日本の古代史を考える—補足5『後漢書』東夷伝倭人条全文
全文を引かずに揶揄してばかりだと不公平なので、以下に全文と訓読文をあげます。
原文
倭在韓東南大海中依山㠀爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國樂浪郡徼去其國萬二千里去其西北界拘邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稻麻紵蠶桑知織績爲縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓竹矢或以骨爲鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆橫幅結束相連女人被髮屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹坋身如中國之用粉也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞爲恭敬人性嗜酒多壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盜竊少爭訟犯法者沒其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞爲樂灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以爲持衰不謹便共殺之建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈閒倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立爲王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衞法俗嚴峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至朱儒國人長三四尺自朱儒東南行船一年至裸國黑齒國使驛所傳極於此矣
訓読文
倭は韓東南の大海中に在り。山㠀に依りて居を爲す。凡そ百餘國。武帝、朝鮮を滅してより使驛漢に通じるところ三十國許り。國皆王あり。丗丗統を傳ふ。其の大倭王は邪馬臺國に居す。樂浪郡の徼は其の國を去ること萬二千里。其の西北界、拘邪韓國を去ること七千餘里。其の地、大較會稽東冶の東に在り。朱崖、儋耳と相近し。故に其の法俗、多くは同じ。土は、禾稻、麻紵、蠶桑に宜しく、織績を知り、縑布と爲す。白珠、青玉を出し、其の山には丹あり。土氣温腝にして、冬夏菜茹を生ず。牛、馬、虎、豹、羊、鵲無し。其の兵、矛、楯、木弓、竹矢あり。或いは骨を以て鏃と爲す。男子は皆黥面文身す。其の文の左右大小を以て尊卑の差を別つ。其の男衣は皆橫幅、結束して相連ね、女人は被髮屈紒し、衣は單被の如く頭を貫き而して之を著し、並に丹朱を以て身を坋すること、中國の粉を用ゐるが如き也。城柵、屋室を有し、父母兄弟は處を異にす。唯會同に男女の別無し。飲食は手を以てし、而して籩豆を用ゐる。俗皆徒跣。蹲踞を以て恭敬と爲す。人性酒を嗜む。壽考多く、百餘歳に至る者甚だ衆し。國、女子多く、大人には皆、四五妻有り。其の餘、或いは兩或いは三。女人淫せず、妒せず。又俗は盜竊せず、爭訟少なし。法を犯す者は其の妻子を沒し、重い者は其の門族を滅す。其の死、喪に停まること十餘日。家人は哭泣し、酒食を進めず。而して等類は歌舞に就きて樂を爲す。骨を灼いて以て卜とし、吉凶を決するに用ゐる。行來、度海には一人をして櫛沐させず、肉を食させず、婦人を近づけさせず。名を持衰と言ふ。若し、塗に在りて吉利なれば、則ち財物を以て雇ひ、病疾の如き害に遭へば、以て持衰が謹まずと爲し、便ち共に之を殺す。建武中元二年、倭奴國、貢を奉り朝賀す。使人自らを大夫と稱す。倭國の極南界也。光武、印綬を以て賜ふ。安帝永初元年、倭國王帥升等、生口百六十人を獻じ、見ゆるを願ひ請ふ。桓靈の閒、倭國大いに亂れ、更に相攻伐し、歴年主なし。一女子あり、名は卑彌呼。年長ずるも嫁さず。鬼神の道を事とし、能く妖を以て衆を惑わす。是において共に立て王と爲す。侍婢千人。見ゆる者有るが少なし。唯男子一人有りて、飲食を給し、辭語を傳ふ。居處、宮室、樓觀、城柵、皆兵を持して守衛す。法俗は嚴峻なり。女王國より東へ海を度ること千餘里で、拘奴國へ至る。皆倭種と雖も而して女王に屬さず。女王國より南へ四千餘里で、朱儒國へ至る。人長、三四尺なり。朱儒より東南へ行船一年で裸國、黑齒國へ至る。使驛の傳ふる所、此において極まる。
