『後漢書』東夷傳倭國条

『後漢書』東夷傳

後漢書』は、南北朝時代の南朝の時代に、范曄(西暦三九八年〜四四五年)によって編纂された後漢の歴史書。『三国志』が編纂されてから二世紀も経ってから編まれたものであり、特に東夷傳は『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳の粗雑な引き写しが多く、杜撰な内容が多い。

倭國条

倭在韓東南大海中依山㠀爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓竹矢或以骨爲鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆橫幅結束相連女人被髮屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹坋身如中國之用粉也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞爲恭敬人性嗜酒多壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盜竊少爭訟犯法者沒其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞爲樂灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以爲持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衞法俗嚴峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒東南行船一年至裸國黑齒國使驛所傳極於此矣

倭は韓東南の大海中にり。山㠀にりて居をす。およそ百[一]『魏志倭人伝』に「「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」とあるのを誤解したか、『漢書』地理志燕地条に「爲百餘國」とあるのをそのまま引用したか、いずれにせよ東夷傳著者の誤解である。武帝朝鮮を滅してより使驛しえき漢に通じるところ三十國ばか[二]『漢書』地理志燕地条にある記載を前漢の時代に倭人が朝貢したと誤解したか、『魏志倭人伝』に「漢時有朝見者」とあるのを前漢だと思い込んだか、どちらにしても東夷傳著者の誤りである。また『魏志倭人伝』に「今使譯所通三十國」(使者や通訳が行き来している国が三十ある)とあるのを「使驛」(使者や早馬が漢に通じている国が三十ある)としてしまっている。東夷傳著者が見間違ってしまったか、写本に写す際に誤りが紛れ込んだのか、いずれにせよ正しくない。前漢の武帝は確かに衛氏朝鮮を滅ぼしたが、倭が朝貢していないことは史記にも漢書にも一切の記載がないことから明らかである。そのため、「使驛通於漢者三十許國」はありえない。くにみな王あり。丗丗よよ統をつたふ。の大倭王は邪馬臺國やまたいこく[三]『後漢書』が編纂されたのは五世紀南北朝時代の南朝宋の時代。編者は范曄(はんよう、三九八年〜四四五年)。『三国志』が編纂されたのは西晋による中国統一後の二八〇年以降とされている。編者は陳寿(ちんじゅ、二三三年〜二九七年)。つまり、『後漢書』は『三国志』の百五十年以上後に書かれている。従ってここで「邪馬臺國(やまたいこく)」とあるのを以て『三国志』(つまり魏志倭人伝)の「邪馬壹國(やまゐこく)」を誤りとすることはできない。むしろ三世紀は「倭(ゐ)」と自称していた国名が、国勢の発展によって五世紀には「大倭(たゐ)」と変わっていたと理解するのが自然であろう。に居す。樂浪らくろうきょうの國を去ること萬二千里。其の西北界、拘邪韓國くやかんこくを去ること七千里。の地、大較おおむね會稽かいけい東冶とうやの東に在り[四]もちろんそんなところに日本はない。あるのは台湾である。『後漢書』東夷傳執筆者が『魏志倭人伝』に「會稽東治の東」とあるのを「會稽東冶の東」と誤読したのである。会稽郡東冶県は今の中国福建省福州市中心部と閩侯県の一部に相当する。なお、続けて「與朱崖儋耳相近故其法俗多同」とあるが、朱崖郡も儋耳郡も海南島に置かれていた郡であり、もちろん全然「相近」くない。東夷傳を書いた執筆者は東方の地理にはまったく知識がなかったものと思われる。朱崖しゅがい儋耳たんじと相ちかし。