『梁書』は南北朝時代の「梁」(西暦五〇二年〜五五七年)の歴史書である。唐の貞観三年(西暦六二九年)に、陳の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が完成した。私撰であるが、正史として認められている。
倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里大抵在會稽之東相去絶遠從帶方至倭循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里始度一海海闊千餘里名瀚海至一支國又度一海千餘里名未盧國又東南陸行五百里至伊都國又東南行百里至奴國又東行百里至不彌國又南水行二十日至投馬國又南水行十日陸行一月日至邪馬臺國即倭王所居其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮民種禾稻紵麻蠶桑織績有薑桂橘椒蘇出黑雉真珠青玉有獸如牛名山鼠又有大蛇呑此獸蛇皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射之中蛇則死矣物産略與儋耳朱崖同地温暖風俗不淫男女皆露紒富貴者以錦繡雜采爲帽似中國胡公頭食飲用籩豆其死有棺無槨封土作冢人性皆嗜酒俗不知正歳多壽考多至八九十或至百歳其俗女多男少貴者至四五妻賤者猶兩三妻婦人無婬妬無盜竊少諍訟若犯法輕者沒其妻子重則滅其宗族靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼爲王彌呼無夫壻挾鬼道能惑衆故國人立之有男弟佐治國自爲王少有見者以婢千人自侍唯使一男子出入傳敎令所處宮室常有兵守衡至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢魏以爲親魏王假金印紫綬正始中卑彌呼死更立男王國中不服更相誅殺復立卑彌呼宗女臺與爲王其後復立男王並受中國爵命晉安帝時有倭王賛賛死立弟彌彌死立子濟濟死立子興興死立弟武齊建元中除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍高祖即位進武號征東大將軍其南有侏儒國人長三四尺又南黑齒國裸國去倭四千餘里船行可一年至又西南萬里有海人身黑眼白裸而醜其肉美行者或射而食之
倭は、自ら太伯の後と云ふ。俗皆文身[一]。帶方を去ることを萬二千餘里。大抵會稽の東に在り[二]。相去ること絶遠。帶方從り倭に至る。海に循ふ。水行で韓國を歴る。乍ち東し乍ち南す。七千餘里。始めて一海を度る。海闊く千餘里。名は瀚海。一支國[三]に至る。又一海を度る。千餘里。名は未盧國。又東南に陸行を五百里。伊都國に至る。又東南へ百里行く。奴國へ至る。又東へ百里行く。不彌國に至る。又南に水行二十日。投馬國へ至る。又南へ水行を十日、陸行を一月日。邪馬臺國[四]へ至る。即ち倭王の居る所。其の官に伊支馬有り、次は彌馬獲支と曰ひ、次は奴往鞮と曰ふ[五]。民、禾稻、紵麻を種へ、蠶桑織績す。薑、桂、橘、椒、蘇有り。黑雉、真珠、青玉を出だす。牛の如き獸有り。名は山鼠[六]。又また大蛇有りて此の獸を呑む。蛇皮堅く斫る可からず。其の上に孔が有り、乍ち開き乍ち閉じる。時に或いは光有り。之の中を射ると。蛇は則ち死す[七]。物産は儋耳、朱崖と略同じ[八]。地温暖。風俗淫ならず。男女皆露紒。富貴の者は錦繡雜采を以て帽と爲す。中國の胡公頭に似る[九]。食飲は籩豆[十]を用ゐる。其の死、棺有りて槨無し。土を封じて冢を作る[十一]。人性皆酒を嗜む[十二]。俗は正歳を知らず[十三]、壽考多く、多くは八、九十に至り、或いは百歳に至る[十四]。其の俗、女多く男少なし。貴者は四、五妻に至り、賤者も猶兩、三妻[十五]。婦人婬妬無し[十六]。盜竊無し。諍訟少なし[十七]。若し法を犯せば、輕き者は其の妻子を沒し、重きは則ち其の宗族を滅す[十八]。靈帝光和中、倭國亂れる[十九]。歴年相攻伐するに乃んで一女子卑彌呼を共に立て王と爲す。彌呼、夫壻無し鬼道を挾り、能く衆を惑はす。故に國人、之を立てる。男弟有りて國を佐治す。