『隋書』東夷傳俀國条

『隋書』東夷傳

隋書』は「」の太宗の勅命により、魏徴長孫無忌らが編纂した。編纂には他に顔師古孔穎達らが参加している。貞観十年(西暦六三六年)、魏徴によって本紀五巻、列傳五〇巻が完成し、その本紀、列傳の完成に遅れること二十年、顕慶元年(西暦六五六年)、長孫無忌によって志三〇巻が完成、高宗に奉呈されている。別に長孫無忌がサボっていた訳ではなく、志の編纂には非常に多大な労力が必要なためである。無論難易度も高い。

俀國条

俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名𤰞彌呼能以鬼󠄂道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐𤰞彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼

俀國たいこく[]百濟くだら新羅しらぎの東南、大海の中にりて、水陸三千里[]山㠀さんたうに依りて居す。魏の時、えきの中國に通ずるもの三十[]みなみずから王をしようす。夷人いじん里數りすうを知らず。ただじつを以て計る[]國境こくけい、東西は五月でめぐり、南北は三月でめぐ[]おのおの海に至り、の地勢、東高西下[]邪靡堆やまたいみやこすなはち魏志のふ所の邪馬臺やまたいなるものなり[]いにしへふ、樂浪らくろう郡境および帯方郡ならびに一萬二千里を去りて、會稽くわいけいの東にり。儋耳たんじと相近し。漢の光武の時、使ひをつかはして入朝し、みずか大夫たいふしようす。安帝の時、また使ひをつかはして朝貢す。これ俀奴たいぬ[]ふ。桓靈かんれいあひだの國おほいにみだたがひに相攻伐こうばつして歴年主無し。女子有り、名は𤰞彌呼ひみか鬼󠄂道を以てく衆をまどはす。これいて國人、ともに立てて王とす。男弟有り、𤰞ひみたすけ國をおさむ。の王侍婢じひ千人有り。の面を見る者まれに有り。ただ男子二人有りて王に飲食を給じ、言語を通傳つうでん[]の王、宮室きゅうしつ樓觀ろうくわん城柵じやうさく有りて、みな兵を持して守衛す。法をすことはなはきびし。魏せいりやうに至り中國と相通ず[]。開皇二十年、たい王、姓は阿毎あまあざな多利思北孤たりしほこかう阿輩雞彌おほきみ、使ひをつかはしてけついた[十一]しやう、所司にの風俗をはしむ。 使者言ふ、たい王は天を以て兄とし、日を以て弟とす。天、いまだ明けやらぬ時にでてまつりごとき、跏趺けつかして座し、日ずれば便すなはち理務をとどめ、我が弟にゆだねんと[十二]。高祖いはく、これおほいに義理無し。ここいて訓して、これあらためせしむ。王の妻は雞彌きみ[十三]かうす。後宮に女、六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利りかみたふり[十四]す。城郭じやうくわく無し。内官に十二等有り。一にいは大德たいとく、次に小德せうとく、次に大仁たいじん、次に小仁せうじん、次に大義たいぎ、次に小義せうぎ、次に大禮たいれい、次に小禮せうれい。次に大智たいち、次に小智せうち、次に大信たいしん、次に小信せうしん[十五]。員に定數無し。軍尼ぐんぢ一百二十人有り。ほ中國の牧宰ぼくさい[十六]のごとし。八十戸に一伊尼翼いぢよくを置く。今の里長りちやう[十七]ごとなり。十伊尼翼いぢよくは一軍尼ぐんぢぞくす。

俀国は百済新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國である。古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。(後漢の)桓帝靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。からに至るまで代々通交してきた。開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ。または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(音読は、あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ、のいずれかで「おほきみ」のこと)、使いを遣わせて宮城に詣らせた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。王の妻は雞彌(きみ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふり)と呼ぶ。内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。

