『梁書』諸夷傳倭國条

『梁書』諸夷傳

『梁書』は南北朝時代の「」(西暦五〇二年〜五五七年)の歴史書である。の貞観三年(西暦六二九年)に、の姚察の遺志を継いで、その息子の姚思廉が完成した。私撰であるが、正史として認められている。

倭國条

倭者自云太伯之後俗皆文身去帶方萬二千餘里大抵在會稽之東相去絶遠從帶方至倭循海水行歴韓國乍東乍南七千餘里始度一海海闊千餘里名瀚海至一支國又度一海千餘里名未盧國又東南陸行五百里至伊都國又東南行百里至奴國又東行百里至不彌國又南水行二十日至投馬國又南水行十日陸行一月日至邪馬臺國即倭王所居其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮民種禾稻紵麻蠶桑織績有薑桂橘椒蘇出黑雉真珠青玉有獸如牛名山鼠又有大蛇呑此獸蛇皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射之中蛇則死矣物産略與儋耳朱崖同地温暖風俗不淫男女皆露紒富貴者以錦繡雜采爲帽似中國胡公頭食飲用籩豆其死有棺無槨封土作冢人性皆嗜酒俗不知正歳多壽考多至八九十或至百歳其俗女多男少貴者至四五妻賤者猶兩三妻婦人無婬妬無盜竊少諍訟若犯法輕者沒其妻子重則滅其宗族靈帝光和中倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子卑彌呼爲王彌呼無夫壻挾鬼道能惑衆故國人立之有男弟佐治國自爲王少有見者以婢千人自侍唯使一男子出入傳敎令所處宮室常有兵守衡至魏景初三年公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢魏以爲親魏王假金印紫綬正始中卑彌呼死更立男王國中不服更相誅殺復立卑彌呼宗女臺與爲王其後復立男王並受中國爵命晉安帝時有倭王賛賛死立弟彌彌死立子濟濟死立子興興死立弟武齊建元中除武持節督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍高祖即位進武號征東大將軍其南有侏儒國人長三四尺又南黑齒國裸國去倭四千餘里船行可一年至又西南萬里有海人身黑眼白裸而醜其肉美行者或射而食之

倭は、みずから太伯のすゑふ。俗みな文身[]帶方たいほうを去ることをまん二千里。大抵おおよそ會稽かいけいの東に在り[]。相去ること絶遠。帶方たいほうり倭に至る。海にしたがふ。水行で韓國をる。たちまち東したちまち南す。七千里。始めて一海をわたる。海ひろく千里。名は瀚海はんかい一支いき[]に至る。また一海をわたる。千餘里。名は未盧まつろ國。また東南に陸行を五百里。伊都いと國に至る。また東南へ百里行く。國へ至る。また東へ百里行く。不彌ふみ國に至る。また南に水行二十日。投馬とうま國へ至る。また南へ水行を十日、陸行を一月日。邪馬臺やまたい[]へ至る。すなはち倭王のる所。の官に伊支馬いきま有り、次は彌馬獲支ひみまわきひ、次は奴往鞮ぬおうてい[]たみ禾稻かたう紵麻ちよまへ、蠶桑さんさう織績しよくせきす。きやうけいきつせう有り。黑雉こくち、真珠、青玉せいぎよくだす。牛の如きけもの有り。名は山鼠さんしよ[]。又また大蛇だいじや有りてけものむ。蛇皮たひかたはつからず。の上にあなが有り、たちまち開きたちまち閉じる。時に或いは光有り。これの中を射ると。蛇はすなはち死す[]。物産は儋耳たんじ朱崖しゆがいほぼ同じ[]。地温暖。風俗いんならず。男女みな露紒ろけい。富貴の者は錦繡きんしう雜采さふさいを以てばうす。中國の胡公頭ここうとうに似る[]。食飲は籩豆へんとう[]を用ゐる。の死、くわん有りてくわく無し。