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日本の古代史を考える—⑮磐井の乱

2013-06-11 歴史 日本史

重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。

古事記継体天皇の条に、

此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。

筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。

と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、

廿一年夏六月壬辰朔甲午、近江毛野臣、率衆六萬、欲往任那、爲復興建新羅所破南加羅・喙己呑、而合任那。於是、筑紫國造磐井、陰謨叛逆、猶預經年。恐事難成、恆伺間隙。新羅知是、密行貨賂于磐井所、而勸防遏毛野臣軍。於是、磐井掩據火豐二國、勿使修職。外邀海路、誘致高麗・百濟・新羅・任那等國年貢職船、內遮遣任那毛野臣軍、亂語揚言曰、今爲使者、昔爲吾伴、摩肩觸肘、共器同食。安得率爾爲使、俾余自伏儞前、遂戰而不受。驕而自矜。是以、毛野臣、乃見防遏、中途淹滯。天皇詔大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰、筑紫磐井反掩、有西戎之地。今誰可將者。大伴大連等僉曰、正直仁勇通於兵事、今無出於麁鹿火右。天皇曰。可。

二十一年(西暦527年)夏六月壬辰朔甲午の日、近江の毛野臣が六万人の軍を率いて任那に渡ろうとした。新羅が滅ぼした南加羅・喙己呑を任那にあわせて再興しようとしたのである。ここにおいて筑紫國造磐井は叛逆を密かに計画したが、なお数年はためらっていた。反乱の成功が期し難いことを考え、いつも隙を覗っていた。新羅がこれを知り、密かに磐井のところへ賄賂を送り、毛野臣軍を防がせようとした。ここに至り、磐井火國豐國の二国を襲って根城とし、職を修めさせず、外は海路で待ち受けて、高麗百濟新羅任那等の国の貢職船を誘致し、内は毛野臣軍が帰国しようとするのを妨げ、乱語揚言して曰く「今は使者とされているが、昔は自分と伴にして肩を撫でさすり肘を触れあわせ、同じ食器で同じものを食べたのだ。どうして突然使者などというものにして、はしためのように御前にぬかづかせるのだ。戦ってでも受けはしない。そちらが私を軽んじるなら、自分で尊くなるだけだ」ここにおいて毛野臣は、磐井の軍と対峙して踏みとどまらざるを得なかった。天皇は詔して大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人らに曰く「筑紫磐井が反乱を起こし、西戎の地にいる。討伐の大将には誰を任命すればよかろう」大伴大連らは一致して「軍事において正直で仁勇を備えている者で、麁鹿火の右に立つものはいません」天皇は「よろしい」と許可した。

と伝えています。この内乱を時の朝廷がいかに重視したかは、続いて述べられる継体天皇の詔にも現れています。曰く

大將民之司命。社稷存亡、於是乎在。勗哉。恭行天罰。天皇親操斧鉞、授大連曰、長門以東朕制之。筑紫以西汝制之。專行賞罰。勿煩頻奏。

「大将を民の司に命ず。社稷の存亡はここにあるのだ。勉めよ。恭しく天罰を行え」天皇は親しく斧鉞をとり、大連に授けて曰く「長門の東は朕がこれ支配する。筑紫の西は汝がこれ支配せよ。賞罰は専断せよ。いちいち奏上する必要はない」

さて、天皇が「社稷の存亡これにあり」と言った戦いは、かつてありませんでしたし、この後もありません。かつて吉備氏が反乱を起こした時も、そのような大げさな詔が出された形跡がありません。ましてや、遠く九州の片田舎にある反乱を鎮圧するには、過剰なくらい大げさな表現です。この乱が単に大規模であったというだけでなく、ただ事ならぬ意味合いを持っていることは間違いありません。

日本書紀』によると、継体天皇は大和入りに二十年をかけており、前年に「磐余玉穗」に宮を構えたばかりです。政権が安定していなかったと言うこともでき、ここで反乱の鎮定に失敗すれば、政権が土台からひっくり返される恐れがあったのかも知れません。しかし、継体王朝は、それまで続いていた崇神王朝が武烈天皇で断絶したため、遠縁の継体天皇を大和の豪族が迎えて興した新王朝であることが、今では定説となっています。大方の豪族の支持を得ることができたからこそ、大和入りもできたのでしょうし、だからこそ、反乱の鎮定に大伴大連金村物部大連麁鹿火許勢大臣男人といった大豪族を派遣できたのでしょう。それを考えると、政権を脅かしたという定説は素直に肯んじることができません。「社稷の存亡」ということそのものがありえないのです。さらに異様なのは、麁鹿火に「九州はお前が支配しろ」と命じた言葉です。当時、大和政権が全国支配していたとしても(関東以北は蝦夷の支配圏)、政権が支配する領土の半分をくれてやるに等しい言葉を、単なる内乱の鎮圧にあたって述べることができるでしょうか。しかも二十年かかってやっと大和入りした継体が、です。継体の大和入りが二十年かかったのは、豪族間で意見の不一致があったからだとする説が有力なようですが、それならなおさらその豪族の勢力を強化するようなことを継体が敢えて行うなど、常識的に考えてありえません。逆に、それだけの報償をぶら下げないと豪族を動かせなかったのだとも言えますが、大陸との交渉の要である筑紫を押さえられると困るのは、他の豪族も同じであって、敢えて巨大なエサをぶら下げる必要がどこにあったのでしょう。