ゆゑの法俗、多くは同じ。土は、禾稻くゎたう麻紵まちょ蠶桑さんそうよろしく、織績しょくせきを知り、縑布けんぷす。白珠、青玉[五]白珠は真珠のこと。玉とは、中国で珍重される宝石全般を指し、特に硬玉、軟玉を言う。硬玉とは、翡翠(ひすい)輝石、つまりジェダイトのことで、緑色や紫色あるいは白にそれらが混じった色をしている。軟玉はネフライトのことで、日本ではジェダイトと併せて翡翠と呼んでいる。古代において玉とは軟玉を指したが、十八世紀に硬玉がミャンマーから入り、呼び分けるようになった。従ってここで言う「青玉」はネフライトのことであり、青は緑色のことである。を出し、の山にはたん[六]日本では「に」という。辰砂のこと。朱色の顔料にしたり、漢方薬の原料にしたりし、古代では珍重されていた。あり。土温腝おんどんにして、冬夏菜茹さいじょしよう[七]これも『魏志倭人伝』を誤読している箇所である。『魏志倭人伝』には「倭地溫暖冬夏食生菜」と「冬でも生野菜を食べる」としか書いていない。もちろん日本が温暖だとは言え、冬でも育つ野菜はごく限られている。。牛、馬、虎、豹、羊、しゃく無し。の兵、矛、楯、木弓、竹矢あり。或いは骨を以てやじりす。男子は皆黥面げいめん文身ぶんしん[八]鯨面とは顔に入れ墨をすることであり、文身とは体に入れ墨をすることである。このような習俗は『古事記』や『日本書紀』などの歴史書には記載されておらず、「倭」の人々がヤマトとは無関係な人々であることがわかる。なお、百越と呼ばれた中国の越の民族も同じ風習を持っていた。す。其の文の左右大小を以て尊卑の差をわかつ。の男衣はみな橫幅、結束して相連ね、女人は被髮ひはつ屈紒くっけいし、衣は單被たんぴごとく頭を貫きしかうして之をあらわし、ならび丹朱たんしゅを以て身をふんすること、中國の粉を用ゐるが如きなり[九]「風俗博物館」「日本服飾史資料」に、女性の衣装を再現した写真がある。丹朱とは、丹つまり辰砂から製造した朱色の粉末顔料である。再現写真でもわかる通り、古代の女性は肌を白く見せるのではなく、赤く派手に装っていたことがわかる。城柵じゃうさく屋室おくしつを有し、父母兄弟はところことにす[十]『魏志倭人伝』に「父母兄弟卧息異處」(父母と成人した兄弟は別々の場所で寝た)とあるものを、やはり東夷傳執筆者が誤解した箇所である。これでは家族離散だ。ただ會同くわいどうに男女の別無し[十一]会合で男女の別がないとはどういうことだ、と現代に生きる人は思うだろうが、中国の儒教では身分や年齢、続柄、性別によって席次が厳密に定められており、それが中華の常識=文明人の常識であったので、野卑な風俗だとしてわざわざ紹介しているのである。。飲食は手を以てし、しかうして籩豆へんとう[十二]「籩」は竹ひごを編んで作った高坏で、果物類を盛る。「豆」はやはり高坏だが、魚介類や肉類を盛る。を用ゐる。ぞくみな徒跣とせん蹲踞そんきょを以て恭敬と[十三]蹲踞とは相撲取りが仕切りの前に取る姿勢のことであり、俗っぽく言えばヤンキーのウン○座りである。また、時代劇で侍などが片膝を立てて座って目上の者にものを言う場面があるが、あれもやはり蹲踞である。元来は神を敬う姿勢であり、相撲にそれが取り入れられているのも元が神事だからである。それがいまやウ○コ呼ばわりなのだから、時代の流れは非情である。。人性酒をこのむ。壽考じゅこう多く、百餘歳に至る者はなはおほ[十四]またもや『魏志倭人伝』に「其人壽考或百年或八九十年」(そこの人々は長生きで、百歳になる人もいれば、八、九十歳になる人もいる)と書いてあるのを拡大解釈している。東方には蓬莱をはじめとする仙人境があるという伝説が中国にはあったので、そこから思い込んだのかも知れない。いずれにせよ、『後漢書』の東夷傳は出来が悪いことを示す材料のひとつである。。國、女子多く、大人には皆、四五妻有り。、或いはりょう或いは三[十五]『後漢書』東夷傳で最大の誤解がこの下りである。『魏志倭人伝』に「其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人」(その風俗では国で高貴な身分の人は妻を四、五人持ち、庶民でも二、三人の妻を持つものがいる)とあったのを何を思ったか、庶民皆が妻を複数持っていると読んでしまい、そんなに妻をたくさん持てるのだから、男が少なくて女が多いのだろうという邪推を勝手に事実のように付け足している。