『舊唐書』東夷傳倭國条・日本國条

『舊唐書』東夷傳

舊唐書』は、五代十国時代の「後晋出帝(在位西暦九四二年〜九四六年)の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された。完成と奏上は開運二年(西暦九四五年)六月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうという状況下で編纂されたため、一人の人物に二つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど多くの問題があった。そのため後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし逆に生の資料をそのまま書き写したりしているので資料的価値は『新唐書』よりも高いとされている。

日本について「倭國」と「日本國」の二つの条が立てられており、余計な文飾を加える暇がなかったことを鑑みれば、この二つが別の国であり、もそのように認識していたことがわかる。

倭國条

倭國者古倭奴國也去京師一萬四千里在新羅東南大海中依山島而居東西五月行南北三月行世與中國通其國居無城郭以木爲柵以草爲屋四面小島五十餘國皆附屬焉其王姓阿毎氏置一大率検察諸國皆畏附之設官有十二等其訴訟者匍匐而前地多女少男頗有文字俗敬佛法並皆跣足以幅布蔽其前後貴人戴錦帽百姓皆椎髻無冠帯婦人衣純色裙長腰襦束髪於後佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅貞觀五年遣使獻方物太宗矜其道遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史髙表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還至二十二年又附新羅奉表以通起居

倭國はいにしへ倭奴ゐぬなり[]京師けいしを去ること一まん四千里[]新羅しらぎ東南[]の大海中にり。山島にり、しかうして居す。東西に五月でめぐり、南北には三月でめぐる。、中國と通ず。の國、るに城郭じやうくわくし。木を以てさくし、草を以ておくす。四面に小島、五十餘國。みなこれ附屬ふぞくす。の王、姓は阿毎あま氏。一大率を置き、諸國を検察す。みなこれ畏附いふす。くわんまうけ十二等有り[]訴訟そせうする者は匍匐ほふくし、しかうして地をすす[]。女多く男少なし。すこぶる文字ありて、俗は佛法ぶつはふうやま[]。並びにみな跣足せんそく[]幅布はくふを以ての前後をおほ[]。貴人は錦帽きんばういただき、百姓ひやくせいみな椎髻ついけいにして、冠帯くわんたい無し[]。婦人の衣は純色にしてもすそを長くして腰にじゆ。髪を後にたばね、銀花長さ八寸をびて左右おのおの數枝すうし、以て貴賤きせん等級をあきらかにす。衣服の制はすこぶ新羅しらぎ[]貞觀じやうぐわん五年、使ひをつかはし方物をけんず。太宗、の道の遠きをあはれみ、所司にちよくしくて歳ごとのみつぎを無さしむ。また新州刺史しし髙表仁をつかはし、節を持してきてこれやすんじせしむ。表仁、綏遠すゐえんの才無く、王子とれいを争ひ、朝命をべず、しかうしてかへる。二十二年に至り、また新羅しらぎして表をたてまつり、以て起居を通ず[十一]

倭國は、昔の倭奴國である。京師(長安)を離れること一万四千里の彼方にある。新羅の東南の大海の中にあり、山島によって国をなしている。東の端から西の端まで五ヶ月かかる。北の端から南の端まで三ヶ月かかる。代々中国に朝貢してきた。その国には城郭がなく、木を以て柵としている。草を使って家を作っている。四方に小島が五十国あまりある。皆、倭国の属国である。その王の姓は阿毎(あま)氏である。一大率を置き、諸国を検察している。皆これを畏怖している。官位があり十二の位階に別れている。訴えがある者は、這いつくばって地を前に進む。女が多く、男が少ない。漢字がかなり通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)を結って、冠や帯は付けていない。婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤や身分の上下が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。貞観五年(西暦631年)、倭国は使いを遣わして来て、様々な産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、朝命を伝えずに帰国した。貞観二十二年(西暦六四八年)になって再び、倭国王は新羅の遣唐使に上表文をことづけて皇帝へ安否を伺うあいさつをしてきた。

そして西暦六六三年、白村江の戦いが起きる。西暦六六〇年に百済は、新羅連合軍(羅唐同盟)によって滅ぼされていた。百済の復興を賭けた戦いに倭は全力を投入する。劉仁軌列傳にその戦いの模様が少しばかり記述されているので、倭に関連する部分のみ抜粋を示す。