王と爲りて自り、見ゆること有る者少なし。婢千人を以て自らに侍らしむ。唯一男子を使ひ出入傳敎せしむ。處所、宮室、常に兵有りて守衡す。魏の景初三年[二十]に至り、公孫淵を誅して後、卑彌呼始めて使ひを遣はし朝貢す。魏、以て親魏王と爲し、金印紫綬を假す。正始中、卑彌呼死す[二十一]。更に男王を立てる。國中服さず。更に相誅殺す。復た卑彌呼の宗女臺與[二十二]を立て王と爲す。其の後、復た男王を立て、並びに中國の爵命を受く。晉の安帝の時、倭王賛有り。賛死して、弟の彌立つ。彌死して、子の濟立つ[二十三]。濟死して、子の興立つ。興死して、弟の武立つ。齊の建元中、武を持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍に除す[二十四]。高祖即位す。武の號を征東大將軍に進める[二十五]。其の南に侏儒國有り。人の長三、四尺。又南に黑齒國、裸國。倭を去ること四千餘里。船行一年で至る可し[二十六]。又西南に萬里、海人有り。身黑く眼白し。裸にして醜し。其の肉は美し。行く者或いは射て而して之を食ふ[二十七]。
倭は、自分たちを呉の太伯の後裔であると言っている。風俗として皆が入れ墨をしている。帯方郡から一万二千里のところにある。おおよそ、会稽の東に当たる。行く者があればその者とはもう会えない程の遠くにある。帯方郡から倭に至った行程は次の通り。海岸沿いに道を下る。次に川を船で航行し、馬韓、辰韓、弁韓を巡った。船は川の流れに従い東に向かったり南へ向かったりした。実質七千里あまりを航行した。ここで初めて海を渡った。海域は広く千里余りもある。その海の名前は瀚海である。一支國に着き、また海を渡った。千里余りで陸に着く。そこの名前は、未盧國である。また東南に陸を五百里歩くと、伊都國に着く。そこから東南に百里歩くと奴國へ着く。また東へ百里歩くと不彌國へ着く。また南に川を下りつつ、二十日をかけた。また南へ川での航行に十日、陸を歩くこと一ヶ月で邪馬臺國へ着く。つまりここに倭王がいる。そこの長官に伊支馬がいて、副官に彌馬獲支、その下に奴往鞮がいる。民衆は稲作をし、苧麻(からむし)を植え、桑を育てて養蚕を営み、絹を織っている。生姜(しょうが)、肉桂(にっけい)、蜜柑(みかん)、山椒(さんしょう)、紫蘇(しそ)がある。黒い雉(きじ)、真珠、青玉を産出する。牛のような獣がいる。名前は山鼠(ヤマネではない)。また大蛇がいてこの獣を飲み込むという。その蛇の皮は堅くてはがすことができない。上側に孔があり、開いたり閉じたりする。時には光ることがある。ここを弓で射ると蛇はすぐに死んでしまうという。物産は儋耳、朱崖(いずれも台湾の地名)とほぼほぼ同じである。土地は温暖で、風俗は道にかなっている。男女は皆何も被っていない。お金持ちで身分の高い者はにしきに刺繍した絹織物や色とりどりの綾織物を帽子にして被っている。中国の胡公頭(胡族の首長のかぶり物に似せた帽)に似ている。飲食には籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は木製の盛り皿)を使う。死人が出たときは、棺に入れるが、槨は作らない。土に埋めて塚を作る。人々の性質として、酒を好んで飲む。一般に正しい暦はなく、年寄りが多い。たいていの者は八十、九十まで行き、中には百歳になる者もいる。女が多く、男が少ないのも特徴である。身分の高い者は四人から五人の妻を持ち、身分の低い者でも二人あるいは三人の妻を持つ。女性は浮気したり嫉妬したりしない。盗みを働く者がいない。訴訟も少ない。もし違法なことをすれば、罪が軽ければ、その妻子を没収して奴隷にし、重い者はその一族を全員殺す。後漢の靈帝光和年間に倭國で内乱が起きた。長年互いに征伐しあった結果、一人の女性、卑彌呼(ひみか)を王に立てた。卑彌呼(ひみか)には夫がおらず、鬼道に従い、うまく民衆を惑わした。そのため、国人が王に立てたのである。弟がいて国の政治のとりまとめをしていた。王となってからは面会したことのある者が少なかった。婢(はしため)千人を側に置いていた。