『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳倭國条

『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳

『三国志』は、西晋陳寿(西暦二三三年〜二九七年)によって編纂された。西晋による中国統一後の二八〇年以降に成立したとされている。後世の評価は高く、まず第一級の歴史資料である。ここでは烏丸鮮卑東夷傳の序文を見て、陳寿が東夷をどのようにとらえていたかを見てみる。その後で、世に言う『魏志倭人伝』を扱う。

書稱東漸于海西被于流沙其九服之制可得而言也然荒域之外重譯而至非足跡車軌所及未有知其國俗殊方者也自虞曁周西戎有白環之獻東夷有肅愼之貢皆曠世而至其遐遠也如此及漢氏遣張騫使西域窮河源經歴諸國遂置都護以總領之然後西域之事具存故史官得詳載焉魏興西域雖不能盡至其大國龜茲于寘康居烏孫疎勒月氏鄯善車師之屬無歳不奉朝貢略如漢氏故事而公孫淵仍父祖三世有遼東天子爲其絶域委以海外之事遂隔斷東夷不得通於諸夏景初中大興師旅誅淵又濳軍浮海收樂浪帶方之郡而後海表謐然東夷屈服其後高句麗背叛又遣偏師致討窮追極遠踰烏丸骨都過沃沮踐肅愼之庭東臨大海長老説有異面之人近日之所出遂周觀諸國采其法俗小大區別各有名號可得詳紀雖夷狄之邦而俎豆之象存中國失禮求之四夷猶信故撰次其國列其同異以接前史之所未備焉

しよしようす 「東は海にすすみ、西は流沙りうさおほはる」の九服の制[一]「服」は服従の意。中国の周代(紀元前一〇四六年頃〜紀元前七七一年)に王畿(首都を中心に千里四方の地域を指す)の外を王城からの距離をもとにして分けた九つの地域。すなわち侯服(こうふく、王畿のすぐ外側幅五百里)・甸服(でんぷく、侯服の外側幅五百里)・男服(甸服の外側幅五百里)・采服(さいふく、男服の外側幅五百里)・衛服(采服の外側幅五百里)・蛮服(衛服の外側幅五百里)・夷服(いふく、蛮服の外側幅五百里)・鎮服(夷服の外側幅五百里)・藩服(鎮服の外側幅五百里)の九つ。元は五服、甸服(でんぷく)・侯服・綏服(すいふく)・要服・荒服であった。、得て言ふなりしかるに荒域の外、重譯ちようえきして至る。足跡そくせき車軌しやきおよぶ所にあらずして、いまの國俗殊方しゆはうを知る者有らずなりり周にいたり、西戎せいじう[二]『礼記』王制篇にある「東方を夷といふ。髪を被り身を文し、火食せざる者有り」という句、あるいは曲禮篇下にある「その東夷、北狄、西戎、南蠻に在るは大と雖も子といふ」という句が出典か。いずれにせよ、中華の文明に属さない未開の部族を総称して「四夷」「夷蠻」などと称し、北方の族を「北狄」、西方の族を「西戎」、南方の族を「南蠻」、東方の族を「東夷」と言った。白環はくかんけん有り、東夷とうい肅愼しゆくしんの貢有り、みな曠世くわうせいにして至り、遐遠かえんなることくのごとし。漢氏に及び張騫ちやうけんつかはし西域に使ひし、河源をきはめ、諸國を經歴けいれきし、つひ都護とごを置き以てこれ總領そうれいし、しかる後、西域の事具存ぐそんし、ゆゑに史官詳載しやうさいするを得る。おこり、西域ことごとく至るあたはずといへども、の大國龜茲きじ于寘うてん康居こうきよ烏孫うそん疎勒みろく月氏げつし鄯善ぜんぜん、車師のしよく、朝貢を奉ぜざる歳の無きこと、ほぼ漢氏の故事のごとし。しかうして公孫淵こうそんえん、父祖三世につて遼東れうとうに有り、天子の絶域とし、以て海外の事をゆだね、つひ東夷とうい隔斷かくだんし、諸夏に通ずるを得ず。景初中、おほいに師旅をおこし、えんちうす、また軍をしずませ海に浮かび、樂浪らくろう帶方たいはうの郡を收め、しかうして後海表かいへう謐然ひつぜん東夷とうい屈服す[三]倭が入朝したことを表す。朝鮮半島南部にあった國も朝貢しただろう。の後高句麗かうくり背叛はいはんし、また偏師へんしつかはし致して討ち、窮追きうついすること極遠にして、烏丸うがん骨都こつとへ、沃沮よくそを過ぎ、肅愼しゆくしんの庭をみ、東に大海をのぞむ。長老説く「異面の人、日の出ずる所の近くに有り」つひに諸國を周觀しうかんし、の法俗、小大區別くべつける。おのおの名號めいかう有り、詳紀するを得るし。夷狄いてきくにいへども、すなは俎豆そとうしやう[四]単に祭祀の儀礼があったと文字通り読んではならない。祭祀とは國の祭祀で有りそれを司る儀礼とは國を運営する方法なのである。従って、中国で禮が失われても四夷に求めうるとは、國の運営に必要な式次第や約束事、それに使う祭器に至るまで保存されているのだということを意味する。現代においても、文化は中央から伝播して、中央で失われても周辺でそれがよく保存される法則があることが確かめられている。民俗学では「方言周圏論」として知られている。古代日本の「骨卜」もその例のひとつであろう。。中國れいを失し、これを四夷に求む、なほしんあり。ゆゑの國を撰次し、の同異を列し、以て前史のいまそなえざる所をぐ。

書経には「(中国の教化は)東は海に至るまで。西は流砂が覆う地にまで(広がった)」と記されている。当然、中華の九服の制が適切に行われたことを言っているのだ。しかし辺境のまた外については、翻訳を重ねた風聞が聞こえてくるばかりであった。歩いたり馬車に乗って行けるところではなく、未だに国の風俗やその外国のことを知る者はいない。虞(帝舜)からに至るまでの間、西戎は白環から礼物の献上があり、東夷肅愼から貢ぎ物があった。皆久しい間、朝貢にきているが、その遠く遙かなことは以上の通りである。帝国の時代、張騫を派遣して西域を調査させ、黄河の源流を突き止めさせ、諸国をつぶさに巡り、遂に都護を置いて支配した。その後、西域のことが具体的に調査できるようになり、そのため、史官が詳しく記録に載せることができたのだ。が建国され、西域をことごとく支配下に置くことはできなかったが、その大国である龜茲于寘康居烏孫、疎勒、月氏鄯善車師の屬は朝貢してこない年がなく、ほとんどの時代と変わらない。その上公孫淵が父祖三代に至り、遼東を支配していたが、天子はそこを中華から遠く離れた地域とし、海外のことを委ねたので、とうとう東夷は中華から隔てられ、交通が断たれて、中華と通交することができなくなった。景初年間の中頃、大規模に軍隊を出して、公孫淵を誅殺した。また軍に川を進ませ、海を航行させて樂浪郡帶方郡を設置したところ、海の上はひっそりとして静まりかえり、東夷は屈服した。その後、高句麗が背反し、全軍の内一軍を出して派遣してこれを討伐し、追い詰めて追い詰めて遙か遠くまで行き、烏丸、骨都を越えて、沃沮を通り過ぎ、肅愼の地元を経て、東に大海を望む地に至った。その土地の長老の説明によると「変わった顔立ちをした人々が日の出るところの近くにいる」という。その法や風俗は身分の上下を分けて秩序立っている。それぞれ国名があり、詳しく採録することができた。夷狄の国とはいえ、俎豆(祭りの供物をのせたり盛ったりする器、転じて祭祀を言う)の儀礼がある。中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。それゆえ、その国を選び出し、その異同を示して、これまでの正史が備えていなかったところを補うものとする。

では次に倭國条を見てみる。長いので、全体を四つにわけて次に示す。

倭國条

倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至倭循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國其大官曰𤰞狗副曰𤰞奴母離所居絶㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乖船南北市糴又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國官亦曰𤰞狗副曰𤰞奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉沒取之東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國郡使往來常所駐東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰𤰞奴母離有二萬餘戸東行至不彌國百里官曰多模副曰𤰞奴母離有千餘家南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升󠄃次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有已百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼󠄂國次有爲吾國次有鬼󠄂奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智𤰞狗不屬女王自郡至女王國萬二千餘里