其服飾男子衣裠襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾婦人束髪於後亦衣裠襦裳皆有襈攕竹爲梳編草爲薦雜皮爲表縁以文皮有弓矢刀矟弩䂎斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦其王朝會必陳設儀杖奏其國樂戸可十萬其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣人頗恬静罕争訟少盗賊樂有五弦琴笛男女多黥臂點面文身没水捕魚無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字知卜筮尤信巫覡毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同好棊博握槊樗蒲之戲氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之性質直有雅風女多男少婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來

の服飾、男子の衣は裠襦くんじゆ[十八]にしてそでは微小。くつ屨形くけいごとの上にうるしをしてこれあしつな[十九]。人庶は多く跣足せんそく。金銀を用ゐてかざりとすを得ず[二十]。故時、衣は横幅おうふく結束けつそくして相つらね、しかうしてほう無し。頭またくわんむり無くただ髪を兩耳りようみみの上にらす。隋に至りての王、始めてくわんむりを制す[二十一]錦綵きんさいを以てこれし、金銀を以て花をちりばめてかざりと[二十二]。婦人は髪をうしろでたばね、また衣は裠襦くんじゆせう[二十三]みな襈攕ちんせん有り[二十四]。竹をくしす。草を編みてせん[二十五]雜皮さふひを表とし、文皮を以てふちとす。弓、矢、刀、さくさん、斧有り[二十六]。皮にうるしして甲とし、骨を矢鏑してきす。兵有りといへども征戦無し[二十七]の王、朝會ちやうくわいに必ず儀杖ぎじやう陳設ちんせつし、の國のがくそう[二十八]。戸、十まんばか[二十九]の俗、殺人、強盗及びかんみな[三十]ぬすむ者はざうを計り物をむくひさせ、財無き者は身を没してと爲す。自餘じよ輕重けいちやうにより或いは流し、或いはじやうす。獄訟ごくせう訊究じんきうするごと承引しよういんせざる者は木を以てひざあふし、或いは強弓きやうきうを張り弦を以てうなじきよ[三十一]。或いは小石を沸湯ふつたうの中に置き、競する所の者にこれを探らしめ、ふ、理、曲なる者はすなはち手、ただると[三十二]。或いは蛇を瓮中をうちやうに置き、これを取らさしめ、ふ、曲なる者はすなはち手にささると[三十三]。人すこぶ恬静てんせいにして争訟さうそれ。盗賊すくなし[三十四]がくに五弦の琴、笛有り[三十五]。男女おほくはげいし面にてんして身に文す[三十六]。水に没して魚をとらふ。文字は無く、ただ木に刻み、なわむすぶ。佛法ふつはふうやまひ、百濟くだらに於いて佛經ふつけいを求め得て始めて文字有り[三十七]卜筮ぼくせいを知る。もつと巫覡ふげきを信ず[三十八]。正月一日に至るごとに必ず射戲しやぎ、飲酒す[三十九]餘節よせつくわと同じ。棊博きはく握槊あくさく樗蒲ちよほたはむれを好む[四十]氣候きこうは温暖。草木は冬、青し。土地は膏腴かうゆにして水多く陸少なし[四十一]小環せうくわんを以て鸕鷀ろしくびすじけ、水に入りて魚を捕へさしむ。日に百頭を得る[四十二]。俗に盤爼ばんそ無く、檞葉かいえふを以てき、食するに手を用ゐてこれ[四十三]。性質は直にして雅風有り。女多く男少なし。婚嫁こんかに同姓を取らず[四十四]。男女相よろこべばすなはち婚とす。婦、夫家に入るに必ず先に犬をまたぎ、すなはち夫と相まみえる。婦人婬妬いんとせず[四十五]。死者は棺槨くわんくわくを以ておさ[四十六]親賓しんぴんしかばねきてうたおど[四十七]。妻子兄弟は白布を以て服を製す[四十八]。貴人は三年外でもがりす。庶人は日をぼくしてしかうしてうず[四十九]はうむるにおよんでしかばねを船上に置き、陸地でこれく。或いは小轝せうれんを以てす[五十]。 阿蘇山有り[五十一]いわゆゑ無く火が起こり天に接すれば、俗、以て異因と禱祭たうさいおこなふ。如意寶珠じよいはうしゆ有り。の色青く、大きさ雞卵けいらんごとし。夜すなはち光有り。魚眼の精となり新羅しらぎ百濟くだらみなたいを以て大國にして珎物ちんぶつおほしとならびにこれ敬仰けいぎやうつねに通使が往來おうらい[五十二]