現代語訳
倭は朝鮮の東南の大海の中にあり、山野の中に住んでいて、だいたい百余りの国がある。前漢の武帝が朝鮮を滅ぼして(楽浪郡を置いて)から交通が開けた国が三十国あまりある。それらの国にはすべて王がいて、代々血筋を残してきている。大倭王が邪馬臺國(やまたいこく)にいる。楽浪郡の境界より、邪馬臺國まで一万二千里ある。倭の西北の端にある拘邪韓國までは七千里である。その地はおおよそ、会稽郡の東冶県の東に位置している。朱崖、儋耳(共に、現在の海南島にあった地名)に近い。そのため、その法や風俗の多くが同じものである。土壌は、稲、紵麻、養蚕のための桑の育成に適しており、糸を紡ぎ布を織る術を心得ており、絹布を生産している。白珠(真珠のこと)、青玉を産出し、山から丹が取れる。気候は温暖で、冬でも夏でも野菜が採れる。牛や馬、虎、豹、羊、カササギはいない。矛や楯、木の弓、竹の弓で武装しており、動物の骨を遣って鏃にしている。大人の男は、皆顔や体に入れ墨をしている。入れ墨の左右上下の位置や大きさで身分の違いを表している。男性は皆横に長い布を巻いて結んでいる(具体的なスタイルは、風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。女性は、髪を伸ばしてまげを結い、単衣に作った布に頭を通して着ている(これも風俗博物館の日本服飾史資料を参照してみて下さい)。また、中国で白粉を使うように、丹朱(赤い粉)を使って体を飾る。城柵があり、屋敷もあって、父母と兄弟は別々に住んでいる。会同でも男女で区別はしない。飲食は手を使い、籩豆(籩は竹ひごで作った高坏、豆は塩などを盛る鉢)を用いている。風俗としてみな裸足である。身分の高い人の前では蹲踞して敬意を表す。そこの人の性質は酒を好む。年寄りが多く、百歳以上になるものがとても沢山いる。国には女性が多く、身分の高い人は夫人を四、五人持ち、それ以外でも、二人、あるいは三人の夫人を持つ。女性は浮気をせず、嫉妬もしない。また、盗みをする者はなく、訴訟で争うことも少ない。法を犯した者はその妻子を没収して奴隷とし、罪が重い者は、一族を滅ぼす。死人が出ると、十日余り喪に服する。家族は悲しんで泣き叫び、酒を飲んだり食事を取ったりしない。友人は歌い踊り音楽を奏でる。骨を焼いて卜筮を行い、吉凶を決める。旅に出たりあるいは旅から帰る時や、海を渡る時は、髪に櫛を入れず体も洗わず、肉を食べたり婦人を近づけたりしない者を一人供にする。これを持衰という。もし旅が順調だった場合は、財物を与えて賞し、疾病のような害があれば、持衰が謹まなかったせいだとして、すぐに全員でこれを殺す。建武中元二年(西暦57年)、倭奴國が貢ぎ物を持って朝貢してきた。使者は自分のことを大夫だと言った。倭奴國は倭國の最南端にある。光武帝は印綬を授けた。安帝永初元年(西暦107年)、倭國の王たち、帥升らが奴隷を百六十人献上して、皇帝にお目見えしたいと願ってきた。桓帝(西暦146年〜167年在位)と靈帝(西暦168年〜189年在位)が在位の間、倭國は大変な内乱状態で、互いに攻め合い、長い間倭國全体を統治する王がいなかった。卑彌呼という女性がいて、年長になっても結婚しないでいた。鬼神の道に詳しく、あやしげな術で民衆をうまく導いていた。この女性を諸国がこぞって王に立てた。侍女やはしためが千人いて、直接顔を合わせた者はごく少なかった。男性がただ一人で飲食の世話や、奏上や指示の取り次ぎをしていた。日常の住居や、宮殿、楼観、城柵には兵がいて守備していた。法は極めて厳しい。女王国より東へ海を千里余り渡ると、拘奴國へ着く。みな倭人であるが、女王国には属していない。女王国より南へ四千里余り行くと侏儒国に着く。そこの人は身長が三、四尺くらいしかない。侏儒国より船で東南に一年の距離に裸國、黑齒國がある。交通のあるところはここまでである。