この馬鹿馬鹿しい憶測がなんと何百年も歴史書に書き継がれるのだから、よほどうらやましかったに違いない。。女人いんせず、せず。又俗は盜竊とうせつせず、爭訟少なし。法を犯す者はの妻子を沒し、重い者はの門族を滅す。の死、喪にとどまること十日。家人は哭泣こくきゅうし、酒食を進めず。しかうして等類は歌舞にきて樂をす。骨をいて以てぼくとし、吉凶を決するに用ゐる[十六]これを「骨卜」という。元来は中国にあった占い法で、殷の時代(紀元前十七世紀〜紀元前一〇四七年頃)、特別な場合に行われていたもので、次の周の時代(紀元前一〇四六年頃〜紀元前七七一年)には廃れた方法である。。行來、度海には一人をして櫛沐せつもくさせず、肉を食させず、婦人を近づけさせず。名を持衰じさいと言ふ。し、みちりて吉利なれば、すなはち財物を以て雇ひ、病疾へいしつごとき害に遭へば、以て持衰がつつしまずとし、便すなはち共にこれを殺す。建武中元二年、倭奴ゐぬ國、みつぎものを奉り朝賀す。使人みずからを大夫たいふしようす。倭國の極南界なり光武、印綬を以て賜ふ[十七]光武帝本紀の中元二年の下りに対応する記事がある「二年春正月辛未初立北郊祀后土東夷倭奴國王遣使奉獻」「中元二年春正月辛未、初めて北郊に立ち、后土を祀る。東夷の倭奴國王、使ひを遣はし奉獻す」この時、光武帝から下賜された金印が、志賀島から出土した、かの有名な「漢委奴國王」印である。金印に「」と彫られているということはそれが正式な名称であったことを示す(冊封の証である印に略字を使う愚かな官僚はいない)。「委」は説文解字によると「委隨也従女従禾」である。訓読は「委ね従ふなり。女に従ひくわに従ふ」禾は稲のことであり、稲穂が実った種の重みに従い垂れ下がるように柔軟で柔順である様を表す。女性の身体の柔らかさから転じて柔順であるとも。また、説文が成立した後漢時代には儒教が行き渡り女は男に従うものという価値観が出来上がっていた。故に女を含む、とも。倭の遣使が自分たちの國は「ゐ」であると言ったので、その発音に適切な文字として宛てられたと考えられる。ではなぜ「委」の字だったのかというと、「東夷」だったからである。『漢書』地理志燕地条に「東夷天性柔順」とある。また『後漢書』東夷傳の序文に「王制云東方曰夷夷者柢也言仁而好生萬物柢地而出故天性柔順易以道御至有君子不死之國焉」「王制云ふ、東方を夷と曰ふ。夷は柢なり。仁にして好生、萬物は地に柢し而して出ると言ふ。故に天性柔順、道を以て御し易し。君子、不死の國有るに至る」とあるように天性柔順であるからこの字が撰ばれたのである。ではなぜ各種の記録では「倭(ゐ)」の字になっているのだろうか。「倭」は説文によると「順皃従人委声詩曰周道倭遟」訓読は「順皃(じゆんばう)。人に従ひ、委は声。詩曰く、周の道は倭遟」順皃は従順な様。人に従順で、委が声部。『詩経』に「周への道は曲がりくねっていて遠い」とある。故に「委」である人々を表すために「倭」を使ったのだろう。それが忘れられ、改めて「委の人々」を表すために「人」字が追加され「倭人」という語句になったと思われる。安帝永初元年、倭國王帥升すいしよう生口せいこう百六十人をけんじ、まみゆるを願ひ請ふ[十八]孝安帝本紀の永初元年に対応する記事がある。「冬十月倭國遣使奉獻」「永初元年の冬十月、倭國、使ひを遣はし奉獻す」。ただし「願請見」とだけあって、謁見したと書いてないのがポイント。光武帝が「倭奴國」に金印を下した、つまり「倭」の支配者と認め、直臣であることを認めている以上、陪臣である王たちの使者に会うことは礼にあわなかったためと思われる。桓靈かんれいあひだ、倭國大いにみだ[十九]有名な「倭国大乱」はこの下りからそう呼ばれるようになった。しかしこれは『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」(その国はもとはまた男性を王としており、それが七,八十年続いたが、(結局)倭国が乱れ、互いに討伐しあうことが何年も何年も続いた」とあるのを「七、八十年乱れた」と勘違いした『後漢書』東夷傳の執筆者が机上で作り上げた妄想の大乱であり、卑彌呼が王に立てられたであろう年から逆算して、それが後漢の桓帝と靈帝の在位時代にあうことからそう決めつけただけのものである。ところがこれも後々の歴史書に引き継がれるのだから、『後漢書』東夷傳の執筆者は何百年も恥をさらす羽目になった。