋津嶋亦名謂天御虛空豐秋津根別故因此八嶋先所生謂大八嶋國
故()、爾()ち反()り降()りまして、更()に其()の天之御柱()を先の如()く往き廻()りたまひき。是()に伊邪那岐命()、先()ず阿那邇夜志愛袁登賣袁()と言()たまひ、後()に妹()伊邪那美命()、阿那邇夜志愛袁登古袁()と言()まひき。此()の如()く言()たまひ竟()へて御合()まして、子()、淡道之穗之狹別嶋()を生みたまふ。別を訓()みて「わけ」と云()ふ。下()も此()に效()ふ。次に伊豫之二名嶋()を生みたまふ。此()の嶋()は、身一つにして面()四つ有り。面()毎()に名有り。故()、伊豫國()を愛()上比賣()此()の三字は音を用ゐる。下()も此()に效()ふ也()と謂()ひ、讚岐國()を飯依比古()と謂()ひ、粟國()を大宜都比賣()此()の四字は音を用ゐると謂()ひ、土左國()を建依別()と謂()ふ。次に隱伎()の三子()の嶋()を生みたまふ。亦()の名は天之忍許呂別()許呂の二字は音を用ゐる。。次に筑紫()の嶋()を生みたまふ。此()の嶋()も亦()、身一つにして面()四つ有り。面()毎()に名有り。故()、筑紫國()を白日別()と謂()ひ、豐國()を豐日別()と謂()ひ、肥國()を建日向日豐久士比泥別()久自()り泥に至るまで音を用ゐると謂()ひ、熊曾國()を建日別()曾の字は音を用ゐると謂()ふ。次に伊伎()の嶋()を生みたまふ。亦()の名は天比登都柱()比自()り都に至るまで音を用ゐる。天()を訓()むこと天()の如()しと謂()ふ。次に津嶋を生みたまふ。亦()の名は天之狹手依比賣()と謂()ふ。次に佐度嶋()を生みたまふ。次に大倭豐秋津嶋()を生みたまふ。亦()の名は天御虛空豐秋津根別()と謂()ふ。故()、此()の八嶋()ぞ生みませる所()なるに因()りて、大八嶋國()と謂()ふ[十]。
そこで天を下って地上に帰り、もう一度天の御柱をお廻りになりました。こんどは伊邪那岐命が先に「ああ、美しい女の方だ」と仰いまして、その後で伊邪那美命が「ああ、美しい男の方だこと」と仰いました。それから体をお合わせになり、最初に淡道之穗之狹別嶋(あわじのほのさわけのしま、淡路島)をお生みになられました。次に伊予の二名の島(四国)をお生みになられました。この島は四つの顔があり、それぞれに名前が付いています。伊予の国を愛媛と言い、讃岐の国を飯依比古と言い、阿波の国を大宜都比賣、土佐の国を建依別と言います。次に隠岐の(三つ子の)島をお生みになられました。次に筑紫の島(九州)をお生みになられました。この島も四つの顔があり、それぞれに名前があります。筑紫の国を白日別と言い、豊の国を豊日別と言い、肥の国を建日向日豊久士比泥別、熊襲の国を建日別と言います。次に壱岐の島をお生みになられました。この島は、別名を天一つ柱と言います。次に対馬をお生みになられました。この島は別名を天之狹手依比賣と言います。次に佐渡島をお生みになられました。次に大倭豊秋津嶋(本州)をお生みになられました。この島は別名を天御虚空豊秋津根別と言います。こうして八つの島を生んだので、(日本のことを)大八洲の国といいます。
然後還坐之時生吉備兒嶋亦名謂建日方別次生小豆嶋亦名謂大野手上比賣次生大嶋亦名謂大多麻上流別自多至流以音次生女嶋亦名謂天一根訓天如天次生知訶嶋亦名謂天之忍男次生兩兒嶋亦名謂天兩屋自吉備兒嶋至天兩屋嶋幷六嶋
然()後()、還坐之()し時に、吉備兒嶋()を生みたまふ。亦()の名は建日方別()と謂()ふ。次に小豆嶋()を生みたまふ。亦()の名は大野手()上比賣()と謂()ふ。次に大嶋()を生みたまふ。亦()の名は大多麻()上流別()多自()り流に至るまで音を用ゐると謂()ふ。次に女嶋()を生みたまふ。亦()の名は天一根()天()の訓()みは天()の如()しと謂()ふ。次に知訶嶋()を生みたまふ。亦()の名は天之忍男()と謂()ふ。次に兩兒嶋()を生みたまふ。亦()の名は天兩屋()と謂()ふ。吉備兒嶋()自()り天兩屋嶋()に至るまで、幷()せて六嶋()。
