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日本の古代史を考える—補足6『魏略』

2013-06-26 歴史 日本史

魏略』は魚豢によって編まれた書物で、元々は『三国志』「魏書」と同じ資料を参照して書かれたものだと思われます。現在は写本も伝わっておらず、後の書物に引用された部分が残されている程度です。書かれた年代も末から初ということしかわかっておらず、具体的な編年については定まっていません。ところがその後世に引用された部分に、倭のことが比較的多く出てくるので、日本では早くから注目された書物でもあります。以下、倭に関する引用部分の原文、訓読、現代語訳をあげます。

原文(『漢書』地理志燕地条・顔師古注より)

倭在帯方東南大海中依山島爲國度海千里復有國皆倭種

訓読文

倭は帯方(たいはう)東南大海の中にあり、山島に依よりて國を()す。度海(とかい)千里にして()た國有り。(みな)倭種。

現代語訳

倭は帯方郡から東南の大海の中にあって、山や島ばかりの地で国を建てている。(そこから)海を渡って千里行くとまた国がある。みな、倭人の国である。

どっちに千里行くのか書いておいてくれよと現代人なら思いますよね。『魏志倭人伝』に従うなら東へ海を千里渡るとなるのですが。それはともかく、決まり文句のように「依山島」という言葉が出てくることに注意して下さい。山はともかく「島」が多いところが「倭」だったのです。当然、奈良県などではないですよね。

原文(『翰苑』卷三十より)

従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國七十里始度一海千余里至対馬國其大官曰卑狗副曰卑奴無良田南北市糴南度海至一支國置官与対同地方三百里

訓読文

帯方(たいはう)より倭に至るには海岸に(したが)ふ。水行して韓國を()拘邪韓國(くやかんこく)に至る。七十里。始めて一海を(わた)る。千余里。対馬國に至る。其の大官を卑狗(ひこ)()ひ、副を卑奴(ひな)()ふ。良田無く南北に市糴(してき)す。南に海を渡り一支(いき)國に至る。官を置くこと対に同じ。地の方三百里。

現代語訳

帯方郡から倭に行くには、まず海岸沿いに南下し、船で川を航行して韓国を経て拘邪韓國に行く。(ここまで)七十里。そこで初めて海を渡って千里ほど行くと対馬國に着く。そこの長官は「ヒコ(或いはヒク)」といい、副官を「ヒナ(或いはヒヌ)」という。良い田がなく、南北の市に出かけて売買をして食料を得ている。(そこから)南に海を渡ると一支國へ着く。長官、副官など対馬國と同じように置かれている。その地は三百里四方である。

帯方郡からの旅程の一部を表した部分です。帯方郡から拘邪韓國まで七十里とあります。の一里は、443.8 m ですから、約 30 ㎞となり、こちらはこちらで距離があいません。『翰苑』に引用される際に、間違った距離が引用されたのか、もともと間違っていたのか、間に既に失われた別の語句があったのか、今となってはわかりません。なぜ丁度いい七百里を記したものがないのかそれはそれで不思議です。

なお、ここで「一支國」と出てくるんだから、『魏志倭人伝』の「一大國」はやっぱり「一支國」の間違いじゃないの、と考えがちですが、『翰苑』自体は、代に書かれた本なので、引用の際に修正されている可能性があるのです。悩ましいですね。

原文(『翰苑』卷三十より)

又度海千余里至末廬國人善捕魚能浮没水取之東南五百里到伊都國戸万余置官曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其國王皆属女王也

訓読文

(また)海を(わた)ること千余里。末廬(まつろ)國に至る。人()く魚を捕へ、()く水に浮没して之を取る。東南五百里にして伊都(いと)國に到る。戸は万余。官を置くに爾支(いき)といい、副を洩渓觚柄渠觚(せもこへここ?)という。その國王、(みな)女王に属する也。

現代語訳

また海を千里あまり渡ると、末廬國に着く。ここの人は魚を捕るのが上手で、巧みに水に浮かんでは潜りして魚を捕る。東南に五百里行くと、伊都國へ到着する。戸数は一万あまり。長官が置かれていて「イキ」といい、副官を「セモコヘココ(或いははシモコヘココ、シモコヘケコ、ヒモコヘココ、ヒモコヘケコ)」という。その国王は代々女王国に服属している。

「其國王皆属女王也」ですが、『魏志倭人伝』では「丗有王皆統屬女王國」とあるので、それに準じて訳してみました。それにしても官の名称が意味不明です。これは『魏志倭人伝』でも同じで、中には「洩渓觚」「柄渠觚」と分けて二人の副官がいたと主張する人もいます。それでも意味不明なのは不明なのですが。