劉仁軌列傳

俄而餘豐襲殺福信又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍詔右威衛將軍孫仁師率兵浮海以爲之援仁師既與仁軌等相合兵士大振於是諸將會議或曰加林城水陸之衝請先擊之仁軌曰加林險固急攻則傷損戰士固守則用日持久不如先攻周留城周留賊之巣穴群兇所聚除惡務本須拔其源若克周留則諸城自下於是仁師仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進仁軌乃別率杜爽扶餘隆率水軍及糧船自熊津江往白江會陸軍同趣周留城仁軌遇倭兵於白江之口四戰捷焚其舟四百艘煙焰漲天海水皆赤賊众大潰餘豐脱身而走獲其寶劍偽王子扶餘忠勝忠志等率士女及倭众并耽羅國使一時並降百濟諸城皆復歸順賊帥遲受信據任存城不降

にはかにして餘豐よはう福信ふくしんを襲ひて殺す。また使ひを遣はし高麗かうらい及び倭國に往きて兵を請ひ、以て官軍を拒む。みことのりして右威衛ういえい將軍孫仁師そんじんしに兵を率ゐさせ海に浮かびてこれたすけんと以爲おもふ。仁師じんし、既に仁軌じんき等と相合ふ。兵士おほいに振るふ。ここに於いて諸將會議くわいぎす。或いはく、加林かりん城は水陸のかなめ、先にこれを擊たんことを請ふ。仁軌じんきいはく、加林かりん險固けんこにして急ぎ攻めればすなはち戰士を傷損す。固守してすなはち日を用ゐ持久せんとす。先に周留しうりう城を攻めるにかず。周留しうりうは賊の巣穴なり。群兇のあつまる所にて惡務あくむもとを除き、すべからくの源を拔くべし。周留しうりうたば、すなはち諸城おのずからくだると。ここに於いて仁師、仁願じんがん及び新羅しらぎ金法敏きんほうびんは陸軍をひきゐ以て進む。仁軌じんきすなはち別率の杜爽とさう扶餘隆ふよりうは水軍及び糧船を率ゐる。熊津江ゆうしんかう白江はくかうきて陸軍にくわいともに周留城へおもむく。仁軌、白江はくかうの口で倭兵にひ、四戰しつ。の舟四百艘をき、煙焰えんえんは天にみなぎり、海水は皆赤となる。賊众ぞくしうは大潰し、餘豐よはうは身を脱して走る。寶劍ほうけんる。にせ王子扶餘ふよ忠勝ちうしよう忠志ちうし、士女及び倭众わしうならびに耽羅たんら國使を率ゐて一時ひとときならびて降る。百濟くだら諸城、皆歸順きじゆんす。賊帥ぞくすい遲受信ちじゆしん任存じんぞん城にくだらず。

急を突いて扶餘豐は福信を襲撃し、殺した。また使者を高句麗と倭國に派遣して軍隊の出動を願い、唐の官軍を攻めた。皇帝は、右威衛將軍、孫仁師に兵を率いさせ軍船で急行させて唐の兵の増援にしようと思うと詔された。仁師が仁軌らと落ち合うと、兵士の意気は大いに上がった。ここで諸将が会議を行った。ある者が「加林城は水陸の要なので、先にこれを攻撃したい」と述べた。仁軌は「加林は要害堅固で、焦って攻めても兵隊を傷つけ損なうだけだ。あちらは城を固く守って日数を稼ぎ持久戦に持ち込むだろう。先に周留城を攻撃した方が良い。周留城は賊軍の巣穴である。凶悪な連中が集まっている所で、この悪行の根本を除き、ぜひともその根を絶っておかなくてはならない。もし周留城で勝つことができれば、他の城はおのずから降伏するだろう」と言った。ここに仁師、仁願及び新羅王金法敏は陸軍を率いて進軍することになり、仁軌と別率の杜爽、扶餘隆は水軍及び糧船を率いた。熊津江から白江へ進み、陸軍と合流して共に周留城へ急行した。仁軌は白江の河口で倭の軍隊と遭遇し、四戦して四回とも勝った。倭軍の船四百艘をすべて焼き、その煙や炎は天にまで満ちあふれるがごとき状態で、海水が倭軍の流した血で真っ赤になった。賊軍は大変に壊乱した状態で敗走し、扶餘豐は一人脱出して逃走したが、その宝剣を得た。偽王子扶餘忠勝や忠志らは、士女、倭軍、耽羅國使を率いて一斉に降伏した。百済の諸城もまたすべて帰順した。賊の将軍の一人、遲受信は任存城に籠もって降伏しなかった。

