『古事記』上つ巻、神代(三)

古事記 上つ巻

神代(三)

故爾伊邪那岐命詔之愛我那邇妹命乎那邇二字以音下效此謂易子之一木乎乃匍匐御枕方匍匐御足方而哭時於御淚所成神坐香山之畝尾木本名泣澤女神故其所神避之伊邪那美神者葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也

故(かれ)爾(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)詔(のり)たまはく、愛(うつく)しき我(あ)が那邇妹命(なにものみこと)那邇(なに)の二字は音を用ゐる。下(しも)も此(これ)に效(なら)ふ乎(や)、子の一木(ひとつけ)に易(か)えつる乎(かも)と謂(のり)たまひて、御枕方(みくらべ)に匍匐(はらば)い、御足方(みあとべ)に匍匐(はらば)いて哭(な)きたまふ時に、御(み)淚に成りませる神は、香山(かぐやま)の畝尾木本(うねおのこのもと)に坐(ま)す、名(みな)は泣澤女神(なきさわめのかみ)。故(かれ)、其(そ)の神避(かむさり)ましし伊邪那美神(いざなみのかみ)は、出雲國(いずものくに)と伯伎國(ほうきのくに)の堺、比婆之山(ひばやま)に葬(かく)しまつりき也(なり)。

そこで伊邪那岐命は「愛しい私の妻を、こんな子一人のために失ってしまった」と仰って、枕辺に腹這いになり、また足元に腹這いになってはお泣きあそばされた。その涙から生まれた神は泣澤女神と言い、天の香具山の畝尾の木の根元におわします。亡くなられた伊邪那美の神は、出雲と伯耆の境の比婆山に葬られました。

於是伊邪那岐命拔所御佩之十拳劒斬其子迦具土神之頸爾著其御刀前之血走就湯津石村所成神名石拆神次根拆神次石筒之男神三神次著御刀本血亦走就湯津石村所成神名甕速日神次樋速日神次建御雷之男神亦名建布都神布都二字以音下效此亦名豐布都神三神次集御刀之手上血自手俣漏出所成神名訓漏云久伎闇淤加美神淤以下三字以音下效此次闇御津羽神上件自石拆神以下闇御津羽神以前幷八神者因御刀所生之神者也

是(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、御(み)佩(はか)せる十拳(とつか)劒(つるぎ)を拔(ぬ)きて、其(そ)の子(みこ)、迦具土神(かぐつちのかみ)の頸(みくび)を斬りたまふ[一]。爾(ここ)に其(そ)の御(み)刀(はかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就(つ)きて成りませる神の名(みな)は、石拆神(いはさくのかみ)。次に根拆神(ねさくのかみ)。次に石筒之男神(いはつつのおのかみ)三神。次に御(み)刀(はかし)の本(もと)に著(つ)ける血も亦(また)、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就(つ)きて、成りませる神の名(みな)は、甕速日神(みかはやびのかみ)。次に樋速日神(ひはやびのかみ)。次に建御雷之男神(たけみづちのおのかみ)。亦(また)の名(みな)は建布都神(たけふつのかみ)布都の二字は音を用ゐる。下(しも)も此(これ)に效(なら)ふ。亦(また)の名(みな)は豐布都神(とよふつのかみ)三神。次に御(み)刀(はかし)の手上(たかみ)に集まる血、手俣(たなまた)自(よ)り漏出(くきで)て成りませる神の名(みな)は、漏を訓(よ)みて久伎(くき)と云(い)ふ。闇(くら)淤加美(おかみ)神(のかみ)。淤以下の三字は音を用ゐる。下(しも)も此(これ)に效(なら)ふ。次に闇御津羽神(くらみつはのかみ)。上(かみ)の件(くだり)、石拆神(いはさくのかみ)自(よ)り以下(しも)、闇御津羽神(くらみつはのかみ)以前(まで)、幷(あは)せて八神(やばしら)は、御(み)刀(はかし)に因(よ)りて生りませる神也(なり)[二]。

ついに伊邪那岐命は、帯びていた十拳の剣を抜いて、ご自分の御子である迦具土神の首をお切りになられました。その太刀の先からほとばしった血がたくさんの岩に着いて、石拆神、次に根拆神、次に石筒之男神がお生まれになられました三柱。また、太刀の本からほとばしった血がたくさんの岩に着いて、甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神(別名は建布都神、もう一つの別名は豊布都神)がお生まれになられました三柱。さらに太刀を握る手に集まった血が指の間から漏れこぼれて、闇淤加美神と闇御津羽神がお生まれになられました。ここで石拆神から闇御津羽神まで、合計八柱の神は、伊邪那岐命の太刀からお生まれになられた神様です。