 倭人は帶方たいはう東南の大海中に在り、山㠀にりて國邑こくゆう[五]山がちの土地や島々によって国を立てているとあるのだから、これを奈良、つまり大和に比定することは完全な誤りである。もと[六]『漢書』地理志燕地条の「爲百餘國」という記述を承けている。、漢[七]後漢(西暦二五年〜二二〇年)のことである。の時朝見する者有り。今使譯しえき通ずる所三十国。郡り倭に至る。海岸にしたがひ、水行で韓國を[八]韓国内で水路を取ったことは極めて合理的である。安全であるし、海のように波の状態によって沈没するといった事故も避けられる。「歷」は説文では「過也傳也从止厤聲」「過ぐる也。傳ふる也。止に従ひ、厤は聲部」とある。ウィキショナリーによれば「止」+音符「厤」の会意形声文字で、「厤」は、「厂(屋根)」の下で「禾(穀物の穂)」を順序よく並べるの意、これに、「足」を意味する「止」を付して、順序良く足で歩くことを意味」とある。つまり朝鮮半島内を移動したことを表す字なのである。この後に続く「忽南忽東」は川の流れに従って船の航路が南を向いたかと思えば、東を向くといった様子を示している。また、同じ烏丸鮮卑東夷傳の韓条で「弁辰與辰韓雜居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施竈皆在戶西其瀆盧國與倭接界」「弁辰は辰韓と雜居す。また城郭有り。衣服居處は辰韓と同じ。言語法俗も相似る。鬼神を祠祭すること異有り。施竈は皆戶西に在り。其の瀆盧國は倭と界を接す」とあるので、倭の一部が朝鮮半島南岸にあったことは明らかで、なおさら海路を取る必要がなく、朝鮮半島内を移動したと考えるべきである。たちまち南したちまち東し、の北岸[九]岸、対馬、壱岐、九州北部にまたがる海洋国家であった。そのため北端にある狗邪韓國を「北岸」と称したのである。狗邪韓國こやかんこくに到る。七千里。始めて一海をわた[十]ここで始めて海を渡っている。ということはここまでに海路はない。子供でもわかる理屈である。、千[十一]狗邪韓國から対馬まで千里。対馬から壱岐までも千里。壱岐からで末盧國までも千里。とくればこれが正しい距離を表していないことは自明である。おそらく、対馬で一泊、壱岐で一泊、末盧國でも一泊したので旅程上は一日と記録され、これを機械的に里数に換算したものと思われる。この頃の中国には六分儀はないので、海を渡った距離を正確に測ることはできなかったはずである。對海つしま國へ到る。其の大官[十二]對海國は、對馬國の誤りとされている。同様に次に出てくる一大国も一支(いき)国の誤りとされている。對海國に「大官」が置かれていることに注意。南北をつなぐ要衝であるため、特に権限の強い官吏を配置したのだと思われる。𤰞ひこひ、副は𤰞奴母離ひなもり[十三]ヒナモリは、鄙守だと思われる。軍事の長官で、奈良時代の「夷守」と同一だと見なされている。ふ。る所絶㠀、方四百里あるし。土地は山險けはしく、深林多し。道路は禽鹿きんかみちごとし。千戸有り。良田く、海物を食して自活し、船にりて南北に市糴してき[十四]中国の市は常設もあったが、地方のこととて日を決めて立つ市であったと思われる。従って穀物がなくなったから慌てて船を出して買いに行くことなどできず、定期的に船が行き来していたと判断できる。これは壱岐でも事情が同じで、おそらく、狗邪韓國、対馬、壱岐、伊都國をつなぐ定期航路が開かれていたと推測できる。伊都國は後で出てくる一大率という役職の官吏が置かれ、諸国を睥睨していたし、外交上も重要な拠点であった。従って航路の出発点、終着点はこの国でなくてはならない。しかし、魏使の一行は末盧國に着いているではないか、という問いには、潮目が悪く流されてしまった結果であると答える。また南へ一海を渡ること千里、名を瀚海かんかい[十四]瀚海とはもとはゴビ砂漠のこと。海流も早く波も荒れがちな海をこう表現することで、旅路の困難を表そうとしたのではなかろうか。ひ、一大ゐだ國に至る。官また𤰞ひこひ、副は𤰞奴母離ひなもりふ。方三百里ある可し。竹木叢林そうりん多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り。田をたがやせどなほ食するに足らず。また南北に市糴してきす。また一海を渡り、千里で末盧まつろ國に至る。四千戸有り。山海にせまり居す。草木は茂盛もせいし、行、前の人を見ず[十六]前を行く人の姿が見えなくなるほど鬱蒼と下草が生えている森の中を移動するなど、魏使を迎える正規のルートであると考えることができない。これは[十三]で指摘した通り、正規のルートを外れて土地に官吏もいないほどの田舎に流されてしまい、苦心して、本来の目的地である伊都國を目指したと判断すべきだろう。魚鰒ぎよふくを捕らへ、水深淺しんせんく、みな沉沒(ちんぼつ)してこれを取る[十七]しかしそんな中でも魏使は観察を怠っていない。海に生きる民族の姿がよく表されている。。東南に陸行で五百里。伊都いと國に到る。官は爾支しきひ、副を泄謨觚せもこ柄渠觚へここふ。千戸有り。世、王有り[十八]代々王がいる。と書いているのに、王の名前が書かれていない。これは他の国も同じだ。では王はいなくなったのかといえばそんなことはない。おそらく官として紹介されている役職に就いている人物が王なのだ。みな女王國に統屬とうぞくす。郡使の往來、常に駐する所。東南に國へ至る。百里。官は兕馬觚しまこひ、副は𤰞奴母離ひなもりふ。二萬まん戸有り。東行し不彌ふみ國へ至る。百里。官は多模たもひ、副は𤰞奴母離ひなもりふ。千餘家有り。南へ投馬つま國に至る。水行二十日。官は彌彌みみひ、副は彌彌那利みみなりふ。五まん戸あるし。南に至り邪馬壹やまゐ[十九]「邪馬壹國」であって「邪馬臺國」ではない。山がちの国に住んでいるから「山倭(やまゐ)」と称していた音を写したものと思われる。『後漢書』では「邪馬臺國」になっているが、二世紀が経過する間に国勢が発展し、国名に「大」という尊称をつけて自尊するほどになっていたのであろう。つまり「山大倭(やまたゐ)」を写したのが「邪馬臺國」なのだ。、女王のみやこする所。水行を十日、陸行を一月[二十]ここは倭の調査にかけた期間であると理解すべきだろう。倭を訪問する中国の使節は魏が初めてなのである。詳細に記録を残すためにも時には船を下り、寄り道もして詳しく倭の土地や風俗を観察、調査したに違いない。つまり、今までの邪馬台国論争は明後日の方向で議論していたと言うことであり、何とも無駄なことを何世紀も続けるものだと学者には呆れるばかりである。。官に伊支馬いきま有り。次を彌馬升󠄃みませうひ、次を彌馬獲支みまわきひ、次を奴佳鞮なかじふ。七まん戸あるし。女王國より北を以て戸數こすう道里を略載しし。ぼう國は遠絶にして、つまびらかにするを得ず。次に斯馬さま國有り、次に已百支いひやくき國有り、次に伊邪いや國有り、次に都支とき國有り、次に彌奴みな國有り、次に好古都ほこと國有り、次に不呼ふか國有り、次に姐奴ゑな國有り、次に對蘇ついそ國有り、次に蘇奴すな國有り、次に呼邑かゆう國有り、次に華奴蘇奴ふぁなすな國有り、次に鬼󠄂くぃ國有り、次爲吾うえいう國有り、次に鬼󠄂くぃな國有り、次に邪馬やま國有り、次に躬臣くんしん國有り、次に巴利ふあり國有り、次に支惟きゆ國有り、次に烏奴うな國有り、次に國有り。これ女王の境界くる所。の南に狗奴こな國有り、男子を王とす。其の官に狗古智𤰞ここちひこ有り、女王にぞくさず。郡より女王國に至る、まん二千里。

倭人は帶方郡東南の大海中にいて、山がちな土地や島々に国を建てている。昔百国余りあると言われたところだ。後漢の時代に朝貢した者がおり、今は使者や通訳が往来する国が三十ある。郡より倭に至る行程は次の通り。海岸沿いに陸路で南下。主に河川を航行して馬韓辰韓弁韓をつぶさに訪ねた。川の水路は南に向かうかと思えば東に向かう。そうして倭國の北岸である、狗邪韓國に到着した。ここまで実質的に七千里余りを旅した。ここで初めて海を渡り、千里あまり航行して対馬國に到着した。そこの大官を𤰞狗と言い、副官は𤰞奴母離と言う。そこは海の中の孤島であり、広さは方四百里余りあることを確かめている。土地は峻険で深い森が多い。道路は獣道のようだ。家が一千戸あまりある。良い田がなく、海産物を食料として生活しており、定期的に出る船に乗って南北の市に穀物を買いに行っている。また南へ海を千里余り渡った。その海は名前を瀚海(元はゴビ砂漠を指す。ここでは荒れて広漠とした海の意)といい、そこを越えて一大國へ到着した。ここでも長官を𤰞狗と言い、副官は𤰞奴母離と言う。広さは方三百里余りあることを確かめた。竹木、草むらが多く、三千ばかり家がある。田が少しあり、その田を耕作しているが、とてもすべての食料を賄えるものではないので、やはり南北の市に穀物を買いに行っている。また海を渡り、千里余りで末盧國に着いた。家が四千戸余りある。家が海岸沿いの山肌に並んでいる。草木が盛んに茂っておりそこを歩いて踏破したのだが前を行く人が見えないくらいだった。ここの住人は魚やアワビを捕らえるのが上手で、水深が深くても浅くてもどこでも浮き沈みしてそれらを取っている。そこから東南に五百里も歩いて、何とか伊都國に到着した。長官は爾支、副官は泄謨觚、柄渠觚といい、家が千戸余りある。代々王がいたが、今はみな女王国の支配するところとなっている。郡使が往来する場合は、必ずここに立ち寄り宿泊する。東南に奴國へ至る。百里であった。長官は兕馬觚、副官は𤰞奴母離である。家は二万戸余りある。東へ行程を取り不彌國へ着いた。距離は百里だった。長官は多模といい、副官は𤰞奴母離である。家が千余りある。そこから南へ投馬國へ向かった。川を遡航して二十日の行程だった。長官は彌彌、副官は彌彌那利という。五万戸余りあることを確かめた。そこから南へ行くと邪馬壹國であり、女王が統治しているところである。見聞しながら、主に川を航行するのに十日、主に陸を歩くのに一ヶ月をかけた。長官に伊支馬、次に彌馬升󠄃、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮がいる。七万戸余りは確実にあった。女王国から北は、その戸数や路程をおおむね記載することができたが、それ以外の国やそれに付庸する国はあまりに遠くて、詳細な情報を得ることができなかった。そういった国々として、斯馬國、已百支國、伊邪國、都支國、彌奴國、好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、呼邑國、華奴蘇奴國、鬼󠄂國、爲吾國、鬼󠄂奴國、邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國、奴國がある。これで女王国の境界内にある国すべてである。それらの南に狗奴國があって、男性を王としている。狗古智𤰞狗という長官がいる。女王には属していない。郡から女王国まで一万二千里余りを旅した。

男子無大小皆黥面文身自古以來其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會稽斷髮文身以避蛟龍之害今倭水人好沉沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊𤰞有差計其道里當在㑹稽東治之東其風俗不淫男子皆露紒以木綿招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髮屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑綿其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地溫暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟卧息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬舉家詣水中澡浴以如練沐其行來渡海詣中國恆使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢污不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰󠄄若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰󠄄不謹

男子は大小とみな黥面げいめん文身[二十一]「鯨面」とは顔に入れ墨すること。「文身」は身体に入れ墨をすること。文は説文に「錯畫也」とある。彩り描くの意である。ちなみに、青と赤も文と言う。す。いにしへより以來、其の使ひ中國にいたるや、みな自ら大夫たいふしよう[二十二]身分制度があった時代、誰でも皇帝に朝見できるはずはなかった。江戸時代でも将軍に拝謁できないお目見え以下という武士がいたのと同様で、相応しい身分が必要であった。『礼記』王制篇に「諸侯の上大夫は卿、下大夫、上士、中士、下士、凡そ五等」とある。周代以降、君主の下に小領主として「上大夫=卿」があり、以下「下大夫」「上士」「中士」「下士」その下に庶民があった。天子に朝見できるのは大夫以上であったから、大夫を称したのであろう。つまりその身分制度をよく理解しており、礼に通じていたことを表すのである。夏后かかう少康せうかうの子、會稽かいけいに封ぜられ、斷髮だんぱつ文身を以て蛟龍かうりうの害をけせしむ。今倭の水人すいじんく沉沒し魚蛤ぎよかふを捕へ、文身また以て大魚水禽をいとはしむ。のちやうやく以て飾りとす。諸國で文身それぞれ異なり、或いは左に或いは右に、或いは大或いは小。尊𤰞に差有り。の道里を計るに、まさ㑹稽かいけい東治の東に在るべし。の風俗いんならず。男子はみな露紒ろけいし、木綿ゆふを以て頭をしばる。の衣は横幅おうふくにしてただつらねて結束けつそくす。ほぼほう無し。婦人は被髮屈紒ひはつくつけいし、衣を作ること單被たんぴごとく、の中央を穿うがち頭をつらぬきてこれ[二十三]『風俗博物館』の日本服飾史資料に男性の衣服を再現した写真がある。もちろん女性の服装の再現写真もある。卑彌呼の衣裳を想像したものまであるのは恐れ入った。なお、「露紒」は角髪(みずら)のことである。禾稻かとう紵麻ちよまゑ、蠶桑緝績さんさうしうせきす。細紵さいちょ縑綿けんめんいだす。の地、牛、馬、虎、豹、羊、しやく無し[二十四]他はともかく、牛や馬がいないというのは奇異な印象を受ける。無論、一頭もいないという意味ではなく、野生にいないのはもとより、家畜として飼育する習慣がなかったことを述べているのだと思われる。実際、紀元前四〇〇年頃と考えられている弥生時代の遺構から牛の骨が出土している。また、馬にしても箸塚古墳から四世紀のものと考えられる遺物と共に木製の輪鐙(あぶみ)が出土しており、その頃既に乗馬する習慣を持つ者がいたことがわかる。馬が本格的に普及して飼育されるようになったのは五世紀中ごろである。牛も似たような時期ではなかろうか。しかし、西暦六七五年には天武天皇が肉食禁止令を出して、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じており、七世紀にはかなり一般に見られる動物になっていたことがわかる。。兵は矛、楯、木弓を用ゐる。木弓は下を短く上を長くし、竹箭ちくせん或いは鐵鏃てつぞく或いは骨鏃こつぞく有無うむする所儋耳たんじ朱崖しゆがいに同じ[二十五]竹の矢柄や鉄の鏃、獣骨製の鏃の種類が海南島の人々と同じであるというのは、何を意味するのだろうか。元は同じ部族の人々が一方は海南島へ至り、一方は日本へ至ったということか。謎は尽きない。。倭の地は溫暖おんだんにして、冬夏に生菜を食す。みな徒跣とせん[二十六]日本人は永らく裸足で過ごしていたため、土踏まずがよく発達していたのだが、靴を履くように習慣が変わると扁平足が増えてきた。それはともかく、畳が普及すると庶民も草鞋や草履を履くようになりる。畳を汚さないためである。平安時代に登場した頃はクッションのような役目で座るところに敷くものだったが、室町時代に入り書院造が普及すると、部屋全体に畳を敷き詰めるようになった。これに伴い武士は普段草履を履くようになり、座るときも蹲踞ではなく、正座して恭敬を表すように変わった。正座そのものは古代中国から入っていただろうから、馴染みはあったものと思われる(中国は、南北朝時代に北魏が椅子を広めるまで座り方は正座が基本であった)。屋室おくしつ有りて、父母兄弟、卧息はところべつにす[二十七]成人した家族が男女の別なく雑魚寝することは夷狄の風俗として中国では野蛮視されていた。成人の男女が寝所を共にすることは性交することだからである。だから、わざわざ眠る場所が別々であることを特記しているのである。この頃日本は『妻問婚』であるから、成人した息子たちはそれぞれの妻の里へ寝に行ってたので「卧息異處」となったわけである。朱丹しゆたんを以て身體しんたいに塗り、中國の粉を用ゐるがごとなり[二十八]朱丹とは辰砂から作った朱色の粉末顔料であり、これを顔や身体に塗ってお化粧したのである。本当に白粉のように顔や肩など露出するところ全部に塗りたくったのだろうか。現代人からすると奇異な印象があるが、実際を見てみたかったと思う。。食飲は籩豆へんとうを用ゐ、手で食す[二十九]「籩」は竹ひごで作った高坏で、果物類を盛る。「豆」は木製の高坏で、魚介類や肉類を盛る。高坏は今でも仏具に用いるのでご覧になったことがある方も多いと思う。「手食」とあるが、縄文時代より煮物を食べていたことが出土した土器からわかっており、そんな熱々のものまで手で食べていたはずはない。これは饗応用に手でも食べられるものばかり魏使に出したからではないかと思われる。の死、くわん有りてくわく無し[三十]死者を棺桶に納めはするが、槨という、さらに棺を納める箱のようなものを作らず、棺桶を直接土に埋めるのは、ヨーロッパやアメリカでも見られる風習である。日本ももちろん、棺桶をそのまま土に埋めた。現在のお骨を納めるお墓の形は、明治時代以降に火葬が普及して一般化したものである。。土を封じてつかを作る。始め死するやとどまること十日、時にたりて肉を食はず。喪主もしゆ哭泣こくきふし、他人は就きて歌舞飲酒す[三十一]この下りを読んで、「なんと古代の人々の素直な心持ちであることか」と思ったのは私だけだろうか。家族が悲しみを露わにして泣きくれるのは当然だし、故人の知人が集って舞を披露したり酒を共に飲むことで死者の霊を慰めているのである。すでに葬むれば、家をげて水中にいたりて澡浴そうよく[三十二]喪中は身体の汚れを払うことなどできなかったと思われる。悲しみもあるだろうが、故人のために最も祈らなくてはならないのは家族であり、寝食を忘れるほどが理想であっただろう。従って葬儀が終われば身を洗うために挙って沐浴することになる。死を穢れとしてその禊ぎのために行ったのではないのである。穢れという概念はもともとヒンドゥー教にあったものであり、平安時代にその影響を受けた仏教を通じて伝わったのが日本における起源である。従ってこの時代、死は禊ぎの対象ではなかったのである。。以て練沐れんもくごとし。の行來、渡海して中國にいたるに、つねに使ひ一人、頭をくしけずらず、蟣蝨きしつを去らず、衣服をあかで污し肉を食はず、婦人を近づけず、喪人のごとし。これを名づけて衰󠄄じさい[三十三]願いが叶ったら財物を与え、叶わなかったら殺すというこの風習における持衰󠄄とは、依巫(よりまし)ではないかと思う。身体を洗わず髪も髭もほったらかしで垢が溜まっても拭いたりせず、あるがままの状態に置いて肉や女性を断つのは、神を降ろすためであろう。航海が無事に終わって帰ってくれば正しく職務を遂行したので報償を出すのはもちろんだが、怪我や難破その他支障が起きたということは、持衰󠄄が神を降ろしたふりをしていた、または邪神を降ろしていたためであり、いずれにせよ神に叛いたことを意味するので殺されたのだろう。す。し行く者吉善なれば、の生口財物をそなやとひとす。疾病しつぺい有り、暴害に遭へば、便すなはこれを殺さんと欲す。衰󠄄じさいつつしまずとふ。

