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日本の古代史を考える—⑰大化改新(前編)

2013-06-13 歴史 日本史

古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。

ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祀るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。

乙巳の変」は、『日本書紀』によると、蘇我氏の専横を憎んだ中臣鎌足中大兄皇子が計画し、実行したことになっています。

一般に蘇我氏の専横とされるのは、

  1. 蘇我馬子崇峻天皇を弑したこと 崇峻天皇は歴史上臣下に弑された唯一の天皇です。(この項、2013年6月17日に追加)
  2. 蘇我蝦夷が上宮王家(聖徳太子の一族)が勢力を持つことを嫌い、舒明天皇を擁立したこと。 蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼしてまで、田村皇子を即位させることを強行したと言われています。
  3. 舒明天皇が崩御した時も、皇后であった宝皇女=皇極天皇を即位させたこと。 これも上と同じ動機とされています。
  4. 甘樫岡の上に豪邸を並べ、蝦夷の邸宅を「上の宮門」(うえのみかど)、入鹿の屋敷を「谷の宮門」(はざまのみかど)と人々の呼ばせたこと。 宮門とは皇宮の門を指しますから僭上の沙汰とされています。
  5. 蝦夷とその子の入鹿は、自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員したこと。 聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議したと言われています。
  6. 蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、紫冠を入鹿に授け大臣となし、次男を物部の大臣となしたこと。 次男を物部の大臣としたのは、彼の母(入鹿らにすれば祖母)が物部守屋の妹であるという理由によります。
  7. 専横の究極として、上宮王家を滅ぼしたこと。

が挙げられます。ところが、これらの問題は客観的に見ると以下のように解釈するのが自然となります。

  1. 後編で詳しく見ていきますが、これは政治問題での対立が根にあり、誅殺されそうになった馬子が先に手を打ったものと考えられます。自ら立てた天皇を弑逆するのは余程のことであり、その対立が族滅を引き起こしかねないと危惧したからこそ敢えて踏み切ったのが真相でしょう。(この項、2013年6月17日に追加)
  2. 舒明天皇敏達天皇の息子であり、皇位の継承に無理がありません。いくら聖徳太子が摂政皇太子であったとはいえ、山背大兄王が継ぐ方がよほど問題であったでしょう。蘇我蝦夷にとってはその同母の妹が山背大兄王の母であったのであり、むしろ蘇我氏に不利な皇子を推したことはその裁定が公平であったことを示しています。
  3. 皇后が天皇に即位するのは推古女帝の前例があり、舒明天皇の子供が年少であったこともあり、むしろ自然であったでしょう。この場合、皇子たちが成長するのを待って譲位する、中継ぎの天皇であったと思われます。天皇になる条件は天皇の血に近しいことですから、舒明天皇の皇子らと山背大兄王では勝負がはっきりしていました。
  4. これは、2005年に甘樫岡の発掘調査が行われた結果、「谷の宮門」で兵舎と武器庫の存在が確認されています。また蘇我蝦夷の邸宅(「上の宮門」)の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、蘇我氏飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置いたのだとする説が出ています。
  5. これについては、この土木工事が本当は何であったのかが問題になります。本当に陵墓を造ったのなら、それらしい遺跡が残っていてもよさそうなものですが、そんなものがあったという記録は残っていません。逆に上で挙げられた説の通り、飛鳥板葺宮の防御力を高めるための工事であった可能性が高いのです。
  6. 蘇我氏はそもそも「冠位十二階」の外にあって冠を授ける側であり、実はこの行為には何も問題がないのです。蝦夷の母は物部氏の出身であり、蝦夷自身物部氏の母の実家で育ったのですから、次男に物部を継がせても当然と言えます。

おやおや、蘇我氏の専横と言われていたことに実は実態がない様子が見られますね。これは『日本書紀』が後からこじつけた理由である疑いが極めて濃厚です。では、最後の上宮王家を滅ぼしたという点についてはどうでしょうか。

日本書紀』には、皇極天皇の二年(西暦645年)、冬十一月、蘇我入鹿の軍勢が斑鳩の宮を急襲したと伝えています。少し長いのですが、この事変の様子を引用します。

十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮。灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東國、以乳部爲本、興師還戰。其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固國、不亦丈夫者歟。有人遙見上宮王等於山中。還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼。速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。