海水が真っ赤になるとは、倭にとって、いかに激烈な負け戦であったかがわかる。しかも重要なことは単に負けたというに止まらない。同じ劉仁軌列傳の麟德二年(西暦六六五年)に次の記事がある。

麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅擢拜大司憲

麟德りんとく二年、泰山たいざんふうず。仁軌じんき新羅しらぎ及び百濟くだら耽羅たんら、倭、四國の酋長しうちやうすべおもむくわいす。高宗はなはよろこび、大司憲に擢拜てきはいす。

麟德二年(西暦六六五年)、泰山を封じる儀式があった。仁軌は新羅及び百濟、耽羅、倭、四国の酋長を泰山へ帯同して参加した。高宗は非常に喜んで、仁軌を大司憲に抜擢した。

もはや王とすら書いていない。その王が捕虜として唐に連行されている。敗戦から二年、その間どんなことがあっただろうか。尤も、資治通鑑唐会要では使者あるいは使いとあるので、倭が征服されたとまでは思わないが、いずれにせよ倭國はひどくあっさりと歴史から消え去る。代わって登場するのが日本國である。

日本國条

日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本爲名或曰倭國自惡其名不雅改爲日本或云日本舊小國併倭國之地其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海東界北界有大山爲限山外即毛人之國長安三年其大臣朝臣眞人來貢方物朝臣眞人者猶中國戸部尚書冠進德冠其頂爲花分而四散身服紫袍以帛爲腰帯眞人好讀經史觧屬文容止温雅則天宴之於麟德殿授司膳卿放還本國開元初又遣使來朝因請儒士授經詔四門助敎趙玄黙就鴻臚寺敎之乃遣玄黙闊幅布以爲束修之禮題云白龜元年調布人亦疑其僞此題所得錫賚盡市文籍泛海而還其偏使朝臣仲滿慕中國之風因留不去改姓名爲朝衡仕歴左補闕儀王友衡留京師五十年好書籍放帰郷逗留不去天寶十二年又遣使貢上元中擢衡爲左散騎常侍鎮南都護貞元二十年遣使來朝留学學生橘免勢學問僧空海元和元年日本國使判官髙階眞人上言前件學生藝業稍成願本國歸便請與臣同歸從之開成四年又遣使朝貢

日本國は倭國の別種なりの國、以て日邊にちへんり、ゆゑに日本を以て名とす。或いはいはく、倭國はみずかの名をみやびやかにあらずとしてにくみ、あらためて日本とす。或いはふ、日本はもと小國で倭國の地をあは[十二]の人で入朝する者はみずからを矜大きようだいとすること多く、じつを以てたいせず、ゆゑに中國、これうたがふ。またふ、國界こくかい、東西南北おのおのすう千里。西界、南界はな大海に至り、東界、北界は大山有りて、限りと[十三]。山外はすなは毛人えみしの國[十四]。長安三年、大臣おほおみ朝臣あそん眞人まひと[十五]きたりて方物をみつぐ。朝臣あそん眞人まひとは中國の戸部尚書こぶしやうしよごとし。進德冠しんとくくわん[十六]かぶり、いただきに花をし、かれてしかうして四散す。身は紫袍しはうを服し、はくを以て腰帯とす。眞人まひと好く經史けいしみ、文をしやくするをかいし、容止温雅。則天そくてんこれ麟德殿りんとくでんえんし、司膳卿しぜんけいさずけ、放ちて本國へかへ[十七]。開元初め、また使ひをつかはして來朝し[十八]りて儒士じゆしけいさずけられんことを請ふ。四門しもん助敎、趙玄黙ちやうげんもくせうして鴻臚寺かうろじいてこれを敎えしむ。すなはち玄黙に闊幅布くわつふくふり、以て束修そくしうれいす。題してふ、白龜はくき元年の調ちやうの布。人またいつはりをうたが[十九]の題る所の錫賚しらいことごと文籍ぶんせきひ、海にうかびてしかうしてかへ[二十]偏使へんし朝臣あそん仲滿なかまろ[二十一]、中國の風をしたひ、りてとどまりて去らず。姓名をあらため、朝衡ちやうかうす。つかへて左補闕さほけつ儀王ぎおうの友をる。かう京師けいしとどまること五十年。せきしよし、放ちてきやうに帰らしめんとするも、逗留たいりうして去らず。天寶てんぱう十二年、また使ひをつかはしてみつ[二十二]。上元なかかうてきして左散騎常侍鎮南都護ささんきじやうじちんなんとごす。貞元じやうげん二十年、遣使けんしが來朝す[二十三]學生がくせい橘免勢たちばなのはやなり學問僧がくもんさう空海くうかい留学りうがくす。 元和元年、日本國の使ひ、判官はんぐわん髙階眞人たかしなのまひと上言しやうげん[二十四]。前件の學生がくせい藝業げいぎやうややりて本國にかへらんことを願ふ。便すなはち臣とおなじくかへらんことをふ。これしたが[二十五]。開成四年、また使ひをつかはして朝貢ちやうこう[二十六]