所殺迦具土神之於頭所成神名正鹿山上津見神次於胸所成神名淤縢山津見神淤縢二字以音次於腹所成神名奧山上津見神次於陰所成神名闇山津見神次於左手所成神名志藝山津見神志藝二字以音次於右手所成神名羽山津見神次於左足所成神名原山津見神次於右足所成神名戸山津見神自正鹿山津見神至戸山津見神幷八神故所斬之刀名謂天之尾羽張亦名謂伊都之尾羽張伊都二字以音

殺(ころ)さえ所(まし)し迦具土神(かぐつちのかみ)の頭(みかしら)に成りませる神の名(みな)は、正鹿山上津見神(まさかやまつみのかみ)。次に胸に成りませる神の名(みな)は、淤縢山津見神(おどやまつみのかみ)淤縢の二字は音を用ゐる。次に腹(みはら)に成りませる神の名(みな)は、奧山上津見神(おくやまつみのかみ)。次に陰(ほと)に成りませる神の名(みな)は、闇山津見神(くらやまつみのかみ)。次に左の手(みて)に成りませる神の名(みな)は、志藝山津見神(しぎやまつみのかみ)志藝の二字は音を用ゐる。次に右(みぎり)の手(みて)に成りませる神の名(みな)は、羽山津見神(はやまつみのかみ)。次に左の足(みあし)に成りませる神の名(みな)は、原山津見神(はらやまつみのかみ)。次に右(みぎり)の足(みあし)に成りませる神の名(みな)は、戸山津見神(とやまつみのかみ)。正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ)自(よ)り戸山津見神(とやまつみのかみ)に至るまで、幷(あは)せて八神(やばしら)。故(かれ)、斬りたまへる刀(みはかし)の名(な)は、天之尾羽張(あめのおはばり)と謂(い)ふ。亦(また)の名(な)は伊都之尾羽張(いつのおはばり)と謂(い)ふ伊都の二字は音を用ゐる。

殺されてしまわれた迦具土神の頭から正鹿山津見神と仰る神様がお生まれになり、胸からは淤縢山津見神と仰る神様がお生まれになられました。腹からは奧山津見神と仰る神様がお生まれになり、陰部からは闇山津見神と仰る神様がお生まれになられました。次に左手から志藝山津見神と仰る神様がお生まれになり、右手からは羽山津見神と仰る神様がお生まれになられました。左足からは原山津見神と仰る神様がお生まれになり、右足から戸山津見神と仰る神様がお生まれになられました。正鹿山津見神から戸山津見神まで、合計八神です。迦具土神を斬った刀は、天之尾羽張、またの名を伊都之尾羽張といいます。

於是欲相見其妹伊邪那美命追往黃泉國爾自殿騰戸出向之時伊邪那岐命語詔之愛我那邇妹命吾與汝所作之國未作竟故可還爾伊邪那美命答白悔哉不速來吾者爲黃泉戸喫然愛我那勢命那勢二字以音下效此入來坐之事恐故欲還且具與黃泉神相論莫視我如此白而還入其殿內之間甚久難待故刺左之御美豆良三字以音下效此湯津津間櫛之男柱一箇取闕而燭一火入見之時宇士多加禮許呂呂岐弖此十字以音於頭者大雷居於胸者火雷居於腹者黑雷居於陰者拆雷居於左手者若雷居於右手者土雷居於左足者鳴雷居於右足者伏雷居幷八雷神成居於是伊邪那岐命見畏而逃還之時其妹伊邪那美命言令見辱吾卽遣豫母都志許賣此六字以音令追爾伊邪那岐命取黑御鬘投棄乃生蒲子是摭食之間逃行猶追亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄乃生笋是拔食之間逃行且後者於其八雷神副千五百之黃泉軍令追爾拔所御佩之十拳劒而於後手布伎都都此四字以音逃來猶追到黃泉比良此二字以音坂之坂本時取在其坂本桃子三箇待擊者悉逃迯也爾伊邪那岐命告其桃子汝如助吾於葦原中國所有宇都志伎此四字以音青人草之落苦瀬而患惚時可助告賜名號意富加牟豆美命自意至美以音

