『新唐書』東夷傳日本國条

『新唐書』東夷傳

新唐書』は、北宋欧陽脩らによる奉勅撰である。仁宗の嘉祐六年(一〇六〇年)に撰進された。『舊唐書』の不備を正すために編纂されたのだが、簡略に過ぎていることや、詔勅の文章を古文に改変したり、中には錯誤も見られるため、評価は低い。

日本國条

日本古倭奴也去京師萬四千里直新羅東南在海中島而居東西五月行南北三月行國無城郭聯木爲柵落以草茨屋左右小島五十餘皆自名國而臣附之置本率一人検察諸部其俗多女少男有文字尚浮屠法其官十有二等其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二丗皆以尊爲號居筑紫城彦瀲子神武立更以天皇爲號徙治大和州次曰綏靖次安寧次懿德次孝昭次天安次孝靈次孝元次開化次崇神次垂仁次景行次成務次仲哀仲哀死以開化曽孫女神功爲王次應神次仁德次履中次反正次允恭次安康次雄略次清寧次顯宗次仁賢次武烈次繼體次安閑次宣化次欽明欽明之十一年直梁承聖元年次海達次用明亦曰目多利思比孤直隋開皇末始與中國通次崇峻崇峻死欽明之孫女雄古立次舒明次皇極其俗椎髻無冠帶跣以行幅巾蔽後貴者冒錦婦人衣純色裠長腰襦結髪于後至煬帝賜其民錦綫冠飾以金玉文布爲衣左右佩銀蘤長八寸以多少明貴賤太宗貞觀五年遣使者入朝帝矜其遠詔有司毋拘歳貢遣新州刺史高仁表往諭與王爭禮不平不肯宣天子命而還久之更附新羅使者上書

日本、いにしへ倭奴わぬなり[]京師けいしを去ることまん四千里、新羅しらぎ東南にあたり、海中にる島に居す。東西は五月で行き、南北は三月で行く。國に城郭せいくわくく、木をつらねて柵落さくらくし、草を以ておくす。左右に小島、五十みなみずから國を名づけ、臣としてこれに附す。本率一人を置き、諸部を検察す。の俗女多く男少なし。文字有り。浮屠ふとの法をたふとぶ。の官は十有二とうの王の姓は阿毎あま[]みずから言ふ、初めの主は天御中主あめのみなかぬしかうし、彦れん[]に至りおよそ三十二せいみなみことを以てかうし、筑紫城に居す[]。彦れんの子、神武しんむ立つ。更に天皇を以てかうただ大和やまと州を治む[]。次を綏靖すいせいふ。次は安寧あんねい。次は懿德いとく。次は孝昭かうせう。次は天安てんあん[]。次は孝靈かうれい。次は孝元かうげん。次は開化かいか。次は崇神すしん[]。次は垂仁すいじん。次は景行けいかう。次は成務せいむ。次は仲哀ちうあい仲哀ちうあい死して、開化かいか曽孫ひまごむすめ神功しんこうを以て王と[]。次は應神おうしん、次は仁德にんとく、次は履中りちう、次は反正はんせい、次は允恭いんきよう、次は安康あんこう、次は雄略ゆうりやく、次は清寧せいねい、次は顯宗けんそう、次は仁賢にんけん、次は武烈ぶれつ、次は繼體けいたい、次は安閑あんかん、次は宣化せんか、次は欽明きんめい欽明きんめいの十一年はりやう承聖しようせい元年にあた[]。次は海達[]。次は用明ようめいまたもく多利思比孤たりしひこ[十一]ひ、ずい開皇かいくわう末にあたり、始めて中國と通ず[十二]。次は崇峻すしゅん崇峻すしゅん死して、欽明きんめいの孫むすめ、雄古立つ[十三]。次は舒明じょめい、次は皇極くわうきよくの俗は椎髻ついけい冠帶くわんたいし。せんを以て行き、幅巾で後をおほふ。貴者は錦をかぶる。婦人の衣は純色にしてもすそ長く、腰じゆ。髪を後ろに[十四]煬帝やうだいに至り、の民に錦綫冠きんせんくわんたまひ、金玉を以て飾り、文布を衣とし、左右銀蘤ぎんかおびること長さ八寸、以て多少貴賤きせん明かなり[十五]。太宗の貞觀ぢやうがん五年、使者をつかはし入朝す。帝、の遠きをあはれみ、有司にみことのりして歳貢にとらはるをからしむ。新州刺史しし高仁表こうじんへうつかはして往きてさとしめるも、王とれいあらそたひらかならず。天子の命をぶることをがえんぜずしてかへる。これに久しくして、更に新羅しらぎの使者に附して上書す[十六]