十一月丙子の朝、蘇我臣入鹿は小徳の巨勢德太臣と大仁の土師娑婆連を遣わせて、斑鳩山背大兄王らを襲った。ある本では巨勢德太臣と倭馬飼首を將軍としたという。ここにおいて、奴三成と舎人が數十人出てきて戦いを挑んだ。土師娑婆連は矢に当たって死んだ。軍衆はこれを恐れて退いた。軍の中では、一人当千とは三成のことを言うのだと言い合った。山背大兄王は、しきりに馬の骨を取って奥座敷に投げ置いていたが、遂にその妃や子供らを率いて逃げ出すことに成功し、膽駒山に隠れた。三輪文屋君、舍人の田目連及其女、菟田諸石、伊勢阿部堅經らが従うばかりだったとか。巨勢の臣らは斑鳩の宮を焼いた。灰の中に骨を見つけ、誤って王が死んだと言い、軍を解散して退去した。このおかげで山背大兄王らは四、五日ほど山に留まることができたが、その間飲まず食わずであった。三輪文屋君は御前に伺候して「深草屯倉に移り、馬を駈って東国へ赴き乳部を本拠として軍を興し、それから帰ってきて戦いましょう。必勝は間違いありません」と強く勧めた。山背大兄王らは「卿の言う通りにすれば必勝は疑いないだろう。ただ私は十年間百姓を軍務で煩わせないと誓願したのだ。この身のために万民を煩わせられるだろうか。また後世において私のために父母を失ったと民に言わせたくないのだ。この戦いに勝ったとて人より優れていると言えるだろうか。身を損なっても国を固めてこそ、人より優れた者と言えないだろうか。 山中に遠くから上宮王らを見た人がいた。蘇我臣入鹿のもとに戻って報告した。入鹿はこれを聞いて大変懼れた。軍を速やかに発し、高向臣國押に王の所在を伝え、ただちに山へ向かい山背大兄王らを捉えるように言った。國押は「天皇の宮をしっかり守り、決して外へは出ますまい」と言って断った。そこで入鹿は将として自ら出向くことにした。この時、古人大兄皇子が息せき切ってやってきて「どこへ向かうのか」と問うた。入鹿は詳しく説明した。古人皇子は「ネズミは穴にこもって生きている。穴を失えば死ぬしかない」入鹿はこれを聞いて自ら行くのを止めた。軍将らを遣わし、膽駒で山背大兄王らを探させたが、探し出せなかった。ここにおいて山背大兄王らは自ら山を下り斑鳩寺に入った。軍将らはすぐさま兵で寺を囲んだ。ここで山背大兄王三輪文屋君を使者にして軍将らに「私が兵を興して入鹿を討てば必ず勝つことは間違いない。しかし一身のために百姓を傷つけようとは思わない。そのため、私の身は入鹿にくれてやろう」と伝えさせた。ここで子弟や妃妾らと皆首をくくって共に死んだ。この時五色の幡蓋が現れ、様々な伎樂が鳴り、空を照らし灼いて、寺に臨垂した。人々はこれを仰ぎ見て驚き、遂には入鹿に指示を請うた。その幡蓋などは変じて黒雲となった。これより入鹿は目が見えなくなってしまった。蘇我大臣蝦夷山背大兄王らがみな入鹿によって死に至らしめられたことを聞いて、口を極めて罵った「ああ、入鹿め。極めて愚かで疑り深く、専行暴悪であり、お前の命も長くはないぞ」

日本書紀』が「聖徳太子」を神格化しようとしていることは改めて述べるまでもありません。当然その筆は子供たちにも及びます。先に述べたとおり、山背大兄王の母親は蘇我蝦夷の同母妹です。従って、上宮王家は蘇我宗家の後見がありました。つまり、蝦夷入鹿には身内に近く、山背大兄王らが大人しくしている分には敢えて命を付け狙う理由がありません。ところが逆に、山背大兄王蘇我氏を付け狙う理由ならあるのです。

  • 自分を後見していた蘇我氏内の有力者、境部摩理勢が殺され、舒明天皇が即位したこと。 死んでいなければ当然父は皇位を履んでいたはずである。従って自分の即位が当然のところを邪魔されたと山背大兄王が恨んでも無理はありません。
  • 入鹿が古人大兄皇子の擁立をはかり、その中継ぎの天皇として皇極天皇を立てたこと。 わざわざ女帝を立てなくても自分がいるではないかと思ったとしても当然でしょう。

ここで、最初の戦いを見てみると、入鹿側の将、土師娑婆連は矢に当たって死んでいます。「土師娑婆連中箭而死軍衆恐退軍中之人相謂之曰一人當千謂三成歟」あまり攻める側の雰囲気ではありません。どちらかと言うと守る側の状況を説明しているようでもあります。しかも戦況不利と見るや山背大兄王は馬の骨を宮の建物に放り込んで、死を偽装しようとしています。急襲されてやむなく防衛し、隙を突いて脱出する…人の行動にしては冷静が過ぎると思うのですが。