その国の服飾について、男性は裠襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。弓矢、刀、矟(矛の一種?)、弩、䂎(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。戸数は十万ばかりある。その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。その際、道理の正しくない者は手が爛れると伝える。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。その際、邪な者はまた手を噛まれると伝える。人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。楽器には、五弦の琴、笛がある。男女の多くは肩から手首までに入れ墨をし、顔にも小さな入れ墨を点々と入れ、体にも入れ墨をしている。水に潜って魚を捕らえている。文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手して、初めて文字を読み書きするようになった。卜筮が知られている。巫覡を最も信じている。毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。かけ囲碁、すごろく、さいころ博打の遊戯を好む。気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る。食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。新羅百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。

大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞明年上遣文林郎裴清使於俀國度百濟行至竹㠀南望𨈭羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶

大業たいげふ三年[五十三]の王多利思北孤たりしほこ、使ひをつかはし朝貢ちやうこうす。使者いはく、海西の菩薩ぼさつ天子、かさねて佛法ふつはふおこすと聞く。ゆゑつかひして朝拜ちやうはいし、ねて沙門さもんすう十人きたりて佛法ふつはふまな[五十四]の國書にいはく、日ずるところの天子、日没するところの天子へ書を致す。つつがきや云云うんぬん。帝、これらんじてよろこばず。鴻臚卿こうろけいひていはく、蠻夷ばんいの書に無禮ぶれい有ればた以てぶんするなか[五十五]。明くる年、しやう文林郎ぶんりんらう裴清はいせい[五十六]つかはし、たい國に使ひす。百濟くだらわたり行きて竹㠀ちくたう[五十七]に至る。南に𨈭たんら[五十八]を望み、都斯麻つしま國を經てはるか大海中に在り。また東に一支いき國へ至る。また竹斯ちくし國へ至る[五十九]また東へ秦王しんおう國へ至る。の人、華夏くわかに同じ。以て夷州いしうす。うたがふもあきらかにすることあたはずなり[六十]また國をて海岸に達す[六十一]竹斯ちくしり以東はみなたい附庸ふやうす。たい王、小德せうとく阿輩臺おほたいつかはしすう百人を従へ儀仗ぎじやうまう鼓角こかくを鳴らし來迎らいげいす。のち十日、また大禮たいれい哥多毗かたひつかはし、二百余騎を従へかうねぎら[六十二]すでみやこへ至り、の王、清と相まみ[六十三]おほいによろこいはく、われ、海西に大隋たいずい禮義れいぎの國有りと聞く。ゆゑつかはして朝貢ちやうこうす。われ夷人いじん海隅かいぐう僻在へきさいし、禮義れいぎを聞かず。これを以て境内けいだい稽留けいりうし、ただちに相まみえず。今、ことさらみちを清め、館を飾り、以て大使を待つ。こいねがはくば大國惟新ゐしんの化を聞かん[六十四]。清、答へていはく、皇帝のとくは二儀にならび、たくは四海に流る。以て王をしたひ化す。ゆゑに行人をつかはしここきたりて宣諭せんゆす。すでに清を引かせて館にかしむ。の後、清、人をつかはしての王にひていはく、朝命すでに達す[六十五]すなはみちいましめんことを[六十六]これにおいて宴享えんきやうまうけ、以て清をつかはし、た使者を清にしたがひてきたらしめ、方物をみつ[六十七]あとつひに絶つ[六十八]

