日本の古代史を考える—⑥宋書夷蠻伝倭國条
『晋書』は、三国鼎立時代を終わらせた「晋」の正史で、西暦265年から420年までの出来事が収められている。ただし、倭人条は、泰始元年(西暦265年)の記事で終わっており、次に倭の名前が見えるのは安帝の義煕九年(西暦413年)であるため、四世紀の日本については何も情報がない。本稿で取り上げる『宋書』は、南北朝時代の「宋」(平清盛が日宋貿易を行った「宋」とは時代が異なる国)の正史で、南斉の武帝の命令で、沈約によって編まれた。西暦420年から479年までの出来事が記されている。かの有名な「倭の五王」が登場するのであるが、当然記録が五世紀に入ってからなので、四世紀がまるまる空白として残る結果となった。いわゆる「空白の四世紀」である。
倭國在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。
倭國は高麗の東南の海中にあり、代々朝貢してきていた。高祖永初二年(西暦421年)、詔して曰く「倭の讚は万里を越えて朝貢してきた。遠来の忠誠をよろしくはかり、官職、答礼の品を賜うべし」太祖元嘉二年(西暦425年)、讚はまた司馬の曹達を遣わし、表を奉じて、様々なものを献上した。
倭王讚が朝貢してきたことを示す記事である。讚は中華風名称であり、本名はまた別にあったはずだが、伝わっていない。司馬曹達は人名かも知れないが、委細不明である。
讚死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍、郡。
讚が死に、弟の珍が倭王になって、使いを遣わし朝貢してきた。自ら、使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王と称していた。上表して正式な任官を求め、詔して安東將軍・倭國王に任命した。珍はまた、倭隋等十三人に号して平西・征虜・冠軍・輔國將軍とする正式な任命を求めた。詔してすべて聞き届けた。元嘉二十年(西暦443年)、倭國王濟が使いを遣わし、朝献してきた。また安東將軍・倭國王とした。元嘉二十八年(西暦451年)、もと願っていたように、使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍を加えた。併せて都に上ってきていた二十三人を将軍や軍太守に任命した。
讚が死んで、弟の珍が倭王になって朝貢してきた記事である。冊封を受けいるが、いつのことかわからない。そして、元嘉二十年(西暦443年)になって倭王濟が朝貢してきたと続く。珍が死んで後を継いだと書いていないところが意味深である。簒奪があったのかも知れれない。当然上表文があったのだろうが、内容が伝わっていないので何があったか不明のままである。ウィキペディアで検索するとわかるが、「使持節」や「安東將軍」はいっぱいる。倭の珍も濟もその中の一人でしかない。割と安直に任命された名誉号のようだ。日本において平安時代、地方の豪族に外従五位下を授けたようなものかも知れない。ただ、元嘉二十八年(西暦451年)に珍が自称し、任命を希望していた「使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王」とよくよく見るとちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」に濟は任命されている。何もないのにそんな任命が行われるはずがないので、軍事的に高句麗を圧倒した可能性がある。
濟死、世子興遣使貢獻。世祖大明六年、詔曰「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王」
濟が死に、世子の興が使いを遣わし朝貢してきた。世祖大明六年(西暦462年)、詔して曰く「倭王の世子、興、累代忠を捧げ、外界に藩国を構え、王化を受けてその国境を安寧にし、うやうやしく貢職を勤めてきた。新たな嗣子がその勤めを継ぐに当たり、よろしく爵号を授け、安東將軍・倭國王とすべし」
さて、その濟も死に、息子の興が朝貢してくる。ひょっとして興も「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」を申請したのかも知れない。
興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王 。
興が死に、弟の武が倭王に立った。自ら使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王を称した。
興が死んで、弟の武が倭王になった。当然朝貢したから記事になっているわけで、その上表文の中で、珍が授けられた「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東將軍」とちょっと違う「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東將軍」を自称している。書かれていないが、当然上表文の中で任命を求めたと思われる。もちろんこの時、その希望が叶えれなかったことは続く段落でわかる。