、更に相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名は卑彌呼ひみか[二十]なぜ「後漢」書なのに、「魏」の時代である卑彌呼のことが書いてあるのか。それは執筆者が『魏志倭人伝』を読んで書いたからであり、ここがその証拠となっている。。年長ずるも嫁さず。鬼神の道を事とし、く妖を以て衆を惑わす[二十一]『魏志倭人伝』に「事鬼道能惑衆」「鬼道につかく衆を惑はす」の下りにある「鬼道」が鬼神を崇めることにされている。『魏志倭人伝』が書かれてから『後漢書』が編纂されるまで百年余りしか経っておらず、文字の意味が変わったとは思えない。同じ中国人であっても、教養がないと古典を読むことができないということだろう。これにおいて共に立て王とす。侍婢じひ千人。まみゆる者有るが少なし。ただ男子一人有りて、飲食を給し、辭語じごつたふ。居處きょしょ、宮室、樓觀ろうかん城柵じゃうさく、皆兵を持して守衛す。法俗は嚴峻げんしゅんなり。女王國より東へ海をわたること千餘里で、拘奴くぬ國へ至る[二十二]『魏志倭人伝』では「此女王境界所盡其南有狗奴國」(ここまでが女王の統治するところである。その南に狗奴國がある)とあるので、別の資料を参照して書いたのか、狗奴國が移動したのか、執筆者の妄想か、何とも判断がつきかねる。。皆倭種といへどしかうして女王にぞくさず。女王國より南へ四千餘里で、朱儒しゅじゅ國へ至る。人長、三四尺なり。朱儒しゅじゅより東南へ行船一年で國、黑齒こくし國へ至る[二十三]これも執筆者の教養が知れる誤りである。『魏志倭人伝』では「又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至參問倭地」(また裸國や黑齒國がまたその東南にある。船で倭の地を調査、訪問することに一年をかけた」とあるのだが、「東南船行一年可」をひとつながりで読んでしまい、裸國や黑齒國がそんな遠い海の果てに存在することになってしまった。使驛しえきつたふる所、これにおいてきわまる。

倭は朝鮮の東南の大海の中にあり、山島の中に住んでいて、だいたい百余りの国がある。前漢武帝朝鮮を滅ぼして(楽浪郡など四郡を置いて)から交通が開けた国が三十国あまりある。それらの国にはすべて王がいて、代々血筋を残してきている。大倭王が邪馬臺國(やまたいこく)にいる。楽浪郡の境界より、邪馬臺國まで一万二千里ある。倭の西北の端にある拘邪韓國までは七千里である。その地はおおよそ、会稽郡の東冶県の東に位置している。朱崖、儋耳(共に、現在の海南島にあった)に近い。そのため、その法や風俗の多くが同じものである。土壌は、稲、紵麻、養蚕のための桑の育成に適しており、糸を紡ぎ布を織る術を心得ており、絹布を生産している。白珠(真珠のこと)、青玉を産出し、山からが取れる。気候は温暖で、冬でも夏でも野菜が採れる。牛や馬、虎、豹、羊、カササギはいない。矛や楯、木の弓、竹の弓で武装しており、動物の骨を遣って鏃にしている。大人の男は、皆顔や体に入れ墨をしている。入れ墨の左右上下の位置や大きさで身分の違いを表している。男性は皆横に長い布を巻いて結んでいる(具体的なスタイルは、風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。女性は、髪を伸ばしてまげを結い、単衣に作った布に頭を通して着ている(これも風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。また、中国で白粉を使うように、丹朱(赤い粉)を使って体を飾る。城柵があり、屋敷もあって、父母と兄弟は別々に住んでいる。会同でも男女で区別はしない。飲食は手を使い、籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る鉢)を用いている。風俗としてみな裸足である。身分の高い人の前では蹲踞して敬意を表す。そこの人の性質は酒を好む。年寄りが多く、百歳以上になるものがとても沢山いる。国には女性が多く、身分の高い人は夫人を四、五人持ち、それ以外でも、二人、あるいは三人の夫人を持つ。女性は浮気をせず、嫉妬もしない。また、盗みをする者はなく、訴訟で争うことも少ない。法を犯した者はその妻子を没収して奴隷とし、罪が重い者は、一族を滅ぼす。死人が出ると、十日余り喪に服する。家族は悲しんで泣き叫び、酒を飲んだり食事を取ったりしない。友人は歌い踊り音楽を奏でる。骨を焼いて卜筮を行い、吉凶を決める。