大業三年(西暦六〇七年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があれば、今後は取り次ぐな」と仰った。翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に𨈭羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。裴清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴清答えて曰く「皇帝の徳は天と地を覆い、恩恵は四海に流れ、そのため王を慕い教化されるのです。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」裴清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」ここにおいて宴会を催し、裴清を送り出した。また使者を裴清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。

  1. 「倭」國でも「邪馬臺」国でもなく「俀(たい)」國である。私は「大倭(たゐ)」の音を写したものだと考える。隋唐の頃は発音が変化しており「邪馬臺」は「やまたい」ではなく「やまだい」と読むようになっていたからである。
  2. 隋の一里は、約五百三十一メートル。三千里は一千五百九十三.五十四メートルになる。隋の国境から北九州まで大凡それくらいの距離になる。どうやって出したのだろうか。あるいは地理志を読めばわかるのかも知れないが、とても取り組む時間が取れない。
  3. この一文だけでも魏徴が前史を孫引きして済ませたのではなく、丹念に調査したことがわかる。さすが、諫議大夫に任じられるだけのことはあると思わせる箇所である。魏徴の人となりは『貞観政要』にもよく表れている。
  4. この記載は重要である。以前に使者を倭に送ったことが正史に記載されている王朝は、三国時代しかない。つまり『魏志倭人伝』では倭人から聞き取りした内容を記述した部分は日数を距離に単純計算していることを示す。ところがそのは実際に使者を送って卑彌呼に勅語を伝えているので、その所在記事が倭人からの聞き取りだけで成立しているとは考えにくい。従って倭人からの聞き取りであることが確実なのは、せいぜい侏儒国、裸國、黑齒國の所在くらいであろうか。
  5. 隋の頃といえば飛鳥時代である。旅行には米くらいは担いでいったかも知れないが、副菜は現地調達だっただろう。たっぷり財産のある豪族であれば、配下を使って狩りや山菜木の実の収集をさせればよいとはいえ、一日に進める距離には限界がある。街道が整備され、駅伝が置かれた江戸時代にあってさえ、大名行列の進行速度は一日平均三十八㎞だったという。駅はおろか街道すら整備されていたかどうか疑わしいこの時代、一日十㎞も進めなかったのではないだろうか。あるいは船でも潮待ちがあるので事情はあまり変わらなかっただろう。
  6. 東側の標高が高く、西側が低いという地勢は、大和には当てはまらない。なにせ盆地である。まあ大阪を西と見なせばそう言えないこともないが、大和の地勢を述べるのに大阪を含めるほど隋の遣使は魯鈍ではなかろう。
  7. ルビで読むと同語反復になっているが、「馬(ma)」と「靡(mjie̯、mǐe、mjĕ、mie)」、「臺(dʰɑ̆i、dɒi、dʰAi、dəi)」と「堆(tuɑ̆i、tuɒi、tuAi、tuəi)」で発音が異なる。
  8. 「倭奴」國だったので、倭を俀に機械的に置換したのだと思われる。ここの錯誤はそれだけでなく、後漢安帝の時代(西暦一〇七年)に朝貢した国を間違えている。あるいは魏徴のことだから、諸記録を丹念に調べて『後漢書』東夷傳にある「倭国王帥升等」が「倭奴國」の者であったという記録を見つけたのだろうか。東夷の一国のためにそこまで労を割くとも思えないが。
  9. 一人であった男子が二人に増えている。これは何を参照して変更したのか非常に気になる。あるいは単なる誤りだろうか。
  10. ここまでが「古云」の内容である。
  11. 俀王に「姓」があることに注意。天皇に姓はない。その姓が「阿毎」であり「天」であることは間違いないだろう。「多利思北孤」は「多利思比孤」の誤りとする説もあるが、例によって「似ている」が根拠である。これは「国書」に書かれていた自署をそのまま写したものであり、間違いの可能性は低い。この頃には既に「オオキミ」号が成立していたことがわかる。古来天皇は「命」号だったのだ。あるいは「天皇(すめらみこと)」とやはり「みこと」である。この点からも、俀國、つまり倭國はヤマト王権とは別の王権であることがわかる。いや、ヤマト王権なるものがそもそも天武天皇の時代までなかったのではなかろうか。なお、「阿輩雞彌」は音読すると「あ(お)はいけいみ」「あ(お)ふぁいけいみ」「あ(お)はいきぇいみえ」のいずれかだろう。「闕」とは古代中国の宮殿を表す。