日本は太古、倭奴(わぬ)と言った国である。京師(長安)から一万四千里のところにり、新羅の東南にあたる。海の中の島に人々は居住している。東の端から西の端まで旅して五ヶ月、南の端から北の端まで三ヶ月かかる広さである。國には城郭がなく、木を連ねて柵落にしており、草で屋根を葺いた家に住んでいる。国の左右に小島が五十余りあり、すべて自分たちで國を名のって倭に臣従している。本率一人を置いて全国を検察させている。その俗の特徴に女が多く男が少ないことがある。文字があって、仏教を尊んでいる。官吏は十二の階級に分かれている。その王の姓は阿毎(あま)氏である。その伝承によると、最初の国主は、天御中主(あめのみなかぬし)と号し、全部で三十二代を経て皆「尊(みこと)」と号して筑紫城に住んでいた。彦瀲=彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の王子神武が即位して「天皇」を号したが、ただ大和島を治めただけだった。次に綏靖が即位した。次に安寧が即位した。次に懿德が即位した。次に孝昭が即位した。次に天安が即位した。次に孝靈が即位した。次に孝元が即位した。次に開化が即位した。次に崇神が即位した。次に垂仁が即位した。次に景行が即位した。次に成務が即位した。次に仲哀が即位した。仲哀が死んで開化の曽孫娘の神功を王にした。次に應神が即位した。次い仁德が即位した。次に履中が即位した。次に反正が即位した。次に允恭が即位した。次に安康が即位した。次に雄略が即位した。次に清寧が即位した。次に顯宗が即位した。次に仁賢が即位した。次に武烈が即位した。次に繼體が即位した。次に安閑が即位した。次に宣化が即位した。次に欽明が即位した。欽明の十一年が梁の承聖元年(西暦五五二年)にあたる。次に海達が即位した。次は用明が即位した。また多利思比孤の属官であったとも伝え、隋の開皇年間(西暦五八一年〜六〇〇年)の終わり頃になって、初めて中国と通交した。次に崇峻が即位した。崇峻が死んで、欽明の孫娘である雄古が即位した。次に舒明が即位した。次は皇極が即位した。日本の風俗では椎髻を結って冠をつけたり帯を締めたりしない。どこへ行くのも裸足であり、幅広の布で背中を覆う。身分の高い者は錦を帽にしてかぶる。婦人の衣服は単色で丈の長い襦袢を着て、腰嬬を着けている。髪の毛は後ろで束ねている。煬帝の頃、国の人民に錦綫冠を与え、金の玉(ぎょく)で飾り付け、模様のある衣を衣服に使わせ、二十五㎝ほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤や身分の上下が分かるようにしている。唐の太宗の貞觀五年(西暦六三一年)に使者を派遣してきて入朝した。太宗はその国が遠いところにあることを気の毒に思い、係の役人に毎年入貢しなくても構わないよう詔勅で命じた。新州刺史の高仁表を派遣して帝徳を教え諭そうとしたが、王と礼儀について争いを起こし、対立した。天子の朝命を伝えることをよしとせず、伝えないまま帰国した。この件から長い間音信がなく、ある時、新羅の使者に託して書を奉ってきた。