土を封じてちようを作る[十一]。人性みな酒をこの[十二]。俗は正歳を知らず[十三]壽考じゆかう多く、多くは八、九十に至り、或いは百歳に至る[十四]の俗、女多く男少なし。貴者は四、五妻に至り、賤者せんしやなほりやう、三妻[十五]。婦人婬妬いんと無し[十六]盜竊たうせつ無し。諍訟さうそ少なし[十七]し法を犯せば、かるき者はの妻子を沒し、重きはすなはの宗族を滅す[十八]靈帝れいてい光和中、倭國みだれる[十九]歴年れきねん攻伐こうはつするに乃んで一女子卑彌呼ひみかを共に立て王とす。彌呼みか夫壻ふぜい無し鬼道をほこり、く衆をまどはす。ゆゑに國人、これを立てる。男弟有りて國を佐治す。王とりてり、まみゆること有る者少なし。千人を以てみずからにはべらしむ。唯一男子を使ひ出入傳敎でんきやうせしむ。處所きよしよ、宮室、常に兵有りて守衡す。魏の景初三年[二十]に至り、公孫淵をちうしてのち卑彌呼ひみか始めて使ひをつかはし朝貢てうこうす。魏、以て親魏王とし、金印紫綬しじゆす。正始中、卑彌呼ひみか死す[二十一]。更に男王を立てる。國中服さず。更に相誅殺ちうさつす。卑彌呼ひみかの宗女臺與たいよ[二十二]を立て王とす。の後、た男王を立て、ならびに中國の爵命しやくめいを受く。しんの安帝の時、倭王さん有り。さん死して、弟の立つ。死して、子のせい立つ[二十三]せい死して、子のきよう立つ。きよう死して、弟の立つ。せいの建元中、持節じせつとく新羅しらぎ任那みまな伽羅から秦韓しんかん慕韓ぼかん六國諸軍事鎮東ちんとう大將軍にじよ[二十四]。高祖即位す。かうを征東大將軍に進める[二十五]の南に侏儒しゆじゆ國有り。人のたけ三、四尺。また南に黑齒こくし國、國。倭を去ること四千里。船行一年で至る[二十六]また西南にまん里、海人有り。身くろく眼白し。裸にしてみにくし。の肉はうまし。行く者或いは射てしかうしてこれを食ふ[二十七]

倭は、自分たちを太伯の後裔であると言っている。風俗として皆が入れ墨をしている。帯方郡から一万二千里のところにある。おおよそ、会稽の東に当たる。行く者があればその者とはもう会えない程の遠くにある。帯方郡から倭に至った行程は次の通り。海岸沿いに道を下る。次に川を船で航行し、馬韓辰韓弁韓を巡った。船は川の流れに従い東に向かったり南へ向かったりした。実質七千里あまりを航行した。ここで初めて海を渡った。海域は広く千里余りもある。その海の名前は瀚海である。一支國に着き、また海を渡った。千里余りで陸に着く。そこの名前は、未盧國である。また東南に陸を五百里歩くと、伊都國に着く。そこから東南に百里歩くと奴國へ着く。また東へ百里歩くと不彌國へ着く。また南に川を下りつつ、二十日をかけた。また南へ川での航行に十日、陸を歩くこと一ヶ月で邪馬臺國へ着く。つまりここに倭王がいる。そこの長官に伊支馬がいて、副官に彌馬獲支、その下に奴往鞮がいる。民衆は稲作をし、苧麻(からむし)を植え、桑を育てて養蚕を営み、絹を織っている。生姜(しょうが)、肉桂(にっけい)、蜜柑(みかん)、山椒(さんしょう)、紫蘇(しそ)がある。黒い雉(きじ)、真珠、青玉を産出する。牛のような獣がいる。名前は山鼠(ヤマネではない)。また大蛇がいてこの獣を飲み込むという。その蛇の皮は堅くてはがすことができない。上側に孔があり、開いたり閉じたりする。時には光ることがある。ここを弓で射ると蛇はすぐに死んでしまうという。物産は儋耳、朱崖(いずれも台湾の地名)とほぼほぼ同じである。土地は温暖で、風俗は道にかなっている。男女は皆何も被っていない。お金持ちで身分の高い者はにしきに刺繍した絹織物や色とりどりの綾織物を帽子にして被っている。