  12. 複式統治の様子が語られている。兄が天であるので、祭祀王である。弟がその天を巡る日なので、政治王となる。
  13. 音読すると「けいみ」「きえいみえ」で、つまり「きみ」。「きさき」でないことに注意。
  14. 音読すると「りかみたふっり」「りかみえたふぃぁっり」、つまり「りかみたふり」。
  15. 順序は多少違うが、『冠位十二階』を表したものと通常は解釈されている。仮にそれが正しいとしてもヤマト王権冠位十二階は「倭」が授与するものであったことがわかる。
  16. 「牧宰」とは「刺史」あるいは「牧」と呼ばれた中国の地方長官のこと。警察権、司法権、兵権を併せ持ち、強大な権力を行使した。
  17. の「里長」とは地方行政単位の里の長で律令制の最末端の吏。代・代に里正,代の里甲制では里長と呼ぶ。時代が外れるが、の頃の「里」は、徭役負担の義務をもつ百十戸を基準として一里を編成し,丁糧の多い富裕戸十戸を里長戸,残りの百戸を甲首戸とし,これを十戸ずつ十甲に分けた。そして里長一人,甲首十人が毎年輪番でその里のさまざまの役に当たり十年で一周したという。つまり、戸を十戸従えていた。の頃も余り変わりなかったと思われる。
  18. どんな服装であったかは「職貢図」(倭國使図写真「職貢図」倭國使
    が参考になる。「裠」はスカート状の着衣のことだが、「裠嬬」となると元がどんな服か想像できない。あるいは「嬬裙」と同じ意味だろうか。それなら女性の服と言うことになるので、女性漢服
    高腰嬬裙などの上着を想像すればよいことになる。これの袖を絞ったか、ほとんど袖のない衣裳に似ていたか。「職貢図」に描かれた倭國使の上着がそう見えないこともない。なお「職貢図」に描かれた倭國使の姿だが、裸足で書かれているので相当古い時代の資料を根拠にしていることがわかる。おそらく三国時代へ朝貢した使者の姿だろう。
  19. 「履如屨形」で「履」も「屨」もくつである。次の図の履・屨
    上から三つめが「屨」らしい。「舃」とは底が二重になったもので、泥の中に立っていなくてはならない時に使ったようだ。「屨」など通常の履の底は一重。
  20. 庶民は金銀の使用が禁止されていたというのが、厳しい身分秩序のあったこを窺わせる。
  21. 隋の時代になってから、つまり六世紀末に冠の制度を定めたとある。『梁書』諸夷傳にも記述があったように、それまでにも冠をつけることはあったが、それは個人的な趣味であって、国家体制に組み込まれたものではなかった。故に、先の十二階と併せて「冠位十二階」の制定を指したものと解釈されることが多いが、位階は位階、冠は冠で別に定められたと解釈することも可能である。ひとつの制度なら併せて記録するのが本来だからである。
  22. 「錦綵」とあるところから、冠というより「帽」に近いものだったようである。
  23. 高松塚古墳の壁画に描かれた女性が来ている服がこれに近いのではないかと思う。
    嬬裙・裳
  24. 「撷芳殿洒扫的日记」の「明代宫廷服饰简介(八)——皇后常服」によると、「缘襈裙」というものがあって、
    缘襈裙
    どうも襈は装飾の一種らしいということがわかる。「攕」も同様だろうが筆者には何を指すものか探し出せなかった。ご存じの方がいらっしゃればご教示願いたい。
  25. この草とは何だろう。藁であろうか。あるいはい草を畳表のように編んで敷物にしたのであろうか。
  26. 矟とは馬上で振るう矛のこと。䂎は小型の矛らしい。
  27. これが魏徴ら編纂者の誤りでなければ、倭は遂に北を抑えることに成功したことになる。註[五十二]の部分にある通り、百済新羅とは使者が通交していた。この時の倭の版図はどこまでであっただろうか。武蔵国はまだ併呑されておらず、その設置はヤマト王権に委ねられた。東は 越前国越中国越後国尾張国三河国遠江国までが地続きで、加えて安房国上総国下総国が既に勢力圏であったと言ってよいだろう。南は無論、種子島屋久島奄美大島に及んでいたと考えられる。西は五島列島まで配下にしていただろう。倭の五王の構想は実現したのだろうか。
  28. この風習はヤマト王権に継承された気配がない。なぜだろうか。