旅に出たりあるいは旅から帰る時や、海を渡る時は、髪に櫛を入れず体も洗わず、肉を食べたり婦人を近づけたりしない者を一人供にする。これを持衰という。もし旅が順調だった場合は、財物を与えて賞し、疾病のような害があれば、持衰が謹まなかったせいだとして、すぐに全員でこれを殺す。建武中元二年(西暦五七年)、倭奴國が貢ぎ物を持って朝貢してきた。使者は自分のことを大夫だと言った。倭奴國は倭國の最南端にある。光武帝は印綬を授けた。安帝永初元年(西暦一〇七年)、倭國の王たち、帥升らが奴隷を百六十人献上して、皇帝にお目見えしたいと願ってきた。桓帝(西暦一四六年〜一六七年在位)と靈帝(西暦一六八年〜一八九年在位)が在位の間、倭國は大変な内乱状態で、互いに攻め合い、長い間倭國全体を統治する王がいなかった。卑彌呼という女性がいて、年長になっても結婚しないでいた。鬼神の道に詳しく、あやしげな術で民衆をうまく操っていた。この女性を諸国がこぞって王に立てた。侍女やはしためが千人いて、直接顔を合わせた者はごく少なかった。男性がただ一人で飲食の世話や、奏上や指示の取り次ぎをしていた。日常の住居や、宮殿、楼観、城柵には兵がいて守備していた。法は極めて厳しい。女王国より東へ海を千里余り渡ると、拘奴國へ着く。みな倭人であるが、女王国には属していない。女王国より南へ四千里余り行くと侏儒国に着く。そこの人は身長が三、四尺くらいしかない。侏儒国より船で東南に一年の距離に裸國、黑齒國がある。交通のあるところはここまでである。

會稽海外有東鯷人分爲二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來

會稽かいけいの海外に東鯷とうてい人あり。分かれて二十國をす。また夷洲いしう及び澶洲せんしうあり[二十四]夷洲は台湾のことだろうと言われている。澶洲の所在については、僻遠の地であるということ以外不明のままである。でん言ふ、しん始皇しかう方士徐福じよふくを遣わし、童男女數千人をひきゐて海に入り蓬萊ほうらいの神仙を求むれども得ず。徐福じよふくちうおそれてへて還らず。つひこの洲にとどまる。丗丗よよ相いけ、數萬家あり。人民、時に會稽かいけいに至り市す。會稽かいけい東冶とうやけん人、海に入りて行くに風に遭い、流移して澶洲せんしうに至る者あり。所在絶遠にして往來すべからず。

会稽郡の東の海上にある地に東鯷人がいて、二十国余りに分かれている。また夷洲(台湾のことだとされている)及び澶洲がある。伝によると、始皇帝が方士の徐福を派遣して子供の男女男女數千人を引き連れて海に出て蓬莱の神仙を求めさせたが、失敗した。徐福は失敗により誅殺されることを畏れて、とうとうこの地に留まることとした。以降、代々住み続けて戸数が数万戸にまでなった。その人々は会稽郡に来て商売をすることがある。会稽郡東冶県の人で、海に出て強風に吹かれて流されて、澶洲に流れ着く者がいる。その場所はあまりにも遠く、行き来は不可能である。

論曰昔箕子違衰殷之運避地朝鮮始其國俗未有聞也及施八條之約使人知禁遂乃邑無淫盜門不夜扃回頑薄之俗就寬略之法行數百千年故東夷通以柔謹爲風異乎三方者也苟政之所暢則道義存焉仲尼懷憤以爲九夷可居或疑其陋子曰君子居之何陋之有亦徒有以焉爾其後遂通接商賈漸交上國而燕人衞滿擾雜其風於是從而澆異焉老子曰法令滋章盜賊多有若箕子之省簡文條而用信義其得聖賢作法之原矣贊曰宅是嵎夷曰乃暘谷巣山潛海厥區九族嬴末紛亂燕人違難雜華澆本遂通有漢眇眇偏譯或從或畔

論曰く、昔、箕子きしは衰えしいんの運をり、地を朝鮮にく。始めその國の俗は未だぶん有らず。八條の約を施すに及び、人をして禁を知らしむ。つひすなはゆう淫盜いんとう無く、門は夜にとざさず。頑薄がんはくの俗をめぐらし、寬略かんりゃくの法にけ、行うこと數百千年[二十五]今度は『漢書』地理志燕地条の誤読である。『漢書』地理志燕地条には、「そうやって箕子が敷いた善政も時代の流れとともに効果が薄れ、前漢の頃には盗賊がはびこる地になってしまった」と書いてあるのに、予断を持って書いてしまったものだから恥を今でもさらさなくてはならない。ゆゑ東夷とういは通じ柔謹を以て風とし、三方に異る者なり。いやしくもまつりごとぶる所、すなわち道義存す。仲尼ちうじいきどおりいだき、以爲おもえらく九夷に居るし。あるいはそのいやしきを疑う。子曰く、君子これに居らば、何ぞいやしきこれ有らん。またただゆゑ有るのみ。その後、つひ商賈しやうこに通接し、ようやく上國に交わり、しかうしてえんじん衞滿えいまんはその風を擾雜じょうざつし、これに於いて從いて澆異ぎょういす。老子曰く、法令滋章じしやうにして盜賊多く有り。箕子きしの文條を省簡にして信義を用うるがごときは、それ聖賢の作法のみなもとを得たり。さんふ。この嵎夷ぐういに宅し、すなわち暘谷ようこくふ。山にすごもりし、海にひそみ、は九族。えいの末の紛亂ふんらんに、人は難をり、華をまじえ本をうすくし、遂に有漢に通ず。眇眇びょうびょうたる偏譯へんえき、或いは從い或いはそむく。

