『漢書』は、前漢のことを記した歴史書である。後漢の章帝の時に勅命により班固(西暦三二年〜九二年)が編纂した。永元四年(西暦九二年)、妻の一族の罪に連座して班固が処刑された後、未完であった八表・天文志を和帝の勅命によって妹の班昭(西暦四五年?〜一一七年?)が編纂し、『漢書』を完成させた。
燕地尾箕分埜也武王定殷封召公於燕其後三十六世與六國倶稱王東有漁陽右北平遼西遼東西有上谷代郡雁門南得涿郡之易容城范陽北新城故安涿縣良郷新昌及勃海之安次皆燕分也樂浪玄菟亦宜屬焉燕稱王十世秦欲滅六國燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王不成而誅秦遂舉兵滅燕薊南通齊趙勃碣之間一都會也初太子丹賓養勇士不愛後宮美女民化以爲俗至今猶然賓客相過以婦侍宿嫁取之夕男女無別反以爲榮後稍頗止然終未改其俗愚悍少慮輕薄無威亦有所長敢於急人燕丹遺風也上谷至遼東地廣民希數被胡寇俗與趙代相類有魚鹽棗栗之饒北隙烏丸夫餘東賈真番之利玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義田蠶織作樂浪朝鮮民犯禁八條相殺以當時償殺相傷以穀償相盜者男沒入爲其家奴女子爲婢欲自贖者人五十萬雖免爲民俗猶羞之嫁取無所讎是以其民終不相盜無門戸之閉婦人貞信不淫辟其田民飲食以籩豆都邑頗放效吏及内郡賈人往往以杯器食郡初取吏於遼東吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條可貴哉仁賢之化也然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云自危四度至斗六度謂之析木之次燕之分也
燕[一]燕は中国戦国時代にあった国。紀元前千百年頃から紀元前二百二十二年、秦に滅ぼされるまで続いた。燕地条はその「燕」の地理が記述されている部分で、そこに「倭人」のことが記されているのは、「燕」に「倭人」が服属していたからだという説もあれば、単に方位が一致するので記されているだけだという説もある。『山海經』第十二「海内北經」にも「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」=「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す」とあり、解釈が別れている。地は尾[二]「尾」は、二十八宿のひとつ。二十八宿とは、天空を西から東へ二十八に、ただし不均等に分割したもので、十二次と併せて天体の経度方向を表す座標にした。それぞれの西端にある比較的明るい星を距星と呼んで基準にして、東隣の宿の巨星までがその宿の広度となる。『漢書』では広度を「分度」や「分」と表現している。「尾」の距星は、足垂れ星(あしたれぼし)のことで、さそり座ミュー星に比定されている。、箕[三]箕の距星は、箕星(みぼし)のことであり、いて座ガンマ星に比定されている。の分埜也。武王殷を定め、召公を燕に封ず[四]殷は商のことで周の前の王朝であり、紀元前十七世紀から紀元前一〇四六年頃まで続いた。武王はその殷を武力で倒し、代わって周王朝(紀元前一〇四六年頃〜紀元前二五六年)を開いた。武王が各地を平定する過程で、召公奭(武王の同族とも、あるいは召族の君主で周の同盟者であったとも言う)に燕の地を領地として与えたとされている。。其の後、三十六世にして六國と倶に王を稱す。東に漁陽、右北平、遼西、遼東有り。西に上谷、代郡、雁門有り、南に涿郡の易、容城、范陽、北に新城、故安、涿縣、良郷、新昌、及び勃海の安次を得、皆燕の分也。樂浪、玄菟も亦宜しく焉に屬すべし。燕、王を稱して十世、秦[五]秦は紀元前七七八年から紀元前二〇六年まで続いた国で、約五百年に渡り群雄割拠で互いに争っていた中国を紀元前二二一年に統一した。中国のことを支那とも言うのは秦に由来する。また英語で中国を china と言うのも秦に由来する。、六國を滅ぼさんと欲す。燕王の太子丹は勇士荊軻を西に遣はし、秦王を刺さしめるも成らずして誅され[六]『史記』列伝第二十六、通称「刺客列伝」に詳しい経緯が載っている。ぜひ読んで頂きたい。、秦は遂に兵を舉げて燕を滅す。薊は南に齊、趙へ通じ、勃、碣間の一都會也。