男性は身分が高い者も低い者も全員顔と体に入れ墨をしている。古来、この国の遣使が中国に来ると、全員大夫(たいふ)を自称した。夏王朝少康王の王子がかつて会稽に封じられたことがある。髪を切って体に入れ墨をすることで、大魚水禽の害を避けることができると民に教えた。現在、倭で水に入る者は上手に浮き沈みして魚や蛤を捕まえているが、同じように体に入れ墨をすることで大魚水禽が近寄ってこないようにしている。入れ墨は、後になって次第に装飾になっていった。諸国で体の入れ墨は異なり、右にしていたり左にしていたり、大きく入れていたり小さかったりする。身分による秩序が定まっている。入れ墨の風俗や身分秩序のよってきたる理由を考えると、これこそまさに、会稽東治(少康王の王子の治績)が東に及んだ証である。この国の風俗は道理に適っている。男性はみなまげを垂らして頭に何も被っておらず、木綿(ゆう)で頭を縛っている。その衣服は、横長の幅のある布を互いに連ねて結び縛っているだけである。ほとんど縫ったところがない(男性の衣裳を再現した写真があります)。女性は髪を長く伸ばし、それをおってまげにしており、衣服はひとえのように作り、その中央に穴が空くようにしてそこから頭を出して着る(つまり貫頭衣。女性の衣裳を再現した写真もあります)。稲作をし、苧(からむし)を育てている。桑を植え養蚕して絹織物を作っている。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄、あるいは骨の鏃、有無するところが儋耳や朱崖(ともに海南島の地名)に同じである。倭の地は温暖で、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋根つきの家に住んでおり(遊牧民族が用いる移動式住居のような簡易な家ではないことを示す)、父母と兄弟それぞれは別のところで寝る(妻問婚のため、夜寝る時は、成年男子は妻のいる里へ出かける)。中国の白粉を用いるように、朱丹を身体に塗る。飲食には籩豆を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十日余りで喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は声を上げて泣き、他の人々は死者のそばで歌や舞を披露し、酒を飲んだりする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴びをする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。旅に出て海を渡り中国へ行く際に、必ず遣使の中に、頭髪を櫛で梳(くしけず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)も取らず、衣服は垢で汚れるままにし、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにした者を一人含める。これを持衰󠄄(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれて無事帰ってくれば、報酬として、生口(奴隷)や財物を与え、もし疾病があったり、怪我人や死人が出れば、ただちにこれを殺そうとする。その持衰󠄄が謹んでいなかったことがその原因だとするからだ。

出真珠青玉其山有丹其木有柟杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黑雉其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆其㑹同坐起父子男女無別人性嗜酒裴松之注「其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」見大人所敬但搏手以當跪拜其人壽考或百年或八九十年其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妒忌不盜竊少諍訟其犯法輕者沒其妻子重者滅其門戸及宗族尊𤰞各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭說事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子爲王名曰𤰞彌呼事鬼󠄂道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