中国の胡公頭(胡族の首長のかぶり物に似せた帽)に似ている。飲食には籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は木製の盛り皿)を使う。死人が出たときは、棺に入れるが、槨は作らない。土に埋めて塚を作る。人々の性質として、酒を好んで飲む。一般に正しい暦はなく、年寄りが多い。たいていの者は八十、九十まで行き、中には百歳になる者もいる。女が多く、男が少ないのも特徴である。身分の高い者は四人から五人の妻を持ち、身分の低い者でも二人あるいは三人の妻を持つ。女性は浮気したり嫉妬したりしない。盗みを働く者がいない。訴訟も少ない。もし違法なことをすれば、罪が軽ければ、その妻子を没収して奴隷にし、重い者はその一族を全員殺す。後漢の靈帝光和年間に倭國で内乱が起きた。長年互いに征伐しあった結果、一人の女性、卑彌呼(ひみか)を王に立てた。卑彌呼(ひみか)には夫がおらず、鬼道に従い、うまく民衆を惑わした。そのため、国人が王に立てたのである。弟がいて国の政治のとりまとめをしていた。王となってからは面会したことのある者が少なかった。婢(はしため)千人を側に置いていた。男子をただ一人使って言葉を伝えたり伝えさせたりするために出入りさせていた。住居や宮殿は常に兵がいて守衛していた。魏の景初三年になり、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて使者を派遣して朝貢した。魏は卑彌呼を親魏倭王に冊封して、金印と紫綬を授与した。正始年間の中頃、卑彌呼は死んだ。改めて男の王を立てたが、国中が納得しなかった。こもごも互いを殺し合った。そこでまた卑彌呼の同族の宗女臺與を王に立てた。その後、また男の王を立て、併せて中国の爵号を受けた。東晉安帝の時、倭王に賛がいた。賛が死んで弟の彌が王になった。彌が死んで子の濟が王になった。濟が死んで子の興が王になった。興が死んで弟の武が王になった。南齊の建元年間の中頃、武を持節督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に任命した。高祖武帝が即位して、武の号を征東大將軍へ進めた。その南に侏儒国があり、そこの人は身長が三、四尺である。また南に黑齒國、裸國があり、倭から四千里余りの場所である。船で航行して一年で到着する。また西南に一万里のところに、海人(かいじん)がいる。身体が黒く、目が白い。裸で過ごしていて姿が醜いが、その肉は美味しい。そこに行く者にはこれを射殺して食べるものがいる。

倭國に関する説明はここまでだが、この続きに現代からするととても滑稽な、しかし古代にあっては真面目に信じられたであろう東方の地のことが述べられているので、併せて訓読し、訳してみた。時間がおありの方はおつきあい頂きたい。

文身國在倭國東北七千餘里人體有文如獸其額上有三文文直者貴文小者賤土俗歡樂物豐而賤行客不齎糧有屋宇無城郭其王所居飾以金銀珍麗繞屋爲塹廣一丈實以水銀雨則流于水銀之上市用珍寶犯輕罪者則鞭杖犯死罪則置猛獸食之有枉則猛獸避而不食經宿則赦之大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異扶桑國者齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州説云扶桑在大漢國東二萬餘里地在中國之東其土多扶桑木故以爲名扶桑葉似桐而初生如笋國人食之實如梨而赤績其皮爲布以爲衣亦以爲綿作板屋無城郭有文字以扶桑皮爲紙無兵甲不攻戰其國法有南北獄若