『宋書』は南北朝時代の宋(西暦四二〇年〜四七九年)の歴史を記述した書籍で、宋・斉・梁の三国に仕えた沈約が、斉の武帝に命じられて編纂したものである。
夷蠻伝倭國条に「倭の五王」として名高い、讚、珍、濟、興、武の名前が現れる。倭の王が中国名を名のったのはこの時代だけのようで、後の『隋書』では「姓は阿毎、字は多利思北孤」とあるように再び和名に戻っている。おそらく勢力拡大のために中国の冊封を受けることが有利であり、そのために中国人に馴染みやすいよう中国名を名乗ったものと思われる。「多利思北孤」の時代には新羅と百済が入朝するようになっており、その必要性がなくなっていたのであろう。古来、武を雄略天皇に比定することが定説となっているが、卑彌呼の時代より「倭」は一貫して九州に存在しており、その比定に根拠はない。
倭國条はその大半を武の上表文が占めているが、拡張期にあった「倭」の王が熱心に地位を求める様子がわかり、大変興味深い。
倭國在高驪東南大海中丗修貢職高祖永初二年詔曰倭讚萬里修貢遠誠宜甄可賜除授太祖元嘉二年讚又遣司馬曹達奉表獻方物讚死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔並聽二十年倭國王濟遣使奉獻復以為安東將軍倭國王二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡濟死丗子興遣使貢獻世祖大明六年詔曰倭王丗子興奕世載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道逕百濟裝治船舫而句驪無道圖欲見吞掠抄邊隸虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此強敵克靖方難無替前功竊自假開府儀同三司其餘咸各假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
倭國は高驪東南の大海中に在り、丗、貢職を修む。高祖永初二年、詔して曰く「倭の讚は萬里を修貢し、遠誠宜しく甄すべく、除授を賜ふ可し」太祖元嘉二年、讚又司馬曹達[一]を遣はして表を奉り、方物を獻ず。讚死して、弟の珍[二]立ち、使ひを遣はして貢獻す。自ら使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王を稱す。表して除正を求む。詔して安東將軍、倭國王に除す。珍又倭隋等十三人に平西、征虜、冠軍、輔國將軍の號に除正を求む。詔して並びに聽す。二十年、倭國王の濟[三]使ひを遣はして奉獻す。復た以て安東將軍、倭國王と為す。二十八年、使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事を加へ、安東將軍は故の如くに、并びに上る所の二十三人を軍郡に除す[四]。濟死し、丗子の興使ひを遣はして貢獻す。世祖大明六年、詔して曰く「倭王の丗子興、奕世載ち忠、藩を外海に作し、化を稟け境を寧じ、恭しく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ。宜しく爵號を授け、安東將軍、倭國王たる可し[五]。興死し、弟の武立つ。自ら使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王を稱す[六]。順帝昇明二年、使ひを遣はして上表して曰く「封國は偏遠にして、藩を于外に作す。昔自り祖禰、躬ら甲冑を擐け、山川を跋渉して、寧處に遑あらず。東に毛人を征すること五十國、西に衆夷を服すこと六十六國、渡りて海北を平ぐること九十五國[七]、王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して、歳に愆らず。臣、下愚と雖も、忝くも先緒を胤ぎ、統ぶる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を逕て、船舫を裝治す。而るに句驪無道にして、圖りて見吞を欲し、邊隸を掠抄し、虔劉して已まず[八]。毎に稽滯を致し、以て良風を失ひ、路を進むと曰ふと雖も、或いは通り或いは通らず。臣、亡き考濟、實に寇讎の天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義聲に感激し、方に大舉せんと欲すも、奄に父兄を喪ひ、垂成の功をして、一簣も獲らず。居しく諒闇に在り、兵甲動かず。是を以て偃息し未だ捷たず。今に至りて甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁、文武功を效し、白刃前に交はるとも、亦顧ざる所なり。若し帝德の覆載を以て、此の彊敵を摧き、靖く方難を克ぜば、前功を替へることなし。竊に自ら開府儀同三司を假し、其の餘を咸各假授して、以て忠節を勸む」詔して武を使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王に除す[九]。
倭國は高麗の東南の海中にあり、代々朝貢してきていた。高祖永初二年(西暦四二一年)、詔して曰く「倭の讚は万里を越えて朝貢してきた。遠来の忠誠をよろしくはかり、官職、答礼の品を賜うべし」太祖元嘉二年(西暦四二五年)、讚はまた司馬曹達を遣わし、表を奉じて、様々なものを献上した。讚が死に、弟の珍が倭王になって、使いを遣わし朝貢してきた。自ら、使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王と称していた。上表して正式な任官を求め、詔して安東將軍・倭國王に任命した。珍はまた、倭隋等十三人に号して平西・征虜・冠軍・輔國將軍とする正式な任命を求めた。詔してすべて聞き届けた。元嘉二十年(西暦四四三年)、倭國王濟が使いを遣わし、朝献してきた。また安東將軍・倭國王とした。元嘉二十八年(西暦四五一年)、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事を加え、安東將軍は元のままとした。併せて都に上ってきていた二十三人を将軍や軍太守に任命した。濟が死に、世子の興が使いを遣わし朝貢してきた。世祖大明六年(西暦四六二年)、詔して曰く「倭王の世子、興、累代忠を捧げ、外界に藩国を構え、王化を受けてその国境を安寧にし、うやうやしく貢職を勤めてきた。新たな嗣子がその勤めを継ぐに当たり、よろしく爵号を授け、安東將軍・倭國王とすべし」興が死に、弟の武が倭王に立った。自ら使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王を称した。順帝の昇明二年(西暦四七八年)、遣使が至り、上表文に曰く「封国(倭国)は、帝都から遠く離れており、藩外に国を構えております。父祖代々自ら鎧兜に身に着け、山川を跋渉し、戦いの毎日で気の休まることはありませんでした。そうして、東に毛人を制圧すること五十五国、西は衆夷を服従させること六十六国、海を渡って海北を平定すること九十五国となりました。王道は寛大で平和であり、首邑から遠く離れたところまで国土を広げました。累代、朝廷を尊び、歳を違えることもありませんでした。私は愚か者ではありますが、かたじけなくも亡き父兄がやり残したことを継ぎ、治めているところで軍を鍛え、崇め帰すこと天を極め、道を百済に通して、船舶も整えました。ところが、高句麗は無道にも領土を併合しようと企て、百済の国境に侵入してきては略奪し、殺戮を行って已みません。朝貢も毎回滞り、良風を得て船出することもできなくなり、では陸路を進もうとしても、ある時はたどり着けますが、ある時はたどり着けないのです。私の亡父濟は、仇敵が帝都に通じる道を塞いだのを大変怒りました。弓兵百万が正義の声に感激してまさに大挙しようとしましたが、俄に父と兄は死んでしまいました。成就間近であった武勲も今ひと息のところで失敗に終わってしまったのです。憎しみを抱いても諒闇であり、兵が動きません。そのために休息を余儀なくされ、いまだに勝つことができておりません。今に至り、兵を鍛え閲兵の儀式を行い、亡き父兄の志を申し上げようと思います。義士や勇士、文武の手柄を立てるには、たとえ目前で白刃が交わされようとも後ろへ退きません。もし、帝徳によって天地を覆い、この強敵を滅ぼし、国難をよく鎮めることができましたら、代々続けた忠功を替えることはありません。ひそかに開府儀同三司を自ら請い、我が祖先の威光にも授けて頂くことを請願いたし、以て忠勤に勤めます」詔して、武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。