初め太子丹は勇士を賓養し、後宮の美女を愛しまず。民は化を以て俗と爲なす。今に至るも猶然り。賓客の相過ぎるに婦を以て宿に侍しせしめ、嫁取の夕に男女の別なけれども、反つて以て榮と爲す。後に稍頗止するも、然るに終に未だ改まらず。其の俗は愚にして悍く、慮少なく、輕薄にして威無し。亦長ずる所有り。人の急するに敢たるは燕丹の遺風也。上谷より遼東へ至るに、地廣く民たみ希なし。數胡寇を被り、俗は趙、代と相類し、魚、鹽、棗、栗の饒有り。北は烏丸、夫餘と隙し、東は真番の利を賈ふ。玄菟、樂浪は武帝ぶていの時に置き、皆、朝鮮、濊貉、句驪の蠻夷なり。殷の道衰へ、箕子が朝鮮に去り之き[七]『史記』世家第八、宋微子に「武王が箕子を朝鮮に封じた」という記載がある。、其の民に、禮義
燕の地は、二十八宿の分度でいうと、尾と箕の分野にある。周の武王が殷を倒した後、召公を燕に封じた。それから三十六代経ってから六国(秦、魏、趙、韓、斉、宋、楚の六カ国)と一緒に王を称した。東に漁陽、右北平、遼西、遼東があり、西に上谷、代郡、雁門を取り、南に郡の易、容城、范陽、北に新城、故安、涿縣、良郷、新昌及び勃海郡の安次を取得した。皆燕の分度である。楽浪郡と玄菟郡も燕の分度に属すると見なすべきである。燕が王を称してから十代経った頃、秦は六国を滅ぼそうとした。燕の太子丹は勇士荊軻を派遣して秦王を刺殺させようとしたが、成功せずに荊軻は誅殺されてしまった。ここに至って秦は兵を起こして燕を滅ぼした。薊は斉や趙に通じており、勃と碣の間で一番の都会である。そもそもは太子丹が勇士を客としてもてなし扶持して、後宮の美女を客に与えたことに、民が従いならってその風俗としたのである。今に至ってもなおそのままだ。客人が訪れると女性を宿る人に侍らせ、嫁取りの夜には男女の別なく乱交し、それを不道徳と思わずかえって名誉だとしている。後にやや少しばかり止んだこともあったが、今に至るまで未だに改まっていない。その俗は愚かで気が荒く、深く考えを巡らせることがなく、軽薄で威厳がない。そうはいってもまた長所もある。人を急かせると思い切りがよいのは、燕の太子丹の遺風である。上谷から遼東へ至る間は、地が広く、人があまりいない。胡冠を被っている者が多く、風俗は趙や代と似通っており、魚、塩、棗、栗が豊富である。北では烏丸、夫餘と対立しており、東では真番と取引している。玄菟郡と楽浪郡は、武帝の御代に置かれた。みな、朝鮮、濊貉(わいばく)、句驪(くり)の蛮夷である。殷が滅んだ時、箕子が朝鮮にやってきて、朝鮮の民に礼儀に則った稲作、養蚕、機織(はたおり)を教えたのである。楽浪郡や朝鮮で人民が禁止されている罪八つを犯した場合、人を殺した場合は、すぐに犯人を殺した。人を傷つけた場合は、穀物で贖(あがな)わせた。盗みの場合、その身分を落として男は盗みに入った家の奴(やっこ)に、女は婢(はしため)にした。自首して贖罪を望むものは、ひとりにつき五十万鐘(の穀物、一鐘は五十㍑)とした。罪を免れ、民としての地位を保ったとしても、これを恥じるように風俗が変わった。嫁を取る場合も代価が不要となり、ここに至って遂に、その人民は盗みを働かず、門戸を閉じることもなくなり、女性は貞淑で、浮気をすることもなくなった。農民は、籩豆(へんとう)を使って食事をし、都市には官僚や中国本土の商人をよく見習い、しばしば食器を使って食事を取るようになった。玄菟郡と楽浪郡でははじめ、遼東から官吏を選抜していたが、官吏が見たところ、人民は町の門を閉ざさない。商人で行商する者が夜になると、盗みを働くようになっていた。その風俗の益化もようやく薄れ、今は悪い行いを禁じる法令がますます多くなり、六十条あまりになっている。仁者賢人の教化というのは誠に貴いものである。そうではあっても、東夷の天性は柔順である。そこが北狄(ほくてき)、西戎(せいじゅう)、南蛮との違いである。だからこそ、孔先生は道が行われないのを悲しみ、小舟を海に浮かべて九夷(九はすべての意、転じて代表の意。この場合は東夷の中心か)の地に行きたいと仰った。それには理由があったのだろうか。(もちろんあったのである。)楽浪郡の先の海に倭人の分度があり、百あまりの国がある。礼に則り毎年朝見していたと伝える。倭人の分度は危の四度から斗の六度までである。これを「析木の次」という。燕の分度に属している。