犯輕者入南獄重罪者入北獄有赦則赦南獄不赦北獄在北獄者男女相配生男八歳爲奴生女九歳爲婢犯罪之身至死不出貴人有罪國乃大會坐罪人於坑對之宴飲分訣若死別焉以灰繞之其一重則一身屏退二重則及子孫三重則及七世名國王爲乙祁貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧第三者爲納咄沙國王行有鼓角導從其衣色隨年改易甲乙年青丙丁年赤戊己年黄庚辛年白壬癸年黑有牛角甚長以角載物至勝二十斛車有馬車牛車鹿車國人養鹿如中國畜牛以乳爲酪有桑梨經年不壞多蒲桃其地無鐵有銅不貴金銀市無租估其婚姻婿往女家門外作屋晨夕灑掃經年而女不悅即驅之相悅乃成婚婚禮大抵與中國同親喪七日不食祖父母喪五日不食兄弟伯叔姑娣妹三日不食設靈爲神像朝夕拜奠不制縗絰嗣王立三年不視國事其俗舊無佛法宋大明二年罽賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改慧深又云扶桑東千餘里有女國容貌端正色甚潔白身體有毛髮長地至二三月競入水則任娠六七月産子女人胸前無乳項後生毛根白毛中有汁以乳子一百日能行三四年則成人矣見人驚避偏畏丈夫食鹹草如禽獸鹹草葉似邪蒿而氣香味鹹天監六年有晉安人渡海爲風所飄至一島登岸有人居止女則如中國而言語不可曉男則人身而狗頭其聲如吠其食有小豆其衣如布築土爲墻其形圓其戸如竇云

文身國は倭國の東北七千里に在り[二十八]。人じんたいに文有りてけものごとし。ひたいの上に三文有り。文なおき者はたふたし。文小さき者はいやし。土俗はらくよろこび、物はゆたかなれどいやしく、行客にかてもたらさず。屋宇おくう有り。城郭じやうくわく無し。の王のる所、金銀珍麗を以て飾りにす。屋をめぐりてせんす。ひろさ一じやうを水銀を以てたす。雨すなはち水銀の上を流る。市珍寶ちんほうを用ゐる。かるき罪を犯した者はすなは鞭杖べんじやう、死罪をおかさば、すなは猛獸まうしうを置きてこれを食はせる。わう有ればすなはち猛獸避けしかうして食はず。宿をすなはこれゆるす。大漢國は文身國の東五千里に[二十九]兵戈へいか無く、攻戰かうせんせず。風俗ならびに文身國と同じにして言語をことにす。扶桑ふさう[三十]は、せいの永元元年、の國に沙門さもん慧深けいしん有り。きたりて荊州けいしうに至る。きてふ。扶桑ふさうは大漢國の東二まん里に在り。地は中國の東に[三十一]の土扶桑ふさうの木[三十二]多く、ゆゑに以て名とす。扶桑ふさうの葉は桐に似る。しかうして初めたけのこごとく生ず。國人これを食す。ごとしかうして赤し。の皮をつむぎ布とし以て衣とす。また以て綿とす。板屋を作り、城郭無し。文字有り。扶桑ふさうの皮を以て紙とす。兵甲無く、攻戰せず。の國法、南北にぎよく有あり。し犯さばかるき者は南獄なんぎよくに入れ、重罪の者は北獄ほくぎよくに入れる。しや有りてすなは南獄なんぎよくゆるすも、北獄ほくぎよくゆるさず。北獄ほくぎよくに在る者、男女相配す。男生まれて八歳です。女生まれて九歳です。犯罪の身は死に至りてさず。貴人に罪有らば、國すなはおほいにくわいし、罪人をあなすわらせ、これふうじて宴飲す。分訣、死別のごとし。灰を以てこれめぐらす。の一に重きはすなはち一身を屏退へいたいし、二に重きはすなはち子孫に及ぶ。三に重きはすなはち七世に及ぶ。國王を名づけて乙祁いつきす。貴人の第一の者を大對盧たいたいろす。第二の者を小對盧せうたいろす。第三の者を納咄沙だふとつさす。國王の行くに鼓角こかく有りてみちびしたがふ。の衣の色は年にしたがひて改易し、甲乙かふいつの年は青、丙丁へいていの年は赤、戊己ぼうしの年は黄、庚辛かうしんの年は白、壬癸じんきの年は黑、牛有りて角はなはだ長く、角を以て物をせ、二十こくまさるに至る。