ところで、「磐井の乱」に触れているのは『記紀』だけではありません。『釈日本紀』に引用された『筑紫風土記』に次の一文があります。

古老伝えて云う、雄大迩(おほど)の天皇の世に当り、筑志の君磐井。豪強暴虐、皇風に(したが)わず。生平の時、(あらかじ)め、此の墓を造る。(にわか)にして官軍動発し、襲わんと欲するの間、(いきおい)の勝たざるを知り、(ひとり)(みずか)ら豊前の国、上膳(かみつけ)(あがた)(のが)れて、南山峻嶺の(くま)に終る。(ここ)(おい)て官軍追尋して(あと)を失い、士、怒り未だ()まず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち()としき。

生前に墓を作ったのが無礼だったのでしょうか。「俄かにして」とあるので、突然官軍が襲ってきたことになります。『日本書紀』とは書きぶりが異なり、同情的でもあります。王権に抵抗したことが後に同情を生んだのだという論者もいますが、それは主客転倒というもので、もともと磐井の君に同情的だったからこそ、このような内容が語り継がれたというものです。あれあれ、何か怪しいですね。内乱があったことは確かでしょうが、これは『日本書紀』の記述を鵜呑みにはできないようです。

ところで、九州には「キミ」を持つ豪族が多くいたことがわかっています。それらの豪族を束ねる存在がいたとしたら、何と呼ぶのが相応しいでしょう。そうですね。「オオキミ」と普通は呼びますね。「キミ」は天皇の皇子たちに与えられたです。なぜ九州にそのを持つ豪族がたくさんいたのでしょう。答えは自ずから明らかです。九州に「オオキミ」がいて、その子孫が九州内の各所に豪族として定着したからですね。九州に王朝があったことは、中国正史の倭人、倭国に関する記録から明らかになっています。ところで、継体天皇の二十一年は西暦527年に比定されています。ということは、即位が西暦507年になるのですが、そのあたりに何かありませんでしたか? はい。倭王武が「」に朝貢して「征東大将軍」の官位を授けて貰ったのが、西暦502年で、そのすぐ前です。ところがその一回きりで朝貢が途絶えています。あれほど官位を授けられることに熱心だった王朝にしては何か変です。「」は西暦557年まで続きますから、物理的に朝貢できないという事態ではありません。間違いなく何かそれどころではないことが起きたことを示しています。そう言う目で「磐井の乱」を見てみると、九州王朝の主を乾坤一擲、一か八かの大勝負で継体軍が強襲したと解することができます。つまり、これは継体による九州王朝の「簒奪」なのです。だからこそ「社稷の存亡これにあり」と継体が檄を飛ばし、「筑紫の西は汝が支配せよ」と剛毅なことを言ったのも、天下を取るにあたり、人心を収攬する必要があったからでしょう。そんな大軍で攻め寄せられれば、長年の征戦に疲れていた九州「オオキミ」王朝はひとたまりもなかったと思われます。ところが、簒奪があったにしては、後の『隋書』にも明らかなとおり、九州王朝はその後も存続し、に朝貢し、答礼使である裴世清を受け入れ、オオキミ自ら会っています。これはどう理解したらよいのでしょう。