是(ここ)に其(そ)の妹(いも)の伊邪那美命(いざなぎのみこと)を相(あい)見(み)まく欲(おもお)して、黃泉國(よもつくに)に追ひ往(い)でましき[三]。爾(すなは)ち殿騰戸(とのど)自(よ)り出向(でむかへ)ます時に、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)語らひたまはく、愛(うつく)しき我(あ)が那邇妹(なにもの)命(みこと)、吾(あれ)汝(みまし)と與(とも)に作りし國、未(いま)だ作り竟(お)へずあれば、還(かへ)りまさねと詔(のり)たまひき。爾(ここ)に伊邪那美命(いざなみのみこと)答白(まう)したまはく、悔(くや)しき哉(かも)と來(く)き速(まさ)ずて。吾(あ)は黃泉戸喫(よもつへぐひ)[四]爲(し)つ。然(しかれ)ども愛(うつく)しき我(あ)が那勢(なせ)の命(みこと)那勢(なせ)の二字は音を用ゐる。下(しも)も此(これ)に效(なら)ふ、入り來ませること恐(かし)こければ、還りけんを、且(ま)ず具(つばから)に黃泉神(よもつかみ)と相論(あげつら)はん。我をな視たまひそ。如此(かく)白(まう)して、其(そ)の殿內之間(とのぬち)に還(かへ)り入りませるほど、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故(かれ)、左の御美豆良(みずら)三字は音を用ゐる。下(しも)も此(これ)に效(なら)ふに刺させる、湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱(おばしら)一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、一火(ひとつび)を燭(とも)して入り見(み)ます時に、宇士(うじ)多加禮(たかれ)許呂呂岐弖(とろろぎて)此(こ)の十字は音を用ゐる[五]、頭(みかしら)には大(おほ)雷(いかづち)居り、胸(みむね)には火(ほの)雷(いかづち)居り、腹(みはら)には黑(くろ)雷(いかづち)居り、陰(ほと)には拆(さく)雷(いかづち)居り、左の手(みて)には若(わき)雷(いかづち)居り、右(みぎり)の手(みて)には土(つち)雷(いかづち)居り、左の足(みあし)には鳴(なる)雷(いかづち)居り、右(みぎり)の足(みあし)には伏(ふし)雷(いかづち)居り、幷(あは)せて八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)成り居りき[六]。是(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、見み畏(かしこ)みて逃け還へります時に、其(そ)の妹(いも)の伊邪那美命(いざなみのみこと)、吾(われ)に辱(はじ)見せたまひつと言(まう)したまひて、卽(やが)て豫母都志許賣(よもつしこめ)此この六字は音を用ゐるを遣はして、追はしめき。爾(かれ)伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、黑御鬘(くろみかずら)を取りて投げ棄(う)ちたまひしかば、乃(すなは)ち蒲子(えびかずら)の生(み)なりき。是(こ)を摭(ひり)ひ食(は)む間に、逃げ行でますを、猶(なほ)追ひしかば、亦(また)其(そ)の右(みぎり)の御美豆良(みずら)に刺させる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)を引き闕(か)きて投げ棄(う)ちたまへば、乃(すなは)ち生笋(たかんな)なりき。是(こ)を拔(ぬ)き食はむ間に、逃げ行いでましき。且(また)後(のち)には、其(そ)の八(やくさ)の雷神(いかづちがみ)に、千五百(ちいほ)の黃泉軍(よもついくさ)を副へて追はしめき。爾(かれ)御も佩(はか)せる十拳劒(とつかつるぎ)を拔きて、後手(しりえで)に布伎都都(ふきつつ)此この四字は音を用ゐる逃げ來(き)ませるを、猶(なほ)追ひて、黃泉比良(よみひら)此の二字は音を用ゐるの坂の坂本に到る時ときに、其(そ)の坂本なる桃の子(み)を三箇(みつ)取りて待擊(まちた)ばひしば、悉(ことごと)に逃げ迯(かへ)りき。爾(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、其(そ)の桃の子(み)に告(のり)たまはく、汝如(いまし)吾あを助けしがこと、葦原(あしはら)の中國(なかつくに)に有らゆる、宇都志伎(うつくしき)此(こ)の四字は音を用ゐる青人草(あおくさひと)の、落苦瀬而患惚(くるしまん)時(とき)、助けよ。意富加牟豆美命(おほかむずのみこと)意自(よ)り美に至るまで音を用ゐるという名を賜(たま)ひき。

伊邪那岐命はどうしても愛妻の伊邪那美命に会いたく思われて、黄泉の国にお出でになりました。伊邪那美命がその扉から迎え出られたので、伊邪那岐命は「愛しい妻よ、私と一緒に造った国は、まだ造り終えていない。帰ってまた続けようじゃないか」と仰いました。伊邪那美命は「ああ、残念だわ、もっと早くいらっしゃらなかったのが。私はもう黄泉の国の食べ物を食べてしまったの。でも私の愛しい夫がおいでになったのは畏れ多いことだから、帰ってもいいかどうか、黄泉の神と相談してみるわ。その間、私の姿を見ないでね」と仰って黄泉の宮殿の中にお入りになられました。伊邪那岐命はあまり長い間待たされたので待ちきれなくなられ、みずらに指してあった湯津津間櫛の男柱一つを折り取って火を灯して、中に入って覗いて見られたら、妻の体にはびっしりと蛆が取りつき、頭には大雷がおり、胸には火雷、腹には黒雷、陰部には拆雷、左手には若雷、右手には土雷、左足にも鳴雷、右足に伏雷、あわせて八つの雷神が生まれていた。これを見て伊邪那岐命は恐怖に駆られ、逃げ帰ろうとなされた。妻の伊邪那美命は「私に恥をかかせたな」と仰って、すぐに豫母都志許賣(黄泉の醜女:しこめ)たちに後を追わせたのです。そこで伊邪那岐命は頭の鬘を取って投げ捨てなさったところ、それがぶどうになりました。黄泉の醜女たちがこれを取って食べる間にお逃げになったが、またも追ってきました。そこで右のみずらに刺してあった湯津津間櫛の櫛の歯を引き欠いて投げ散らしなさったところ、それがすべて筍になりました。黄泉の醜女たちがこれを抜いて食べる間にお逃げになった。その後、伊邪那美命はその八種の雷神と千五百の黄泉の軍兵たちに後を追わせました。そこで伊邪那岐命は帯びていた十拳剣を抜いて、背後を切り払いながらお逃げになられたが、なおも追って、黄泉比良坂のふもとまでやって来たときに、その坂本にあった桃の実をお取りになって、待ち受けて投げつけられたところ、追っ手はことごとく逃げ帰って行きました。そこで伊邪那岐命は、その桃に向かって「汝は私を助けたように、葦原の中つ国に生きる人々が苦難に陥ったときには助けよ」と命じ、「おおかむづみの命」という名をお与えになられました。