永徽初其王孝德即位改元曰白雉獻虎魄大如斗碼碯若五升器時新羅爲高麗百濟所暴高宗賜璽書令出兵援新羅未幾孝德死其子天豐財立 死子天智立明年使者與蝦蛦人偕朝蝦蛦亦居海島中其使者鬚長四尺許珥箭於首令人戴瓠立數十歩射無不中天智死子天武立死子總持立咸亨元年遣使賀平高麗後稍習夏音惡倭名更號日本使者自言國近日所出以爲名或云日本乃小國爲倭所并故冒其號使者不以情故疑焉又妄夸其國都方數千里南西盡海東北限大山其外即毛人云長安元年其王文武立改元曰太寶遣朝臣眞人粟田貢方物朝臣眞人者猶唐尚書也冠進德冠頂有華蘤四披紫袍帛帶眞人好學能屬文進止有容武后宴之麟德殿授司膳卿還之文武死子阿用立死子聖武立改元曰白龜開元初粟田復朝請從諸儒授經詔四門助敎趙玄默即鴻臚寺爲師獻大幅布爲贄悉賞物貿書以歸其副朝臣仲満慕華不肯去易姓名曰朝衡歴左補闕儀王友多所該識久乃還聖武死女孝明立改元曰天平勝寶天寶十二載朝衡復入朝上元中擢左散騎常侍安南都護新羅梗海道更繇明越州朝貢孝明死大炊立死以聖武女高野姫爲王死白壁立建中元年使者眞人興能獻方物眞人蓋因官而氏者也興能善書其紙似繭而澤人莫識貞元末其王曰桓武遣使者朝其學子橘免勢浮屠空海願留肄業歴二十餘年使者高階眞人來請免勢等倶還詔可次諾樂立次嵯峨次浮和次仁明仁明直開成四年復入貢次文德次清和次陽成次光孝直光啓元年其東海嶼中又有邪古波邪多尼三小王北距新羅西北百濟西南直越州有絲絮怪珍云

永徽えいきの初め、の王孝德かうとく即位し、改元して白雉はくち[十七]虎魄こはく大なること斗の如き、碼碯めなう五升器のごときをけん[十八]。時に新羅しらぎ高麗かうれい百濟くだらあばるる所とす。高宗、璽書じしよたまひ、出兵して新羅しらぎたすけしむ。いまいくばくならずして孝德かうとく死し、の子天豐財立つ[十九]。死して子の天智てんち立つ[二十]。明年、使者、蝦蛦えみし人とともに朝す[二十一]蝦蛦えみしまた海島中に居す。の使者はひげの長さ四尺ばかり、を首にはさみ、人をしてふくべいただかしめすう十歩に立たしめ、射てあたらざること[二十二]天智てんち死して子の天武てんむ立つ[二十三]。死して子の總持立つ[二十四]咸亨かんかう元年、使ひをつかはして高麗かうれいたひらげしを[二十五]のちやうやく夏音くわおんならひ、倭の名をにくあらためて日本とかうす。使者みずから言ふ、國が日のずる所に近きを以て名とす。あるひはふ、日本すなはち小國、倭のあはせる所とす。ゆゑかうおかす。使者、情を以てせずゆゑこれうたがふ。またの國都、方すう千里とみだりほこる。南西は海にき、東北は大山で限る。の外はすなは毛人えみし[二十六]。長安元年、の王文武もんむ立つ。改元して太寶たいほうふ。朝臣あそん眞人まひと粟田をつかはし方物をみつぐ。朝臣あそん眞人まひとは唐の尚書のごとなり進德冠しんとくくわん[二十七]くわんし、いただき華蘤くわか四披しひり。紫袍しはう[二十八]帛帶はくたいす。眞人まひとがくこのみ、く文をしよくし、進止しんしかたちり。武后、これ麟德殿りんとくてんうたげし、司膳卿しぜんけいさずけてこれかへす。文武もんむ死して子の阿用立つ[二十九]。死して子の聖武しやうむ立つ[三十]。改元して白龜はくき[三十一]ふ。開元かいげん初め、粟田た朝す[三十二]諸儒しよしゆしたがけいさずけられんことをふ。四門助敎の趙玄默てうけんもくみことのりしてすなは鴻臚寺こうろじの師とす。大幅布をけんじてぜいし、賞物をくし書を貿ひ以てかへる。の副、朝臣あそん仲満、くわしたひて去るをがえんぜず、姓名を朝衡てうかうふ。補闕ほけつ儀王友ぎおういうて識そなはる所おほく、久しくしてすなはかへ[三十三]聖武しやうむ死して、むすめ孝明かうめい立つ[三十四]。改元して天平勝寶てんひやうしようほうふ。天寶てんぽう十二さい[三十五]朝衡てうかうた入朝す[三十六]。上元中、散騎さんき常侍しやうし、安南都護とごく。新羅しらぎ、海道をふさぎ、更に繇明やうめい[三十七]。越州が朝貢す。孝明かうめい死して、大炊おほい立つ[三十八]。死して、聖武しやうむむすめ高野姫を以て王と[三十九]。死して白壁立つ[四十]。建中元年、使者眞人まひと興能きようどう、方物をけん[四十一]眞人まひとけだし官にりて氏とする者なり[四十二]興能きようどうは書をくす。の紙はまゆに似てたくあり、人の[四十三]貞元ぢやうげん末、の王桓武かんむひ、使者をつかはして朝す[四十四]學子がくし橘免勢たちばなのはやなり浮屠ふと空海くうかいは、留まりて業をならはんことを願ふ。二十年を[四十五]、使者高階たかしな眞人まひときたりて免勢はやなりともかへらんことをふ。みことのりしてゆるす。次に諾樂立つ[四十六]。次は嵯峨さが。次は浮和[四十七]。次は仁明にんめい仁明にんめいは開成四年にあたり、た入貢す[四十八]。次は文德もんとく。次は清和せいわ。次は陽成やうぜい。次は光孝こうかう、光啓元年にあた[四十九]の東の海嶼かいしよ中にまた邪古やこ波邪はや多尼たねの三小王有り[五十]。北は新羅しらぎへだて、西北は百濟くだら、西南は越州にあたる。絲絮ししよ、怪珍有りとふ。

