『隋書』は「唐」の太宗の勅命により、魏徴、長孫無忌らが編纂した。編纂には他に顔師古や孔穎達らが参加している。貞観十年(西暦六三六年)、魏徴によって本紀五巻、列傳五〇巻が完成し、その本紀、列傳の完成に遅れること二十年、顕慶元年(西暦六五六年)、長孫無忌によって志三〇巻が完成、高宗に奉呈されている。別に長孫無忌がサボっていた訳ではなく、志の編纂には非常に多大な労力が必要なためである。無論難易度も高い。
俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名𤰞彌呼能以鬼󠄂道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐𤰞彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼
俀國[一]は百濟、新羅の東南、大海の中に在りて、水陸三千里[二]。山㠀に依りて居す。魏の時、譯の中國に通ずるもの三十餘國[三]。皆自ら王を稱す。夷人は里數を知らず。但日を以て計る[四]。其の國境、東西は五月で行り、南北は三月で行る[五]。各海に至り、其の地勢、東高西下[六]。邪靡堆の都は則ち魏志の謂ふ所の邪馬臺者也[七]。古に云ふ、樂浪郡境及び帯方郡並びに一萬二千里を去りて、會稽の東に在り。儋耳と相近し。漢の光武の時、使ひを遣はして入朝し、自ら大夫を稱す。安帝の時、又使ひを遣はして朝貢す。之を俀奴國[八]と謂ふ。桓靈の間、其の國大いに亂れ遞ひに相攻伐して歴年主無し。女子有り、名は𤰞彌呼。鬼󠄂道を以て能く衆を惑はす。是に於いて國人、共に立てて王と爲す。男弟有り、𤰞彌を佐け國を理む。其の王侍婢千人有り。其の面を見る者罕に有り。唯男子二人有りて王に飲食を給じ、言語を通傳す[九]。其の王、宮室、樓觀、城柵有りて、皆兵を持して守衛す。法を爲すこと甚だ嚴し。魏自り齊、梁に至り代中國と相通ず[十]。開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、號は阿輩雞彌、使ひを遣はして闕に詣る[十一]。上、所司に其の風俗を訪はしむ。 使者言ふ、俀王は天を以て兄と爲し、日を以て弟と爲す。天、未だ明けやらぬ時に出でて政を聽き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、我が弟に委ねんと云ふ[十二]。高祖曰く、此太いに義理無し。是に於いて訓して、之を改めせしむ。王の妻は雞彌[十三]と號す。後宮に女、六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利[十四]と爲す。城郭無し。内官に十二等有り。一に曰く大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮。次に大智、次に小智、次に大信、次に小信[十五]。員に定數無し。軍尼一百二十人有り。猶ほ中國の牧宰[十六]のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く。今の里長[十七]の如く也。十伊尼翼は一軍尼に屬す。
俀国は百済、新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、魏の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國である。古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢の光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。(後漢の)桓帝と靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。魏から齊、梁に至るまで代々通交してきた。開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ。または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(音読は、あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ、のいずれかで「おほきみ」のこと)、使いを遣わせて宮城に詣らせた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。王の妻は雞彌(きみ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふり)と呼ぶ。内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。
其服飾男子衣裠襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾婦人束髪於後亦衣裠襦裳皆有襈攕竹爲梳編草爲薦雜皮爲表縁以文皮有弓矢刀矟弩䂎斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦其王朝會必陳設儀杖奏其國樂戸可十萬其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣人頗恬静罕争訟少盗賊樂有五弦琴笛男女多黥臂點面文身没水捕魚無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字知卜筮尤信巫覡毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同好棊博握槊樗蒲之戲氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之性質直有雅風女多男少婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來