さて、元に還って、吉備の児島をお生みになられました。この島は別名を建日方別と言います。次に小豆島をお生みになられました。この島は別名を大野手比賣と言います。次に大島をお生みになられました。この島は別名を大多麻流別と言います。次に姫島(女嶋)をお生みになられました。この島は別名を天一根と言います。次に知訶島をお生みになられました。この島は別名を天之忍男と言う。次に兩兒嶋をお生みになられました。この島は別名を天兩屋と言います。吉備の児島から天兩屋嶋まで、合計六つの島です。
既生國竟更生神故生神名大事忍男神次生石土毘古神訓石云伊波亦毘古二字以音下效此也次生石巢比賣神次生大戸日別神次生天之吹上男神次生大屋毘古神次生風木津別之忍男神訓風云加邪訓木以音次生海神名大綿津見神次生水戸神名速秋津日子神次妹速秋津比賣神自大事忍男神至秋津比賣神幷十神
既に國を生み竟()えられて、更に神を生みましき。故()、生みませる神の名は、大事忍男神()。次に石土毘古神()石を訓()んで「いは」と云()ひ、亦()毘古(びこ)二字は音を用ゐる。下()も此()に效()ふ也()を生みまし、次に石巢比賣神()を生みまし、次に大戸日別神()を生みまし、次に天之吹上男神()を生みまし、次に大屋毘古神()を生みまし、次に風木津別之忍男神()風を訓()むに「かざ」と云()ふ、木を訓()むに音を用ゐるを生みまし、次に海神()、名()は綿津見神()を生みまし、次に水戸神()、名()は速秋津日子神()を生みまし、次に妹()速秋津比賣神()を生みましき。大事忍男神()自()り秋津比賣神()に至るまで、幷()せて十神()。
国を生み終わられて、続いて神々をお生みになりました。初めにお生みになった神の名は大事忍男神。次に石土毘古神をお生みになりました。次に石巣比賣神をお生みになりました。次に大戸日別神をお生みになりました。次に天之吹男神をお生みになりました。次に大屋毘古神をお生みになりました。次に風木津別之忍男神をお生みになりました。次に海の神で名を大綿津見神と仰る神様をお生みになりました。次に水戸の神で名を速秋津日子神と仰る神様をお生みになりました。次にその妹、速秋津比賣神をお生みになりました。大事忍男神から秋津比賣神まで、あわせて十柱の神様です。
此速秋津日子速秋津比賣二神因河海持別而生神名沫那藝神那藝二字以音下效此次沫那美神那美二字以音下效此次頰那藝神次頰那美神次天之水分神訓分云久麻理下效此次國之水分神次天之久比奢母智神自久以下五字以音下效此次國之久比奢母智神自沫那藝神至國之久比奢母智神幷八神
此()の速秋津日子()、速秋津比賣()の二神()、河海に因()りて持ち別けて、生みませる神の名は、沫那藝神()那藝(なぎ)の二字は音を用ゐる。下()も此()に效()ふ、次に沫那美神()那美(なみ)の二字は音を用ゐる。下()も此()に效()ふ、次に頰那藝神()、次に頰那美神()、次に天之水分神()分を訓()みて「くまり」と云()ふ。下()も此()に效()ふ、次に國之水分神()、次に天之久比奢母智神()久自()以下五字は音を用ゐる。下()も此()に效()ふ、次に國之久比奢母智神()。沫那藝神()自()り國之久比奢母智神()に至るまで、幷()せて八神()。
この速秋津日子と速秋津比賣の二柱の神様は、それぞれ港の河の側と海の側を分担して支配し、まずお生みになられた子は沫那藝神、次に沫那美神、次に頬那藝神、次に頬那美神、次に天之水分神、次に國之水分神、次に天之久比奢母智神、次に國之久比奢母智神。沫那藝神から國之久比奢母智神まで、八柱の神様です。
次生風神名志那都比古神此神名以音次生木神名久久能智神此神名以音次生山神名大山上津見神次生野神名鹿屋野比賣神亦名謂野椎神自志那都比古神至野椎幷四神
次に風の神、名は志那都比古神()此()の神の名は音を用ゐるを生みまし、次に木の神、名は久久能智神生()此()の神の名は音を用ゐるを生みまし、次に山の神、名は大山上津見神()を生みまし、次に野()の神、名は鹿屋野比賣神()を生みましき。亦()の名は野椎神()と謂()す。志那都比古神()自()り野椎()に至るまで、幷()せて四神()。
次に風の神、志那都比古神をお生みになられました。次に木の神、久久能智神をお生みになられました。次に山の神、大山津見神をお生みになられました。次に野の神、鹿屋野比賣神、別名野椎神をお生みになられました。志那都比古神から野椎まで、四柱である。