永徽年間(西暦六五〇年〜六五五年)の初め頃、その王孝德が即位して、改元して白雉とした。斗枡(十升入る枡)のように大きい虎魄(琥珀)と五升器(五升入る器)のような碼碯(めのう)を献上してきた。この時、新羅は百済と高句麗が暴れ回る国となっていた。高宗が爾書を下して出兵し、新羅を救援させた。まだ幾ばくも経ってないうちに孝德は死に、その子の天豐財が即位した。天豐財が死んで子の天智が即位した。即位の明年、使者が蝦夷の人とともに来朝した。蝦夷はまた海の中の島にいる。その使者は髭が四尺ばかりあり、矢を首にはさみ、瓢箪を頭上に載せて数十歩離れた距離から弓で射てすべて的中させた。天智が死んで、子の天武が即位した。天武が死んで、子の總持が即位した。咸亨元年(西暦六七〇年)使者を派遣してきて高麗を平定したことを祝賀した。後にようやく中華の言葉を習い、「倭」の名を嫌って改めて「日本」と号した。使者が自分で言うには、その国が日の出る所に近いのでそれを名前にした。或いは、日本は小国で倭が併呑したのだという。故にその号を奪ったのだと。使者、真心をもって対応せず、そのため使者を疑った。またその国都は数千里四方であるとでたらめを誇るように言う。南と西は海に面しており、北と東は大山が国境となっている。その外には蝦夷が住んでいる。長安元年(西暦七〇一年)にその王文武が即位した。改元して太寶と言った。朝臣眞人粟田を派遣して方物を貢いできた。朝臣眞人は唐の尚書のような立場の人で、進德冠を頭にのせ、その頂きに花をあしらいこれが四方にたれ下がっていた。紫袍を身につけ、帛帶をしていた。眞人は學問を好み、文章を作成するのが上手で、挙措は礼にかなっていた。武則天は麟德殿で宴を催し、粟田に司膳卿を授けて送り返した。文武が死んで、子の阿用が即位した。阿用が死んで子の聖武が即位した。改元して白龜とした。開元年間(西暦七一三年〜七四一年)の初め、粟田がまた入朝してきた。諸儒に入門して経書を教授して頂きたいと請願した。四門助敎の趙玄默に詔勅を下して鴻臚寺で授業をさせた。幅広の長い布を献上して授業料とし、下賜されたものを全て使い、市で書物を貿って帰った。その副使、朝臣仲満は中国を慕って帰国しなかった。姓名を変えて朝衡と名乗った。左さ補闕、儀王の学友を歴任して大変豊富に知識を蓄え、長い間奉職していたが、ついに帰国した。聖武が死んで、娘の孝明が即位した。改元して天平勝寶とした。天寶十二載(西暦七五三年)に、朝衡はまた入朝してきた。上元年間(西暦年七六〇〜七六一年)の頃、左散騎常侍、安南都護に抜擢される。新羅、海の航路を塞いで、さらにデマだとわかった。越州が朝貢してきた。孝明が死んで、大炊が即位した。大炊が死んで、聖武の娘、高野姫を王に立てた。高野姫が死んで白壁が即位した。建中元年(西暦七八〇年)、使者眞人興能が方物を献上してきた。眞人はその官を氏とする者のようだ。興能は能書家で、使う紙は繭に似て光沢があって、誰も知らなかった。貞元年間(西暦七八五年〜八〇四年)の終わり頃、その王桓武が即位し、使者を派遣して朝貢してきた。その學子、橘免勢と仏教僧の空海は、長安に留まり学業に就きたいと願った。二十年余り経ってから、使者高階眞人が来朝し、免勢らとともに帰国することを請願した。詔勅を下してこれを許した。次に諾樂が即位した。次は嵯峨が即位した。次は浮和が即位した。次は仁明が即位した。仁明の即位は開成四年(西暦八三九年)にあたり、また入貢してきた。次は文德が即位した。次は清和が即位した。次は陽成が即位した。次は光孝が即位した、光孝の即位は光啓元年(西暦八八五年)にあたる。日本のの東の海嶼中に、また邪古(屋久島のこと)、波邪(隼人族の国)、多尼(種子島のこと)の三小王有り。北は新羅と海を隔て、西北は百濟、西南は越州にあたる。絹や真綿、不思議で珍しい物があると伝える。