しかも再起を期せば必ず勝てると臣下が強く勧めるにも関わらず、百姓を傷つけたくないという理由で逃亡するかと思いきや、斑鳩寺へ入るという自殺行為を行います。まさしく自殺するのですが、この行動は全く意味不明です。むしろ、事を挙げておきながら、意外にも同調するものが少なくて事態を諦めてしまった人のようです。あるいは斑鳩寺を本陣として最後の抵抗を試みたとも見て取れます。

つまり、山背大兄王が謀反を起こし、天皇位に就こうとしたのを入鹿が阻止したのだと考えることは充分可能ですし、彼らが族滅させられたのもそのためだったと考えれば充分納得できるのです。しかしだからと言って、山背大兄王らに同情する豪族が全くいなかったかと言えばそんなことはなかったのでしょう。それでも、生かして捉えておけば事態の処理のしようもあったのに、追い詰めて死なせてしまってはどうしようもありません。そういった豪族の目にはまさしく蘇我氏の横暴と移ったでしょうし、その不満は鬱屈していつか爆発します。蝦夷は、入鹿が政治的に悪手を打った点を責めたのです。

ここで改めて考えてみて下さい。山背大兄王はあの「聖徳太子」の嫡男です。その嫡男が悲劇的な死を遂げたなら、丁重に葬り、あるいは少なくともその死処となった斑鳩寺で菩提を弔うことくらいはするでしょう。ですが、山背大兄王の墓所がどこかは全く記録がないのです。死に場所となった斑鳩寺にも伝えられていません。しかも斑鳩寺が菩提を弔っているのは「聖徳太子」だけです。

さらに、山背大兄王を襲撃したとされる巨勢徳太ですが、大化五年(西暦650年)四月、なんと左大臣に任命されています。大逆甚だしと言われた入鹿の命令に従って、罪もない山背大兄王らを殺した人が何故に? 「聖徳太子の孫・弓削王」を殺害したとされる斑鳩寺の狛大法師は、大化元年八月、「十師」(とたりののりのし、仏教界の最高指導層)の筆頭に任じられています。びっくりです。襲撃後すぐに入鹿によって賞されたというならまだわかりますが、その入鹿を天下の大逆として暗殺した「乙巳の変」の後にこれが行われているのです。逆に、山背大兄王に最期まで付き従った忠臣、三輪文屋という人物について、この事変の記事以外には、どの文献にも記録が残されていないのです。これを以てしても、山背大兄王事変が『日本書紀』の言う通りに入鹿の専横を表すものなどではなく、むしろ、山背大兄王側が暴発した結果であることがよくわかる叙任ではありませんか。

しかし『日本書紀』にとって「聖徳太子」はスーパースターでなくてなりません。その子供が謀反を起こしたなど以ての外です。ゆえに攻守が逆転されて、入鹿が襲って殺してしまったことにしたのです。しかし本当は叛徒ですから、墓所など当然なく、ないものは書きようがないので、書かれていないのです。また逆賊ですから斑鳩寺も菩提を弔うなどということをしていないのです。

これは重大です。蘇我氏が強大であったことは事実でしょうが、「乙巳の変」を正当化する専横という事実はなかったのです。ではなぜ、にも関わらず中臣鎌足中大兄皇子は「乙巳の変」を敢行したのでしょうか。それはこの頃の国内や国外の情勢を考える必要があります。

蘇我氏の邸宅や氏寺の飛鳥寺は、皇宮を外敵から守るように配置されていました。この外敵とは、建国間もない「」を意識したものであるとされていますが、いかに日本が大陸に比べて小さいとはいえ、「」に備えるにしては少々迂遠な設備です。大陸からの侵攻を防ぐのであればまず九州を固めねばならないでしょう。ところが、『日本書紀』には—天皇のおわす宮の周囲を固めるのはよいとしても—日本の玄関口である九州の防備を固めたとは書かれていないのです。むしろ、宮の周囲の防備は国内に敵がいてその急襲を懼れたためではないでしょうか。当時、日本には二つの国がありました。「倭國」と「日本國」です。大和朝廷はもちろん「日本國」です。「倭國」と「日本國」は継体天皇による簒奪、「磐井の乱」以来、対立していたと見なすのが自然です。するとこの防備も「倭國」に備えてものと考えるべきでしょう。九州の防備について書かれていないのは、もちろんそれが「倭國」に属する問題だったからです。暗殺という非常手段に訴えてでも主導権を握る必要がある重要な課題とは、この「倭國」を巡る問題だったのではないでしょうか。