最後其妹伊邪那美命身自追來焉爾千引石引塞其黃泉比良坂其石置中各對立而度事戸之時伊邪那美命言愛我那勢命爲如此者汝國之人草一日絞殺千頭爾伊邪那岐命詔愛我那邇妹命汝爲然者吾一日立千五百產屋是以一日必千人死一日必千五百人生也故號其伊邪那美神命謂黃泉津大神亦云以其追斯伎斯此三字以音而號道敷大神亦所塞其黃泉坂之石者號道反大神亦謂塞坐黃泉戸大神故其所謂黃泉比良坂者今謂出雲國之伊賦夜坂也

最後(いやはて)に其(そ)の妹(いも)伊邪那美命(いざなみのみこと)、身(み)自(みずか)ら追ひ來ましき。爾(すなは)ち千引石(ちびきいは)を其(そ)の黃泉比良坂(よもひらさか)に引き塞(さえ)て、其(そ)の石(いは)を中に置きて、各(あい)對(む)き立たして、事戸(ことど)を度(わた)す[七]時に、伊邪那美命(いざなみのみこと)言(まう)しのたまはく、愛(うつく)しき我あが那勢命(なせのみこと)、如此(かく)爲(し)たまはくは、汝(みまし)の國(くに)の人草(ひとくさ)、一日(ひとにち)に千頭(ちかしら)を絞(くび)り殺さな。爾(ここ)に伊邪那岐命(いざなぎのみこと)詔(のり)たまはく、愛(うつく)しき我(あ)が那邇妹命(なにものみこと)、汝(みまし)然(しか)爲(し)たまはば、吾(あれ)は一日(ひとにち)に千五百(ちいほ)產屋(うぶや)立ててな。是(ここ)を以て一日(ひとにち)に必ず千人(ちひと)死に、一日(ひとにち)に必ず千五百(ちいほ)人(ひと)生まるる。故(かれ)、其(そ)の伊邪那美神命(いざなみのみこと)を黃泉津大神(よもつおほかみ)と號(まう)すと謂(い)ふ。亦(また)、其(そ)の追(お)斯伎斯(ひしき)此(こ)の三字は音を用ゐるに以(よ)りて、道敷大神(ちしきのおほかみ)と號(まう)すと云(い)へり。亦(また)其(そ)の黃泉坂(よみのさか)に塞(さや)れりし石(いは)は、道反大神(ちがえしのおほかみ)と號(まう)し、亦(また)塞坐黃泉戸大神(さやりますよみどのおほかみ)と謂(まう)す。故(かれ)、そ(そ)の所謂(いはゆる)黃泉比良坂(よもつひらさか)は、今出雲國(いずも)の伊賦夜坂(いうやざか)[八]となも謂(い)ふ。

最後に伊邪那美命自身が追ってこられた。そこで伊邪那岐命は千人がかりでなければ動かせない大きな石を、黄泉比良坂を塞ぐように置きになられて、その石を間に挟んで妻に向かい、絶縁を申し渡されました。すると伊邪那美命は「愛しいあなた、こんな風にされたからには、あなたの国の人々を毎日千人殺してあげましょう」と仰った。そこで伊邪那岐命は「あなたがそうするなら、私は毎日千五百人の産屋を建てるだろう」と仰った。こういうわけで、現世の人は毎日千人が死に、毎日千五百人が生まれるのです。このため、伊邪那美命を黄泉の大神といいます。また追ってきたことから道敷の大神ともいいます。またその黄泉比良坂を塞いだ大石を道返しの大神とも、塞坐黄泉戸大神ともいいます。この黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂というところです。

是以伊邪那伎大神詔吾者到於伊那志許米上志許米岐此九字以音穢國而在祁理此二字以音故吾者爲御身之禊而到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐此三字以音原而禊祓也故於投棄御杖所成神名衝立船戸神次於投棄御帶所成神名道之長乳齒神次於投棄御囊所成神名時量師神次於投棄御衣所成神名和豆良比能宇斯能神此神名以音次於投棄御褌所成神名道俣神次於投棄御冠所成神名飽咋之宇斯能神自宇以下三字以音次於投棄左御手之手纒所成神名奧疎神訓奧云於伎下效此訓疎云奢加留下效此次奧津那藝佐毘古神自那以下五字以音下效此次奧津甲斐辨羅神自甲以下四字以音下效此次於投棄右御手之手纒所成神名邊疎神次邊津那藝佐毘古神次邊津甲斐辨羅神右件自船戸神以下邊津甲斐辨羅神以前十二神者因脱著身之物所生神也

是(ここ)を以て伊邪那伎(いざなぎ)大神(のおほみかみ)の詔(のり)たまはく、吾(あ)は伊那志許米(いなしこめ)上志許米岐(しこめき)此この九字は音を用ゐる穢(きたな)き國に到りて在り祁理(けり)此この二字は音を用ゐる。故(かれ)、吾(あ)は御身(おほみ)まの禊(はら)ひ爲(せ)な[九]。竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐(あはぎ)此(こ)の三字は音を用ゐる原(はら)に到坐(いでま)して、禊(みそ)ぎ祓(はら)ひたまひき。故(かれ)、投なげ棄(う)つる御杖(みつえ)に成りませる神の名(みな)は、衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)。次に投げ棄(う)つる御帶(みおび)に成りませる神の名(みな)は、道之長乳齒神(みちのはがちはのかみ)。次に投げ棄(う)つる御囊(みも)に成りませる神の名(みな)は、時量師神(ときおかしのかみ)。次に投げ棄(う)つる御衣(みけし)に成りませる神の名(みな)は、和豆良比能宇斯能(わずらひのうしの)神(かみ)此(こ)の神の名(みな)は音を用ゐる。次に投げ棄(う)つる御褌(みはかま)に成りませる神の名(みな)は、道俣神(ちまたのかみ)。次に投げ棄(う)つる御冠(みかかふり)に成りませる神の名(みな)は、飽咋之(あきぐひの)宇斯能(うしの)神(かみ)宇自(よ)り以下の三字は音を用ゐる。次に投げ棄(う)つる左の御手(みて)の手纒(たまき)に成りませる神の名(みな)は、奧疎神(おきざかるのかみ)奧を訓(よ)みて於伎(おき)と云(い)ふ。下も此(これ)に效(なら)ふ。疎を訓(よ)みて奢加留(ざかる)と云(い)ふ。下も此(これ)に效(なら)ふ。次に奧津(おきつ)那藝佐毘古(なぎさびこ)神(のかみ)那自(よ)り以下五字は音を用ゐる。下も此(これ)に效(なら)ふ。次に奧津(おきつ)甲斐辨羅(かひべら)神(のかみ)。甲自(よ)り以下四字は音を用ゐる。下も此(これ)に效(なら)ふ。次に投げ棄(う)つる右(みぎり)の御手(みて)の手纒(たまき)に成りませる神の名(みな)は、邊疎神(へざかるのかみ)。次に邊津那藝佐毘古(へつなぎぎさびこ)神(のかみ)。次に邊津甲斐辨羅(へつかひべら)神(のかみ)。右の件(くだり)、船戸神(ふなどのかみ)自(よ)り以下(しも)、邊津甲斐辨羅(へつかひべら)神(のかみ)以前まで、十二神(とおまりふたばしら)は、身に著(つ)ける物を脱(ぬ)ぎうてたまひしに因(よ)りて、生(な)りませる神也(なり)。

現世にお戻りになられた伊邪那岐の大神は「ああ、私は醜く汚らわしい国に行ってきたものだ。身の穢れを祓い落とそう」と仰って、筑紫の日向の橘の小門というところにある阿波岐原に赴いて祓えを行われました。持っていた杖を投げ捨てたところ、衝立船戸神という神様がお生まれになられました。次に帶を投げ捨てたところ、道之長乳齒神という神様がお生まれになられました。次に上に着けた裳(も)を投げ捨てたところ、時置師神という神様がお生まれになられました。次に衣を投げ捨てたところ、和豆良比能宇斯能神という神様がお生まれになられました。次にはかまを投げ捨てたところ、道俣神という神様がお生まれになられました。次に冠を投げ捨てたところ、飽咋之宇斯能神という神様がお生まれになられました。次に左手の手纒(たまき)を投げ捨てたところ、奧疎神という神様がお生まれになられました。続いて奧津那藝佐毘古神がお生まれになり、さらに奧津甲斐辨羅神という神様がお生まれになられました。次に右手の手纒を投げ捨てたところ、邊疎神という神様がお生まれになられました。続いて邊津那藝佐毘古神がお生まれになり、さらに邊津甲斐辨羅神という神様がお生まれになられました。ここで船戸神から邊津甲斐辨羅神まで、合わせて十二神は、身に着けたものを脱ぎ捨てることによって生まれた神様です。