  1. もちろん違う。日本と倭を同じ国と見なせばそう言えないことはないが、同じ国でありえないことは今まで見てきた通り。
  2. 「去京師」からここまで前史の「倭」に関する孫引きである。「東西五月行南北三月」の国域については『舊唐書』東夷傳日本國条に「又云其國界東西南北各數千里」とあるのと矛盾する。
  3. 『古事記』で「天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」、『日本書紀』で「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)」と書かれている神。日向三代の一人。
  4. 代々筑紫城にいて日本を支配した可能性があるのは「倭」の王である。ヤマト王権が「倭」の分家、もしくは「倭」が派遣した軍が起源であれば、この説明は大きな誤りとまでは言えない。
  5. 「神武東征」の結果、大和に居座ったのが神武天皇である。
  6. 孝安天皇」の誤り。
  7. 実在の確かな最初の天皇だと言われている。
  8. 古事記』『日本書紀』ともに神功皇后が即位したという記述はない。
  9. 欽明十一年は西暦五五〇年に比定されているが、梁の承聖元年は、西暦五五二年であり、二年の誤差がある。
  10. 敏達天皇」の誤りである。
  11. 「目」は古い官庁用語では「軍の長官」とか「属官」をあらわす意味がある。従ってここは用明天皇が多利思比孤の属官であったことを述べているのである。倭と日本の歴史を統一しようとしているにも関わらず、うっかり古い記述を残してしまったのだろう。
  12. ここも同じで「」の開皇末に初めて中国と通交したのなら、今まで中国に朝貢してきていた「倭」は何なのだということになる。
  13. 推古天皇」の誤り。
  14. 「其俗椎髻」以下ここまで『隋書』東夷傳俀國条の引き写しで、しかも誤りがある。「幅巾蔽後」では服にならない。
  15. 別に人民すべてに許したわけではなく支配層の豪族だけだった。『隋書』東夷傳俀國条を間違って引き写している。
  16. これは「倭國」が行ったことであり、日本國は関知していない。
  17. 白雉は西暦六五〇年〜六五四年に使われた元号。
  18. これも献上したのは「倭國」
  19. 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)、つまり重祚した斉明天皇のこと。皇極天皇は死んだとは書いていないものの、孝德天皇の子であるというのは間違い。これは参照した資料に継承関係が明記されていなかったため、長子相続が原則である中国の常識に従って子としたと思われる。
  20. 天智天皇斉明天皇の子ではない。
  21. 西暦六六五年の第八次遣唐使のことか。
  22. 蝦夷が弓を扱うことに長け、狩猟を生業としていることがよくわかる箇所である。
  23. 天武天皇天智天皇の子ではない。これも継承関係が記載されていなかったため単純に子としたのだと思われる。このあたりの継承関係について、時代的には伝承が失われるほどの大昔というわけではないのだから、書かれていないことに理由が問題になる。弟なら弟とかけばすむ箇所に記載がないことは、実は天智天皇天武天皇は血が繋がっていないことを暗示する。
