日本の古代史を考える—⑬漢書地理志再考
『漢書』地理志について、考証、説明が不足していたので改めて取り上げます。
然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云
かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。
前漢武帝以来、儒教は漢の国是でした。孔子は聖人であり、単なる憶測や伝聞でその人となりを揶揄するようなまねは厳に慎まなければならないことでした。畢竟、孔子に筆が及ぶということは、相当の確信があってのことだということになります。そのような時代背景で記述された『漢書』においてもそれは同様です。
では『漢書』において、なぜ孔子は「以歳時來獻見云」とある東夷が住まう地に行きたいと愚痴を零したと記されたのでしょう。もちろん孔子本人がそう言っていたからですが、それには理由があったと『漢書』の編纂者(=班固)は述べています。単なる憶測や伝聞でそんなことを述べたわけではないことは、既に書きまたし、改めてご理解頂けると思います。
ではなぜ「以歳時來獻見云」「定期的に朝貢してきていたと言う」事実が、孔子が零した愚痴の根拠となるのでしょう? それを理解するには『歳時』が何かを理解する必要があります。
孔子は「周礼」を重視しました。孔子が礼という時、それは「周礼」のことです(ここで言う「周礼」は「周」で行われていた礼という意味で、現在に伝わる書物の「周礼」ではありません)。その「周礼」では諸侯が天子に見える時期について以下のように定めています。
諸侯朝見天子有三種形式。每年派大夫朝見天子稱為小聘、每隔三年派卿朝見天子為大聘、每隔五年親自朝見天子為朝。
諸侯が天子に朝見する場合、三種類の形式がある。
毎年大夫を派遣して天子に朝見することを「小聘」と称する。
三年ごとに卿(大臣)を派遣して天子に朝見することを「大聘」と称する。
五年ごとに諸侯自身が天子に朝見することを「朝」と称する。
後に倭から朝貢してきた者は皆「大夫」を自称したとあります。
『後漢書』東夷伝「使人自稱大夫」
『魏志倭人伝』「皆自稱大夫」
『晋書』東夷伝「皆自稱大夫」
『隋書』東夷伝「漢光武時遣使入朝自稱大夫」
つまり、周礼に言う「小聘」を実行していたのであり、だからこそ「以歳時」と書かれているのです。
そのような礼はもちろん、渡来人/帰化人が持ち込んだことは言うまでもありません。しかし、それを受け入れる土壌が縄文時代晩期の日本には既にあったことがわかります。朝見は一集落の人間がその気になったからと言って気軽にできることではありません。表を用意し、献上品を選定し、身なりを整えと、少なくともある程度の規模の集団でないと準備もおぼつきません。まして毎年行うのですから、一氏族、一部族でこれを行うことなどできません。周囲の氏族、部族が合同して送り出さねば、成周にたどり着くことすらおぼつかないでしょう。
さて、一般に縄文時代はそのようなことができる文化的背景があったと理解されているでしょうか。試みに「縄文時代 画像」で検索してみて下さい。牧歌的で小集団に別れて狩猟や採集をしている姿ばかりです。なぜ、今から 3000 年前の人々が半分裸で、呑気に暮らしていたなどと言えるのでしょう。「分爲百餘國」とあるのですから、少なくとも家族単位で孤立して暮らしていたなどということはありえない妄想です。もちろん国家などというものではなかったに違いありません。そのような権力の集中と思われる遺品は弥生時代以降に出土するからです。いえ、ということになっています。しかし、大規模な宗族といった単位で氏族、部族が統率されていたことは充分にうかがい知れる表現です。もちろんその情報をもたらしたのは朝見に来た「倭人」です。
さて、我々が抱いている根拠のない、3000 年前といえばこの程度だろうという言われなき蔑視観と、『漢書』地理志に書かれた立派な倭人。どちらが私たちの先祖の本当の姿でしょうか。