真珠、青玉せいぎよく[三十四]「玉」には「軟玉」と「硬玉」があり、日本ではどちらも翡翠と言う。「軟玉」はネフライトのことで、古来より珍重されてきた。「硬玉」はヒスイ輝石、つまりジェダイトのこと。十八世紀にミャンマーから輸入されたのが最初だと言う。「青」は草の色のことなので、つまりここで言う「青玉」はネフライトであり、白と緑がまじった色であったことがわかる。いだす。 の山にたん[三十五]日本語で「に」と言う。辰砂のこと。これから朱丹を作って女性が化粧に使ったことは既に述べた。有り。の木に、ぜんちょ豫樟よせう楺櫪じゆうれき投橿とうけふ烏號うごう楓香ふうこう有り、の竹は、篠簳せうかん桃支とうききやうきつせう蘘荷みようが有りて以て滋味じみすを知らず[三十六]いずれも舌に刺激が強い香味料であり、これと併せて調味に使える醤油のような調味料がなかったことがわかる。ちなみに醤油のもととなった醬は、五世紀頃の現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に、黒豆を用いた醬の作り方が詳細に述べられており、同時期に作り方が日本にも伝来したと言われている。しかし、醬は『周礼』に記載されていたり、『論語』にも孔子が醬を用いる食習慣であったことが記載されていることから、紀元前十一世紀もしくは遅くても紀元前八世紀つまり春秋時代の初め頃には、中国で用いられていたので、倭の国がそれを知らずに朝貢していたとは考えにくい。おそらく保存食料としての利用が主で、調味料として加工するようになったのが後代だということではないだろうか。いずれにせよ主な味付けは塩ということになるので・・・食生活ばかりは現代に生まれたことを喜べばよいのやら贅沢を嘆けばよいのやら。獮猴せんかう黑雉こくち有り。の俗、舉事きょじ、往来は云爲うんゐする所有りて、すなはち骨を[三十七]これを「骨卜」と言う。次の項目の「亀卜」よりも古い原始的な形態の占い方である。おそらく中国で「殷」以前に発達した占い方だと思われるが、「殷」の時代(紀元前十七世紀〜紀元前一〇四六年頃)には「亀卜」が主流になり、「骨卜」は特別な場合にのみ行われる古い方法と考えられるようになっていた。次の「周」の時代(紀元前一〇四六年頃〜紀元前七七一年)に入ると「筮」が発達して主流の占い方になり、「亀卜」は特別な場合のみ行われるようになり、「骨卜」に至っては廃れてしまった。その古い形式の占い方を日本へ伝えたのは「殷」の遺民であろうか。あるいは日本でも亀は採れるのだから、「殷」の人々ではなく、もっと古い時代に日本へ伝えた部族があったのかも知れない。しかうしてぼくして以て吉凶を占ひ、ぼくする所を告げる。令龜れいき[三十八]亀の甲羅を熱して生じるひび割れで吉凶を判断する「亀卜」という占い方のことである。詳しくはリンク先をみてほしいが、やみくもに甲羅を熱しても占いに適したひびなど入らないわけで、おそらく様々な方法があったに違いない。それが「殷」の時代にまとめられて後世に伝わったのではないかと思う。の法のごと火坼かたくて兆を占ふ。㑹同くわいどうの坐起に父子男女の別無し[三十九]何かの会合があれば、席次や作法をやかましく言うのが儒教の論理である。男女が席を同じくするなど決してありえない男尊女卑でもある。その中華の目から見て野卑と映ったから記録されているのだろう。良いところも悪いところも公平に書く陳寿の記述姿勢が偲ばれる。。人性酒をこのむ。裴松之はいしょうし注「の俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋收を計り年紀[四十]裴松之(三七二年〜四五一年)は東晋末・宋初の政治家かつ歴史家である。この註により、当時の倭の暦について学説が二つ立っている。ひとつは現代と同じで一年は一年であり、ただ正確な天文知識がなかっただけとする説、もうひとつは、春と秋でそれぞれ一年としていた、つまり現代の半年が一年であるという指摘だとする説である。なぜ後者のような説が立ったかと言うと、暦がそうなっていれば、『古事記』や『日本書紀』に見られる古代天皇の異常な寿命や在位年数の問題が解決するからである。もちろん根拠はそれだけではない。数々の古典にあたり、論拠は示されている。しかし、いかなる動植物も春夏秋冬をサイクルとしているのに、古代人だけそれに外れていたとする理由に乏しい。私は前者が正しいと思う。古代日本の天皇については別の理由があると考える。す」大人たいじんまみえて敬する所、ただ手をちて以て跪拜きはいてる[四十一]手を打って敬意を表すのは今でも行われている。おそらく手を打ち鳴らした後、深々と頭を下げただろう。今でも神社の拝礼作法はそうなっている。拍手あるいは柏手は両手に武器を持たないことで害意のないことを示したのが起こりではないかと考えている。の人壽考じゆかう。或いは百年、或いは八、九十年[四十二]出土骨から調査した結果では、弥生時代の十五歳時における平均余命は男女とも三〇歳くらいという論文が出ている。また、二〇歳時における平均余命を約二〇年つまり、四〇歳くらいと見る論文もある。いずれにせよ、ここの記述とは大きく矛盾する。同じ時代の中国では、名士階級(所謂貴族)と庶民で平均寿命に大きな差があったことがわかっています。従ってこれもその類いではないでしょうか。滋養のある食料をたっぷり採れる貴族階級以上は百歳を越える人が稀にいて、八十、九十になる人もいた。一方、庶民は食糧事情が悪く寿命が大幅に短かった。どうでしょう。の俗、國の大人たいじんみな四、五婦、下戸げこも或いは二、三婦[四十三]一夫多妻であることがわかるが、これは『妻問婚』の結果だろう。特に庶民でも二人から三人の妻を持つとある点が重要だ。現代に繋がる嫁取婚つまり私有婚では、婚資が必要不可欠で、財産もない庶民が複数の妻を持てたことはありえない。その証拠に、現代でも一夫多妻を認めているイスラム諸国でも、普通は一夫一婦か、婚資がなくて結婚できず未婚のままという人がほとんどである。古代日本が嫁取りであったということはありえないのだ。。婦人はいんならず、妒忌ときせず[四十四]『妻問婚』であるならば、妻は実家の自分の家にいて、夫と出かけたりしないのだから、嫉妬もしようがない。もちろん噂になるほど派手に遊べば別だろうが、夫が通ってこない日にどこで何をしているかわからない以上、やきもちを焼きたくても焼けないのだ。もちろんこれが高位の貴族でその動向がすぐ噂となって広まるような人だと話は別で、昔の日本の女性も嫉妬に身を焦がしたことが『蜻蛉日記』に綿々と綴られている。盜竊たうせつせず。諍訟さうそ少なし[四十五]日本人の訴訟嫌い(?)はこの頃から既にあったらしい。現代でも裁判沙汰というとそれだけで尻込みする人がほとんどではないだろうか。の法を犯すに、かるき者はの妻子をぼつし、重き者はの門戸及び宗族を滅す[四十六]では犯罪を犯した者にどんな罰を与えていたかというと、軽い者でも本人はもとより妻子をも没収して奴隷にするというのだから、非常に厳しい。重罪は家族だけでなく一門連座で死刑である。一体どんな罪に対して与えられた罰なのだろうか。『魏志倭人伝』は倭の記事が詳細に記載されていることでも有名なのだが、それでも隔靴掻痒の観は免れない。現代もこれくらい厳しければ犯罪も減るだろうかと一瞬考えたが、刑罰が定められているということはそれを犯すものがいたということなので、必要以上に重くしても意味がないことにすぐ気がついた。。尊𤰞それぞれ差序有り、相臣服しんぷくするに足る。租賦そふを收むるに邸閣ていかく有り。國國くにぐにに市有りて有無うむ交易かうえきし、大倭だゐをしてこれを監せしむ。女王國り北を以て特に一大率いだそつ[四十七]中国の「刺史」のようだとあるが、その「刺史」は州を皇帝に代わって統治する代官であり、魏の時代には警察権、裁判権はもとより兵権まで持っていたので、逆らったら殺されても文句を言っていく先がない。それは畏れられただろう。を置き諸國を檢察けんさつす。諸國これ畏憚ゐたんす。常に伊都いと[四十八]伊都國の重要性がよくわかる下りである。郡使が必ず立ち寄り宿泊する国であり、一大率という高官が常駐していたり、下賜物や外交文書の点検照合をすると決まっていたり、倭の要をなしていることがよくわかる。に治す。國中において刺史ししごとく有り。王、使ひを遣はして京都けいと帶方たいはう郡、諸韓國にいたり、郡、倭國へ使ひするに及んで、みな津に臨みて搜露さうろし、文書、賜遺の物を傳送でんさうして女王にいた差錯ささくするを得ず。下戸げこ大人たいじんと道路で相逢へば、逡巡しゆんじゆんして草に入る[四十九]これは今でも守るべき作法が含まれている。つまり、目上の人の前から立ち去る時は、後ろつまりお尻を見せることは大変な非礼であり、後ずさりしながら下がって、相手の視界に入らないところに至ってからはじめて振り向くものなのである。つたへ事を說くに、或いはうずくまり或いはひざまづき、兩手を地にりて、これ恭敬けふけい[五十]地面に這いつくばって両手を地につける姿勢を土下座というが、明治になって立礼が導入されるまでは、庶民が武士や貴族に応対する時の基本的な姿勢であった。この頃既に確立されていたとすると、土下座にも長い歴史があることがわかり、同時に相手に与える影響もまだまだ大きいということがわかる。對應たいおうこゑあいひ、比するに然諾ぜんだくごと[五十一]漢字で書けば「噫」となるのだろうが、おそらく「はい」と答えたのだろう。応答に「はい」と言うのは江戸時代からで———と何やら見てきたように言う学者がいるが、そもそも口語資料など数えるほどしか残っていない上に、それが真実口語であるなどとは誰も保証していないわけで、室町時代に発する能や狂言、あるいは今様をいくら研究してもわかるものではない。ましてや鎌倉以前など『平家物語』ですら疑わしいのに何をか況んやである。つい最近のことでも口語資料となると失われてしまっていて調べようがないことも多いのに、よく断定できる勇気があるものだと思う。この箇所の記述はそういう意味で奇跡的に残された貴重な資料なのである。なぜ無視する者が多いのか不思議である。の國、もとまた男子を以て王とす。七、八十年とどまる。倭國みだれ、歴年れきねん相攻伐す。すなはち一女子を共に立てて王とす。名を𤰞彌呼ひみか[五十二]「卑彌呼」の読みは中古音の推定に忠実にかなで書くと「ふぃみきを」だろうか。「呼」はむしろ「か」と聞こえたはずであるという説に従い、本文中では「ひみか」とルビを打っている。あるいは「ふぃみか」とすべきなのかも知れない。ふ。鬼󠄂[五十三]「鬼道」とは「正道=儒教倫理に基づく政治」以外のものをすべて指しうるので、どんな統治を行ったのかはわからない。道教であるという人もいれば、原始的なシャーマニズムであると言う人もいる。初期の神道ではないかと言う人もいる。私も初期の神道であったと考えている。卑彌呼が王位に就く前「相攻伐歴年」という状態だったのは、誰を立てても部族宗教が背景にあれば、特定の族や国への傾斜は避けられず、それが不満となっていたからだろう。そこに部族を超越した祭祀を行う集団が登場したので、贔屓はなくなり国人皆納得したのだと思われる。それが神道であったというのは、卑彌呼死後再び乱が起きた後に同族の宗女壹与を王に立てて収めていることから、卑彌呼個人に依存した熱狂ではなく、伝来され得る内容を持っていたこと、とすると当然壹与の後も伝来されたはずで、後世まで伝来された宗教観は神道しか残っていないことが根拠として挙げられる。つかへ、く衆をまどはす。年すでに長大。夫婿ふせいし。男弟有りて國を佐治さじ[五十四]卑彌呼が「祭祀王」であったことは間違いない。そして政治の実務を取り仕切った「政治王」がこの弟だったと思われる。後年『隋書』東夷傳俀國条でも「天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟」とあることから、この時代も複式統治であったことは間違いなく、その上で政事(まつりごと)が本来祀事(まつりごと)であったように、祭祀王が優越していたと考えられる。。王にりて以來いらいまみゆること有る者少なし[五十五]王に立てたのに、その王自ら人に会わなくなったというのは道理が合わない。卑彌呼以前に内乱が絶えなかったのは誰を立てても不満が出たからで、それは逆に卑彌呼の支持基盤の広さと強さを物語るものでもある。そうすると、各国の王たちは自分たちの支配権が脅かされることを恐れなくてはならなくなった。そのため、卑彌呼との面会に制限を設けて、国人がみだりに卑彌呼と面語しないように、つまり、ますます卑彌呼への支持を強めて王を取り替え卑彌呼に直接治めてもらいたいと言い出さないようにしたのだと思われる。千人を以てみずからにはべらしむ。ただ男子一人有りて飲食を給し、つたへ居處に出入りす。宮室きゅうしつ樓觀ろうくわん城柵じやうさくおごそかにまうけ、常に人有りて兵を持して守衛す。女王國を東へ渡海すること千里、た國有り、みな倭種。また侏儒しゆじゆ國有り。の南にる人のたけ三、四尺[五十六]魏尺は二四㎝十二㎜である。身長七二㎝三六㎜〜一一二㎝四八㎜の人が住んでいたことになり、いくら何でもこれは誇張された話を魏の史官がまともに受け取って記録していたのだろう。縄文人の中でも一際小柄な部族が生き延びていたのではないかと言う人がいるが、縄文人は弥生人と比べて全体的に小柄というが、その差は三㎝〜五㎝でしかなく、とても「侏儒」というほどではない。謎である。。女王を去ること四千里、また國、黑齒こくし國有り。の東南に在り。船行一年、參問さんもんに至る[五十七]この「船行一年」を裸國、黑齒國への旅程と取る人が多いが(かく言う私も最初はそう読んでいたが)、前掲の本を読んでその後の語句と意味が繋がらないことに気付かされて訂正した。これは、魏使が倭の地の參問に費やした期間と主要な移動方法について記した語句である。倭をぐるっと一回りすると五千里あったということだが、これを㎞に直すと、二一七一㎞弱である。方形で考えると一辺五三四㎞ほどであるから、広すぎるのが・・・どこを通ってどう測ったのだろうか。。倭の地は海中洲㠀しうたうの上に絶在し、或いは絶へ或いは連なり、周旋五千ある可し。

真珠や青玉(緑色のネフライト)を産出する。山からが取れる。樹木には、クスノキトチノキタブノキ、楺、くぬぎカシノキがある。竹には篠簳、桃支がある。生姜山椒茗荷があるが、賞味することを知らない。猿や黒い雉がいる。その風俗に、何か大事を行う、あるいはどこかへ往来するにあたり、お告げを頂くことが挙げられる。その都度骨を焼いて卜占でその吉凶を占い、先ず卜占の目的を骨に刻んで告げる。そのとき方は令亀(亀甲を焼いて生じるひび割れで占う亀卜のこと)の法の如く、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆を占う。会同での立ち居振る舞いに、父子男女の差別がない。人々は酒を嗜むことを好む。(裴松之の注「ここの風俗として、正しい暦がありません。ただ春に耕し、秋に収穫することを以て一年を計っているのです」)身分の高い者への表敬の仕方を観ると、ただ拍手することが跪拜(膝を着いての拝礼)に相当する。人々は長寿で、中には百年生きる人もいるし、あるいは八、九十年を生きる人もいる。その風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の妻を持ち、下戸(庶民)にも二、三人の妻を持つ者がいる。婦人は浮気をせず、嫉妬をしない。窃盗をする者がなく、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子を没して奴隷とし、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている(上下関係の秩序があるの意)。租賦を収める。それを納めるための邸閣(立派な高楼)が国にある。国には市もあり、双方の有無とする物を交易し、身分の高い倭人にこれを監督させている。女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。伊都国に常駐して治めており、国の中では刺史の如きものである。洛陽の都)や帯方郡諸韓国に赴き王へ遣いを使わして、帯方郡の郡使がその答礼で倭国に来たときは、皆、港に臨んで文書や賜物を点検照合し、女王の元へ届ける際に、間違いがないようにする。身分の低い者が高貴な人物と道で出会えば、後ずさりして草群に入る。身分の高い者が言葉を伝えたり、説明をする際には、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまづ)いて、両手を地に着けて相手に対する敬意を表す。応答する声は噫(あい、ぅあい、わい)と言い、これで承諾を示す。倭の国は、もとは男性を王としていて、七、八十年は続いていたが、その後倭国に内乱が相次ぎ、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を𤰞彌呼といい、鬼󠄂に従い、人民を上手に導いた。王に立てられた時既に成人していたが、夫はおらず、弟がいて国の統治を補佐していた。王位に就いて以来、面会できるものは少なかったが、婢(下女、あるいは女奴隷)を千人自分のそばに侍らせていた。ただ一人の男性が飲食の給仕をし、言葉の取り次ぎのために出入りしていた。居住する宮殿や楼観には、城柵が厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいた。女王国の東に千里余り海を渡ると、また国がある。それも皆、倭人である。また、その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黑歯国も有る。船で倭の地を旅をすること一年を、調査訪問にかけた。海の中に島々が互いに離れて存在し、海で隔たったところもあれば、繋がっているところもあり、周囲をぐるりと廻ると五千里余りあることがわかった。