魏志倭人伝』では「有千餘戸」ですが、こちらは「戸万余」です。他の国と比べてあまりに戸数が少ないので、ここは陳寿の書き間違いと思いたいところですが、『後漢書』東夷伝の例がある通り、魚豢が値を改竄した可能性もゼロではありません。あるいは『翰苑』に引用される際の改竄ということも。

原文(『翰苑』卷三十より)

女王之南又有狗奴國以男子爲王其官曰拘右智卑狗不属女王也

訓読文

女王の南、(また)狗奴(くな)()り。男子を以て王と爲なす。()の官を拘右智卑狗(こゆぢひこ)()ふ。女王に属さぬ(なり)

現代語訳

女王国の南にはまた狗奴國がある。男性を立てて王としている。行政の長を「コユヂヒコ」という。女王に服属していない。

魏志倭人伝』に「其南有狗奴國」とあるのは、女王國の南であることが、この記述からもわかります。

原文(『翰苑』卷三十より)

自帯方至女國万二千余里其俗男子皆黥而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后小康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人亦文身以厭水害也

訓読文

帯方(たいはう)より女國へ至るには万二千余里。()の俗、男子は(みな)(げい)し、(しかう)して文す。()の旧語を聞くに(みずか)太伯(たいはく)(すゑ)()ふ。昔、夏后(かかう)小康の子、会稽(かいけい)に封ぜられ、断髪文身、以て蛟龍(かうりう)の害を()けせしむ。今倭人また文身し、以て水害を(いとは)(なり)

現代語訳

帯方郡から女王国までは一万二千里余りある。その風俗は、成年男性は皆顔に入れ墨をしてさらに体にも入れ墨をする。その祖先のことを聞いてみると、自分たちは太伯の末裔であると言っている。昔夏王朝少康王の王子が会稽に領土を貰って移り、髪を切って体に入れ墨することで、大魚水禽の害が避けられると住民に教えた。今倭人もまた体に入れ墨をして、大魚水禽の害を避けている。

「鯨而文」は「鯨面文(身)」の誤りかも知れません。「聞其旧語自謂太伯之後」の一文は、『魏志倭人伝』にはない記述です。明らかにの人々が倭の地に戦乱を避けてやってきたことを示します。

原文(『北戸録』卷二・鶏卵卜より)

倭國大事輒灼骨以卜先如中州令亀視坼占吉凶也

訓読文

倭國、大事は(すなは)ち骨を(しゃく)し以て(ぼく)とす。(せん)の中州の令亀(れいき)の如く、(たく)()て吉凶を占ふ(なり)

現代語訳

大事なことがあると、都度骨を焼いて占いをする。昔の中国の亀卜のように、ひび割れを見て吉凶を占う。

三国志の時代、亀卜は既に廃れていました。なので、「先如中州」とあるわけです。倭にはその亀卜よりさらに古い獣卜が残っていたことを示しています。

原文(『三国志』「魏書」東夷伝倭人条・裴松之注より)

其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀

訓読文

その俗正歳(せいさい)四節を知らず、(ただ)、春耕秋収を計り年紀となす。

現代語訳

その風俗には正しい暦がない。ただ、春に耕して、秋に収穫するのを計って一年としている。

ここの解釈は大きく二つに分かれています。ひとつは「春と秋それぞれで一年と数える、すなわち今の半年がこの頃の倭の一年であった」とする説(古代二倍年歴と呼ばれています)と、もうひとつは、「春に耕して秋に収穫するサイクルをおおざっぱに一年と数えていた。つまり今もこの頃の倭も一年の長さは同じ」とする説です。悩ましいのは「不知正歳四節」とある点で、正歳で正しい年期、四節の節は節句の節で、季節の区切りを意味していると思われる点です。つまり、暦がないとしか言ってないので、春耕秋収もそれ全体で一年を表すと取ることも、春と秋それぞれで一年と取ることもできるのです。悩ましいですね。

原文(『法苑珠林』魏略輯本より)

倭南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千余里

訓読文

倭の南に侏儒(しゅじゅ)國有り。其の人の(たけ)、三四尺。女王國を去ること四千余里。

現代語訳

倭の南に侏儒國がある。そこの人は身長が三、四尺しかない。女王国から四千里あまり離れたところにある。

元の『魏略』には、多分、裸國、黒歯國についても記述があったのでしょうが、引用されていません。

やけに『翰苑』卷三十からの引用が多いな、そういう本なのか、と思ったあなた。それは間違いです。実はこの本、日本の太宰府天満宮に卷三十だけが現存しているという超貴重本なのです。なので引用も卷三十からしかしようがないんですね。むしろ、倭のことが比較的多く言及されているので、現代まで保存されてきたのではないでしょうか。