  24. 持統天皇のこと。持統天皇天武天皇の皇后だったので、やはり誤り。
  25. 咸亨元年は西暦六七〇年。第七次の遣唐使だと思われる。
  26. 長安元年は西暦七〇一年。文武天皇が即位したのは、西暦六九七年で、四年の誤差がある。
  27. 進德冠は次のような冠。
    進德冠
  28. 中国では紫袍は、皇帝より下賜されるもので、にも関わらず粟田が平然と着用しているので特に記録したものだろう。東夷のすることだし大目に見るかというところではないだろうか。
  29. 元明天皇」のこと。「阿閇皇女(あへのひめみこ)」と呼ばれたのでそれを写し間違えたのだろう。文武天皇の母に当たり、子ではない。
  30. 元正天皇」が飛ばされている。「文武天皇」の姉である。「聖武天皇」は「文武天皇」の子であり、「元明天皇」の子ではなく孫である。
  31. 改元して「白龜」としたとあるが、正しくは「神龜」である。「白龜」と年号を記した調の布を遣唐使が持ってきたのでこれを怪しんだという『舊唐書』東夷傳日本國条の記述とごっちゃになっている。
  32. 第九次の遣唐使であろうか。
  33. 実は帰国途中に難破して、結局帰国できなかったことは『舊唐書』東夷傳日本國条で見た通り。
  34. 孝謙天皇」の誤り。
  35. 玄宗は、天寶三載より年次表記を「年」から「載」に改めている。粛宗の乾元元年に再び「年」に戻されるまで用いられた。
  36. 漂流先からの帰還であって、日本からやってきたわけではない。長安への帰還は、実際は天寶十四載(七五五年)、つまり安史の乱が起きた年である。
  37. デマだというが、なぜこんな風評が立ったのだろうか。この頃新羅は飢饉や疫病に悩まされ、対外緊張を招くようなことをする余裕もなかったはずだが。
  38. 「淳仁天皇」のこと。即位は「孝謙天皇」の譲位によるものであり、死んでいない。
  39. 孝謙天皇」が重祚し、第四十八代「称徳天皇」となった。高野姫というのは、『続日本紀』では終始高野天皇と呼ばれたり、ほかに高野姫天皇とも呼ばれたからであろう。
  40. 光仁天皇」のこと。
  41. 第十七次遣唐使のこと。
  42. 大使であった布施清直のことと推定されている。
  43. 当然日本から持っていった紙であろう。絹と紙の区別がつかないはずはないから、日本の製紙技術がかなり向上していたことがわかる。
  44. 第十八次遣唐使のこと。
  45. 実際は二年後、第十八次の大使らが帰国する時に、空海橘逸勢らも帰国している。学生がわずか二年で帰国するなどありえないと編纂者は考えたのだろう。
  46. 平城天皇」のこと。奈良帝と呼ばれていたので寧楽(なら)の字を写し間違えたものと思われる。
  47. 淳和天皇」の誤り。
  48. 仁明天皇」の即位は西暦八三三年とされている。
  49. 光孝天皇」の即位は八八四年のこととされている。
  50. 「邪古」は屋久島、「波邪」は隼人族の国、「多尼」は種子島と言われているが、「其東海嶼中」とあって「邪古」「多尼」は島だが「波邪」だけ島ではないというのが解せない。奄美のことではないかとも思うが、確証はない。

二〇一三年八月十一日 初版
二〇二二年十一月二十九日 改訂版