邪馬壹国・九州王朝・関東王朝
「邪馬台国」論争は昔から有名で、九州にあったか近畿にあったか、はたまた海外だったか様々な仮説が出ては消え出ては消えして今に至っている。「婚姻の歴史を考える」を書いた際、魏志倭人伝についても簡単に調べたのだが、古田武彦氏の論によって、積年の疑問が解決したのでここにまとめておきたい。
魏志倭人伝における従来の解釈に関する疑問は次の通り。
- 版本では「邪馬壹國(=邪馬一国)」とあるものを何故「邪馬臺國(=邪馬台国)」の誤字だとするのか?
- 版本では「一大國」とあるものが、何故「一支國」の誤字だとするのか?
- 何故「水行十日、陸行一月」を全行程に要する日数だと解釈しないのか?
- 版本では「壹与」とある女王の名前を何故「臺与」の誤りだとするのか?
大学生の頃も「そりゃ君決まってるよ」とは言うものの、何故を説明できた先生はいなかった。歴史学とは随分胡散臭い学問だと思ったものである。それが今回、古田氏の論文を読んで氷解したのである。つまり、
- 「邪馬壹國(=邪馬一国)」が正しい。
- 「一大國」が正しい。
- 「水行十日、陸行一月」は全行程に要する日数だった
- 「壹与」が正しい。
古田氏は、他にも様々な論証を加え、邪馬壹國が博多湾岸にあったことを結論づけている。加えて氏は、この王朝が「漢書」地理志に現れる「倭人」と繋がっており、「隋書」東夷伝の記事、『大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云』で有名な「多利思比孤」も九州王朝の王であったとしている。そして、「旧唐書」で「倭国」条と「日本」条が別になっているのは、「倭国」が九州王朝、「日本」が近畿天皇王朝であるとする。誠に慧眼であり、我意を得た思いである。
畢竟、従来すべての議論は「王といえば近畿天皇家しかありえない」という臆断から出発していたため、不必要な議論が重なってきたのが事実なのだ。何も近畿天皇家だけが王であったとする意味も必要もない。九州に繁栄した正当な王朝があっていけない理由はなく、また存在しなければおかしい遺跡が存在するのであるから、素直にそう考えればよいのである。後世九州にあって天皇政権に属さない部族を「熊襲」や「隼人」と言ったが、彼らが衰微したその九州王朝の末裔であり、だからこそ近畿天皇家に下ることをよしとせず頑固に抵抗し続けたと考えて何の不思議があろう。逆に「蝦夷」とよばれてやはり近畿天皇家にしつこくしつこく抵抗した部族が関東から東北にかけてあったことを考えれば、関東王朝があってもよいとすら考える。(古田氏は稲荷山古墳出土の鉄剣銘を関東王朝存在の証であると主張している。私も同感である)
邪馬台国論争は江戸時代から続く非常に「歴史的」な問題であるが、たったひとつの理由のない臆断によって、これほどの長時間と多大な労力が無駄に費やされてきたことを考えると、学者の言う「科学的」とか「実証的」とかいう論がいかに怪しいものであるかをこの問題は示している、まさに好例と言えるであろう。