景初二年六月倭女王遣大夫難升󠄃米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王𤰞彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升󠄃米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印紫綬裝封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升󠄃米牛利渉遠道路勤勞今以難升󠄃米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印青綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹裴松之注「臣松之以爲地應爲綈漢文帝著皂衣謂之弋綈是也此字不體非魏朝之失則傳寫者誤也」絳地縐粟罽十張蒨絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各五十斤皆裝封付難升󠄃米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也正治元年太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物倭王因使上表荅謝恩詔其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬其六年詔賜倭難升󠄃米黄幢付郡假授其八年太守王頎到官倭女王𤰞彌呼與狗奴國男王𤰞彌弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣郡說󠄂相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拜假難升󠄃米爲檄告喻之𤰞彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立𤰞彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喻壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔靑大句珠二枚異文雜錦二十匹

景初二年六月[五十八]景初二年六月は、まだ司馬仲達が遼東の公孫淵を攻めている真っ最中であり、あるいは襄平城を包囲していたかも知れない。魏軍が公孫淵を斬って遼東を平定したのは八月になってからで、そのため、これは景初三年(西暦二三九年)を陳寿が誤ったのだとするのが定説である。これに対して、この時の貢物が「男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈」と後漢の時の倭奴國の貢物(奴隷百六十人)と比べて余りに見劣りがするにも関わらず、魏が倭を厚遇したのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた功績を認めたからだという観点から、公孫氏政権滅亡直前のこの時期の遣使が正確であるという説もある。この後の説は非常に魅力的である。というのも、公孫氏はそれまで遼東を支配し、倭や三韓の朝貢を遮って自分たちが受けていたからだ。その支配が崩れそうなので、より正確な情報を求めて現状を見極めるために倭國から探偵のために派遣されたのが難升󠄃米と牛利だったのではないだろうか。まだ公孫氏が安泰な様子であれば、いつもの朝貢として押し通せばよいし、それとは逆に魏軍が優勢であれば、何も知らぬ蛮夷のことだから見逃してくれるだろうという計算もあったと思う。遣使がたった二人なのも、貢物が非常に粗末なのも偽装に必要な程度でよかったからだ。ところが現地に行ってみると、もう公孫氏の滅亡は時間の問題であり、魏軍の誰何も厳しかったのだろう。そこで、難升󠄃米が(あるいは牛利が)機転を利かせ、もしくは当初の打ち合わせ通り、このたび大国の魏に通じることができるようになると聞き、早速朝見をお願いに上がりましたと言上したのである。もちろん現場の軍人や官吏は役人を洛陽に派遣して処置を問い合わせたり、あるいは本当に倭の使者であるか、厳しく取り調べを行ったであろう。帥将の司馬仲達はそんなことに関わっている暇はなかっただろうが、最終的にこれは使えると踏んだのだと思う。倭の遣使が朝見に来たということは、それまで公孫氏がこれを阻んでいたからで、天子への朝貢であるものを私していたと言える。公孫氏誅伐に大義名分がひとつ加わり、その宣伝に使えるのだ。そこで、後に帯方太守となる劉夏に引率させて洛陽に案内した。これに、まだ実際に公孫氏が敗北と決まったわけではないのに朝見を求めてくるとは殊勝殊勝ということで皇帝が感激したことも加えて、厚遇につながったのではないかと考えられる。徳のある王朝には四夷が来朝するという考え方があったから、なおさらだっただろう。それに、この朝貢使は本紀に記載がない。そのような例は他にもないわけではないので、気にする必要などないのかも知れないが、通常の朝貢ではなく、異例であったのではないかという疑念が残る。また、二回目の遣使は大使以下八人で、貢物もちゃんと選ばれていることからわかる通り、邪馬壹國に大国魏へしかるべき貢物を揃えて差し出す実力がなかったわけではないことは明らかなのである。だからこそこれを単純に陳寿の誤りと決めつけることに躊躇するのである。、倭の女王、大夫たいふ升󠄃なしめらを遣はし、郡にいたりて天子に朝獻ちようけんいたることを求む。太守劉夏りうか吏將りしやうを遣はし、京都けいといたる。の年十二月、詔書せうしよを倭の女王にしらせて曰く、親魏倭王𤰞彌呼ひみか制詔せいせうす。帶方たいはう太守劉夏りうか、遣使を送りなんじ大夫たいふ升󠄃なしめ、次使都市牛利としぎうりなんじの所の男生口四人、女生口六人、班布はんぷ二匹二丈をけんたてまつり、以て到る。なんじの所在いよいよ遠く、すなはち遣使貢獻かうけんす。これなんじの忠孝なり。我はなはなんじあはれむ。今なんじを以て親魏倭王とす。金印紫綬しじゆさずけ、裝封さうふうして帶方たいはう太守に付しなんじ假授かじゆす。それ種人を綏撫すゐぶし、つとめて孝順をせ。なんじの來使、升󠄃なしめ牛利ぎうり、遠きをわたり、道路勤勞きんろうす。今升󠄃なしめを以て率善中郎將そつぜんちうろうじやうし、牛利ぎうり率善校尉そつぜんこういして、銀印靑綬せいじゆさずけ、引見勞賜ろうしし遣はしかへす。今、絳地交龍錦かうちかうりうきん[五十九]裴松之の註によると「絳綈交龍錦」だという。深紅の紬に交差した龍が織り出された錦である。それを五匹(十二㍍)、絳地縐粟罽(深紅の地に縐粟柄の毛織物、敷物だと考えられる)を十張、蒨絳五十匹(朱色と深紅色の絹織物、一二〇㍍)、紺青五十匹(青と紺色の絹織物、一二〇㍍)を下し、それとは別に紺地句文錦三匹(紺地で句文の錦、七㍍弱)、細班華罽(毛織物)五張、白絹五〇匹(百二十㍍)、金八両(百十一㌘)、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠と鉛丹をそれぞれ五十斤(十一㌔強)を卑彌呼に下している。倭の貢物に対して過剰なくらいの下賜品である。あれしきの貢物になぜこのような厚遇をというのが、先の項目で見た戦中朝貢説の根拠だが、確かに豪華だ。五匹裴松之はいしょうし注「おみ松之しょうしは以て地を爲すをていすとおうず、漢の文帝皂衣こくいる。これ弋綈よくていふがこれなりの字ていならず、魏朝の失にあらず、すなは傳寫者でんしよしやの誤りなり絳地縐粟罽かうちすうぞくけい十張、蒨絳せんかう五十匹、紺青こんぜう五十匹を以て、なんじけんずる所の貢直こうちよくに答へる。また特になんじ紺地句文錦こんちくもんきん三匹、細班華罽さいはんかけい五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹えんたんそれぞれ五十きんたまひ、みな裝封さうふうして升󠄃なしめ牛利ぎうりに付す。かへり到らば録受ろくじゆし、ことごとく以てなんじの國中の人に示し、國家が汝をあはれむを知らしむべし。ゆゑ鄭重ていちように汝の好物をたまなり。正治元年、太守弓遵きうしゆん、建中校尉梯雋ていせんらを遣はし詔書せうしよ印綬いんじゆたてまつりて倭國にいたり、倭王に拜假はいか[六十]太守弓遵、建中校尉梯雋らが実際に倭に来て卑彌呼に会っている。魏使は邪馬壹国に行かなかったと称する説があるが、ではどこで王と見えたと言うのだろうか。妄言も大概にしてもらいたい。あはせてせうもたらし、金、はく錦罽きんけい、刀、鏡、采物さいぶつたまふ。倭王、使ひに因りて上表し、せうこたへて謝恩す[六十一]この時朝貢したとは書いておらず、本紀にも記載がないが、『晉書』高祖宣帝紀に「正始元年春正月東倭重譯納貢」「正始元年春正月、東倭、重譯して貢を納む」と見える。の四年、倭王、た使ひして大夫たいふ伊聲耆いせいき掖邪狗えきやこら八人を遣はし、生口、倭錦ゐきん絳靑縑かうせいけん緜衣めんぷ帛布はくふたん𤝔ぼくふ、短弓矢を上獻じやうけん[六十二]少帝本紀の正治四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」「冬十二月、倭國の女王俾彌呼、使ひを遣はし奉獻す」という記事がある。この二度目の朝貢では、貢物が大国魏を意識して整えられていることがわかる。それだけに、景初二年の貢使が情報収集を目的としていたように思えてならない。掖邪狗えきやこ率善中郎將そつぜんちうらうじやう印綬いんじゆ壹拜ゐはいす。の六年、せうして倭の升󠄃なしめ黄幢おうたうたまひ、郡に付して假授かじゆす。の八年、太守王頎おうき官に到る。倭の女王𤰞彌呼ひみか狗奴こな國の男王𤰞彌弓呼ひみきうかもとより和せず。倭の載斯さいし烏越うをらを遣はし郡にいたらせ相攻撃するありさま說󠄂()[六十三]遂に「邪馬壹国」と「狗奴國」で戦争が始まる。魏の朝廷は詔書と、黄幢を塞曹掾史張政に持たせて送り出す。軍を派出するほどのことではないと魏の朝廷は判断したのである。黄幢は黄色の吹き流しで、黄色は魏が尊んだ色なので、これを陣中に立てておけば魏の後ろ盾があることを示すことができる。この戦はどちらが勝ったのか。特に書いてないということは、バックに魏がついていた邪馬壹国が勝利したということになる。塞曹掾史さいそうえんし張政ちようせいらを遣はして因て詔書せうしよ黄幢おうたうもたらし、升󠄃なしめ拜假はいかし、げきしてこれ告喻こくゆす。𤰞彌呼ひみか以て死す。大いにつかを作る。徑百[六十四]径百歩余りの冢だが、魏の歩を基準に計算すると、百四十四㍍〜百八十㍍くらいとなって非常に大きい遺構となる。本当にそんな巨大な冢を作ったのか、あるいは一部にある説の通り、魏は「短里」であり、従ってこれも「三〇㍍から四〇㍍」規模なのか。実はその大きさの墳丘墓が吉野ヶ里遺跡で見つかってる。悩ましい。徇葬じゆんさうする者、奴婢ぬひ[六十五]奴隷百人あまりを徇葬したとあるが、これは中国から入った風習なのか。それとももともと倭の風習なのか。旧主を慕って自らも死を撰ぶ殉死ならともかく、奴隷を埋めて來世の世話をさせるという発想がどうも日本になじまないような・・・さらに男王を立てしも、國中服さず。さらに相誅殺ちうさつし、當時たうじ人を殺す。𤰞彌呼ひみかの宗女壹與ゐよ、年十三を立てて王とす。國中つひに定まる[六十六]男王とは、女王国の支配下にあった王たちの中から選ばれたのだろう。従って内乱が起こる。壹与が立って国中治まったということは、やはり卑彌呼の鬼道は、一族に継承されていたと考えるべきである。。政らげきを以て壹與ゐよ告喻こくゆす。壹與ゐよ、倭の大夫たいふ率善中郎將そつぜんちうろうじやう掖邪狗えきやこら二十人を送り政らをかへし、かさねてだいいたり、男女生口三十人を獻上し、白珠五千、孔靑大句珠かうせいだいくじゆ二枚、異文雜錦いぶんざつきん二十匹をみつ[六十七]おそらく、「狗奴國」との戦いで魏がバックについているということは大きな力となったのだろう。献上品の豪華さが増している。ここで白珠とあるのは真珠のことだと思うが、あるいは白くて小さな玉を献上したのかも知れない。この朝貢使が洛陽に到着した時、「魏」は「晉」に禅譲していたと思われる。『晉書』四夷傳倭國条の「及文帝作相又數至」「文帝相になるに及んでまたしばしば至る」と見えるのがこの朝貢ではないだろうか。壹与はその後も遣使を続けたようで、同じく『晉書』世祖武帝紀の泰始二年(西暦二六六年)に「十一月己卯倭人來獻方物」「十一月己卯、倭人來りて方物を獻ず」と記事がある。壹与のその後はわからないが、よく国を率いたのだと考えられる。倭國は潰えず、後々の時代まで続いていくからだ。

