『舊唐書』は、五代十国時代の「後晋」出帝(在位西暦九四二年〜九四六年)の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された。完成と奏上は開運二年(西暦九四五年)六月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうという状況下で編纂されたため、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど多くの問題があった。そのため後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし逆に生の資料をそのまま書き写したりしているので資料的価値は『新唐書』よりも高いとされている。
日本について「倭國」と「日本國」の二つの条が立てられており、余計な文飾を加える暇がなかったことを鑑みれば、この二つが別の国であり、唐もそのように認識していたことがわかる。
倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯婦人衣純色裙長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史髙表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還至二十二年又附新羅奉表以通起居
倭國は古の倭奴國也[一]。京師を去ること一萬四千里[二]、新羅東南[三]の大海中に在り。山島に依り、而して居す。東西に五月で行り、南北には三月で行る。世、中國と通ず。其の國、居るに城郭無し。木を以て柵と為し、草を以て屋と為す。四面に小島、五十餘國。皆焉に附屬す。其の王、姓は阿毎氏。一大率を置き、諸國を検察す。皆之を畏附す。官を設け十二等有り[四]。其の訴訟する者は匍匐し、而して地を前む[五]。女多く男少なし。頗る文字ありて、俗は佛法を敬ふ[六]。並びに皆跣足[七]。幅布を以て其の前後を蔽ふ[八]。貴人は錦帽を戴き、百姓は皆椎髻にして、冠帯無し[九]。婦人の衣は純色にして裙を長くして腰に襦。髪を後に束ね、銀花長さ八寸を佩びて左右各數枝、以て貴賤等級を明かにす。衣服の制は頗る新羅に類る[十]。貞觀五年、使ひを遣はし方物を獻ず。太宗、其の道の遠きを矜み、所司に勅しくて歳ごとの貢を無さしむ。又新州刺史髙表仁を遣し、節を持して往きて之を撫せしむ。表仁、綏遠の才無く、王子と禮を争ひ、朝命を宣べず、而して還る。二十二年に至り、又新羅に附して表を奉り、以て起居を通ず[十一]。
倭國は、昔の倭奴國である。京師(長安)を離れること一万四千里の彼方にある。新羅の東南の大海の中にあり、山島によって国をなしている。東の端から西の端まで五ヶ月かかる。北の端から南の端まで三ヶ月かかる。代々中国に朝貢してきた。その国には城郭がなく、木を以て柵としている。草を使って家を作っている。四方に小島が五十国あまりある。皆、倭国の属国である。その王の姓は阿毎(あま)氏である。一大率を置き、諸国を検察している。皆これを畏怖している。官位があり十二の位階に別れている。訴えがある者は、這いつくばって地を前に進む。女が多く、男が少ない。漢字がかなり通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)を結って、冠や帯は付けていない。婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤や身分の上下が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。貞観五年(西暦631年)、倭国は使いを遣わして来て、様々な産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、朝命を伝えずに帰国した。貞観二十二年(西暦六四八年)になって再び、倭国王は新羅の遣唐使に上表文をことづけて皇帝へ安否を伺うあいさつをしてきた。
そして西暦六六三年、白村江の戦いが起きる。西暦六六〇年に百済は、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)によって滅ぼされていた。百済の復興を賭けた戦いに倭は全力を投入する。劉仁軌列傳にその戦いの模様が少しばかり記述されているので、倭に関連する部分のみ抜粋を示す。