男子をただ一人使って言葉を伝えたり伝えさせたりするために出入りさせていた。住居や宮殿は常に兵がいて守衛していた。魏の景初三年になり、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて使者を派遣して朝貢した。魏は卑彌呼を親魏倭王に冊封して、金印と紫綬を授与した。正始年間の中頃、卑彌呼は死んだ。改めて男の王を立てたが、国中が納得しなかった。こもごも互いを殺し合った。そこでまた卑彌呼の同族の宗女臺與を王に立てた。その後、また男の王を立て、併せて中国の爵号を受けた。東晉の安帝の時、倭王に賛がいた。賛が死んで弟の彌が王になった。彌が死んで子の濟が王になった。濟が死んで子の興が王になった。興が死んで弟の武が王になった。南齊の建元年間の中頃、武を持節督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に任命した。高祖武帝が即位して、武の号を征東大將軍へ進めた。その南に侏儒国があり、そこの人は身長が三、四尺である。また南に黑齒國、裸國があり、倭から四千里余りの場所である。船で航行して一年で到着する。また西南に一万里のところに、海人(かいじん)がいる。身体が黒く、目が白い。裸で過ごしていて姿が醜いが、その肉は美味しい。そこに行く者にはこれを射殺して食べるものがいる。
倭國に関する説明はここまでだが、この続きに現代からするととても滑稽な、しかし古代にあっては真面目に信じられたであろう東方の地のことが述べられているので、併せて訓読し、訳してみた。時間がおありの方はおつきあい頂きたい。
文身國在倭國東北七千餘里人體有文如獸其額上有三文文直者貴文小者賤土俗歡樂物豐而賤行客不齎糧有屋宇無城郭其王所居飾以金銀珍麗繞屋爲塹廣一丈實以水銀雨則流于水銀之上市用珍寶犯輕罪者則鞭杖犯死罪則置猛獸食之有枉則猛獸避而不食經宿則赦之大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異扶桑國者齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州説云扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東其土多扶桑木故以爲名扶桑葉似桐而初生如笋國人食之實如梨而赤績其皮爲布以爲衣亦以爲綿作板屋無城郭有文字以扶桑皮爲紙無兵甲不攻戰其國法有南北獄若犯輕者入南獄重罪者入北獄有赦則赦南獄不赦北獄在北獄者男女相配生男八歳爲奴生女九歳爲婢犯罪之身至死不出貴人有罪國乃大會坐罪人於坑對之宴飲分訣若死別焉以灰繞之其一重則一身屏退二重則及子孫三重則及七世名國王爲乙祁貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧第三者爲納咄沙國王行有鼓角導從其衣色隨年改易甲乙年青丙丁年赤戊己年黄庚辛年白壬癸年黑有牛角甚長以角載物至勝二十斛車有馬車牛車鹿車國人養鹿如中國畜牛以乳爲酪有桑梨經年不壞多蒲桃其地無鐵有銅不貴金銀市無租估其婚姻婿往女家門外作屋晨夕灑掃經年而女不悅即驅之相悅乃成婚婚禮大抵與中國同親喪七日不食祖父母喪五日不食兄弟伯叔姑娣妹三日不食設靈爲神像朝夕拜奠不制縗絰嗣王立三年不視國事其俗舊無佛法宋大明二年罽賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改慧深又云扶桑東千餘里有女國容貌端正色甚潔白身體有毛髮長地至二三月競入水則任娠六七月産子女人胸前無乳項後生毛根白毛中有汁以乳子一百日能行三四年則成人矣見人驚避偏畏丈夫食鹹草如禽獸鹹草葉似邪蒿而氣香味鹹天監六年有晉安人渡海爲風所飄至一島登岸有人居止女則如中國而言語不可曉男則人身而狗頭其聲如吠其食有小豆其衣如布築土爲墻其形圓其戸如竇云