車有り。馬車、牛車、鹿車。國人は鹿をやしなふ。中國の牛をやしなふがごとし。乳を以てらくと爲なす。桑梨有り。年をて壞せず。蒲桃ほたう多し。の地てつ無く銅有り。金銀たふとばず。市租估そこなし。の婚姻、婿が女家に往きて門外に屋を作り、晨夕に灑掃さいそうす。年をしかうして女よろこばずば、すなはち之これをる。相よろこべばすなはち婚を成す[三十三]婚禮こんれい大抵おおよそ中國と同じ。親をうしなふは七日食はず、祖父母をうしなふは、五日食はず、兄弟伯叔姑娣妹は三日食はず。れいまうけ神像とし、朝夕拜奠はいてんし、縗絰さいてつさだめず。嗣王立つと、三年國事を視ず。の俗にもと佛法ふつはう無し。宋の大明二年、罽賓けいひん國にかつ比丘ひく五人有り、うかびて行きての國に至る。佛法ふつはう經像けいしやう敎令かうれい、出家流通し、風俗つひに改まる。慧深けいしんまた()ふ。扶桑ふさうの東千里に女國[三十四]有り。容貌ようばう端正、色はなは潔白けつはく身體しんたいに毛有り。髮は長く地にまかす。二、三月に至り、競ひて水に入り、すなはち任娠す。六、七月で子を産む。女人胸前に乳無し。くびうしろに毛を生ず。根白く、毛の中に汁有り。以て子に乳す。一百日にく行き、三、四年ですなはち成人す。人を見て驚き避け、すこぶる丈夫をおそる。鹹草かんさうを食ひ禽獸きんじうの如ごとし。鹹草かんさうの葉は邪蒿じやかうに似て、しかうして氣はかんばしく味はからし。天監六年、晉安しんあんの人有りて海を渡り、風にただよふ所と為なして一島に至る。岸を登り、人有りて居して止まる。女はすなはち中國のごとし、しかうして言語はさとる可べからず。男はすなはち人身なれど狗頭こうとう[三十五]こゑえるがごとし。の食に小豆有り。の衣は布のごとし。土を築きてしやうす。の形はえんの戸はとうごとしとふ。

文身國は倭國の東北七千里あまりのところにある。身体に入れ墨をしており獣のようである。額に三つの入れ墨を入れている。その入れ墨が真っ直ぐな者は身分が高く、入れ墨が小さい者は、身分が低い。習俗は享楽的で物資は豊かであるけれども物惜しみし、旅人に食料を分けたりしない。立派な屋敷はあるが城郭はない。その王の住居は金銀や珍しく美麗なもので飾られている。家の周りに濠を掘っており、一丈(約三メートル)ほどの幅を水銀で満たしている。雨が降ると水銀の上を水が流れる。市での売買には珠玉を用いている。軽い罪を犯した者は鞭や杖で打たれる刑にし、死に値する罪を犯せば、猛獣のそばに罪人を置いて猛獣に食べさせる。無実であれば猛獣が罪人を避けて食べない。一晩おいてこれを赦免する。大漢國は文身國の東五千里余りのところにある。武装しておらず、戦争をしない。風俗は文身國と変わりがないが、言葉は異なる。扶桑國南齊の永元元年(西暦四九九年)、その国に仏教僧慧深がいて、中国の荊州にやって来た。慧深の説明によると、扶桑國は大漢國の東二万里余りのところにあり、中国の東に当たる。その土地に扶桑の木が多いので、国名にしている。扶桑の葉は桐の葉に似ていて、生えはじめはタケノコのように地面から生えてくる。国の者はこれを食べる。実は梨に似ているが赤い色をしている。扶桑の皮を剥いで紡ぎ、布にして、衣服もその布で仕立てている。また綿のようにも作る。板ぶきの建物を作り、城郭はない。文字が通用している。扶桑の皮を紙にしている。武装はしておらず、戦争をしない。その国の法では、南北に牢獄を建てており、もし軽い罪を犯した者がいれば南の牢獄に入れ、重罪の者は北の牢獄に入れる。