俄而餘豐襲殺福信又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍詔右威衛將軍孫仁師率兵浮海以爲之援仁師既與仁軌等相合兵士大振於是諸將會議或曰加林城水陸之衝請先擊之仁軌曰加林險固急攻則傷損戰士固守則用日持久不如先攻周留城周留賊之巣穴群兇所聚除惡務本須拔其源若克周留則諸城自下於是仁師仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進仁軌乃別率杜爽扶餘隆率水軍及糧船自熊津江往白江會陸軍同趣周留城仁軌遇倭兵於白江之口四戰捷焚其舟四百艘煙焰漲天海水皆赤賊众大潰餘豐脱身而走獲其寶劍偽王子扶餘忠勝忠志等率士女及倭众并耽羅國使一時並降百濟諸城皆復歸順賊帥遲受信據任存城不降
俄にして餘豐は福信を襲ひて殺す。又使ひを遣はし高麗及び倭國に往きて兵を請ひ、以て官軍を拒む。詔して右威衛將軍孫仁師に兵を率ゐさせ海に浮かびて之を援けんと以爲ふ。仁師、既に仁軌等と相合ふ。兵士大いに振るふ。是に於いて諸將會議す。或曰く、加林城は水陸の衝、先に之を擊たんことを請ふ。仁軌曰く、加林は險固にして急ぎ攻めれば則ち戰士を傷損す。固守して則ち日を用ゐ持久せんとす。先に周留城を攻めるに如かず。周留は賊の巣穴なり。群兇の聚る所にて惡務の本を除き、須らく其の源を拔くべし。若し周留に克たば、則ち諸城自から下ると。是に於いて仁師、仁願及び新羅王金法敏は陸軍を帥ゐ以て進む。仁軌乃ち別率の杜爽、扶餘隆は水軍及び糧船を率ゐる。熊津江自り白江へ往きて陸軍に會し同に周留城へ趣く。仁軌、白江の口で倭兵に遇ひ、四戰し捷つ。其の舟四百艘を焚き、煙焰は天に漲り、海水は皆赤となる。賊众は大潰し、餘豐は身を脱して走る。其の寶劍を獲る。偽王子扶餘忠勝、忠志等、士女及び倭众并びに耽羅國使を率ゐて一時に並びて降る。百濟諸城、皆復た歸順す。賊帥遲受信は任存城に據り降らず。
急を突いて扶餘豐は福信を襲撃し、殺した。また使者を高句麗と倭國に派遣して軍隊の出動を願い、唐の官軍を攻めた。皇帝は、右威衛將軍、孫仁師に兵を率いさせ軍船で急行させて唐の兵の増援にしようと思うと詔された。仁師が仁軌らと落ち合うと、兵士の意気は大いに上がった。ここで諸将が会議を行った。ある者が「加林城は水陸の要なので、先にこれを攻撃したい」と述べた。仁軌は「加林は要害堅固で、焦って攻めても兵隊を傷つけ損なうだけだ。あちらは城を固く守って日数を稼ぎ持久戦に持ち込むだろう。先に周留城を攻撃した方が良い。周留城は賊軍の巣穴である。凶悪な連中が集まっている所で、この悪行の根本を除き、ぜひともその根を絶っておかなくてはならない。もし周留城で勝つことができれば、他の城はおのずから降伏するだろう」と言った。ここに仁師、仁願及び新羅王金法敏は陸軍を率いて進軍することになり、仁軌と別率の杜爽、扶餘隆は水軍及び糧船を率いた。熊津江から白江へ進み、陸軍と合流して共に周留城へ急行した。仁軌は白江の河口で倭の軍隊と遭遇し、四戦して四回とも勝った。倭軍の船四百艘をすべて焼き、その煙や炎は天にまで満ちあふれるがごとき状態で、海水が倭軍の流した血で真っ赤になった。賊軍は大変に壊乱した状態で敗走し、扶餘豐は一人脱出して逃走したが、その宝剣を得た。偽王子扶餘忠勝や忠志らは、士女、倭軍、耽羅國使を率いて一斉に降伏した。百済の諸城もまたすべて帰順した。賊の将軍の一人、遲受信は任存城に籠もって降伏しなかった。
海水が真っ赤になるとは、倭にとって、いかに激烈な負け戦であったかがわかる。しかも重要なことは単に負けたというに止まらない。同じ劉仁軌列傳の麟德二年(西暦六六五年)に次の記事がある。
麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅擢拜大司憲
麟德二年、泰山を封ず。仁軌は新羅及び百濟、耽羅、倭、四國の酋長を領て赴き會す。高宗甚だ悅び、大司憲に擢拜す。
麟德二年(西暦六六五年)、泰山を封じる儀式があった。仁軌は新羅及び百濟、耽羅、倭、四国の酋長を泰山へ帯同して参加した。高宗は非常に喜んで、仁軌を大司憲に抜擢した。
もはや王とすら書いていない。その王が捕虜として唐に連行されている。敗戦から二年、その間どんなことがあっただろうか。尤も、資治通鑑や唐会要では使者あるいは使いとあるので、倭が征服されたとまでは思わないが、いずれにせよ倭國はひどくあっさりと歴史から消え去る。代わって登場するのが日本國である。
日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史觧屬文容止温雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助敎趙玄黙就鴻臚寺敎之乃遣玄黙闊幅布以爲束修之禮題云白龜元年調布人亦疑其僞此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲滿慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去天寶十二年又遣使貢上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護貞元二十年遣使來朝留学學生橘免勢學問僧空海元和元年日本國使判官髙階眞人上言前件學生藝業稍成願本國歸便請與臣同歸從之開成四年又遣使朝貢