於是詔之上瀬者瀬速下瀬者瀬弱而初於中瀬墮迦豆伎而滌時所成坐神名八十禍津日神訓禍云摩賀下效此次大禍津日神此二神者所到其穢繁國之時因汚垢而所成神之者也次爲直其禍而所成神名神直毘神毘字以音下效此次大直毘神次伊豆能賣神幷三神也伊以下四字以音次於水底滌時所成神名底津綿上津見神次底筒之男命於中滌時所成神名中津綿上津見神次中筒之男命於水上滌時所成神名上津綿上津見神訓上云宇閇次上筒之男命此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也伊以下三字以音下效此故阿曇連等者其綿津見神之子宇都志日金拆命之子孫也宇都志三字以音其底筒之男命中筒之男命上筒之男命三柱神者墨江之三前大神也於是洗左御目時所成神名天照大御神次洗右御目時所成神名月讀命次洗御鼻時所成神名建速須佐之男命須佐二字以音右件八十禍津日神以下速須佐之男命以前十四柱神者因滌御身所生者也

是(ここ)に、上瀬(かみつせ)は瀬速(せばや)し、下瀬(しもつせ)は瀬弱(せよは)しと詔(のり)ごちたまひて、初めて中瀬(なかつせ)に墮(お)り迦豆伎(かづき)て滌(そそ)ぎたまふ時に、成り坐(ま)せる神の名(みな)は、八十禍津日神(やそまがつびのかみ)禍を訓(よ)みて摩賀(まが)と云(い)ふ。下も此(これ)に效(なら)ふ。次に大禍津日神(おほまがつびのかみ)。此(こ)の二神(ふたばしらのかみ)は、其(か)の穢(きたな)き繁國(しきぐに)に到りましし時の、汚垢(けがれ)に因(よ)りて成りませる神也(なり)。次に其(そ)の禍(まが)を直さんと爲(し)て成りませる神の名(みな)は、神直毘神(かみなほびのかみ)毘の字は音を用ゐる。下も此(これ)に效(なら)ふ。次に大直毘神(おほなほびのかみ)。次に伊豆能賣(いずのめ)神(のかみ)幷(あは)せて三神(みはしらのかみ)也(なり)。伊の以下(しも)四字は音を用ゐる。次に水底(みなそこ)に滌(そそ)ぎたはふ時に、成りませる神の名(みな)は、底津綿上津見神(そこわたつみのかみ)。次に底筒之男命(そこづつのおのみこと)。中に滌(そそ)ぎたまふ時に、成りませる神の名(みな)は、中津綿上津見神(なかつわたつみのかみ)。次に中筒之男命(なかづつのおのみこと)。水の上(へ)に滌(そそ)ぎたまふ時に、成りませる神の名(みな)は、上津綿上津見神(うはつわたつみのかみ)。上を訓(よ)みて宇閇(うへ)と云(い)ふ。次に上筒之男命(うはづつのおのみこと)。此(こ)の三柱(みはしら)の綿津見神(わたつみのかみ)は、阿曇連(あずみのむらじ)等(ら)之(が)祖神(おやがみ)と以(もち)伊都久(いつく)神也(なり)伊の以下(しも)三字は音を用ゐる。下も此(これ)に效(なら)ふ。故(かれ)、阿曇連(あずみのむらじ)等(ら)は、其(こ)の綿津見神(わたつみのかみ)の子(みこ)、宇都志日金拆命(うつしひがなさくのみこと)の子孫(すゑ)也(なり)宇都志の三字は音を用ゐる。其(そ)の底筒之男命(そこづつのおのみこと)、中筒之男命(なかづつのおのみこと)、上筒之男命(うはづつのおのみこと)、三柱(みはしら)の神は、墨江(すみのゑ)の三前(みまえ)の大神(おほかみ)也(なり)。是(ここ)に左の御目(みめ)を洗ひたまひし時に、成りませる神の名(みな)は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右(みぎり)の御目(みめ)を洗ひたまひし時に、成りませる神の名(みな)は、月讀命(つくよみのみこと)。次に御鼻(みはな)を洗ひたまひし時に、成りませる神の名(みな)は、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)須佐(すさ)の二字は音を用ゐる。右の件(くだり)、八十禍津日神(やそまがつびのかみ)以下(より)、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)以前(まで)、十四柱(とまりよはばしら)の神は、御身(みみ)を滌(そそ)ぎたまふに因(よ)りて生(あ)れませる者(かみ)也(なり)。