ところで、ここまででいわゆる「倭の五王」が出尽くしたわけだが、讚と珍が兄弟であることは明らかである。濟と興が親子で、興と武が兄弟なのも明らかだ。この続柄は当然上表文に記載されていたものを写したものだと考えられるので、倭王が嘘を書かない限り、これを事実としない訳にはいかない。この「倭の五王」をどの天皇に比定するかで歴史学者は喧々囂々議論をしてるわけだが、はっきり言って、全員眉唾ものである。そもそも武を雄略天皇に比定するのは共通するみたいだが、それも雄略天皇の名前に「ワカタケル」と入っているから、「武」っぽいじゃん? というだけのことで、全然歴史的事実でも何でもない。そもそも雄略が西暦の何年頃に帝位を履んだかも明らかになっていいない。即位と西暦が対応するのは、推古天皇からとされているが、それは推古15年に遣隋使を送ったと『日本書紀』にある記事と、『隋書』俀国伝の「大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢」の記事が一致すると考えられているからである。しかしそもそもその比定が全く根拠がなく、思い込みに等しいものでしかない。それ故、推古天皇を基準としたそれより過去の天皇の在位期間など全くあてにならないのである。何より「記紀」の雄略紀には、朝貢したとか、何某の官職に任命されたとかそんな話が出てこない。それがどれほどありえないか、続きの段落にある上表文を読んで頂ければ明白である。歴史学といってもそんなレベルなんですよ、皆さん。私どもはそういった方々に税金だの学費だのを投入して養っているわけである。知的レベルが江戸時代の国士から進化してないんじゃなかろうか。
雄略の実在を担保する物証として、埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣がある。これには銘文が象嵌してあり、その裏の銘文「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也」の「獲加多支鹵大王」を「ワカタケル大王」と呼んで、雄略の和名にある「ワカタケル」と同じだとして、これは雄略のことに間違いなしとなっているのだが、これを五世紀の音で読むと、「獲」は「カク、カ、カイ」、「加」は「カ」、「多」は「タ、ダ」、「支」は「シ」、「鹵」は、「ル、ロ」…全然ワカタケルにならない。あるいは国内産なので、古文的な読み方があるのだろうか。「支」をキと読む例があるのは知っているが、「獲」を「ワ」と読む例は寡聞にして知らないのだ。どなたかご教示頂ければ幸いである。
順帝昇明二年、遣使上表曰「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見吞、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節」詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。
順帝の昇明二年(西暦478年)、遣使が至り、上表文に曰く「封国(倭国)は、帝都から遠く離れており、藩外に国を構えております。父祖代々自ら鎧兜に身に着け、山川を跋渉し、戦いの毎日で気の休まることはありませんでした。そうして、東に毛人を制圧すること五十五国、西は衆夷を服従させること六十六国、海を渡って海北を平定すること九十五国となりました。王道は寛大で平和であり、首邑から遠く離れたところまで国土を広げました。累代、朝廷を尊び、歳を違えることもありませんでした。私は愚か者ではありますが、かたじけなくも亡き父兄がやり残したことを継ぎ、治めているところで軍を鍛え、崇め帰すこと天を極め、道を百済に通して、船舶も整えました。ところが、高句麗は無道にも領土を併合しようと企て、百済の国境に侵入してきては略奪し、殺戮を行って已みません。朝貢も毎回滞り、良風を得て船出することもできなくなり、では陸路を進もうとしても、ある時はたどり着けますが、ある時はたどり着けないのです。私の亡父濟は、仇敵が帝都に通じる道を塞いだのを大変怒りました。弓兵百万が正義の声に感激してまさに大挙しようとしましたが、俄に父と兄は死んでしまいました。成就間近であった武勲も今ひと息のところで失敗に終わってしまったのです。憎しみを抱いても諒闇であり、兵が動きません。そのために休息を余儀なくされ、いまだに勝つことができておりません。今に至り、兵を鍛え閲兵の儀式を行い、亡き父兄の志を申し上げようと思います。義士や勇士、文武の手柄を立てるには、たとえ目前で白刃が交わされようとも後ろへ退きません。もし、帝徳によって天地を覆い、この強敵を滅ぼし、国難をよく鎮めることができましたら、代々続けた忠功を替えることはありません。ひそかに開府儀同三司を自ら請い、我が祖先の威光にも授けて頂くことを請願いたし、以て忠勤に勤めます」詔して、武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王に任命した。