恩赦があれば、南の牢獄に入れられた者はそれにあずかって赦免されるが、北の牢獄に入れられた者が赦免されることはない。北の牢獄にいる者は男女でペアになるようにする。男の子が生まれれば八歳になった時点で奴隷にする。女の子が生まれれば九歳になった時点で婢にする。罪を犯した当人は死んだ後も牢獄から出さない。貴族で罪を得た者があれば、国の大集会を開き、罪人を穴を掘ってその中に座らせ、これを生き埋めにして酒盛りをする。その別れは死別したかのようである。その周りに灰をまく。罪の重さがまだ軽い者はその身に罰が下る。次に重い者は子や孫まで罰せられる。さらに重い者は七代まで罰せられる。国王を名付けて乙祁という。貴族の筆頭を大對盧という、これに次ぐ者を小對盧、その次を納咄沙という。國王が外出する際には太鼓と角笛で先導する者がいて王につき従う。王の衣の色は年によって変え、の年には青、の年には赤、の年には黄色、の年は白、の年は黒である。牛がいて角が非常に長く、角に者を載せて、二十斛(約四〇〇リットル)は優に越える。車がある。馬車、牛車、鹿車である。その国の人々は鹿を飼育している。中国で牛を飼育するようなものである。その乳を使って酪(乳飲料、またはバター)を作る。桑や梨がある。年を経ても枯れない。ぶどうが多い。その土地は鉄を産出せず、銅がある。金銀は重視しない。市の売り買いに税金をかけない。婚礼では、婿が女性の家へ行って門の外に家を建て、朝夕掃除をして綺麗にする。一年経っても女が気に入らなければ、男を追い出す。互いに気に入れば、結婚となる。婚礼の次第は中国とおおよそ同じである。親が死んだら、七日食事をしない。祖父母が死んだ時は五日食事を取らない。兄弟伯叔姑娣妹が死んだ時は三日食事しない。依り代を作って神像とし、朝夕拝礼する。喪服は定められていない。跡継ぎの王が位に就くと、三年間政治に関わらない。その習俗にもともと仏教はなかった。宋の大明二年(西暦四五八年)に罽賓國に仏僧がいて、海を渡って扶桑へやって来た。佛法、經像、敎令、出家が行き渡るようになって、風俗がとうとう改まった。慧深はまた次のようにも言った。扶桑の東千里余りのところに女國がある。容姿は美しく、肌の色は非常に白い。身体に毛が生えており、髪は長く地面に届くほどである。二月、三月になると競い合うように水に入り、妊娠する。六カ月か七カ月で子供を産む。その女性は胸に乳がなく、首の後ろ(つまり、うなじ)に毛が生えている。その毛の根元は白く、毛の中に乳が溜まっている。それを子供に飲ませる。百日もすると歩けるようになり、三、四年で成人する。人を見ると驚いて逃げ、がっちりとした体格の男を恐れる。鹹草を食べるところはまるで動物のようだ。鹹草の葉は麝香に似て香りはとてもよいが味は塩辛い。天監六年(西暦五〇七年)晉安(今の福建省福州市の一地区)の人が渡航中に難破して風任せに漂う羽目になり、とある島にたどり着いた。岸を上ると人がいたので止まった。女性は中国の人と変わりないが、言葉はまったく通じない。男は身体は人であるが、頭が犬であった。その声はまるで吠えているかのようだ。食事に小豆が出た。衣服は布で仕立てているようすである。土を積み上げて土塀にしている。その形は丸く、戸口は丸い孔のようであると伝える。

  1. 男女問わず入れ墨をしていることになっているが、風俗が変化したのか、編纂者の誤解か、判断に苦しむ。
  2. 『後漢書』東夷傳の過ちが引き継がれている。
  3. 『魏志倭人伝』では「一大國」だったが、訂正されている。『魏志倭人伝』の誤字だという人もいるが、真偽は定かではない。