日本国は倭国の別の種族である。その国が日の上る方にあるため、日本という名前にした。あるいは、倭国がその名前が雅やかではないことを嫌って、日本と改めたとも言う。あるいは、日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合したとも言う。その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、質問に誠実に答えない。それで中国ではこれを疑った。また、彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言った。長安三年(西暦七〇三年)、日本の大臣、粟田朝臣真人が来朝して様々な産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶっており、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。真人経書や史書を読むのが好きで、文章を創ることができ、ものごしは温雅だ。武則天は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。開元年間(西暦七一三年〜七四一年の初め頃、また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白龜元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。この貢ぎ物(白龜元年の調布)で得た下賜品を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。その副使の阿倍朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡と改めて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第十二王子)の学友となった。朝衡京師(長安)に 五十年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。天寶十二年(西暦七五三年)にまた使いを遣わし朝貢してきた。上元年間(西暦七六〇年~西暦七六二年)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。貞元二十年(西暦八〇四年)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)、学問僧の空海が留まった。元和元年(西暦八〇六年)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。開成四年(西暦八三九年)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。

  1. 後漢の時代に朝貢した「倭奴國」が連綿と続いて今の倭國になっていると言うが、何かそれを示す資料があったのだろうか。あるいは単に『後漢書』の記述と結びつけただろうか。いずれにせよ、唐は倭が後漢の頃から王朝が変わっても朝貢を続けていたと認識していたことを表している。
  2. 京師(長安)から帯方郡まで二千里、これに『魏志倭人伝』にあった郡より萬二千里を足せば、萬四千里となる。
  3. 帯方郡はなくなり、高句麗に滅ぼされ、百済白村江の戦い新羅軍に敗れ、滅びてしまい、新羅が半島の勝者となった。これを 統一新羅という。倭はこの戦いで朝鮮半島にあった属国を失い、また大軍が敗れたことで、国勢が傾き、ついに歴史から姿を消す。
  4. 冒頭からここまで、『魏志倭人伝』以来の前史、『隋書』からの孫引きである。それがまぜこぜになっているので信憑が置けない。
  5. 江戸時代の御白洲でも同じである。
  6. 既に文字が民間にも普及していることがわかるが、決して庶民に漢文が読めたわけではなく、仏典が漢字で書かれているため、従来のように支配者層だけが文字を知っているという状況から民間にある僧侶、あるいは地方豪族にも文字に接する機会が増えたと言うことだろう。ここでは完全に仏教が受け入れられている様子が窺える。
  7. 『隋書』の記載から後退している。庶民の裸足を誤って一般化してしまったのだろう。
  8. これは『魏志倭人伝』から言葉を変えて引用したものだと思われる。
  9. 豪族層は錦帽を被っていたということは、角髪(みずら)をやめたことを表す。椎髻は槌のような髷なので、髪をまとめて後頭部から上に立てた髪型だと思われる。
  10. 婦人の服装は、
    婦人の服装
    のようなものだと思われる。似ているとされている新羅の婦人の服は、
    新羅婦人の服
    である。ちなみに
    養老律令に基づく命婦服の復元写真が『風俗博物館』さんにある。これくらい時代が下るとあまり似てない(養老律令の施行は天平宝字元年(西暦七五七年))。