其の服飾、男子の衣は裠襦[十八]にして其の袖は微小。履は屨形の如く其の上に漆をして之を脚に繋ぐ[十九]。人庶は多く跣足。金銀を用ゐて飾りと爲すを得ず[二十]。故時、衣は横幅、結束して相連ね、而して縫無し。頭亦冠無く但髪を兩耳の上に垂らす。隋に至りて其の王、始めて冠を制す[二十一]。錦綵を以て之を爲し、金銀を以て花を鏤めて飾りと爲す[二十二]。婦人は髪を後ろで束ね、亦衣は裠襦、裳[二十三]。皆襈攕有り[二十四]。竹を梳と爲す。草を編みて薦と爲し[二十五]、雜皮を表と爲し、文皮を以て縁とす。弓、矢、刀、矟、弩、䂎、斧有り[二十六]。皮に漆して甲と爲し、骨を矢鏑と爲す。兵有りと雖も征戦無し[二十七]。其の王、朝會に必ず儀杖を陳設し、其の國の樂を奏す[二十八]。戸、十萬可り[二十九]。其の俗、殺人、強盗及び姦は皆死[三十]。盗む者は贓を計り物を酬ひさせ、財無き者は身を没して奴と爲す。自餘は輕重により或いは流し、或いは杖す。獄訟を訊究する毎に承引せざる者は木を以て膝を壓し、或いは強弓を張り弦を以て其の項を鋸す[三十一]。或いは小石を沸湯の中に置き、競する所の者に之を探らしめ、云ふ、理、曲なる者は即ち手、爛ると[三十二]。或いは蛇を瓮中に置き、之を取らさしめ、云ふ、曲なる者は即ち手に螫ると[三十三]。人頗る恬静にして争訟罕れ。盗賊少なし[三十四]。樂に五弦の琴、笛有り[三十五]。男女多くは臂に黥し面に點して身に文す[三十六]。水に没して魚を捕ふ。文字は無く、唯木に刻み、繩を結ぶ。佛法を敬ひ、百濟に於いて佛經を求め得て始めて文字有り[三十七]。卜筮を知る。尤も巫覡を信ず[三十八]。正月一日に至る毎に必ず射戲、飲酒す[三十九]。其の餘節華と同じ。棊博、握槊、樗蒲の戲れを好む[四十]。氣候は温暖。草木は冬、青し。土地は膏腴にして水多く陸少なし[四十一]。小環を以て鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕へさしむ。日に百餘頭を得る[四十二]。俗に盤爼無く、檞葉を以て藉き、食するに手を用ゐて之を餔ふ[四十三]。性質は直にして雅風有り。女多く男少なし。婚嫁に同姓を取らず[四十四]。男女相悦べば即ち婚と爲す。婦、夫家に入るに必ず先に犬を跨ぎ、乃ち夫と相見える。婦人婬妬せず[四十五]。死者は棺槨を以て斂め[四十六]、親賓は屍に就きて歌ひ舞る[四十七]。妻子兄弟は白布を以て服を製す[四十八]。貴人は三年外で殯す。庶人は日を卜して而して瘞む[四十九]。葬るに及んで屍を船上に置き、陸地で之を牽く。或いは小轝を以てす[五十]。 阿蘇山有り[五十一]。其の石、故無く火が起こり天に接すれば、俗、以て異因と爲し禱祭を行ふ。如意寶珠有り。其の色青く、大きさ雞卵の如し。夜則ち光有り。魚眼の精と云ふ也。新羅、百濟、皆俀を以て大國にして珎物多しと爲し並びに之を敬仰し恒に通使が往來す[五十二]。
その国の服飾について、男性は裠襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。弓矢、刀、矟(矛の一種?)、弩、䂎(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。戸数は十万ばかりある。その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。その際、道理の正しくない者は手が爛れると伝える。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。その際、邪な者はまた手を噛まれると伝える。人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。楽器には、五弦の琴、笛がある。男女の多くは肩から手首までに入れ墨をし、顔にも小さな入れ墨を点々と入れ、体にも入れ墨をしている。水に潜って魚を捕らえている。文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手して、初めて文字を読み書きするようになった。卜筮が知られている。巫覡を最も信じている。毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。かけ囲碁、すごろく、さいころ博打の遊戯を好む。気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る。食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。新羅、百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。
大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞明年上遣文林郎裴清使於俀國度百濟行至竹㠀南望𨈭羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶
大業三年[五十三]、其の王多利思北孤、使ひを遣はし朝貢す。使者曰く、海西の菩薩天子、重ねて佛法を興すと聞く。故に遣ひして朝拜し、兼ねて沙門數十人來りて佛法を學ぶ[五十四]。其の國書に曰く、日出ずる處の天子、日没する處の天子へ書を致す。恙無きや云云。帝、之を覧じて悦ばず。鴻臚卿に謂ひて曰く、蠻夷の書に無禮有れば復た以て聞する勿れ[五十五]。明くる年、上、文林郎裴清[五十六]を遣はし、俀國に使ひす。百濟に度り行きて竹㠀[五十七]に至る。南に𨈭羅國[五十八]を望み、都斯麻國を經て迥か大海中に在り。又東に一支國へ至る。又竹斯國へ至る[五十九]。又東へ秦王國へ至る。其の人、華夏に同じ。以て夷州と爲す。疑ふも明らかにすること能はず也[六十]。又十餘國を經て海岸に達す[六十一]。竹斯國自り以東は皆俀に附庸す。俀王、小德阿輩臺を遣はし數百人を従へ儀仗を設け鼓角を鳴らし來迎す。後十日、又大禮哥多毗を遣はし、二百余騎を従へ郊で勞ふ[六十二]。既に彼の都へ至り、其の王、清と相見え[六十三]大いに悦び曰く、我、海西に大隋禮義の國有りと聞く。故に遣はして朝貢す。我夷人、海隅に僻在し、禮義を聞かず。是を以て境内に稽留し、即ちに相見えず。今、故に道を清め、館を飾り、以て大使を待つ。冀はくば大國惟新の化を聞かん[六十四]。清、答へて曰く、皇帝の德は二儀に並び、澤は四海に流る。以て王を慕ひ化す。故に行人を遣はし此に來りて宣諭す。既に清を引かせて館に就かしむ。其の後、清、人を遣はして其の王に謂ひて曰く、朝命既に達す[六十五]。即ち塗を戒めんことを請ふ[六十六]。是において宴享を設け、以て清を遣はし、復た使者を清に隨ひて來らしめ、方物を貢ぐ[六十七]。此の後遂に絶つ[六十八]。
大業三年(西暦六〇七年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があれば、今後は取り次ぐな」と仰った。翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に𨈭羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。裴清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴清答えて曰く「皇帝の徳は天と地を覆い、恩恵は四海に流れ、そのため王を慕い教化されるのです。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」裴清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」ここにおいて宴会を催し、裴清を送り出した。また使者を裴清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。