日本の古代史を考える—①漢書地理志
日本は『古事記』『日本書紀』以前に歴史書があったことは明らかにされているが、その内容については、『古事記』『日本書紀』に盛り込まれたもの(どれがそうであるかは不明である)のほかに現代に伝わっているものはごくわずかでしかない。そこで古来より中国の歴史書を引くことが当然とされてきた。しかしその内容については充分に吟味され、教育されているとは言い難い。日本が始めて登場する中国の歴史書は『漢書』であるが、高校の授業でも、百あまりの国に別れていたという程度のことしか教えられない。しかしこの条の本質はそんなところにはない。その前こそが重要なのである。以下に地理志燕地倭人条を示す。
然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云
以下読み下し文
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼しみ、浮を海に設け、九夷に居らんと欲す。以有るや。夫れ楽浪海中に倭人分あり、 百余国を為す。 歳時を以つて来たりて献見すと云ふ。
訳文
かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。
この条の前段には、楽浪郡が置かれる前の朝鮮について、殷が滅んだ後、箕子が赴いて国を建て、人民を教化したとある。その仁を賞賛し、その教化が東夷全体に及んだ証拠として、倭人条が続けて記されているのである。ここで重要なのは、孔子がその生きた時代、即ち春秋時代に道が行われないと嘆き、海を渡って東夷の地へ行きたいと(九夷は、中国語で「九州=全世界」とあるのと同じで、すべての東夷、あるいは東夷を代表するものという意味)こぼしたことに対して、それには理由があったのだと続いている点である。有名な「楽浪海中に倭人あり…」の文はその後に続くのである。末尾の「云」は単に「と言う」と簡単に訳してしまっている場合が多いが、漢書は、個人が酔狂で書いた適当な感想文ではない。後漢王朝により、前漢の正式な国史と認められた書物なのである。従ってこの伝聞は、噂に聞いたなどという意味ではなく、そのように正式な記録が伝えられている。あるいは、信憑すべき歴史上のできごととして伝えられている。ということなのである。孔子がまさに「道が行われている」と信じたからには、野蛮人が物珍しげに都へやってきた程度のことであろうはずがない。威儀を正し、礼儀を守り、道理にかなった正式な遣使が定期的にやってきたからこそである。孔子はうろんなことを口にする人ではなかったから、孔子の言葉の根拠として挙げられた倭人の伝聞もまた充分に根拠があって書かれているのだ。
なお、ここまでくれば、ではその天子とは誰か? は改めて述べるまでもないだろう。それは、周の天子である。孔子がいかに周礼を重視したかは今でも伝わっている。つまり、この条は、西周時代に倭人が朝貢していたことを示す重要な文章なのである。日本はその頃、縄文時代晩期(ウィキペディア日本史時代区分表に基づく)である。
しかも、朝貢である限り、倭人は臣下ということになるが、臣下であればお目見えの際に表を呈するのが礼儀である。つまり、その頃の倭人には(もちろん渡来人/帰化人であろうが)、文字を読み書きできる者がいた=文字が伝わっていたという事実を見落としてはならない。現時点で、歴史的/考古学的に確認できる最古の文字は、志賀島の金印である。「漢委奴國王」という例の金印だが、これは拝受する方が文字を解さないと、光武帝が倭の使節に下げ渡す意味がない。もちろん現代のように誰でも読み書きできたわけではなく、上流階級の一部が読み書きできただけだろうが、とにもかくにもその頃には日本にも文字があったと言いうる証拠である。文字をもたらしたのは渡来人/帰化人であるのは間違いないが、別に前漢滅亡から後漢建国の頃に限らずそれまでも渡来人/帰化人は日本に来ていたのであり、とすれば、文字もそれだけ古くから伝わっていたと考えるのが常識である。倭人条はそれを裏書きしていると言えよう。惜しむらくは縄文時代晩期あるいは弥生時代初期の遺物でさえ文字の記されているものがないことである。今後の発見が待たれる。
縄文人というと文字も知らず、記録も口伝だけで部族単位で小集落を作り、それぞれで牧歌的に狩猟採集していただけかのようなイメージがあるが、いかにそれが空想的で誤ったイメージであるかがわかる。漢書地理志の一文は、本来、そのように読み解くべき内容なのである。
同日追記。なお、後漢時代に王充が著した『論衡』には、以下の文が含まれている。
周之時 天下太平 倭人來獻暢草 (第五卷 異虚第十八)
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 (第八卷 儒增第二十六)
成王之時 越常獻雉 倭人貢暢 (第十九卷 恢國第五十八)
王充は当時流行していた讖緯説・陰陽五行説に基づく迷妄虚構の説・誇大な説などの不合理をこの書で徹底的に批判しているので、さすがに倭の朝貢が虚妄であると片付けることはできない。これも西周時代に倭が朝貢していたことを示す、貴重な証拠である。