景初二年(西暦二三八年)六月、倭の女王が大夫の升󠄃らを派遣して帯方郡に至らせ、天子(の皇帝)のところに赴いて朝献することを求めた。太守の劉夏は官吏を遣わし、遣使を率いて洛陽に赴いた。その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王𤰞彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の升󠄃、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を大切に思う。今、汝を親魏倭王となし、金印紫綬を授ける。包装して帯方太守に付託して、汝に授けさせるものとする。同族の人々を安んじいたわり、努めて孝順させよ。汝の使者の升󠄃、牛利は遠来し、道中よく勤めた。今、升󠄃を率善中郎将、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮け、引見して慰労を賜い、遣わして還す。今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹(裴松之の注「臣下である松之は、ここで地とあるのは、綈の誤りであると考えます。漢の文帝は皂衣(こくい)を着ましたが、これを弋綈(よくてい)と申しまして、これのことにございます。地では意味が通じません。魏の史官の記録に誤りがあったのではなく、後世の伝写者が間違ったのでございましょう」)、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを汝の貢献の値として贈答する。また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して授けるので、升󠄃、牛利が帰還したら目録を受けとるがよい。(これらの品々を)すべて汝が国中の人々に顕示し、国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである」正治元年(西暦二四〇年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。同四年(西暦二四三年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木𤝔(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗ら一同は率善中郎将の印綬を拝受した。同六年(西暦二四五年)、詔を以て倭の升󠄃に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して授けさせた。同八年(西暦二四七年)、帯方郡太守の王頎が、洛陽の官府に到着した。倭の女王「𤰞彌呼」と狗奴国の男王「𤰞彌弓呼」は元から仲が悪かった。倭は載斯、烏越らを派遣して、帯方郡に行って戦争の状況を説明した。帯方郡は。長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらして、升󠄃に授けさせ、触れ文を作成して以上のことを教え諭した。𤰞彌呼が死ぬと、大きな墓を作った。直径は百歩あまりで、殉葬した奴婢は百人あまり。改めて男の王を立てたが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千人余りが殺された。元のように(𤰞弥呼を立てた時のように)𤰞彌呼の宗女「壹與」を立てた。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは触れ文で壹與に教え諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けた。その上で遣使は臺(皇帝の居場所)に赴いて、男女の奴隷三十人を献上、白珠(真珠、あるいは白くて球形の玉)五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢ぎ物としておさめた。

魏志倭人伝を扱う文章では必ず問題とされるのがその所在地であるが、本稿では、帯方郡より倭への旅程、距離を含めて詳細を意図的に無視している。本稿の目的が中国正史を通して古代日本の風俗や民俗を知ることにあるためである。邪馬台国(正しくは邪馬壹国だが)がどこにあっても日本にあれば私にとっては差し支えないのだが、それでもどうしても無視できない論点があるので、ここで述べておく。

第一に、魏使が倭に渡ってまず九州の地に到着したのは異論が出る点ではない。問題は、魏使が九州から一歩も外に出ていないことにある。なぜなら、九州から奈良大和の地まで魏使が行ったのだとしたら、吉備安芸播磨淡路といった経由地として考えられる地名や瀬戸内海の様子、難波津もしくは河内湾(あるいは既に河内湖になっていたかも知れない)や草香津といった上陸地点の様子、王都大和の様子を書かないはずがないからである。しかるにそれを窺わせる記述は一切ない。ないのは行かなかったからで、故に邪馬壹国は九州にしか存在し得ないのである。邪馬台国大和説論者は、江戸時代の国学者——後に尊王攘夷思想に至る——の皇国史観から全く進歩していないと断定してよい。税金を使って養うような連中ではないのだ。

では九州説に与するかというと、九州説は、邪馬壹國が九州にあることを以て一地方政権と根拠もなく思い込んでいるので、同じ穴の狢なのである。結局皇国史観なのだ。馬鹿だとしか思えない。九州が日本の中心で何がおかしいのか改めて問いたい。詳しくは『古事記』の現代語訳において述べるつもりだが、古代には少なくとも「津軽」、「関東」、福井から能登、新潟にかけての「越の国」、奈良「大和」、「出雲」、「吉備」、「北九州」に強力な政権があったと考えられ、その中で頭一つ抜きん出ていたのが北九州政権、つまり「倭國」だと思われる。出雲政権は早くに北九州政権に降り、吉備政権は「倭國」と連合を形成していたようだ。後にヤマト王権と争ったふしがある。ここで奈良「大和」とヤマト王権という呼び分けをしたのは意味がある。太古の奈良「大和」は銅鐸で象徴される祭祀文化政権で、その影響力を広範囲に及ぼしていたと思われるが、三世紀ごろに侵入してきたヤマト王権に滅ぼされたと考えられるからだ。それはともかく、古代において大陸との交通は九州が要であった。ならばその要の地に日本の中心があったとして何がおかしいか。むしろそこにないとおかしいのである。九州には「キミ」姓氏族が多く存在していたが、「キミ」姓とは王族に授けられた姓である。九州に「キミ」氏族が多いのはまさしく「オオキミ」が九州にいて、その近畿に子弟やその子孫を残していったからである。

最期に、本稿の訓読、および現代語訳は、中島信文『甦る三国志「魏志倭人伝」———新「邪馬台国」論争への道』に負うところが大きい。筆者の蒙を啓いてくれた書として感謝を込めてここに書き記しておく。

