売国奴お断り - No Traitors Allowed

日本のことについてとりとめのないことを綴っていくブログです。日本が嫌いな人は見てはいけません

日本の古代史を考える—補足3「神武東征」

2013-06-18 歴史 日本史

神武東征」と言っても今時の若い人どころか、年寄りでも、あああれか、と分かる人は少ないのではないでしょうか。初代天皇、神武天皇が九州を出発して大和へ向かい、天下を治めたという、『古事記』『日本書紀』に収められている話です。ところで「神武東征」どころか第十代の崇神天皇より前は、全部架空の人物に架空の出来事を当てはめた起源説明神話に過ぎないという説が未だ根強いのですが、そんな戯けたことを言う人は、シュリーマントロイヤを発掘した故事をよくよく噛みしめるべきです。

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日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子

2013-06-15 歴史 日本史

法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。(右から縦書きしています)

法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼 前太后崩明年正月廿二日上宮法 皇枕病弗悆干食王后仍以労疾並 著於床時王后王子等及與諸臣深 懐愁毒共相發願仰依三寳當造釋 像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安 住世間若是定業以背世者往登浄 土早昇妙果二月廿一日癸酉王后 即世翌日法皇登遐癸未年三月中 如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴 具竟乗斯微福信道知識現在安隠 出生入死随奉三主紹隆三寳遂共 彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁 同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

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日本の古代史を考える—⑲壬申の乱

2013-06-14 歴史 日本史

さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも[大海人皇子]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87()と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。

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日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

2013-06-13 歴史 日本史

蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされており、葛城氏を出自とする一族とも言われています。あるいは百済系の渡来人とする人もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうし、出自が古代の名族葛城氏とはいえ、実質たった四代で成り上がったほとんど新興と言ってよい豪族なのは間違いありません。

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日本の古代史を考える—⑰大化改新(前編)

2013-06-13 歴史 日本史

古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。

ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祀るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。

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日本の古代史を考える—⑮磐井の乱

2013-06-11 歴史 日本史

重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。

古事記継体天皇の条に、

此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。

筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。

と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、

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日本の古代史を考える—⑫舊唐書東夷伝倭国条・日本國条

」の後は「」ということで、「」の歴史書での倭国、日本を見ていくわけですが、『唐書』と呼ばれる書物は二種類あります。ひとつは、五代十国時代に「後晋」で編纂された『唐書』です。西暦945年に完成しています。ただ、その翌年に「後晋」が滅んでしまっていることで察することができるように、国自体が安定しておらず、編纂責任者も途中で交代していたりいます。そのため錯誤や遺漏が多く、記事も初唐の頃に偏っており晩唐の頃の物がほとんどないなど、後世の評判は良くありませんでした。そこで、北宋(こちらは、平清盛日宋貿易を行った、あのです)の時代になってから、欧陽脩らによって新しい『唐書』が編まれ、西暦1060年に仁宗に献上されました。そこで古い方の『唐書』を『舊唐書』、新しい『唐書』を『新唐書』あるいは単に『唐書』と呼びます。新しいものができているなら、古い『舊唐書』は無視して良いかというと、実は作りが雑だということは、生の資料がそのまま引き写しされているという利点があるということでもあり、決して資料価値が低いわけではありません。

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