さて、この条が『魏志倭人伝』を参照して書かれたことは確かであるとされています。そして、東夷伝を書いた者が(范曄の部下?)、その内容をよくわからないまま改変して引用したことも確かだとされています。中国人でも古典を読むにはちゃんと勉強してかなりの教養を身につけていなければならないことがよくわかる下りでもありますね。
まずは「使譯」と「使驛」。単純な誤字ですが、意味が全く変わってしまいます。漢字テストに出そうな違いですね。
『魏志倭人伝』では「舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」つまり「古くは百国余り」と『漢書』地理志燕地条の記述を押さえた上で「漢の時代に朝見する者があって、今は使者や通訳が行き来する国が三十ある」だったのに、「凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國」=「(今でも)百国余りある。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてから漢との間に三十国ばかり交通が開けた」と、オイオイと言いたくなるような話に変わっています。
『魏志倭人伝』で陳寿がせっかく丁寧に会稽の故事を引いて中国の教化を賛美していた「當在會稽東治之東」が「其地大較在會稽東冶之東」とただの地名にされてしまっています。そこに「與朱崖儋耳相近」と、元は「衣裳や農産物、動物や武器について、朱崖や儋耳と共通の点がある」という意味だったのに、日本がとんでもなく南にあることに改変されています。ここを書いた人は地理を知らなかったことがわかりますね。陳寿も報われません。
『魏志倭人伝』では「父母兄弟臥息異處」とちゃんと「寝る時は」と断っているのに、ここでは「父母兄弟異處」と完全別居として書かれています。困ったものです。
元は「其人壽考或百年或八九十年」と単に長命の人が多く、中には百歳の人や八十、九十歳の人がいるというだけのことだったのが、「多壽考至百餘歳者甚衆」とすごい長寿国にされています。蓬莱伝説とか考慮して敢えて変更したんでしょうか。それとも単なる無知…?
その次が前にも取り上げた「國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三」です。陳寿は「國大人皆四五婦下戸或二三婦」と平民でも複数妻を持つ者がいるよとしか書いてないのに、国に女性が多く(笑)、そのため皆が多妻であったと解釈したようです。まあ男の浪漫であることは認めますが。(笑)
極めつけはやはりこれでしょう。元々「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂」と、陳寿が書いた文を「桓靈閒倭國大亂」と改変しています。「その国は元々男性を王にして、七、八十年それが続いていた。倭國が乱れ…」という文なのですが、これが読めなかったようです。つまり「七、八十年倭國が乱れた」と理解してしまったのですね。そりゃ確かに大乱です(笑)。卑弥呼の遣使が魏の景初ニ年(西暦238年)ですから、そこから逆算して桓帝と靈帝の在位中、乱れっばなしにしてしまったんですな。
さらに卑弥呼について「魏志倭人伝」では「事鬼道能惑衆」だったのを「事鬼神道能以妖惑衆」と勝手に改竄しています。おそらく「鬼道」が何なのかわからなかったのでしょう。鬼という字から「鬼神」と書くのは庶民ならいざ知らず、官僚としてはあるまじき無知です。儒教に基づく政治を「正道」としそれ以外を「鬼道」つまり正当な方法によらない政治と陳寿が書いた意図を読めなかったのはこういった史書の編纂に携わる官僚として致命的なのではと思います。
と今の我々は、古典の研究が進んでその読み方もほぼわかってるから偉そうに言えますが、きっとこれを書いた人はぽんと魏志とか渡されて、これ読んで引用してねとか言われて必死になって書いたんじゃないでしょうか。それはないか。とまれ、元は句読点も文の区切りもない白文ですから、ちゃんと習ってないと中国人の官僚=知識人でも間違えまくるという例でした。
ところで最後に「使驛所傳極於此矣」とあるのもすごいミスです。「船行一年可至」とそういう話も(魏の官僚が)聞いてたよというだけの情報から実際に交流があるように変えてしまうのですから、間違う人は最後まで間違ったままという実例そのものになってました。わからない所は人に尋ねて勉強しましょう。(笑)