  1. 「服」は服従の意。中国の代(紀元前一〇四六年頃〜紀元前七七一年)に王畿(首都を中心に千里四方の地域を指す)の外を王城からの距離をもとにして分けた九つの地域。すなわち侯服(こうふく、王畿のすぐ外側幅五百里)・甸服(でんぷく、侯服の外側幅五百里)・男服(甸服の外側幅五百里)・采服(さいふく、男服の外側幅五百里)・衛服(采服の外側幅五百里)・蛮服(衛服の外側幅五百里)・夷服(いふく、蛮服の外側幅五百里)・鎮服(夷服の外側幅五百里)・藩服(鎮服の外側幅五百里)の九つ。元は五服、甸服(でんぷく)・侯服・綏服(すいふく)・要服・荒服であった。
  2. 『礼記』王制篇にある「東方を夷といふ。髪を被り身を文し、火食せざる者有り」という句、あるいは曲禮篇下にある「その東夷、北狄、西戎、南蠻に在るは大と雖も子といふ」という句が出典か。いずれにせよ、中華の文明に属さない未開の部族を総称して「四夷」「夷蠻」などと称し、北方の族を「北狄」、西方の族を「西戎」、南方の族を「南蠻」、東方の族を「東夷」と言った。
  3. 倭が入朝したことを表す。朝鮮半島南部にあった國も朝貢しただろう。
  4. 単に祭祀の儀礼があったと文字通り読んではならない。祭祀とは國の祭祀で有りそれを司る儀礼とは國を運営する方法なのである。従って、中国で禮が失われても四夷に求めうるとは、國の運営に必要な式次第や約束事、それに使う祭器に至るまで保存されているのだということを意味する。現代においても、文化は中央から伝播して、中央で失われても周辺でそれがよく保存される法則があることが確かめられている。民俗学では「方言周圏論」として知られている。古代日本の「骨卜」もその例のひとつであろう。
  5. 山がちの土地や島々によって国を立てているとあるのだから、これを奈良、つまり大和に比定することは完全な誤りである。
  6. 『漢書』地理志燕地条の「爲百餘國」という記述を承けている。
  7. 後漢(西暦二五年〜二二〇年)のことである。
  8. 韓国内で水路を取ったことは極めて合理的である。安全であるし、海のように波の状態によって沈没するといった事故も避けられる。「歴」は説文では「過也傳也从止厤聲」「過ぐる也。傳ふる也。止に従ひ、厤は聲部」とある。ウィキショナリーによれば「止」+音符「厤」の会意形声文字で、「厤」は、「厂(屋根)」の下で「禾(穀物の穂)」を順序よく並べるの意、これに、「足」を意味する「止」を付して、順序良く足で歩くことを意味」とある。つまり朝鮮半島内を移動したことを表す字なのである。この後に続く「忽南忽東」は川の流れに従って船の航路が南を向いたかと思えば、東を向くといった様子を示している。また、同じ烏丸鮮卑東夷傳の韓条で「弁辰與辰韓雜居亦有城郭衣服居處與辰韓同言語法俗相似祠祭鬼神有異施竈皆在戶西其瀆盧國與倭接界」「弁辰は辰韓と雜居す。また城郭有り。衣服居處は辰韓と同じ。言語法俗も相似る。鬼神を祠祭すること異有り。施竈は皆戶西に在り。其の瀆盧國は倭と界を接す」とあるので、倭の一部が朝鮮半島南岸にあったことは明らかで、なおさら海路を取る必要がなく、朝鮮半島内を移動したと考えるべきである。
  9. 北岸は二種類ある。北に面している岸という意味と、川の北側の岸という意味である。後の記述で明らかになるが、倭はこの時、朝鮮半島南岸、対馬、壱岐、九州北部にまたがる海洋国家であった。そのため北端にある狗邪韓國を「北岸」と称したのである。
  10. ここで始めて海を渡っている。ということはここまでに海路はない。子供でもわかる理屈である。
  11. 狗邪韓國から対馬まで千里。対馬から壱岐までも千里。壱岐からで末盧國までも千里。とくればこれが正しい距離を表していないことは自明である。おそらく、対馬で一泊、壱岐で一泊、末盧國でも一泊したので旅程上は一日と記録され、これを機械的に里数に換算したものと思われる。この頃の中国には六分儀はないので、海を渡った距離を正確に測ることはできなかったはずである。
  12. 對海國は對馬國の誤りとされている。同様に次に出てくる一大国も一支(いき)国の誤りとされている。對馬國に「大官」が置かれていることに注意。南北をつなぐ要衝であるため、特に権限の強い官吏を配置したのだと思われる。
  13. ヒナモリは、鄙守だと思われる。軍事の長官で、奈良時代の「夷守」と同一だと見なされている。
  14. 中国の市は常設もあったが、地方のこととて日を決めて立つ市であったと思われる。従って穀物がなくなったから慌てて船を出して買いに行くことなどできず、定期的に船が行き来していたと判断できる。これは壱岐でも事情が同じで、おそらく、狗邪韓國、対馬、壱岐、伊都國をつなぐ定期航路が開かれていたと推測できる。伊都國は後で出てくる一大率という役職の官吏が置かれ、諸国を睥睨していたし、外交上も重要な拠点であった。従って航路の出発点、終着点はこの国でなくてはならない。しかし、魏使の一行は末盧國に着いているではないか、という問いには、潮目が悪く流されてしまった結果であると答える。
  15. 瀚海とはもとはゴビ砂漠のこと。海流も早く波も荒れがちな海をこう表現することで、旅路の困難を表そうとしたのではなかろうか。
  16. 前を行く人の姿が見えなくなるほど鬱蒼と下草が生えている森の中を移動するなど、魏使を迎える正規のルートであると考えることができない。これは[十三]で指摘した通り、正規のルートを外れて土地に官吏もいないほどの田舎に流されてしまい、苦心して、本来の目的地である伊都國を目指したと判断すべきだろう。
  17. しかしそんな中でも魏使は観察を怠っていない。海に生きる民族の姿がよく表されている。
  18. 代々王がいる。と書いているのに、王の名前が書かれていない。これは他の国も同じだ。では王はいなくなったのかといえばそんなことはない。おそらく官として紹介されている役職に就いている人物が王なのだ。
  19. 「邪馬國」であって「邪馬國」ではない。山がちの国に住んでいるから「山倭(やまゐ)」と称していた音を写したものと思われる。『後漢書』では「邪馬國」になっているが、二世紀が経過する間に国勢が発展し、国名に「大」という尊称をつけて自尊するほどになっていたのであろう。つまり「山大倭(やまたゐ)」を写したのが「邪馬國」なのだ。
  20. ここは倭の調査にかけた期間であると理解すべきだろう。倭を訪問する中国の使節はが初めてなのである。詳細に記録を残すためにも時には船を下り、寄り道もして詳しく倭の土地や風俗を観察、調査したに違いない。つまり、今までの邪馬台国論争は明後日の方向で議論していたと言うことであり、何とも無駄なことを何世紀も続けるものだと学者には呆れるばかりである。
  21. 「鯨面」とは顔に入れ墨すること。「文身」は身体に入れ墨をすること。文は説文に「錯畫也」とある。彩り描くの意である。ちなみに、青と赤も文と言う。
  22. 身分制度があった時代、誰でも皇帝に朝見できるはずはなかった。江戸時代でも将軍に拝謁できないお目見え以下という武士がいたのと同様で、相応しい身分が必要であった。『礼記』王制篇に「諸侯の上大夫は卿、下大夫、上士、中士、下士、凡そ五等」とある。周代以降、君主の下に小領主として「上大夫=卿」があり、以下「下大夫」「上士」「中士」「下士」その下に庶民があった。天子に朝見できるのは大夫以上であったから、大夫を称したのであろう。つまりその身分制度をよく理解しており、礼に通じていたことを表すのである。
  23. 風俗博物館』の日本服飾史資料に男性の衣服を再現した写真がある。もちろん女性の服装の再現写真もある。卑彌呼の衣裳を想像したものまであるのは恐れ入った。なお、「露紒」は角髪(みずら)のことである。
  24. 他はともかく、牛や馬がいないというのは奇異な印象を受ける。無論、一頭もいないという意味ではなく、野生にいないのはもとより、家畜として飼育する習慣がなかったことを述べているのだと思われる。実際、紀元前四〇〇年頃と考えられている弥生時代の遺構から牛の骨が出土している。また、馬にしても箸塚古墳から四世紀のものと考えられる遺物と共に木製の輪鐙(あぶみ)が出土しており、その頃既に乗馬する習慣を持つ者がいたことがわかる。馬が本格的に普及して飼育されるようになったのは五世紀中ごろである。牛も似たような時期ではなかろうか。しかし、西暦六七五年には天武天皇が肉食禁止令を出して、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じており、七世紀にはかなり一般に見られる動物になっていたことがわかる。
  25. 竹の矢柄や鉄の鏃、獣骨製の鏃の種類が海南島の人々と同じであるというのは、何を意味するのだろうか。元は同じ部族の人々が一方は海南島へ至り、一方は日本へ至ったということか。謎は尽きない。
  26. 日本人は永らく裸足で過ごしていたため、土踏まずがよく発達していたのだが、靴を履くように習慣が変わると扁平足が増えてきた。それはともかく、畳が普及すると庶民も草鞋や草履を履くようになる。畳を汚さないためである。平安時代に登場した頃はクッションのような役目で座るところに敷くものだったが、室町時代に入り書院造が普及すると、部屋全体に畳を敷き詰めるようになった。これに伴い武士は普段草履を履くようになり、座るときも蹲踞ではなく、正座して恭敬を表すように変わった。正座そのものは古代中国から入っていただろうから、馴染みはあったものと思われる(中国は、南北朝時代北魏が椅子を広めるまで座り方は正座が基本であった)。
  27. 成人した家族が男女の別なく雑魚寝することは夷狄の風俗として中国では野蛮視されていた。成人の男女が寝所を共にすることは性交することだからである。だから、わざわざ眠る場所が別々であることを特記しているのである。この頃日本は『妻問婚』であるから、成人した息子たちはそれぞれの妻の里へ寝に行ってたので「臥息異處」となったわけである。
  28. 朱丹とは辰砂から作った朱色の粉末顔料であり、これを顔や身体に塗ってお化粧したのである。本当に白粉のように顔や肩など露出するところ全部に塗りたくったのだろうか。現代人からすると奇異な印象があるが、実際を見てみたかったと思う。
  29. 」は竹ひごで作った高坏で、果物類を盛る。
    籩豆
    」は木製の高坏で、魚介類や肉類を盛る。高坏は今でも仏具に用いるのでご覧になったことがある方も多いと思う。「手食」とあるが、縄文時代より煮物を食べていたことが出土した土器からわかっており、そんな熱々のものまで手で食べていたはずはない。これは饗応用に手でも食べられるものばかり魏使に出したからではないかと思われる。
  30. 死者を棺桶に納めはするが、槨という、さらに棺を納める箱のようなものを作らず、棺桶を直接土に埋めるのは、ヨーロッパやアメリカでも見られる風習である。日本ももちろん、棺桶をそのまま土に埋めた。現在のお骨を納めるお墓の形は、明治時代以降に火葬が普及して一般化したものである。
  31. この下りを読んで、「なんと古代の人々の素直な心持ちであることか」と思ったのは私だけだろうか。家族が悲しみを露わにして泣きくれるのは当然だし、故人の知人が集って舞を披露したり酒を共に飲むことで死者の霊を慰めているのである。
  32. 喪中は身体の汚れを払うことなどできなかったと思われる。悲しみもあるだろうが、故人のために最も祈らなくてはならないのは家族であり、寝食を忘れるほどが理想であっただろう。従って葬儀が終われば身を洗うために挙って沐浴することになる。死を穢れとしてその禊ぎのために行ったのではないのである。穢れという概念はもともとヒンドゥー教にあったものであり、平安時代にその影響を受けた仏教を通じて伝わったのが日本における起源である。従ってこの時代、死は禊ぎの対象ではなかったのである。
  33. 願いが叶ったら財物を与え、叶わなかったら殺すというこの風習における持衰とは、依巫(よりまし)ではないかと思う。身体を洗わず髪も髭もほったらかしで垢が溜まっても拭いたりせず、あるがままの状態に置いて肉や女性を断つのは、神を降ろすためであろう。航海が無事に終わって帰ってくれば正しく職務を遂行したので報償を出すのはもちろんだが、怪我や難破その他支障が起きたということは、持衰が神を降ろしたふりをしていた、または邪神を降ろしていたためであり、いずれにせよ神に叛いたことを意味するので殺されたのだろう。
  34. 「玉」には「軟玉」と「硬玉」があり、日本ではどちらも翡翠と言う。「軟玉」はネフライトのことで、古来より珍重されてきた。「硬玉」はヒスイ輝石、つまりジェダイトのこと。十八世紀にミャンマーから輸入されたのが最初だと言う。「青」は草の色のことなので、つまりここで言う「青玉」はネフライトであり、白と緑がまじった色であったことがわかる。
  35. 日本語で「に」と言う。辰砂のこと。これから朱丹を作って女性が化粧に使ったことは既に述べた。
  36. いずれも舌に刺激が強い香味料であり、これと併せて調味に使える醤油のような調味料がなかったことがわかる。ちなみに醤油のもととなったは、五世紀頃の現存する中国最古の農業書『斉民要術』の中に、黒豆を用いたの作り方が詳細に述べられており、同時期に作り方が日本にも伝来したと言われている。しかし、は『周礼』に記載されていたり、『論語』にも孔子を用いる食習慣であったことが記載されていることから、紀元前十一世紀もしくは遅くても紀元前八世紀つまり春秋時代の初め頃には、中国で用いられていたので、倭の国がそれを知らずに朝貢していたとは考えにくい。おそらく保存食料としての利用が主で、調味料として加工するようになったのが後代だということではないだろうか。いずれにせよ主な味付けは塩ということになるので・・・食生活ばかりは現代に生まれたことを喜べばよいのやら贅沢を嘆けばよいのやら。
  37. これを「骨卜」と言う。次の項目の「亀卜」よりも古い原始的な形態の占い方である。おそらく中国で「」以前に発達した占い方だと思われるが、「」の時代(紀元前十七世紀〜紀元前一〇四六年頃)には「亀卜」が主流になり、「骨卜」は特別な場合にのみ行われる古い方法と考えられるようになっていた。次の「」の時代(紀元前一〇四六年頃〜紀元前七七一年)に入ると「」が発達して主流の占い方になり、「亀卜」は特別な場合のみ行われるようになり、「骨卜」に至っては廃れてしまった。その古い形式の占い方を日本へ伝えたのは「」の遺民であろうか。あるいは日本でも亀は採れるのだから、「」の人々ではなく、もっと古い時代に日本へ伝えた部族があったのかも知れない。
  38. 亀の甲羅を熱して生じるひび割れで吉凶を判断する「亀卜」という占い方のことである。詳しくはリンク先をみてほしいが、やみくもに甲羅を熱しても占いに適したひびなど入らないわけで、おそらく様々な方法があったに違いない。それが「」の時代にまとめられて後世に伝わったのではないかと思う。
  39. 何かの会合があれば、席次や作法をやかましく言うのが儒教の論理である。男女が席を同じくするなど決してありえない男尊女卑でもある。その中華の目から見て野卑と映ったから記録されているのだろう。良いところも悪いところも公平に書く陳寿の記述姿勢が偲ばれる。