論(昔の人物批評)によると、昔、箕子が滅びたので、朝鮮に去った。始めはそこの風俗もあまり褒められたものではなかった。八条の法を敷いて、その人々にしてはならないことを教えた。すると終いには、町では男女の不純な交わりや盗みがなくなり、門を夜に閉ざすこともなくなった。頑なで浅はかな風俗を少しずつ変えていき、寛容で簡単な法を守らせて、これを数百、あるいは千年行った。だから東夷とは交通があり、柔順で謹直であることを風俗とし、北狄、西戎、南蛮とは異なるようになったのだ。いやしくも、政が行き渡る所には道義があるのだ。孔子は憤りを感じて九夷(九はすべての意、転じて代表、中心の意)の地に行こうと考えた。ある者が九夷は卑しい者ではないかと疑った。すると孔子は、君子がいるのであれば、どうして卑しいことがあるだろうか、と言った。また、理由があるのだとも。その後、とうとう商人と接し、やっと中国と通交したところ、燕國の人衞滿衛氏朝鮮の祖)は、これを乱して低俗なものにしてしまい、それに従って人情が薄く謀反を考えるようになってしまった。老子は、法令が増えると、盗賊も数が多くなる。箕子が法律を省き簡単にして、信義を守らせたのは、聖人賢人のやり方の基本を押さえたのだ。と言った。編纂者の意見だが、この居所とした嵎夷(太古、日が上ってくる場所とされた東方の山)を、暘谷(太古、日が上るとされた場所)と言う。山に住み、海に潜り、その種族は九族(九夷=東夷のこと)である。が滅びる間際にの人たちが難を避け、中華の風俗を伝えて交え、その本性を薄くして、ついにはと通交した。遙か彼方の遠方であり、中国に従った時もあり、叛いた時もあった。

  1. 『魏志倭人伝』に「「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」とあるのを誤解したか、『漢書』地理志燕地条に「爲百餘國」とあるのをそのまま引用したか、いずれにせよ東夷傳著者の誤解である。
  2. 『漢書』地理志燕地条にある記載を前漢の時代に倭人が朝貢したと誤解したか、『魏志倭人伝』に「漢時有朝見者」とあるのを前漢だと思い込んだか、どちらにしても東夷傳著者の誤りである。また『魏志倭人伝』に「今使譯所通三十國」(使者や通訳が行き来している国が三十ある)とあるのを「使驛」(使者や早馬が漢に通じている国が三十ある)としてしまっている。東夷傳著者が見間違ってしまったか、写本に写す際に誤りが紛れ込んだのか、いずれにせよ正しくない。前漢の武帝は確かに衛氏朝鮮を滅ぼしたが、倭が朝貢していないことは史記にも漢書にも一切の記載がないことから明らかである。そのため、「使驛通於漢者三十許國」はありえない。
  3. 『後漢書』が編纂されたのは五世紀南北朝時代の南朝の時代。編者は范曄(はんよう、三九八年〜四四五年)。『三国志』が編纂されたのは西晋による中国統一後の二八〇年以降とされている。編者は陳寿(ちんじゅ、二三三年〜二九七年)。つまり、『後漢書』『三国志』の百五十年以上後に書かれている。従ってここで「邪馬臺國(やまたいこく)」とあるのを以て『三国志』(つまり魏志倭人伝)の「邪馬壹國(やまゐこく)」を誤りとすることはできない。むしろ三世紀は「倭(ゐ)」と自称していた国名が、国勢の発展によって五世紀には「大倭(たゐ)」と変わっていたと理解するのが自然であろう。
  4. もちろんそんなところに日本はない。あるのは台湾である。『後漢書』東夷傳執筆者が『魏志倭人伝』に「會稽東治の東」とあるのを「會稽東冶の東」と誤読したのである。会稽郡東冶県は今の中国福建省福州市中心部と閩侯県の一部に相当する。なお、続けて「與朱崖儋耳相近故其法俗多同」とあるが、朱崖郡も儋耳郡も海南島に置かれていた郡であり、もちろん全然「相近」くない。東夷傳を書いた執筆者は東方の地理にはまったく知識がなかったものと思われる。