文身國は倭國の東北七千餘里に在り[二十八]。人體に文有りて獸の如し。其の額の上に三文有り。文直き者は貴し。文小さき者は賤し。土俗は樂を歡び、物は豐かなれど賤しく、行客に糧を齎さず。屋宇有り。城郭無し。其の王の居る所、金銀珍麗を以て飾りにす。屋を繞りて塹を爲す。廣さ一丈を水銀を以て實たす。雨則ち水銀の上を流る。市珍寶を用ゐる。輕き罪を犯した者は則ち鞭杖、死罪を犯さば、則ち猛獸を置きて之を食はせる。枉有れば則ち猛獸避け而して食はず。宿を經て則ち之を赦す。大漢國は文身國の東五千餘里に在り[二十九]。兵戈無く、攻戰せず。風俗並びに文身國と同じにして言語を異にす。扶桑國[三十]は、齊の永元元年、其の國に沙門慧深有り。來りて荊州に至る。説きて云ふ。扶桑は大漢國の東二萬餘里に在り。地は中國の東に在り[三十一]。其の土扶桑の木[三十二]多く、故に以て名と爲す。扶桑の葉は桐に似る。而して初め笋の如く生ず。國人之を食す。實は梨の如く而して赤し。其の皮を績ぎ布と爲し以て衣と爲す。亦以て綿と爲す。板屋を作り、城郭無し。文字有り。扶桑の皮を以て紙と爲す。兵甲無く、攻戰せず。其の國法、南北に獄有あり。若し犯さば輕き者は南獄に入れ、重罪の者は北獄に入れる。赦有りて則ち南獄は赦すも、北獄は赦さず。北獄に在る者、男女相配す。男生まれて八歳で奴と爲す。女生まれて九歳で婢と爲す。犯罪の身は死に至りて出さず。貴人に罪有らば、國乃ち大いに會し、罪人を坑に坐らせ、之を對じて宴飲す。分訣、死別の若し。灰を以て之を繞らす。其の一に重きは則ち一身を屏退し、二に重きは則ち子孫に及ぶ。三に重きは則ち七世に及ぶ。國王を名づけて乙祁と爲す。貴人の第一の者を大對盧と爲す。第二の者を小對盧と爲す。第三の者を納咄沙と爲す。國王の行くに鼓角有りて導き從ふ。其の衣の色は年に隨ひて改易し、甲乙の年は青、丙丁の年は赤、戊己の年は黄、庚辛の年は白、壬癸の年は黑、牛有りて角甚だ長く、角を以て物を載せ、二十斛に勝るに至る。車有り。馬車、牛車、鹿車。國人は鹿を養ふ。中國の牛を畜ふが如し。乳を以て酪と爲なす。桑梨有り。年を經て壞せず。蒲桃多し。其の地鐵無く銅有り。金銀貴ばず。市租估なし。其の婚姻、婿が女家に往きて門外に屋を作り、晨夕に灑掃す。年を經て而して女悅ばずば、即ち之これを驅る。相悅べば乃ち婚を成す[三十三]。婚禮は大抵中國と同じ。親を喪ふは七日食はず、祖父母を喪ふは、五日食はず、兄弟伯叔姑娣妹は三日食はず。靈を設け神像と爲し、朝夕拜奠し、縗絰制めず。嗣王立つと、三年國事を視ず。其の俗に舊佛法無し。宋の大明二年、罽賓國に嘗て比丘五人有り、游びて行きて其の國に至る。佛法、經像、敎令、出家流通し、風俗遂に改まる。慧深又云ふ。扶桑の東千餘里に女國[三十四]有り。容貌端正、色甚だ潔白。身體に毛有り。髮は長く地に委す。二、三月に至り、競ひて水に入り、則ち任娠す。六、七月で子を産む。女人胸前に乳無し。項の後ろに毛を生ず。根白く、毛の中に汁有り。以て子に乳す。一百日に能く行き、三、四年で則ち成人す。人を見て驚き避け、偏る丈夫を畏る。鹹草を食ひ禽獸の如ごとし。鹹草の葉は邪蒿に似て、而して氣は香しく味は鹹し。天監六年、晉安の人有りて海を渡り、風に飄ふ所と為なして一島に至る。岸を登り、人有りて居して止まる。女は則ち中國の如し、而して言語は曉る可べからず。男は則ち人身なれど狗頭[三十五]、其の聲、吠えるが如し。其の食に小豆有り。其の衣は布の如し。土を築きて墻と爲す。其の形は圓、其の戸は竇の如しと云ふ。
文身國は倭國の東北七千里あまりのところにある。身体に入れ墨をしており獣のようである。額に三つの入れ墨を入れている。その入れ墨が真っ直ぐな者は身分が高く、入れ墨が小さい者は、身分が低い。習俗は享楽的で物資は豊かであるけれども物惜しみし、旅人に食料を分けたりしない。立派な屋敷はあるが城郭はない。その王の住居は金銀や珍しく美麗なもので飾られている。家の周りに濠を掘っており、一丈(約三メートル)ほどの幅を水銀で満たしている。雨が降ると水銀の上を水が流れる。市での売買には珠玉を用いている。軽い罪を犯した者は鞭や杖で打たれる刑にし、死に値する罪を犯せば、猛獣のそばに罪人を置いて猛獣に食べさせる。無実であれば猛獣が罪人を避けて食べない。一晩おいてこれを赦免する。大漢國は文身國の東五千里余りのところにある。武装しておらず、戦争をしない。