  29. 『魏志倭人伝』に記載された戸数を合算すると、十五万戸になる。この数字に誤りがないとすると大きく人口が減っていることになる。長年の遠征で人口が減少してしまったのだろうか。あるいは新たに征服した地に大規模な植民を行っていった結果、元の倭の人口が減ったとも考えられる。
  30. 殺人、強盗はともかく、「姦」も死罪となっている。「姦」とは姦通、つまり結婚した女性の浮気のことを言う。この記述はこの時期の倭國が嫁取婚に移行していたことを示す。
  31. 捜査が峻厳を通り越して拷問を加えている。冤罪も多かったのではないだろうか。
  32. これを「盟神探湯(くがたち)」と言う。本当に手を入れさせようとしたのではなく、原告被告の両者が神に宣誓させた上でそう脅すのである。その結果、不正直な方は神威を畏れて自白したというわけである。従って盟神探湯の実効性を信じて疑わない族の者にしか意味がない。
  33. これも「盟神探湯」と同様の手順を踏んだものと思われる。
  34. 隋は実際に使者を送っているので『魏志倭人伝』の引用とは思えない。しかし訴訟が少ないのはともかく、窃盗が少ないというのは本当だろうか。平安時代のだらしなさを見ていると、かなり法が厳格に執行されていたことの方が驚きだ。
  35. 五弦のは今日の和琴の原型である。よく見かけるだと思っている人が多いが、は奈良時代に唐から伝わった別物。
  36. 男女とも腕に入れ墨し、顔にもぽつぽつと入れ、身体にも入れ墨をする。女性もすることでファッション化が進んだであろうか。この頃には「鯨面」でなかったことがわかる。
  37. 始めて文字が移入されたのなら、今までの朝貢の際の上表文は何だったんだということになるが、ここは民間の習俗を書いた下りであると言うことを思い起こさなくてはならない。上表文などを読み書きしたのは支配階級であり、ここはその下の層に文字が広がったことを述べているのである。
  38. 筮は周代から中国では広く行われた占い法である。大陸から情報を収集していた倭が知らないはずがない。実際はかなり早い段階から用いられるようになっていたのではないだろうか。巫覡の「巫」は女性で「覡」は男性。ともに神がかりの状態から神託を下す者をいう。
  39. 新年を祝うのは今と同じであったようだが、射戲、つまり弓で的に当てる競技(むろん、神事であった)があったことが目を引く。後世「射礼」となったものだと思うが、倭王武の尚武の気風が受け継がれていたことを窺わせる。
  40. 「棊博」はかけ囲碁、かけ将棋の類。「握槊」はすごろくの類。「樗蒲」さいころ博打。つまり、賭け事好きは変わってないということだ。
  41. 「膏腴」は「地味が肥えていること。また、そういう土地や、そのさま」。水辺が多くて陸地が少ないとは、人家や田畑が海岸沿いや川沿い、川洲に集まっていることを示す。博多湾岸や筑後平野、有明はもとより、九州自体がそういう地勢である。この点も「倭」の国が大和などにはなく、九州にあることを表している。
  42. 「鸕鷀」は「鵜」のこと。読んでおわかりの通り「鵜飼い」があったことを示す文章である。既に漁法として完成されていることから、その始まりはもっと古く、少なくとも一千五百年以上の歴史があることになる。
  43. 『魏志倭人伝』に「食飲用籩豆手食」とあるのと矛盾する。この前後、庶民の生活風景を描いていることから、庶民の食事作法を述べたものではないかと思う。しかし相変わらず手で食べている。煮物など冷めてから食べていたのだろうか。謎だ。
  44. なぜ「女が多く男が少ない」が繰り返されているのだろうか。答礼使の裴清は実際に倭の国へ行ったのだから、本当に女が多いかどうか見たはずである。にも関わらずこう書いているということは本当に女が多かったのか。これが倭の五王の時代のように戦争に次ぐ戦争の時代であれば、兵となる男が次々に死んでいき女が多くなることも、あるいはあったかも知れない。しかしこの時代戦争はなく、男女比が狂う理由がない。出産の時男児が生まれたら殺していたとでも考えなければ辻褄が合わない。謎である。さらに同姓不婚とある。これは元々中国の習俗で、同姓=同族なので、同族同士は結婚しないというタブーから来ている。その習俗が移入されていたことを示す。少なくとも倭の支配者層は同族で婚姻はしなかったのだろう。尤も、妻問婚は通常よその氏族の女に通うものだから、自然とそういう風習ができあがっていたと言えなくもない。