  5. 白珠は真珠のこと。玉とは、中国で珍重される宝石全般を指し、特に硬玉軟玉を言う。硬玉とは、翡翠(ひすい)輝石、つまりジェダイトのことで、緑色や紫色あるいは白にそれらが混じった色をしている。軟玉ネフライトのことで、日本ではジェダイトと併せて翡翠と呼んでいる。古代において玉とは軟玉を指したが、十八世紀に硬玉がミャンマーから入り、呼び分けるようになった。従ってここで言う「青玉」はネフライトのことであり、青は緑色のことである。
  6. 日本では「に」という。辰砂のこと。朱色の顔料にしたり、漢方薬の原料にしたりし、古代では珍重されていた。
  7. これも『魏志倭人伝』を誤読している箇所である。『魏志倭人伝』には「倭地溫暖冬夏食生菜」と「冬でも生野菜を食べる」としか書いていない。もちろん日本が温暖だとは言え、冬でも育つ野菜はごく限られている。
  8. 鯨面とは顔に入れ墨をすることであり、文身とは体に入れ墨をすることである。このような習俗は『古事記』や『日本書紀』などの歴史書には記載されておらず、「倭」の人々がヤマトとは無関係な人々であることがわかる。なお、百越と呼ばれた中国の越の民族も同じ風習を持っていた。
  9. 風俗博物館」「日本服飾史資料」に、男性の衣装を再現した写真がある。女性の写真はこちら。丹朱とは、丹つまり辰砂から製造した朱色の粉末顔料である。再現写真でもわかる通り、古代の女性は肌を白く見せるのではなく、赤く派手に装っていたことがわかる。
  10. 『魏志倭人伝』に「父母兄弟卧息異處」(父母と成人した兄弟は別々の場所で寝た)とあるものを、やはり東夷傳執筆者が誤解した箇所である。これでは家族離散だ。
  11. 会合で男女の別がないとはどういうことだ、と現代に生きる人は思うだろうが、中国の儒教では身分や年齢、続柄、性別によって席次が厳密に定められており、それが中華の常識=文明人の常識であったので、野卑な風俗だとしてわざわざ紹介しているのである。
  12. 「籩」は竹ひごを編んで作った高坏で、果物類を盛る。「豆」はやはり高坏だが、魚介類や肉類を盛る。
  13. 蹲踞とは相撲取りが仕切りの前に取る姿勢のことであり、俗っぽく言えばヤンキーのウン○座りである。また、時代劇で侍などが片膝を立てて座って目上の者にものを言う場面があるが、あれもやはり蹲踞である。元来は神を敬う姿勢であり、相撲にそれが取り入れられているのも元が神事だからである。それがいまやウ○コ呼ばわりなのだから、時代の流れは非情である。
  14. またもや『魏志倭人伝』に「其人壽考或百年或八九十年」(そこの人々は長生きで、百歳になる人もいれば、八、九十歳になる人もいる)と書いてあるのを拡大解釈している。東方には蓬莱をはじめとする仙人境があるという伝説が中国にはあったので、そこから思い込んだのかも知れない。いずれにせよ、『後漢書』の東夷傳は出来が悪いことを示す材料のひとつである。
  15. 『後漢書』東夷傳で最大の誤解がこの下りである。『魏志倭人伝』に「其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人」(その風俗では国で高貴な身分の人は妻を四、五人持ち、庶民でも二、三人の妻を持つものがいる)とあったのを何を思ったか、庶民皆が妻を複数持っていると読んでしまい、そんなに妻をたくさん持てるのだから、男が少なくて女が多いのだろうという邪推を勝手に事実のように付け足している。この馬鹿馬鹿しい憶測がなんと何百年も歴史書に書き継がれるのだから、よほどうらやましかったに違いない。
  16. これを「骨卜」という。元来は中国にあった占い法で、の時代(紀元前十七世紀〜紀元前一〇四七年頃)に特別な場合に行われていたもので、次のの時代(紀元前一〇四六年頃〜紀元前七七一年)には廃れた方法である。