原文は四六駢儷体で格調高い名文である。装飾過剰なのだが、まあそういう形式だということでご納得頂くしかないかと。要は代々貢職を怠らず、周辺諸国を平らげ、中国の威光を広めてきたのに、高句麗が邪な意図で百済を攻めている。これを滅ぼしたいので、ついては官職を頂きたい。ってことでだ。それに対して「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大将軍・倭王」が授けられている。確かに望んだ官職とは異なるが、先祖も授けられた名誉ある官職だし、正式に冊封されたのだから、「記紀」にそれが記されていないのは、おかしな話なのである。
ここで『日本書紀』の編纂目的を思い起こしてもらいたい。同書は歴とした漢文で書かれ、日本が、皇統一系古来より続く有力国であることを内外に示すために編纂された。当然、唐の朝廷にも献上されている。自分たちが古来より続く名族であることを示すのに、自分の国の中のことだけを綿々と書くより、いついつの朝廷に遣使して冊封された。上表文は然々である。と他でもない中華の国を引き合いに出す方が相手にもわかりやすく、かつ訴求力があるというものである。なのに書かれていない。つまり、「倭の五王」は近畿天皇王朝と関係がなく、隋唐もそれを知っていたため、『日本書紀』にも記しようがなかったと考えるのが論理的な判断というものだ。うがった見方をすれば、古来より続く「倭」または「俀」という王朝が滅んでしまい(あるいは滅ぼしたので)、代わって近畿天皇王朝が日本の支配者となったことを隋唐に納得させるために、自分たちが「倭」(「俀」)に匹敵する古くから続く王朝であることを示す目的があったとも言える。つまり、それだからこそ、「倭」(「俀」)の冊封のことなどうかつに書き入れることができなかったと。
さらに勘のよい方なら「遣唐使」が国書を持参しない慣例であったことを思い起こされるだろう。つまり、日本は上表文を呈しない習慣を唐に認めさせていたのである。これは、倭(俀)と日本が連続していると考えると大変奇妙な点で、それまで累代形式通り朝貢しては表を奉じていたのに、遣唐使にあたってはそれをしなくなる。唐が表を呈しなくてもよいと自ら言い出すはずはないので、日本がごり押ししたと考えるのが妥当だ。なぜそんな唐の面目を失するような波風を立たせるごり押しをしたのか、できたのか。これに対して誰も論理的な回答を出していない。そして、この不連続性もまた、倭(俀)と日本が別の王朝であることを示している。
それにしても、倭王武は祖先の功績として「東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」を誇っている。おや、南がありませんね? そう、南がないのである。東征の毛人が「蝦夷」であることは言うまでもない。ただし、これを関東、東北ととるのは即断というものである。ここは慎重にいくべきだろう。西の衆夷は置いておくとして、海北とあるのは明らかに朝鮮半島へ侵攻したことを意味している。それを妨げたのが高句麗なわけだ。さて、これを近畿天皇王朝の立場で考えると、東征は納得できる。西の衆夷もまあ関西以西だからよしとしよう。北も朝鮮半島ならありえる話だ。あれ、南は? 和歌山は放置ですか、そうですか。となるのである。それに、ここにある国だが、平安時代に置かれた国のような広い範囲を指すのではなく、宗族と解釈するのが一般的である。でないとそんなにたくさん国はない、としか言えなくなるからだ。では出雲王朝はどうだろうか。東、北とも問題がない。西もそれくらいは服属させられだ。ところが今度はまた、南に触れていないのが問題になる。出雲の南はもとより、四国無視かよ…となってしまうのだ。では真打ち、九州王朝だったとしたらどうだろうか。東と北は問題にならない。南がないのは、自分たちが押さえているからだが、西は…? そう。九州の西は海なのである。いえいえ、九州王朝を筑前、筑後、肥後の連合王朝だとしたら、西は肥前で東は豊前、豊後となる。南に鹿児島があるが、有力な豪族はいなかったと考えられている。あれ、いける…? あるいはこの部分、白髪三千丈式の誇張表現で、実際は大したことなかったという見方もできないではない。ところがここに同時代資料として『好太王碑』が頑として存在し、「渡平海北九十五國」が誇張でも何でもないことがわかってしまうのである。
一体、「倭の五王」の王朝はどこにあったのだろうか。少なくともその王朝が、近畿天皇王朝とは関係がないことだけは明らかである。悩ましい。