  45. 中国との交際も長くなれば、その婚姻習俗も取り入れられていてもおかしくない。何せ一時は王自ら中国名を名乗ったくらいである。従って、倭の国が、あるいはその支配者層が嫁取り型の婚姻であったとしても驚くに値しない。ただし「男女相悦者即爲婚」とあるのは、所謂「嫁取婚」とは大きく風俗が異なることを示している。お互いが気に入って性交すればそれが即ち結婚だということであるから、随分「妻問婚」的である。「婦入夫家必先跨犬」とあるのは「火」の誤りであるとする説がある。「火跨ぎ」は昭和中頃まで残っていた風習で、嫁入りの際、婚家に入る時に新婦に火をまたがせる儀式である。ではそれで決まりかというと、犬の嗅覚が鋭いことは古来より知られており、新婦に邪悪な霊が憑いていたらこれを拒んで吠えると考えられていたとしてもおかしくなく、つまり犬を跨がせることにも意味があることになる。「乃與夫相見」をここで「初めて」夫と顔を合わせると理解している人がいるが、それでは「男女相悦者即爲婚」が意味不明になってしまうので、そんな解釈は取れない。ここは「婚家で夫と顔を合わせる前に、犬もしくは火を跨がせる」の意である。あるいは、これは嫁取りなどではなく、新婦が夫の実家をはじめて訪ねる際の儀式を言っているだけという解釈もあり得る。中国では結婚とは嫁を取ることなので、魏徴は「婚嫁」と書いたが、の史官に説明した倭の使者はそんなつもりで言っていなかったと考えるのである。なお、またまた「婦人不婬妬」と女性が浮気や嫉妬をしないことを特記している。そんなに、そんなに羨ましかったのか。
  46. 長い間「無槨」と書かれていたが、ここで初めて「槨」を作ると説明が変わっている。中国の風習がかなり取り入れられていることがわかる。
  47. 『魏志倭人伝』の頃から故人に親しかった者が歌や舞を披露して故人の霊を慰めるのは変わっていない。
  48. 日本も元々は白い喪服を着けることが習慣であった。喪服が黒に変わるのは、明治時代に入ってからである。
  49. の風習が既に定着していたことを示す。がいつから始まっていたかは定かではないものの、縄文時代には既にあったのではないかという人もいる。ただしここにも記載されている通り、長い間ができるのは豪族層だけで、庶民はそんな暇も余裕もなかったことがわかる。
  50. 船に死体を乗せて陸から引いて葬送するというのは早くに廃れてしまった習俗だが、小さい輿に乗せて葬送する俗は後々まで残り、江戸時代明治大正を経た後、昭和になって戦後に自動車が普及するまで一般に行われた。宮型の霊柩車が妙に飾り立てられているのは、この輿を飾ったことに由来する。
  51. 阿蘇山富士山のように遠くから眺めても見える山ではなく、峰々の中を指さしてあの山ですと言われなければわからない。その阿蘇山が記述されているということは、答礼使一行がそのそばを通ったからであり、倭が九州にあったことの何よりの証左となる。中国には火山がなかったので確かに記すに足る山である。
  52. 好太王碑』第一面、永楽五年(西暦三九五年)の箇所に「百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民」「百残、新羅はもとこれ屬民なり。由來朝貢す。しかるに倭は辛卯の年を以て渡海して來り百残■■■羅を破り、以て臣民と爲す」(■は碑文が欠けて読めなくなっている字)とある。高句麗と倭の死闘の始まりである。いや、既に何度も激突していたのかも知れない。そしてこの頃、百済新羅が倭を大国として仰ぎ見て使者や手紙がやりとりされている、というのは即ち倭に対して百済新羅が朝貢していたことを表す。無論、両国ともにも朝貢しているから、魏徴としてはそう書けるものではない。
  53. 開皇二十年(西暦六〇〇年)の朝貢とこの大業三年(西暦六〇七年)の朝貢は、帝紀に記されていない。
  54. 「多利思北孤」が篤く仏教に帰依していたことがわかる。この点が聖徳太子と結びつけられて考えられる所以なのだが、もちろん聖徳太子ヤマト王権の人なので、九州の倭國王とは何の関係もない。
  55. 「無礼な書があったからもう取り次ぐな」と解釈する人が多いが、そんな馬鹿なことを言ったわけではない。わざわざ鴻臚卿(外交担当の大臣)に言ったのは、「また無礼な表を提出する蛮夷の者がいたら、取り次ぐ前に、お前がよく教え諭して書き方というものを教えてやれ」ということを意味する。書を使者から受け取るのは、当たり前だが鴻臚卿だからである。
  56. 『日本書紀』推古天皇一六年の条に「十六年夏四月小野臣妹子至自大唐唐國號妹子臣曰蘇因高卽大唐使人裴世淸下客十二人從妹子臣至於筑紫」「十六年夏四月、小野臣妹子、自ら大唐へ至る。唐國は妹子臣を號して曰く蘇因高。卽ち大唐使人裴世淸、下客十二人、妹子臣に從ひて筑紫に至れり」とあり、この裴世清と同一人物であるとされている。