日本國は倭國の別種也。其の國、以て日邊に在り、故に日本を以て名と爲す。或いは曰く、倭國は自ら其の名を雅やかにあらずとして惡み、改めて日本と爲す。或いは云ふ、日本は舊小國で倭國の地を併す[十二]。其の人で入朝する者は自らを矜大とすること多く、實を以て對せず、故に中國、焉を疑ふ。又云ふ、其の國界、東西南北各數千里。西界、南界は咸な大海に至り、東界、北界は大山有りて、限りと為す[十三]。山外は即ち毛人の國[十四]。長安三年、其の大臣朝臣眞人[十五]來りて方物を貢ぐ。朝臣眞人は中國の戸部尚書の猶し。進德冠[十六]を冠り、其の頂に花を爲し、分かれて而して四散す。身は紫袍を服し、帛を以て腰帯と爲す。眞人好く經史を讀み、文を屬するを觧し、容止温雅。則天、之を麟德殿に宴し、司膳卿を授け、放ちて本國へ還す[十七]。開元初め、又使ひを遣はして來朝し[十八]、因りて儒士に經を授けられんことを請ふ。四門助敎、趙玄黙に詔して鴻臚寺に就いて之を敎えしむ。乃ち玄黙に闊幅布を遣り、以て束修の禮と爲す。題して云ふ、白龜元年の調の布。人亦其の僞りを疑ふ[十九]。此の題得る所の錫賚、盡く文籍を市ひ、海に泛びて而して還る[二十]。其の偏使朝臣仲滿[二十一]、中國の風を慕ひ、因りて留まりて去らず。姓名を改め、朝衡と爲す。仕へて左補闕、儀王の友を歴る。衡、京師に留まること五十年。好く籍を書し、放ちて郷に帰らしめんとするも、逗留して去らず。天寶十二年、又使ひを遣はして貢ぐ[二十二]。上元中、衡を擢して左散騎常侍鎮南都護と爲す。貞元二十年、遣使が來朝す[二十三]。學生橘免勢、學問僧空海が留学す。 元和元年、日本國の使ひ、判官髙階眞人上言[二十四]。前件の學生藝業稍成りて本國に歸らんことを願ふ。便ち臣と同じく歸らんことを請ふ。之に從ふ[二十五]。開成四年、又使ひを遣はして朝貢す[二十六]。
日本国は倭国の別の種族である。その国が日の上る方にあるため、日本という名前にした。あるいは、倭国がその名前が雅やかではないことを嫌って、日本と改めたとも言う。あるいは、日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合したとも言う。その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、質問に誠実に答えない。それで中国ではこれを疑った。また、彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言った。長安三年(西暦七〇三年)、日本の大臣、粟田朝臣真人が来朝して様々な産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶっており、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅だ。武則天は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。開元年間(西暦七一三年〜七四一年の初め頃、また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白龜元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。この貢ぎ物(白龜元年の調布)で得た下賜品を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。その副使の阿倍朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡と改めて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第十二王子)の学友となった。朝衡は京師(長安)に 五十年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。天寶十二年(西暦七五三年)にまた使いを遣わし朝貢してきた。上元年間(西暦七六〇年~西暦七六二年)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。貞元二十年(西暦八〇四年)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)、学問僧の空海が留まった。元和元年(西暦八〇六年)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。開成四年(西暦八三九年)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。