それだけではナニなので、誤りではなく『魏志倭人伝』と情報が異なっている点についても触れておきます。
まずは国名。「邪馬壹國」から「邪馬臺國」に変わっています。これは「倭(ゐ)」から五世紀頃には「大倭(たゐ、或いは、たいゐ)」と国名に「大」を付けて尊称するようになったからと私は考えています。それに国土が「山」がちなので、それを頭に付けて「山倭」→「山大倭」としたものが反映されたのでしょう。
次に「以蹲踞爲恭敬」です。元々は「但搏手以當跪拜」と拍手していたとか、「下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事或蹲或跪兩手據地為之恭敬」と道で身分の高い人に会ったら後ずさりして草むらに入り、受け答えは地に這いつくばったり、両手を地面に付けて行うことで相手を敬うとあったのですが、ここでは単に蹲踞となっています。これは風習が変わったというより、尋ねた方が違ったからではないかと思っています。つまり、貴族同士で身分に高低がある場合は蹲踞して控え、貴族と平民の場合は這いつくばって控えるという恭敬を示す主体の違いではないかと。
通常は以上を倭人条とするのですが、実は続きがあります。直接「倭」に言及する箇所はないのですが、興味深い内容が書かれているので、続けて掲載します。
原文
會稽海外有東鯷人分爲二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來論曰昔箕子違衰殷之運避地朝鮮始其國俗未有聞也及施八條之約使人知禁遂乃邑無淫盜門不夜扃回頑薄之俗就寬略之法行數百千年故東夷通以柔謹爲風異乎三方者也苟政之所暢則道義存焉仲尼懷憤以爲九夷可居或疑其陋子曰君子居之何陋之有亦徒有以焉爾其後遂通接商賈漸交上國而燕人衞滿擾雜其風於是從而澆異焉老子曰法令滋章盜賊多有若箕子之省簡文條而用信義其得聖賢作法之原矣贊曰宅是嵎夷曰乃暘谷巣山潛海厥區九族嬴末紛亂燕人違難雜華澆本遂通有漢眇眇偏譯或從或畔
訓読文
會稽の海外に東鯷人あり。分かれて二十餘國を爲す。また夷洲及び澶洲あり。傳言ふ、秦の始皇方士徐福を遣わし、童男女數千人を將ゐて海に入り蓬萊の神仙を求むれども得ず。徐福、誅を畏れて敢へて還らず。遂に此洲に止まる。丗丗相い承け、數萬家あり。人民、時に會稽に至り市す。會稽東冶の縣人、海に入りて行くに風に遭い、流移して澶洲に至る者あり。所在絶遠にして往來すべからず。論曰く、昔、箕子は衰えし殷の運を違り、地を朝鮮に避く。始めその國の俗は未だ聞有らず。八條の約を施すに及び、人をして禁を知らしむ。遂に乃ち邑に淫盜無く、門は夜に扃さず。頑薄の俗を回らし、寬略の法に就け、行うこと數百千年。故に東夷は通じ柔謹を以て風と爲し、三方に異る者なり。苟くも政の暢ぶる所、すなわち道義存す。仲尼は憤を懷き、以爲九夷に居る可し。或いはその陋しきを疑う。子曰く、君子これに居らば、何ぞ陋しきこれ有らん。また徒に以有る爾。その後、遂に商賈に通接し、漸く上國に交わり、而して燕人衞滿はその風を擾雜し、是に於いて從いて澆異す。老子曰く、法令滋章にして盜賊多く有り。箕子の文條を省簡にして信義を用うるが若きは、それ聖賢の作法の原を得たり。贊に曰ふ。この嵎夷に宅し、すなわち暘谷と曰ふ。山に巣し、海に潛み、厥の區は九族。嬴の末の紛亂に、燕人は難を違り、華を雜え本を澆くし、遂に有漢に通ず。眇眇たる偏譯、或いは從い或いは畔く。
現代語訳
会稽郡の東の海上にある地に東鯷人がいて、二十国余りに分かれている。また夷洲(台湾のことだとされている)及び澶洲がある。伝によると、秦の始皇帝が方士の徐福を派遣して子供の男女男女數千人を引き連れて海に出て蓬莱の神仙を求めさせたが、失敗した。徐福は失敗により誅殺されることを畏れて、とうとうこの地に留まることとした。以降、代々住み続けて戸数が数万戸にまでなった。その人々は会稽郡に来て商売をすることがある。会稽郡東冶県の人で、海に出て強風に吹かれて流されて、澶洲に流れ着く者がいる。その場所はあまりにも遠く、行き来は不可能である。論(昔の人物批評)によると、昔、箕子は殷が滅びたので、朝鮮に去った。始めはそこの風俗もあまり褒められたものではなかった。八条の法を敷いて、その人々にしてはならないことを教えた。すると終いには、町では男女の不純な交わりや盗みがなくなり、門を夜に閉ざすこともなくなった。