風俗は文身國と変わりがないが、言葉は異なる。扶桑國は南齊の永元元年(西暦四九九年)、その国に仏教僧慧深がいて、中国の荊州にやって来た。慧深の説明によると、扶桑國は大漢國の東二万里余りのところにあり、中国の東に当たる。その土地に扶桑の木が多いので、国名にしている。扶桑の葉は桐の葉に似ていて、生えはじめはタケノコのように地面から生えてくる。国の者はこれを食べる。実は梨に似ているが赤い色をしている。扶桑の皮を剥いで紡ぎ、布にして、衣服もその布で仕立てている。また綿のようにも作る。板ぶきの建物を作り、城郭はない。文字が通用している。扶桑の皮を紙にしている。武装はしておらず、戦争をしない。その国の法では、南北に牢獄を建てており、もし軽い罪を犯した者がいれば南の牢獄に入れ、重罪の者は北の牢獄に入れる。恩赦があれば、南の牢獄に入れられた者はそれにあずかって赦免されるが、北の牢獄に入れられた者が赦免されることはない。北の牢獄にいる者は男女でペアになるようにする。男の子が生まれれば八歳になった時点で奴隷にする。女の子が生まれれば九歳になった時点で婢にする。罪を犯した当人は死んだ後も牢獄から出さない。貴族で罪を得た者があれば、国の大集会を開き、罪人を穴を掘ってその中に座らせ、これを生き埋めにして酒盛りをする。その別れは死別したかのようである。その周りに灰をまく。罪の重さがまだ軽い者はその身に罰が下る。次に重い者は子や孫まで罰せられる。さらに重い者は七代まで罰せられる。国王を名付けて乙祁という。貴族の筆頭を大對盧という、これに次ぐ者を小對盧、その次を納咄沙という。國王が外出する際には太鼓と角笛で先導する者がいて王につき従う。王の衣の色は年によって変え、甲乙の年には青、丙丁の年には赤、戊己の年には黄色、庚辛の年は白、壬癸の年は黒である。牛がいて角が非常に長く、角に者を載せて、二十斛(約四〇〇リットル)は優に越える。車がある。馬車、牛車、鹿車である。その国の人々は鹿を飼育している。中国で牛を飼育するようなものである。その乳を使って酪(乳飲料、またはバター)を作る。桑や梨がある。年を経ても枯れない。ぶどうが多い。その土地は鉄を産出せず、銅がある。金銀は重視しない。市の売り買いに税金をかけない。婚礼では、婿が女性の家へ行って門の外に家を建て、朝夕掃除をして綺麗にする。一年経っても女が気に入らなければ、男を追い出す。互いに気に入れば、結婚となる。婚礼の次第は中国とおおよそ同じである。親が死んだら、七日食事をしない。祖父母が死んだ時は五日食事を取らない。兄弟伯叔姑娣妹が死んだ時は三日食事しない。依り代を作って神像とし、朝夕拝礼する。喪服は定められていない。跡継ぎの王が位に就くと、三年間政治に関わらない。その習俗にもともと仏教はなかった。宋の大明二年(西暦四五八年)に罽賓國に仏僧がいて、海を渡って扶桑へやって来た。佛法、經像、敎令、出家が行き渡るようになって、風俗がとうとう改まった。慧深はまた次のようにも言った。扶桑の東千里余りのところに女國がある。容姿は美しく、肌の色は非常に白い。身体に毛が生えており、髪は長く地面に届くほどである。二月、三月になると競い合うように水に入り、妊娠する。六カ月か七カ月で子供を産む。その女性は胸に乳がなく、首の後ろ(つまり、うなじ)に毛が生えている。その毛の根元は白く、毛の中に乳が溜まっている。それを子供に飲ませる。百日もすると歩けるようになり、三、四年で成人する。人を見ると驚いて逃げ、がっちりとした体格の男を恐れる。鹹草を食べるところはまるで動物のようだ。鹹草の葉は麝香に似て香りはとてもよいが味は塩辛い。天監六年(西暦五〇七年)晉安(今の福建省福州市の一地区)の人が渡航中に難破して風任せに漂う羽目になり、とある島にたどり着いた。岸を上ると人がいたので止まった。女性は中国の人と変わりないが、言葉はまったく通じない。男は身体は人であるが、頭が犬であった。その声はまるで吠えているかのようだ。食事に小豆が出た。衣服は布で仕立てているようすである。土を積み上げて土塀にしている。その形は丸く、戸口は丸い孔のようであると伝える。