此大山津見神野椎神二神因山野持別而生神名天之狹土神訓土云豆知下效此次國之狹土神次天之狹霧神次國之狹霧神次天之闇戸神次國之闇戸神次大戸惑子神訓惑云麻刀比下效此次大戸惑女神自天之狹土神至大戸惑女神幷八神也
此()の大山津見神()、野椎神()二神()、山野()に因()りて持ち別けて、生みませる神の名は、天之狹土神()土を訓()んで「づち」と云()ふ。下()も此()に效()ふ、次國之狹土神()、次天之狹霧神()、次國之狹霧()、次天之闇戸神()、次國之闇戸神()、次大戸惑子神()惑を訓()んで「まとひ」と云()ふ。下()も此()に效()ふ、次大戸惑女神(。天之狹土神()自()り大戸惑女神()に至るまで、幷()せて八神()也()。
大山津見神と野椎神はそれぞれ山と野を担当し、まず天之狹土神をお生みになられました。次に國之狹土神、次に天之狹霧神、次に國之狹霧神、次に天之闇戸神、次に國之闇戸神、次に大戸惑子神、次に大戸惑女神。天之狹土神から大戸惑女神まで、合計八神です。
次生神名鳥之石楠船神亦名謂天鳥船次生大宜都比賣神此神名以音次生火之夜藝速男神夜藝二字以音亦名謂火之炫毘古神亦名謂火之迦具土神迦具二字以音因生此子美蕃登此三字以音見炙而病臥在多具理邇此四字以音生神名金山毘古神、訓金云迦那下效此次金山毘賣神次於屎成神名波邇夜須毘古神、此神名以音次波邇夜須毘賣神此神名亦以音次於尿成神名彌都波能賣神次和久產巢日神此神之子謂豐宇氣毘賣神自宇以下四字以音故伊邪那美神者因生火神遂神避坐也自天鳥船至豐宇氣毘賣神幷八神凡伊邪那岐伊邪那美二神共所生嶋壹拾肆嶋神參拾伍神是伊邪那美神未神避以前所生唯意能碁呂嶋者非所生亦姪子與淡嶋不入子之例也
次に生みませる神の名は、鳥之石楠船神()、亦()の名は天鳥船()と謂()す。次に大宜都比賣神()此()の神の名は音を用ゐるを生みましき。火之夜藝速男神()夜藝(やぎ)の二字は音を用ゐるを生みましき。亦()の名は火之炫毘古神()と謂()し、亦()の名は火之迦具土神()迦具(かぐ)の二字は音を用ゐると謂()す。此()の子()を生みますに因()り、美蕃登()此()の三字は音を用ゐる見炙()えて病み臥在()せり。多具理邇()此()の四字は音を用ゐる生()りませる神の名は、金山毘古神()金を訓()みて「かな」と云()ふ、下()も此()に效()ふ、次金山毘賣神()。次に屎()に成りませる神の名は、波邇夜須毘古神()此()の神の名は音を用ゐる、次波邇夜須毘賣神()此(こ)の神の名は亦()音を用ゐる。次に尿()に成りませる神の名は、彌都波能賣神()、次和久產巢日神()。此()の神の子()を豐宇氣毘賣神()宇自()り以下四字は音を用ゐると謂()す。故()、伊邪那美神()は、火の神を生みませるに因()りて、遂()に神避()ましき[十一]。天鳥船()自()り豐宇氣毘賣神()に至るまで、幷()せて八神()。凡()て伊邪那岐()、伊邪那美()二神()、共に生みませる嶋壹拾肆嶋()、神參拾伍神()。是()は伊邪那美神()、未()だ神避()まさざりし前()に生うみましつ。唯()意能碁呂嶋()は、生みませるならず。亦()姪子()と淡嶋()は、子()の例()に入()れず也()。
次にお生みになられた神様の名は、鳥之石楠船神、別名を天鳥船と仰います。次に大宜都比賣神、次に火之夜藝速男神、別名を火之炫毘古神、あるいはもう一つの別名を火之迦具土神と仰る神をお生みになられました。この子をお生みになったので性器を焼かれ、病みついてしまわれました。吐瀉物から神様が生まれ、名は金山毘古神、次に金山毘賣神。大便からお生まれになった神様の名は波爾夜須毘古神、次に波爾夜須毘賣神。次に小便からは彌都波能賣神と和久産巣日神がお生まれになりました。この神は豊宇氣毘賣神をお生みになりました。こうして伊邪那美の神は、火の神をお生みになったために、とうとうお隠れあそばされました。天鳥船から豊宇氣毘賣神まで、合計八柱の神様です。伊邪那岐と伊邪那美の二神が共にお産みになられた島は、十四島。神は三十五神。これは伊邪那美神がまだお隠れになる前にお産みになられました。ただ、意能碁呂嶋はお産みになられた島ではありません。また、姪子と淡嶋は御子の数に入れていません。
二〇一三年八月十一日 初版