  57. 韓国の莞島(ワンド、Wando、완도)ではないかとする説がある。このあたりはこの頃から百済、倭、中国を繋ぐハブ港として機能していたらしい。
  58. 現在の済州島にあった国。
  59. 都斯麻(対馬)國からここまでルートは『魏志倭人伝』で魏使が辿ったコースと同じ。
  60. 秦王國というくらいであるから「」の末裔と称していたのではないだろうか。しかも容貌、風俗が中国人そのものであった。こんなところに「」の遺民がいるとは不審であるが、しかし白黒つけることはできなかった。この秦王國の所在地は今なお不明である。
  61. 竹斯(筑紫)國からずっと東へコースを取り、海岸へ到着したということは、周防灘別府湾に出たはずである。いくら地理に不案内の裴清一行とはいえ、方位を間違えるほど間抜けではあるまい。
  62. 裴清一行が海岸に出てほどなく小德の阿輩臺ら数百人の歓迎を受け、それから十日で俀國の都の郊外に着き、そこで大禮の哥多毗ら二百騎の出迎えを受けている。この十日が悩ましい。ずっと歩き通しだったわけではなかろうし、実際の移動距離、方向が書かれていないため、俀國の都の位置がさっぱりわからない。後世、国家に重要な事項は、宇佐八幡宮の神託を受ける慣例になっていたことから、宇佐近辺に都があったのではないかと私は考えている。倭の勢力圏をを九州、出雲国安芸国吉備国、四国と考えた場合、宇佐に都が置かれることは不自然ではない。むしろ、安芸国吉備、四国との交流の便を考えるとここしかないが、根拠に乏しい。なお、宇佐八幡宮の主神は八幡大神 (はちまんおおかみ)=誉田別尊(応神天皇)だが、比売大神 (ひめのおおかみ)については異説がある。私は代々仕えた倭の「キサキ」(祭祀王)が神格化されたため、固有名詞がつけられないまま祀られるに至ったと考えている。この神宮も創建に諸説あり、いつのことであるかすらわかっていない。当初倭王武が祀られていたのが応神天皇にすり替えられたのだとしても私は驚かない。
  63. 裴清は実際に多利思北孤に面語しており、当たり前だが勅命を伝える相手が俀王であることを確かめているはずである。従って多利思北孤が摂政皇太子でしかなかった聖徳太子の可能性は全くなく、無論、蘇我馬子でもありえない。推古女帝に至っては論外である。多利思北孤には妻がいたのだから男性以外の何ものでもない。
  64. 煬帝が不快に思ったことは鴻臚卿を通じて倭の使者に伝わったはずだから、当然多利思北孤もそれを聞いているのである。ここはそれに対する弁明の言葉である。「日出ずる処の天子」の国書は多利思北孤が祭祀王であるが故の独尊に基づくものであり、政治王は別にいたとする説があるが、それは「高祖曰此太無義理於是訓令改之」とあるのを余りに軽く考えている。実際に改めさせることができたから正史に書かれているのであって、勅だけあって効なければ、無視するのが作法である。ではなぜ多利思北孤はそのような国書を書いたのだろうか。それはまさに「新羅百濟皆以俀爲大國」とあるように、大国であるという自負がそう書かせたと思われる。ところが意に反してが不快を表明したので、対立を避けるために遁辞を構えたのであろう。
  65. つまり礼儀を教えることが勅命であり、それを多利思北孤が弁明し、また歓迎ひとかたならぬことから既にその意図が理解されていることが明白なので、自分のすべきことはもうない、役目は終わったと言ったのである。
  66. 「請即戒塗」「戒」は「告げる」、「塗」は「みち」で、帰路に就くことを告げて欲しいという意味になる。勅命によりやって来たのだから、相手の承諾がないと帰国できないのである。
  67. 答礼使一行の帰国に付き従わせた朝貢使のことが煬帝帝紀の大業四年(西暦六〇八年)に記されている「壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物」「壬戌、百濟、倭、赤土、迦羅舍國並びて使ひを遣はし方物を貢ぐ」。また、この遣使のことは東夷傳流求國条にも記載されている「帝復令寬慰撫之流求不從寬取其布甲而還時倭國使來朝見之曰此夷邪久國人所用也」「帝、復た寬をして之を慰撫せしむが、流求從はず。寬、其の布甲を取りて還る。時に倭國使來朝す。之を見て曰く、此は夷邪久(いやく)國人の用ゐる所也」
  68. 「此後遂絶」とあるが、倭がこの後、大業六年(西暦六一〇年)春正月に朝貢している記事が煬帝帝紀にある。「己丑倭國遣使貢方物」「己丑、倭國、使ひを遣はし方物を貢ぐ」。

二〇一三年八月十一日 初版
二〇二二年十一月二十九日 改訂版