  4. 『後漢書』東夷傳に出た名前を引き継いでいる。「山倭(やまゐ)」が「山大倭(やまたゐ)」になったためだろう。
  5. 『魏志倭人伝』では上から「伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮」だったが、「彌馬升」が飛ばされている。
  6. どこか別の国の風聞が紛れ込んだものと思われる。やまねずみと書くのだから山にいる哺乳類なのだろうが、筆者には熊くらいしか思い浮かばない。しかし、中国人が熊を知らないはずはないので、どんな獣のことを述べているのだろうか。哺乳類で言えば、牛に匹敵するほど大型となると、サイやカバくらいしか思いつかないが(但しカバは半分水棲みたいなものなので山にはいない)、いずれにせよ日本にはいない。
  7. ますます怪しげである。日本にはこのように巨大な蛇が棲息していたことはない。オオアナコンダは牛を襲って食べるが、熱帯雨林にしかいない。アミメニシキヘビの可能性もあるが、どちらも光る孔など備えていない。編纂者は一体どんな資料を見たのであろうか。
  8. 『後漢書』東夷傳の過ちが引き継がれている。
  9. 冠は頭に乗せるものだが、帽は被るものであるという違いがある。錦繡(錦とぬいとりのある織物)雜采(様々な彩りの布)というからには派手で美々しいものだったと思われる。「胡公頭」とはどのようなものか調べてみたのだが、わからなかった。ご存じの方がいらっしゃればご一報下さい。
  10. 「籩」は竹ひごで編んだ高坏で、主に果物類を盛り、「豆」は木製の高坏のことで、魚介類や肉類を盛る(参考写真)。なお、古代中国の食器は他に
    古代中国の食器
    俎などがある。
  11. 棺は棺桶のこと。槨はその棺を包む箱のようなものである。木製はもちろん粘土でできたものもある。
  12. 何度も出てくるのは単なる孫引きか、よほど酒好きが知れ渡っていたのか。いずれにせよ、中国にも飲ん兵衛はいたが、初に周公旦が「酒誥」(『尚書』の篇名)を著して酒の害を説き、は酒のために滅びたとまで書いたので、儒教においては宴会など儀礼の場以外で呑むということは褒められたことではなかった。その点を鑑みると「酒好き」というのも良い意味で書かれているわけではないことがわかる。
  13. 『魏志倭人伝』の裴松之の註、つまり『魏略』からの孫引きである。単に「俗不知正歳」としかしていないのは蛮族のこととて正しい暦がないとだけ書けば十分であると思われたか。
  14. 『後漢書』東夷傳の過ちが引き継がれている。
  15. これも『後漢書』東夷傳の過ちが引き継がれたものである。それにしても判で押したように「女多男少」と書かれると余程に羨ましかったんだろうなと思ってしまう。
  16. この句も繰り返し現れるのであるが、中国の女性はそんなに浮気っぽくって、嫉妬が激しいのだろうか。
  17. この句も決まり文句のように出てくるが、中国は盗みや訴訟がそんなに多かったのだろうか。鎌倉時代には日本も盗みや訴訟(土地がらみの紛争が多かった)が多かったことがわかっているのだが。盗みは平安時代後半からひどくなっていたのだが、土地紛争は実力行使で解決していたので訴訟にまで至らなかった。
  18. 刑罰が非常に厳しいと考えられていたのか、この句も繰り返し出てくる。
  19. 『後漢書』東夷傳の過ちが引き継がれている。
  20. 『魏志倭人伝』では、景初二年だったが、司馬仲達公孫淵を滅ぼしたのが景初二年八月なのでその二ヶ月前に倭が遣使することはありえないと考えたようだ。しかし公孫氏が滅びるかどうかは倭にとっても重要な問題であったに違いなく、単に陳寿の誤りと言い切れないものがある。