さて禊ぎをしようとなされましたが「上流は水の流れが激しすぎる。しかし下流は穏やかすぎる」と仰って、中流付近に降りられて水に入られたとき、初めにお生まれになられた神様の名を八十禍津日神、次に大禍津日神と申します。この二柱の神様は、あの穢れの多い国に行った時の穢れからお生まれになったのです。次にその禍(まが)を直そうとして生まれた神様の名は神直毘神、次に大直毘神、伊豆能賣神と仰います。(合わせて三柱)。次に水底で身をお洗いになられた時にお生まれになられた神様の名は底津綿津見神、次に底筒之男命と仰います。中程で身をお洗いになられた時にお生まれになられた神様の名は中津綿津見神、次に中筒之男命と仰います。水面で身をお洗いになられたときにお生まれになられた神様の名は上津綿津見神、次に上筒之男命と仰います。この三柱の神は、阿曇の連たちが祖先神として崇める神様です。つまり阿曇連たちは、この綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫です。この底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命の三柱の神は、墨之江(住吉)の大神です。さらに左の目をお 洗いになられたところ、天照大御神という名の神様がお生まれになられました。次に右の目をお洗いになられたところ、月読命という神様がお生まれになられました。次に鼻をお洗いになられたところ、建速須佐之男命という神様がお生まれになられました。この条で八十禍津日神から速須佐之男命まで、合わせて十四柱の神は、禊ぎによってお生まれになられた神様です。

此時伊邪那伎命大歡喜詔吾者生生子而於生終得三貴子卽其御頸珠之玉緖母由良邇此四字以音下效此取由良迦志而賜天照大御神而詔之汝命者所知高天原矣事依而賜也故其御頸珠名謂御倉板擧之神訓板擧云多那次詔月讀命汝命者所知夜之食國矣事依也訓食云袁須次詔建速須佐之男命汝命者所知海原矣事依也

此(こ)の時、伊邪那伎命(いざなぎのみこと)、大(いた)く歡喜(よろこば)して詔(のり)たまはく、吾(あれ)は子を生生(うみうみ)て生みの終(はて)に、三(みばしら)の貴子(みこ)を得たり、卽(やが)て其(そ)の御頸(みくび)の珠之玉(たまの)緖(お)母由良邇(もゆらに)此(こ)の四字音を用ゐる。下も此(これ)に效(なら)ふ取り由良迦志(ゆらかし)て、天照大御神(あまてらすおほみかみ)に賜(たま)ひて詔(のり)たまはく、汝(な)が命(みこと)は、高天原(たかまのはら)を知らせと、事依(ことよさし)賜(たま)ひき。故(かれ)、其(そ)の御頸(みくび)の珠(たま)の名(みな)を、御倉板擧之神(みくらたなのかみ)と謂(まう)す板擧を訓(よ)みて多那(たな)と云(い)ふ。次に月讀命(つくよみのみこと)に詔(のり)たまはく、汝なが命(みこと)は、夜の食國(おすくに)を知らせと、事依(ことよさし)たまひき食を訓(よ)みて袁須(おす)と云(い)ふ。次に建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)に詔(のり)たまはく、汝(な)が命(みこと)は、海原(うなはら)を知らせと、事依(ことよさし)たまひき。

この時、伊邪那岐命は大いにお喜びになられて「私は国土や神々を生んできたが、ついにこの上なく貴い三柱の御子を得た」と仰いました。そして首に掛けていた玉の緒をゆらゆらと振り動かし、天照大御神に「お前は高天の原を治めよ」とお命じになられ、玉をお授けになりましたた。この首の玉を御倉板擧之神と呼びます。次に月読命に対しては「お前は夜の国を治めよ」とお命じになられました。次に建速須佐之男命に対して「お前は海原を治めよ」とお命じになられました。

故各隨依賜之命所知看之中速須佐之男命不知所命之國而八拳須至于心前啼伊佐知伎也自伊下四字以音下效此其泣狀者青山如枯山泣枯河海者悉泣乾是以惡神之音如狹蠅皆滿萬物之妖悉發故伊邪那岐大御神詔速須佐之男命何由以汝不治所事依之國而哭伊佐知流爾答白僕者欲罷妣國根之堅洲國故哭爾伊邪那岐大御神大忿怒詔然者汝不可住此國乃神夜良比爾夜良比賜也自夜以下七字以音故其伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也