頑なで浅はかな風俗を少しずつ変えていき、寛容で簡単な法を守らせて、これを数百、あるいは千年行った。だから東夷とは交通があり、柔順で謹直であることを風俗とし、北狄、西戎、南蛮とは異なるようになったのだ。いやしくも、政が行き渡る所には道義があるのだ。孔子は憤りを感じ、海に桴を浮かべて九夷(九はすべての意、転じて代表、中心の意)の地に行こうかと言った。ある者が九夷は卑しい者ではないかと疑った。すると孔子は、君子がいるのであれば、どうして卑しいことがあるだろうか、と言った。また、理由があるのだとも。その後、とうとう商人と接し、やっと中国と通交したところ、燕國の人衞滿(衛氏朝鮮の祖)は、これを乱して低俗なものにしてしまい、それに従って人情が薄く謀反を考えるようになってしまった。老子は、法令が増えると、盗賊も数が多くなる。箕子が法律を省き簡単にして、信義を守らせたのは、聖人賢人のやり方の基本を押さえたのだ。と言った。編纂者の意見だが、この居所とした嵎夷(太古、日が上ってくる場所とされた東方の山)を、暘谷(太古、日が上るとされた場所)と言う。山に住み、海に潜り、その種族は九族(九夷=東夷のこと)である。燕が滅びる間際に燕の人たちが難を避け、中華の風俗を伝えて交え、その本性を薄くして、ついには漢と通交した。遙か彼方の遠方であり、中国に従った時もあり、叛いた時もあった。
冒頭は、『漢書』地理志呉地条の末尾にある「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」=「會稽の海外に東鯷人あり。分かれて二十餘國を為す。歳時を以て来たりて獻見すと云ふ」によります。會稽の海の向こうというと、沖縄あたりになるんですが、これらの諸島を二十あまりの部族が争って領有していたと言われると納得してしまいます。それとは別に夷洲、澶洲があるということなのですが、澶洲の位置が不明です。往来不可能と記されているのですから、かなり遠方、小笠原諸島とか、北マリアナ諸島、グアムでしょうか。しかし、たどり着いた者がいることをどうやって編纂者は知ったのでしょう。その情報源の方が不思議です。(この項、2013年6月24日に追記)
「傳言」の傳とは、経書の注解を言うのですが、それが何という書かはわかりません。普通、単に傳と言えば「春秋左氏伝」を指すのですが、始皇帝が徐福を派遣したのは、春秋時代どころか戦国時代も終わった後なので、この場合は違うことがわかります。ご存じの方がいらしたらご教示下さい。(この項、2013年6月24日に追記)
「論曰」つまり、「過去の人物批評によれば」以降で語られている内容は、『漢書』地理志燕地条で、箕子が東夷を教化したことを詳しく述べ、その遺風が代々伝えられたことを指しています。また、孔子が言った言葉は、『論語』子罕第九にあります。ちなみに、『漢書』に言う、「海に浮を浮かべて…」の句は『論語』公治長第五が出典です。ですが、この部分は、「漢書」地理志燕地条の完全な誤読です。孔子は確かに「道不行乗桴浮干海」とは言ってますが「九夷可居」とは言ってないのです。それが出てくるのは「漢書」地理志燕地条だけだからです。「有以也」とあったのを孔子が言った言葉と誤解して「亦徒有以焉爾」とか書いてるんですね。こういう点も東夷傳を実際に書いた人物に教養が足りていないことがわかります。
「贊曰」は編纂者、この場合は范曄もしくは倭人条を書いた人の意見であることを示します。「嬴末紛亂」の「嬴」は春秋戦国時代の秦の王家の姓です。これは、戦国時代末、燕の太子丹が秦王政(後の始皇帝)を暗殺するために刺客として荊軻を送り込んだのですが、からくも失敗に終わり、これに激怒した秦王が燕を苛烈に攻め滅ぼしたことを指すと思われます。
ちなみに、ここでもミスをやらかしています。倭人条の最初で、倭は会稽郡東冶県の東にある。と言っておきながら、ここでは、会稽海外には東鯷人がいて、その他に夷洲や澶洲があると言ってます。日本って東冶県と同じくらいの小さい国だと思ってたんでしょうか。それに、燕の人々が避難したみたいに書いてありますが、燕って今の河北省北部、北京のあたりを中心に存在した国なんですよね。それが何故そんな南方に逃げ出したと考えられたのでしょう。意味不明です。本当に、やっつけ仕事っぽいですよね。