  21. 魏の正治年間(西暦二四〇年〜二四九年)に卑彌呼が死んだというのは、編纂者の誤解か、あるいは別に何か資料があったのだろうか。これが正しいとすると戦争の最中、もしくは直後に死んだことになる。
  22. 邪馬壹國は邪馬臺國の誤りだと判断したようだ。そのため「壹与(ゐよ)」の名前まで書き換えられている。
  23. 『宋書』夷蠻伝では珍(彌)のと濟の続柄が不明だったが、ここでは子とはっきり書いてある。
  24. 『南齊書』蛮東南夷傳に対応する記述がある。
  25. 高祖武帝が即位したのは西暦五〇二年である。何もないのに倭王武の官爵を進めるはずはないので、朝貢があったことがわかる。このように外交に抜かりがないよう次々に手を打つ姿を雄略天皇に求めることはできない。雄略天皇と言えば、草香幡梭姫皇女に求婚する道の途中で、志貴県主の館が鰹木を上げて皇居に似ていると何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れて、それを婚礼のみやげ物にするという、非常にセコいことをしている。学者連中は何を考えてそんな天皇を倭王武だと決めつけているのだろうか。
  26. 『後漢書』東夷傳の過ちが引き継がれている。
  27. 人食い⁉と驚くような記述だが、西南に一万里(約五三〇〇㎞)というと、ジャワ島のあたりになる。これはジュゴンのことだと思われる。薬用その他の利用目的があり、その中に食用というのもあるので、実際食べたようだ。
  28. 東北に七千里余りということは、約三七二〇㎞である。アラスカだ・・・この「里」も信用できない里のようだ。
  29. 文身國の東五千里は、約二六六〇㎞になり、ハドソン湾岸・・・?
  30. 大漢國の東二万里は、約一万一千㎞になるので・・・ロシア連邦のど真ん中、オムスクバイカル湖の中間あたり・・・ってもう東でも何でもないやん!ということで、この「里」もこの時代の里を表しているとは言い難い。
  31. 現代、一般に扶桑國と言えば日本の別称だと解釈されるが、もちろん日本にここで述べられているような習俗があったことはない。文身國、大漢國も同様である。しかし、人が来て故国の説明をしているのだから、どこかにあったことは間違いない。梁の史官あるいは、姚思廉の誤りだと思いたいが。
  32. 扶桑はその字を含むとおり、桑の木だと一般には解釈されるが、もちろん桑の皮を剥いでこれを織って布にして服に仕立てるとか、綿に作るとか、タケノコのよに生えるのでそれを食うとか、実が梨に形が似ていて赤いとか、全部当てはまらない。そんな植物は存在しないのではないだろうか。
  33. 男女が互いに「相悦ぶ」というのはもちろん「お話」をしてのことではない。性交までして互いを確かめるのであるが、それを原則とする婚姻に少なくとも私有婚は該当しない。むしろ女性の実家の門の外に夫となる男が家を建てて女性を迎えるというのは、形骸化が進んでいるとは言え、婿取婚である。この点は興味深い。
  34. これ、絶対実在するもしくは実在した生物じゃない。何か別の生物の話が伝言を繰り返しているうちに荒唐無稽に達したものとしか考えられない。しかし、直立二足歩行する白い生物って人間しかいないんじゃが・・・人間はうなじから乳をやったりしないし。哺乳類でそんな種も聞いたことがない。
  35. 頭が犬って、狼の頭がついた毛皮を被っていたのだと思う。それが狗頭に伝言ゲームで変化したのだろう。

二〇一三年八月十一日 初版