故(かれ)、各(おのもおの)隨依(みよさし)賜(たま)へる命(みこと)の、看(まにまに)知ろすめす中に、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)、命之國(よさしたはへるくに)を知らさずて、八拳須(やつかひげ)心(むなさき)に至(いた)るまで、啼(な)き伊佐知伎(いさちき)伊自(よ)り下四字は音を用ゐる。下も此(これ)に效(なら)ふ。其(そ)の泣きたまふ狀(さま)は、青山(あおやま)を枯山(からやま)如(な)す泣なき枯らし、河海(うみかは)は悉(ことごと)く泣き乾(ほ)しき。是(ここ)を以て惡神(あらぶるかみ)の音(おとない)、狹蠅(さえば)如(な)す皆滿(みなわき)、萬(よろず)の物の妖(わざわひ)悉(ことごと)に發(おこ)りき。故(かれ)、伊邪那岐(いざなぎ)大御神(のおほみかみ)、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)に詔(のり)たまはく、何(なに)由以(とかも)、汝(みまし)は事依之國(ことよせるくに)を治(し)らさずして、哭(な)き伊佐知流(いさちる)。爾(ここ)に答白(まう)したまはく、僕(あ)は罷妣國(ははのくに)根の堅洲(かたす)國にまからんとおもふが故(ゆゑ)に哭(な)く。爾(ここ)に伊邪那岐(いざなぎ)大御神(のおほみかみ)大(いた)く忿怒(いから)して詔(のり)たまはく、然者(しからば)汝(みまし)此(こ)の國にはな住みそ、乃(すなは)ち神(かむ)夜良比爾夜良比(やらひにやらひ)賜(たま)ひき夜自(よ)り以下七字は音を用ゐる。故(かれ)、其(そ)の伊邪那岐(いざなぎ)大神(のおほみかみ)は、淡海(あふみ)の多賀(たが)に坐(なも)します。

こうしてそれぞれ命ぜられた国を治めることになりましたが、そのうちで速須佐之男命だけは、言われた国を治めようとせず、ひげが長く伸びて胸に届く年頃になっても、大声で泣き続けていた。その様子は青山が枯れ山にやるほど泣き枯らし、海と川の水をすっかり干上がらせてしまうほどすさまじかったのです。そのため悪神がやって来て地に満ち、あらゆる災いが起こりました。そこで伊邪那岐命は速須佐之男命に「お前はなぜ国を治めようとせず、泣き続けているのか」と尋ねたところ「私は母の住む国、根の堅州国に行きたいから泣いているのです」とお答えになられた。伊邪那岐命は激怒して「お前はこの国に住んではならん」と言って、追い出しておしまいになられました。その後伊邪那岐命は、近江の多賀にお住みになられました。

  1. 後世の我々にはいささか衝撃的な行動です。現代であれば亡き妻の忘れ形見として大切に養育するものですが、古代において嬰児殺しは珍しくありませんでした。そもそもヒトと見なされていたかどうかすら疑わしいのです。この下りはそのような古代人の倫理観念が反映されていると理解すべきでしょう。
  2. 伊邪那岐命と伊邪那美命の子作りの後で初めて産まれた神々が「刀」から生じたというのは非常に暗示的です。
  3. 上古の人々の死生観をここで見ることができます。死後の世界は観念的に存在するのではなく、現世から通うことができる地に実在していると考えられていたのです。
  4. 「へぐひ」とは共食もしくは共食による同族擬制のことで、ここでは伊邪那美命が黄泉國の食べ物を食べてしまったことで、死者に変わってしまったことを表しています。身体は死んでも魂は黄泉國にあり、そこで「よもつへぐひ」して始めて死者となるのです。
  5. 死体を放置すると見るもおぞましいくらい「ウジ虫」まみれになります。ここの描写は大変写実的であると同時に、上古の人々が死を神聖視するでもなく、現代人のように必要以上の忌避感を持つでもなく、極めて冷静に見ていたことがわかるものとなっています。
  6. 雷が死の象徴とされているのは少々意外です。殷の時代、中国では稲光が神の御技と見なされ、申は神であったのですが、明らかにどこか別の地域の部族の影響が見えます。
  7. 上古、群婚段階を脱した部族は、妻問婚へと移行しますが、妻問婚の離婚がいつとはなしに男が通ってこなくなって自然消滅したり、女性が男を家に入れないことで関係が切れたりするようなもので、はっきり宣言のあるものでないことは『日本婚姻史概説』「妻問婚」で紹介しました。別に古代人も人間関係があやふやであったわけではなく、こと恋愛については復縁もありえるし、またその可能性を残していたのだと理解すべきです。従ってそのような状態で別れ別れになっていても互いに関係が切れずに残っており、それを厭う場合ははっきりと絶縁を宣言するか、除祓する必要がありました。つまり、この時まで伊邪那岐命と伊邪那美命はまだ夫婦だったのです。死を以てしてもその関係が切れるわけではないとした古代人の倫理を理想とするか、妄執と感じるかは人それぞれでしょう。
  8. 古事記傳によると「伊賦夜坂(いうやざか)は、延喜式神名帳に出雲国意宇郡の揖夜(いうや:現在は「いや」)神社がある。この神は三代実録十四、廿にも出ている。風土記には伊布夜の社と書いてある」ものらしい。

二〇一三年八月十一日 初版