  17. 光武帝本紀の中元二年の下りに対応する記事がある「二年春正月辛未初立北郊祀后土東夷倭奴國王遣使奉獻」「中元二年春正月辛未、初めて北郊に立ち、后土を祀る。東夷の倭奴國王、使ひを遣はし奉獻す」この時、光武帝から下賜された金印が、志賀島から出土した、かの有名な「漢委奴國王」印である。金印に「」と彫られているということはそれが正式な名称であったことを示す(冊封の証である印に略字を使う愚かな官僚はいない)。「委」は説文解字によると「委隨也従女従禾」である。訓読は「委ね従ふなり。女に従ひくわに従ふ」禾は稲のことであり、稲穂が実った種の重みに従い垂れ下がるように柔軟で柔順である様を表す。女性の身体の柔らかさから転じて柔順であるとも。また、説文が成立した後漢時代には儒教が行き渡り女は男に従うものという価値観が出来上がっていた。故に女を含む。倭の遣使が自分たちの國は「ゐ」であると言ったので、その発音に適切な文字として宛てられたと考えられる。ではなぜ「委」の字だったのかというと、「東夷」だったからである。『漢書』地理志燕地条に「東夷天性柔順」とある。また『後漢書』東夷傳の序文に「王制云東方曰夷夷者柢也言仁而好生萬物柢地而出故天性柔順易以道御至有君子不死之國焉」「王制云ふ、東方を夷と曰ふ。夷は柢なり。仁にして好生、萬物は地に柢し而して出ると言ふ。故に天性柔順、道を以て御し易し。君子、不死の國有るに至る」とあるように天性柔順であるからこの字が撰ばれたのである。ではなぜ各種の記録では「倭(ゐ)」の字になっているのだろうか。「倭」は説文によると「順皃従人委声詩曰周道倭遟」訓読は「順皃(じゆんばう)。人に従ひ、委は声。詩曰く、周の道は倭遟」順皃は従順な様。人に従順で、委が声部。『詩経』に「周への道は曲がりくねっていて遠い」とある。故に「委」である人々を表すために「倭」を使ったのだろう。それが忘れられ、改めて「委の人々」を表すために「人」字が追加され「倭人」という語句になったと思われる。
  18. 孝安帝本紀の永初元年に対応する記事がある。「冬十月倭國遣使奉獻」「永初元年の冬十月、倭國、使ひを遣はし奉獻す」。ただし「願請見」とだけあって、謁見したと書いてないのがポイント。光武帝が「倭奴國」に金印を下した、つまり「倭」の支配者と認め、直臣であることを認めている以上、陪臣である王たちの使者に会うことは礼にあわなかったためと思われる。
  19. 有名な「倭国大乱」はこの下りからそう呼ばれるようになった。しかしこれは『魏志倭人伝』の「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」(その国はもとはまた男性を王としており、それが七,八十年続いたが、(結局)倭国が乱れ、互いに討伐しあうことが何年も何年も続いた」とあるのを「七、八十年乱れた」と勘違いした『後漢書』東夷傳の執筆者が机上で作り上げた妄想の大乱であり、卑彌呼が王に立てられたであろう年から逆算して、それが後漢桓帝靈帝の在位時代にあうことからそう決めつけただけのものである。ところがこれも後々の歴史書に引き継がれるのだから、『後漢書』東夷傳の執筆者は何百年も恥をさらす羽目になった。
  20. なぜ「後漢」書なのに、「」の時代である卑彌呼のことが書いてあるのか。それは執筆者が『魏志倭人伝』を読んで書いたからであり、ここがその証拠となっている。
  21. 『魏志倭人伝』に「事鬼󠄂道能惑衆」「鬼󠄂道につかく衆を惑はす」の下りにある「鬼道」が鬼神を崇めることにされている。『魏志倭人伝』が書かれてから『後漢書』が編纂されるまで百年余りしか経っておらず、文字の意味が変わったとは思えない。同じ中国人であっても、教養がないと古典を読むことができないということだろう。
  22. 『魏志倭人伝』では「此女王境界所盡其南有狗奴國」(ここまでが女王の統治するところである。その南に狗奴國がある)とあるので、別の資料を参照して書いたのか、狗奴國が移動したのか、執筆者の妄想か、何とも判断がつきかねる。
  23. これも執筆者の教養が知れる誤りである。『魏志倭人伝』では「又有裸國黑齒國復在其東南船行一年可至參問倭地」(また裸國や黑齒國がまたその東南にある。船で倭の地を調査、訪問することに一年をかけた」とあるのだが、「東南船行一年可」をひとつながりで読んでしまい、裸國や黑齒國がそんな遠い海の果てに存在することになってしまった。
  24. 夷洲は台湾のことだろうと言われている。澶洲の所在については、僻遠の地であるということ以外不明のままである。
  25. 今度は『漢書』地理志燕地条の誤読である。『漢書』地理志燕地条には、「そうやって箕子が敷いた善政も時代の流れとともに効果が薄れ、前漢の頃には盗賊がはびこる地になってしまった」と書いてあるのに、予断を持って書いてしまったものだから恥を今でもさらさなくてはならない。

二〇一三年八月十一日 初版
二〇一五年二月二日 改訂