婚姻制度の歴史を考える—⑤妻問婚補記
弥生時代の定義は学会でも揺れているようだが、米の栽培/収穫が主要な食糧獲得手段になり、土地の奪い合いによる集団間の紛争が発生していた時期をそう呼ぶことに差し支えはなさそうである。つまり遅くとも、農耕が定着して武力闘争が開始された時期には弥生時代が始まっていたものと見なす。そして、紛争の片が概ねついて各地に「彦」を称する大首長が現れ、古墳を築造し始める古墳時代の前までを弥生時代とする。以下本稿でいう弥生時代はその意味である。
弥生時代の農耕に武力闘争が不可分であったことは、環濠集落が北九州から近畿にまで瞬く間に広がったことで明白である(環濠集落の分布に関しては、藤村哲氏『弥生社会における環濠集落の成立と展開』が参考になる)。もちろん、では常時戦闘が続く文字通りの「24時間戦えますか」状態だったかというと、そんなわけはない。農耕は手間暇のかかる生産様式なのだ。そして、戦争といえば敵対以外に同盟や征服が不可分である。いつの世も婚姻による味方作りは戦さにつき物とも言える。いや、たとえば群婚において、婚姻は同族であることを確認する神聖な儀式でもあったこと、略奪婚において、他所からきた女を—身分はともかくとして—同族としたことなどを考えると、いったん敵であったとしても婚姻を結ぶことで神に承認された擬制的な同族関係となる点が着目されて同盟構築の手段として使われるようになったのではないか。
いずれにせよ、婚姻による同盟が生じていたことは疑うべくもない。あるいは征服支配の際裏切ることがないよう疑似同族化しておく必要もあっただろう。この時、集団婚では非常に都合が悪い。戦争は一方面だけで行っているわけではないからである。前を向いて同盟を結ぶために集団で出かけてたら後ろからばっさりやられた、では話にならない。しかも集団の意思として同盟を結ぶことを示すために、長が婚姻の主体となることは避けられない。ここに、縄文期に萌芽していたと思われる妻問婚が適合する大きな余地があるのである。しかも妻問いは夫が妻方に通う形式なので、人質の交換などという悪辣なことをする必要がない。群婚以来の習慣で子は母につくのが当然とされていたので、仮に同盟解消となっても、子の去就を考える必要がない。しかも複数の女性を妻としても何も問題がおきない=各地の集団と同盟が結べる。といいことづくめで、まるでこのために考え出されたかのような婚姻様式である。戦時における同盟ではなく、平時の親善としても同じことが言えるので、決して政略結婚のために考え出された様式ではないと思うが。
なお、どこまで歴史的な事実を反映しているのか全く不明ながら、『古事記』に多々見られる妻問い説話は、弥生時代の緊張した集団関係とその中での同盟構築や征服支配を反映していると筆者は考えている。