  11. 新羅にこと寄せて表を奉じるということは、朝貢使を送れない何らかの事情が発生していたと思われる。多利思北孤は既に死んでいるだろうから、西暦六四八年頃に内紛でもあったのかも知れない。ヤマト王権でも西暦六四五年に乙巳の変が起きている。ところで、高宗本紀の永徽五年(西暦六五四年)に「十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙琥珀大如斗碼瑙大如五斗器」「十二月癸丑、倭國琥珀、碼瑙を獻ず。琥珀大なること斗の如し。碼瑙大なること五斗器の如し」という記事があり、倭國の朝貢がこれ以降も続いてたことを示している。倭國凋落の決定打となった白村江の戦いはその九年後、六六三年である。
  12. 「或曰」でわかる通り、これは全て日本國の使者から聞き取った内容が列挙されているのである。国名の由来一つ的確に答えられないのだから唐の史官が疑ったのも尤もである。
  13. 暗に法螺吹きだと言っている。唐の一里は五百五十九.八メートルなので、仮に五千里としても約二千八百㎞である。
  14. 毛人は蝦夷のことである。これがいつ頃の情勢を表しているか不明であるが、七世紀中葉は、まだ東北地方南部から新潟県の中越・下越地方は蝦夷の支配下であった。東と北の境界にあったという大山とはどこであろうか。関東地方は既に倭あるいはヤマト王権の支配下に入っていたと言われている。陸奥国の設置が六五四年、出羽国の設置が西暦七一二年、七六〇年に秋田城が設けられている。有名な坂上田村麻呂が延暦十六年(七九七年)征夷大将軍に任じられ、阿弖流為を京へ連れ帰り、東北地方全土を平定したと『続日本紀』に見える。
  15. 大宝二年(西暦七〇二年)の第八次遣唐使である。この遣使は白村江の戦い(西暦六六三年)で倭とが敵対して以来初の本格的な使節派遣であり、人選も慎重であり、教養はもちろん容姿にも優れた人物が選ばれたのであろう。
  16. 進德冠とは次の写真のような冠だったようだ。 進德冠
    これの頂きに四散する花を飾ったと言うから派手に見えただろう。おまけに「紫袍」である。中国では「紫袍」は皇帝から下賜されるものであり、にも関わらずそれを堂々と着ているのだから、半ばこれだから東夷は・・・という感想も含まれているのだろう。しかし全体を通して見れば粟田が非常に評価されていることがわかる。やや常識に欠けるところはあるが、東夷にもかくなる人物がいるのか、という驚きが先にあるように筆者には読める。なお、写真は、『好古齋』「中国書蹟アルバム昭陵博物館《概要》から拝借した。
  17. 武則天自ら宴を催し、名誉職とはいえ司膳卿という官職まで授けているのだから、余程気に入ったのだろう。その意味で粟田真人はその任をよく果たしたと言える。
  18. 第九次遣唐使である。大使は多治比県守と大伴山守。阿倍仲麻呂吉備真備玄昉が入唐している。
  19. 白龜は日本にも中国にも見えない年号である。神龜(西暦七二四年〜七二九年)の誤りとしたら年代が合わない。つまりは私年号である。それがなぜ唐への貢物の中に混じっているのだろうか。この時期の王権の推移と大和との関係を暗示しているようである。
  20. 遣唐使の役目は中国の文物を輸入することにあったのだから、目的に適った行動であるとはいえ、唐の人々には奇異に映ったであろう。長年中国に朝貢していた国とは考えられない。この行動は至極お上りさん的である。ヤマト王権に外交が存在しなかったことがこういう点から見え隠れする。
  21. 「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」で有名なあの阿倍仲麻呂である。ここでは帰国しようとしなかったとあるが、実際には一度帰国を試みている。註[二十二]で詳しく述べる。『続日本紀』では「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、ただ大臣(吉備真備のこと)および朝衡の二人のみ」と賞されている。
  22. 第十二次遣唐使であり、大使は藤原清河。その翌年、秘書監、衛尉卿を授けられた上で阿倍仲麻呂は帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。しかし、仲麻呂の乗船した第一船は暴風雨に遭って南方へ流され、落命の噂が長安に流れた。李白はこれを聞き「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んでいる。第一船は、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着し、仲麻呂一行は天平勝宝七年(七五五年)に長安に帰着した。
  23. 第十八次遣唐使である。大使は藤原葛野麿
  24. 唐で視察や交際を続けていた第十八次の大使以下はこの年帰国している。
  25. 学生といえば何年も、時には二十年も唐の地で学ぶのが通例であるのに、なぜ空海や橘逸勢は二年で切り上げたのだろうか。もはや遣使がありえないことを長安の空気で察したのだろうか。無論残った学生もいただろうが、次の遣使は三十二年後になった。もっとも金さえあれば新羅船に便乗していつでも帰ることができたようだが。
  26. 第十九次遣唐使である。大使は藤原常嗣。二度も渡航に失敗し、さらには副使である小野篁が病と称して随行せず流罪となるなど、トラブルの多い遣使であった。結局、往路に使った艦船は唐の地で破棄し、新羅船九隻を雇って帰っている。

二〇一三年八月十一日 初版