  40. 裴松之(三七二年〜四五一年)は東晋末・初の政治家かつ歴史家である。この註により、当時の倭の暦について学説が二つ立っている。ひとつは現代と同じで一年は一年であり、ただ正確な天文知識がなかっただけとする説、もうひとつは、春と秋でそれぞれ一年としていた、つまり現代の半年が一年であるという指摘だとする説である。なぜ後者のような説が立ったかと言うと、暦がそうなっていれば、『古事記』や『日本書紀』に見られる古代天皇の異常な寿命や在位年数の問題が解決するからである。もちろん根拠はそれだけではない。数々の古典にあたり、論拠は示されている。しかし、いかなる動植物も春夏秋冬をサイクルとしているのに、古代人だけそれに外れていたとする理由に乏しい。私は前者が正しいと思う。古代日本の天皇については別の理由があると考える。
  41. 手を打って敬意を表すのは今でも行われている。おそらく手を打ち鳴らした後、深々と頭を下げただろう。今でも神社の拝礼作法はそうなっている。拍手あるいは柏手は両手に武器を持たないことで害意のないことを示したのが起こりではないかと考えている。
  42. 出土骨から調査した結果では、弥生時代の十五歳時における平均余命は男女とも三〇歳くらいという論文が出ている。また、二〇歳時における平均余命を約二〇年つまり、四〇歳くらいと見る論文もある。いずれにせよ、ここの記述とは大きく矛盾する。同じ時代の中国では、名士階級(所謂貴族)と庶民で平均寿命に大きな差があったことがわかっています。従ってこれもその類いではないでしょうか。滋養のある食料をたっぷり採れる貴族階級以上は百歳を越える人が稀にいて、八十、九十になる人もいた。一方、庶民は食糧事情が悪く寿命が大幅に短かった。どうでしょう。
  43. 一夫多妻であることがわかるが、これは『妻問婚』の結果だろう。特に庶民でも二人から三人の妻を持つとある点が重要だ。現代に繋がる嫁取婚つまり私有婚では、婚資が必要不可欠で、財産もない庶民が複数の妻を持てたことはありえない。その証拠に、現代でも一夫多妻を認めているイスラム諸国でも、普通は一夫一婦か、婚資がなくて結婚できず未婚のままという人がほとんどである。古代日本が嫁取りであったということはありえないのだ。
  44. 妻問婚』であるならば、妻は実家の自分の家にいて、夫と出かけたりしないのだから、嫉妬もしようがない。もちろん噂になるほど派手に遊べば別だろうが、夫が通ってこない日にどこで何をしているかわからない以上、やきもちを焼きたくても焼けないのだ。もちろんこれが高位の貴族でその動向がすぐ噂となって広まるような人だと話は別で、昔の日本の女性も嫉妬に身を焦がしたことが『蜻蛉日記』に綿々と綴られている。
  45. 日本人の訴訟嫌い(?)はこの頃から既にあったらしい。現代でも裁判沙汰というとそれだけで尻込みする人がほとんどではないだろうか。
  46. では犯罪を犯した者にどんな罰を与えていたかというと、軽い者でも本人はもとより妻子をも没収して奴隷にするというのだから、非常に厳しい。重罪は家族だけでなく一門連座で死刑である。一体どんな罪に対して与えられた罰なのだろうか。『魏志倭人伝』は倭の記事が詳細に記載されていることでも有名なのだが、それでも隔靴掻痒の観は免れない。現代もこれくらい厳しければ犯罪も減るだろうかと一瞬考えたが、刑罰が定められているということはそれを犯すものがいたということなので、必要以上に重くしても意味がないことにすぐ気がついた。
  47. 中国の「刺史」のようだとあるが、その「刺史」は州を皇帝に代わって統治する代官であり、の時代には警察権、裁判権はもとより兵権まで持っていたので、逆らったら殺されても文句を言っていく先がない。それは畏れられただろう。
  48. 伊都國の重要性がよくわかる下りである。郡使が必ず立ち寄り宿泊する国であり、一大率という高官が常駐していたり、下賜物や外交文書の点検照合をすると決まっていたり、倭の要をなしていることがよくわかる。
  49. これは今でも守るべき作法が含まれている。つまり、目上の人の前から立ち去る時は、後ろつまりお尻を見せることは大変な非礼であり、後ずさりしながら下がって、相手の視界に入らないところに至ってからはじめて振り向くものなのである。
  50. 地面に這いつくばって両手を地につける姿勢を土下座というが、明治になって立礼が導入されるまでは、庶民が武士や貴族に応対する時の基本的な姿勢であった。この頃既に確立されていたとすると、土下座にも長い歴史があることがわかり、同時に相手に与える影響もまだまだ大きいということがわかる。
  51. 漢字で書けば「噫」となるのだろうが、おそらく「はい」と答えたのだろう。応答に「はい」と言うのは江戸時代からで———と何やら見てきたように言う学者がいるが、そもそも口語資料など数えるほどしか残っていない上に、それが真実口語であるなどとは誰も保証していないわけで、室町時代に発する狂言、あるいは今様をいくら研究してもわかるものではない。ましてや鎌倉以前など『平家物語』ですら疑わしいのに何をか況んやである。つい最近のことでも口語資料となると失われてしまっていて調べようがないことも多いのに、よく断定できる勇気があるものだと思う。この箇所の記述はそういう意味で奇跡的に残された貴重な資料なのである。なぜ無視する者が多いのか不思議である。
  52. 「卑彌呼」の読みは中古音の推定に忠実にかなで書くと「ふぃみきを」だろうか。「呼」はむしろ「か」と聞こえたはずであるという説に従い、本文中では「ひみか」とルビを打っている。あるいは「ふぃみか」とすべきなのかも知れない。
  53. 「鬼道」とは「正道=儒教倫理に基づく政治」以外のものをすべて指しうるので、どんな統治を行ったのかはわからない。道教であるという人もいれば、原始的なシャーマニズムであると言う人もいる。初期の神道ではないかと言う人もいる。私も初期の神道であったと考えている。卑彌呼が王位に就く前「相攻伐歴年」という状態だったのは、誰を立てても部族宗教が背景にあれば、特定の族や国への傾斜は避けられず、それが不満となっていたからだろう。そこに部族を超越した祭祀を行う集団が登場したので、贔屓はなくなり国人皆納得したのだと思われる。それが神道であったというのは、卑彌呼死後再び乱が起きた後に同族の宗女壹与を王に立てて収めていることから、卑彌呼個人に依存した熱狂ではなく、伝来され得る内容を持っていたこと、とすると当然壹与の後も伝来されたはずで、後世まで伝来された宗教観は神道しか残っていないことが根拠として挙げられる。
  54. 𤰞彌呼が「祭祀王」であったことは間違いない。そして政治の実務を取り仕切った「政治王」がこの弟だったと思われる。後年『隋書』東夷傳俀國条でも「天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟」とあることから、この時代も複式統治であったことは間違いなく、その上で政事(まつりごと)が本来祀事(まつりごと)であったように、祭祀王が優越していたと考えられる。
  55. 王に立てたのに、その王自ら人に会わなくなったというのは道理が合わない。卑彌呼以前に内乱が絶えなかったのは誰を立てても不満が出たからで、それは逆に卑彌呼の支持基盤の広さと強さを物語るものでもある。そうすると、各国の王たちは自分たちの支配権が脅かされることを恐れなくてはならなくなった。そのため、卑彌呼との面会に制限を設けて、国人がみだりに卑彌呼と面語しないように、つまり、ますます卑彌呼への支持を強めて王を取り替え卑彌呼に直接治めてもらいたいと言い出さないようにしたのだと思われる。
  56. 魏尺は二四㎝十二㎜である。身長七二㎝三六㎜〜一一二㎝四八㎜の人が住んでいたことになり、いくら何でもこれは誇張された話を魏の史官がまともに受け取って記録していたのだろう。縄文人の中でも一際小柄な部族が生き延びていたのではないかと言う人がいるが、縄文人は弥生人と比べて全体的に小柄というが、その差は三㎝〜五㎝でしかなく、とても「侏儒」というほどではない。謎である。
  57. この「船行一年」を裸國、黑齒國への旅程と取る人が多いが(かく言う私も最初はそう読んでいたが)、前掲の本を読んでその後の語句と意味が繋がらないことに気付かされて訂正した。これは、魏使が倭の地の參問に費やした期間と主要な移動方法について記した語句である。倭をぐるっと一回りすると五千里あったということだが、これを㎞に直すと、二一七一㎞弱である。方形で考えると一辺五三四㎞ほどであるから、広すぎるのが・・・どこを通ってどう測ったのだろうか。
  58. 景初二年六月は、まだ司馬仲達が遼東の公孫淵を攻めている真っ最中であり、あるいは襄平城を包囲していたかも知れない。軍が公孫淵を斬って遼東を平定したのは八月になってからで、そのため、これは景初三年(西暦二三九年)を陳寿が誤ったのだとするのが定説である。これに対して、この時の貢物が「男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈」と後漢の時の倭奴國の貢物(奴隷百六十人)と比べて余りに見劣りがするにも関わらず、魏が倭を厚遇したのは、公孫氏政権からいち早くに乗り換えた功績を認めたからだという観点から、公孫氏政権滅亡直前のこの時期の遣使が正確であるという説もある。この後の説は非常に魅力的である。というのも、公孫氏はそれまで遼東を支配し、倭や三韓の朝貢を遮って自分たちが受けていたからだ。その支配が崩れそうなので、より正確な情報を求めて現状を見極めるために倭國から探偵のために派遣されたのが升󠄃と牛利だったのではないだろうか。まだ公孫氏が安泰な様子であれば、いつもの朝貢として押し通せばよいし、それとは逆に軍が優勢であれば、何も知らぬ蛮夷のことだから見逃してくれるだろうという計算もあったと思う。遣使がたった二人なのも、貢物が非常に粗末なのも偽装に必要な程度でよかったからだ。ところが現地に行ってみると、もう公孫氏の滅亡は時間の問題であり、魏軍の誰何も厳しかったのだろう。そこで、升󠄃が(あるいは牛利が)機転を利かせ、もしくは当初の打ち合わせ通り、このたび大国のに通じることができるようになると聞き、早速朝見をお願いに上がりましたと言上したのである。もちろん現場の軍人や官吏は役人を洛陽に派遣して処置を問い合わせたり、あるいは本当に倭の使者であるか、厳しく取り調べを行ったであろう。帥将の司馬仲達はそんなことに関わっている暇はなかっただろうが、最終的にこれは使えると踏んだのだと思う。倭の遣使が朝見に来たということは、それまで公孫氏がこれを阻んでいたからで、天子への朝貢であるものを私していたと言える。公孫氏誅伐に大義名分がひとつ加わり、その宣伝に使えるのだ。そこで、後に帯方太守となる劉夏に引率させて洛陽に案内した。これに、まだ実際に公孫氏が敗北と決まったわけではないのに朝見を求めてくるとは殊勝殊勝ということで皇帝が感激したことも加えて、厚遇につながったのではないかと考えられる。徳のある王朝には四夷が来朝するという考え方があったから、なおさらだっただろう。それに、この朝貢使は本紀に記載がない。そのような例は他にもないわけではないので、気にする必要などないのかも知れないが、通常の朝貢ではなく、異例であったのではないかという疑念が残る。また、二回目の遣使は大使以下八人で、貢物もちゃんと選ばれていることからわかる通り、邪馬壹國に大国へしかるべき貢物を揃えて差し出す実力がなかったわけではないことは明らかなのである。だからこそこれを単純に陳寿の誤りと決めつけることに躊躇するのである。
  59. 裴松之の註によると「絳綈交龍錦」だという。深紅の紬に交差した龍が織り出された錦である。それを五匹(十二㍍)、絳地縐粟罽(深紅の地に縐粟柄の毛織物、敷物だと考えられる)を十張、蒨絳五十匹(朱色と深紅色の絹織物、一二〇㍍)、紺青五十匹(青と紺色の絹織物、一二〇㍍)を下し、それとは別に紺地句文錦三匹(紺地で句文の錦、七㍍弱)、細班華罽(毛織物)五張、白絹五〇匹(百二十㍍)、金八両(百十一㌘)、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠と鉛丹をそれぞれ五十斤(十一㌔強)を卑彌呼に下している。倭の貢物に対して過剰なくらいの下賜品である。あれしきの貢物になぜこのような厚遇をというのが、先の項目で見た戦中朝貢説の根拠だが、確かに豪華だ。
  60. 太守弓遵、建中校尉梯雋らが実際に倭に来て卑彌呼に会っている。魏使は邪馬壹国に行かなかったと称する説があるが、ではどこで王と見えたと言うのだろうか。妄言も大概にしてもらいたい。
  61. この時朝貢したとは書いておらず、本紀にも記載がないが、『晉書高祖宣帝紀に「正始元年春正月東倭重譯納貢」「正始元年春正月、東倭、重譯して貢を納む」と見える。
  62. 少帝本紀の正治四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」「冬十二月、倭國の女王俾彌呼、使ひを遣はし奉獻す」という記事がある。この二度目の朝貢では、貢物が大国魏を意識して整えられていることがわかる。それだけに、景初二年の貢使が情報収集を目的としていたように思えてならない。
  63. 遂に「邪馬壹国」と「狗奴國」で戦争が始まる。の朝廷は詔書と、黄幢を塞曹掾史張政に持たせて送り出す。軍を派出するほどのことではないとの朝廷は判断したのである。黄幢は黄色の吹き流しで、黄色はが尊んだ色なので、これを陣中に立てておけばの後ろ盾があることを示すことができる。この戦はどちらが勝ったのか。特に書いてないということは、バックにがついていた邪馬壹国が勝利したということになる。
  64. 径百歩余りの冢だが、の歩を基準に計算すると、百四十四㍍〜百八十㍍くらいとなって非常に大きい遺構となる。本当にそんな巨大な冢を作ったのか、あるいは一部にある説の通り、魏は「短里」であり、従ってこれも「三〇㍍から四〇㍍」規模なのか。実はその大きさの墳丘墓が吉野ヶ里遺跡で見つかってる。悩ましい。
  65. 奴隷百人あまりを徇葬したとあるが、これは中国から入った風習なのか。それとももともと倭の風習なのか。旧主を慕って自らも死を撰ぶ殉死ならともかく、奴隷を埋めて來世の世話をさせるという発想がどうも日本になじまないような・・・
  66. 男王とは、女王国の支配下にあった王たちの中から選ばれたのだろう。従って内乱が起こる。壹与が立って国中治まったということは、やはり卑彌呼の鬼道は、一族に継承されていたと考えるべきである。
  67. おそらく、「狗奴國」との戦いでがバックについているということは大きな力となったのだろう。献上品の豪華さが増している。ここで白珠とあるのは真珠のことだと思うが、あるいは白くて小さな玉を献上したのかも知れない。この朝貢使が洛陽に到着した時、「」は「」に禅譲していたと思われる。『晉書』四夷傳倭國条の「及文帝作相又數至」「文帝相になるに及んでまたしばしば至る」と見えるのがこの朝貢ではないだろうか。壹与はその後も遣使を続けたようで、同じく『晉書世祖武帝紀の泰始二年(西暦二六六年)に「十一月己卯倭人來獻方物」「十一月己卯、倭人來りて方物を獻ず」と記事がある。壹与のその後はわからないが、よく国を率いたのだと考えられる。倭國は潰えず、後々の時代まで続いていくからだ。

二〇一三年八月十一日 初版
二〇二二年十一月二十八日 四訂版