これは『古事記』の原文にあたればすぐわかります。現代語訳は、枕詞のように宮のあった地名に「大和の」とつけていますが、原文にはそんな言葉はありません。つまり、『古事記』には大和に朝廷があったことなど書かれていないのです。書かれていないことを書かれているかのように説明することを「改竄」と言います。歴史学者はこれを何と説明するのでしょうね。例によって江戸時代からの伝統とか持ち出すんでしょうか。というか、従来の学説の拠ってきたるところは、まさにその「江戸時代」から学者がそのように唱えてきたからでしかなく、何か科学的な根拠があってのことではないのです。ということで、説明が済んでしまいましたね。あるいは『古事記』に従うと、継体天皇は西暦527年に没したことになりますから、国内の鎮定を終えて宮を定めると、すぐに死んだことになります。「磐井の乱」の始末が片付かない間に死んだのかも知れません。そうなると、九州王朝ゆかりの王族が立つのは自然な話です。簒奪を目論んだ大和朝廷の王は死に、再び正当な九州王朝のオオキミが立てられたでしょう。加えて『日本書紀』では今は伝わっていない「百済本記」による説として「天皇と皇太子が同時に亡くなった」という風聞が百済にあったことを述べています。しかし、継体天皇の子供は三人とも皇位を履んでおり、これが継体天皇とその皇子を指すとは考えられません。あり得るのは筑紫の君磐井とその嫡子を指して述べた文であることです。

継体王朝が正当なる九州王朝を簒奪したのであれば、それ故、朝貢を続けられなかったことが肯けます。また、いくら磐井の君を追ったからといって、九州内の豪族がすぐに服属したとは思えません。簒奪した王権を安定させるには、もちろん様々な懐柔や重ねての討伐もあったでしょう。それが継体の「二十年間」だったのではないでしょうか。それを馬鹿正直に書くわけにはいかなかったので、哀れ継体は「二十年間」も磐余の宮へ落ち着くことができずに、放浪の天子にされてしまったというわけです。そもそも中国の正史や朝鮮の『三国史記』を信用すれば、五世紀から六世紀の初頭まで外征や国内の征討に王権は忙殺されており、大変な時期であったわけですが、『記紀』にはそのことが全く触れられていません。むしろ頭に頂くべき天皇が二十年も宮が定まらずうろうろしている有様ですから、そんなことができようはずもありません。となれば、反乱があったという話もひどくうろんな話になります。『古事記』が簡略に「殺石井也」と片付けているのも、無視するには重大すぎる簒奪の失敗を糊塗するためであったかも知れません。むしろ、『日本書紀』の方が文飾を試みようとして却って真実の一端を表しているようにも思えます。「外邀海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船」とあるのは、これらの国を従えていたのは九州王朝ですから、筑紫に船が入るのは当たり前のことです。「內遮遣任那毛野臣軍」とあるのは、突然軍が攻めてきたらこれに対して防衛するのも当然のことです。今まで手厚く遇してきた臣下あるいは分家が突然牙を向いて自分にひれ伏せと言ってくれば、激怒して当たり前です。まさしく飼い犬に手を噛まれたと思ったでしょう。

いずれにせよ、継体天皇の死を以て簒奪の試みは頓挫したと言えるでしょう。しかし、九州王朝にも少なからぬダメージを与えたはずです。昨日手厚くもてなした者も今日は叛逆する。後継者はその無情をかみしめたことでしょう。『隋書』では倭に仏教が伝来したことが書かれていますが、「多利思北孤」も篤く帰依していたことが「聞海西菩薩天子重興佛法」という言葉や仏僧五十人を遣隋使に随行させたことでもわかります。

それにしても、なぜ継体天皇は、九州王朝の簒奪という暴挙に出たのでしょう。継体天皇応神天皇五世の孫ということになっていますが、実はこの辺り『日本書紀』でも系図が失われていて、はっきりしたことはわかっていません。大和朝廷の豪族が推戴したのですから、どこの誰ともわからないような係累ではないでしょうが、遠い血であったことは確かでしょう。従って王権も制限され、思うように統治ができなかったものと推察されます。ここで王権を強化するには、と考えを巡らし、本家本元の王朝、九州王朝を奪うことで王権を強化しようと考えたのではないでしょうか。おそらく勇名轟く倭王武は既に崩じていて九州王朝も動揺していたのでしょう。その隙を突いたと考えられます。ところが豈図らんや。抵抗が強固で鎮撫することがなかなかできず、そのうちに没してしまったものと考えられます。

さてそうすると、いつ頃日本の王権が大和朝廷に移ったのかという疑問が生じます。この疑問には『舊唐書』がヒントを出してくれています。その高宗本紀に、西暦654年に倭国が朝貢した記事があり、それ以降、倭は朝貢していません。その頃あった日本の大変というと、「大化の改新」とそれに続く「壬申の乱」です。なぜ新興豪族蘇我氏を滅ぼしただけの政変が「大化の改新」などと仰々しく言われるのか。なぜ皇太弟であった大海人皇子が乱を起こさなくてはならなかったのか。ひとつ歴史学者に明快な説明を願いたいところです。