日本の古代史を考える—補足4『漢書』地理志燕地条を正しく引用する
『漢書』地理志燕地条をちゃんと引用したことがないのに気がついたので、内容の正確な理解を助けるために、改めて必要個所を抜き出し、訳文を付ける。
玄菟樂浪武帝時置皆朝鮮濊貉句驪蠻夷殷道衰箕子去之朝鮮教其民以禮義田蠶織作樂浪朝鮮民犯禁八條相殺以當時償殺相傷以穀償相盜者男沒入爲其家奴女子爲婢欲自贖者人五十萬雖免爲民俗猶羞之嫁取無所讎是以其民終不相盜無門戸之閉婦人貞信不淫辟其田民飲食以籩豆都邑頗放效吏及内郡賈人往往以杯器食郡初取吏於遼東吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條可貴哉仁賢之化也然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云自危四度至斗六度謂之柝木之次燕之分也
訓読文
玄菟、樂浪は武帝の時に置き、皆、朝鮮、濊貉
現代語訳
玄菟郡と楽浪郡は、武帝の御代に置かれた。みな、朝鮮、濊貉、句驪の蛮夷である。殷が滅んだ時、箕子が朝鮮にやってきて、朝鮮の民に礼儀に則った稲作、養蚕、機織りを教えたのである。楽浪郡や朝鮮の人民が禁止されている罪八つを犯した場合、人を殺した場合は、すぐに犯人を殺した。人を傷つけた場合は、穀物で贖わせた。盗みの場合、その身分を落として男は盗みに入った家の奴(やっこ)に、女は婢(はしため)にした。自首して贖罪を望むものは、ひとりにつき五十万鐘(の穀物、一鐘は五十㍑)とした。罪を免れ、民としての地位を保ったとしても、これを恥じるように風俗が変わった。嫁を取る場合も代価が不要となり、ここに至って遂に、その人民は盗みを働かず、門戸を閉じることもなくなり、女性は貞淑で、浮気をすることもなくなった。農民は、籩豆(籩は竹で編んだ高坏、豆は木製で塩などを盛る)を使って食事をし、都市には官僚や中国本土の商人をよく見習い、しばしば食器を使って食事を取るようになった。玄菟郡と楽浪郡でははじめ、遼東から官僚を選抜していたが、官僚が摘発したのは、人民が門を閉じて交通を閉ざしたりしないので、官僚が見たところ、人民は町の門を夜も閉ざさない。それで、商人で行商する者が夜になると、盗みを働くことであったようになっていた。その風俗の益化もようやく少しずつ薄れてきいて、今は、禁止しなくてはならないことがだんだん悪い行いについて禁令がますます多くなり、今は六十条あまりになっている。仁者賢人の教化というのは誠に貴いものである。こういう次第でそうではあるけども、東夷の天性は柔順となった。なのであり、そこが北狄、西戎、南蛮との違いである。だからこそ、孔先生は道が行われないのを悲しみ、小舟を海に浮かべて九夷(九はすべての意、転じて代表の意。この場合は東夷の中心)の地に行きたいと仰った。それには理由があったのだろうか。(もちろんあったのである。)楽浪郡の先の海に倭人の地いる分度があり、百あまりの国に分かれている。礼に則り毎年朝見していたと伝える。(その分度とは天文上の星分度であり)危の四度から斗の六度までの星分度である。これを「柝木の次」と言う。燕の分度である。
「吏見民無閉臧及賈人往者夜則爲盜俗稍益薄今於犯禁浸多至六十餘條」の箇所の誤訳を訂正。倭人条は、「夫」が後の句と対になることを示す助字であること、「倭人分」でひとつの熟語であることなど、Blog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんで紹介されていた解釈に基づいて訳し直した。また欠けていた下の句を追加した。(2013年7月20日)
こうして見渡せば一目瞭然、ここは、中国の聖人賢人の教化が遠い東の果てにまで及んでいたことを自賛賞賛する記事なのである。遠い昔、箕子が朝鮮の人民を教化・巡撫した成果が、時間を隔てた漢の武帝の時代にまで及んでいたと語り、それが海を渡り、空間を隔てた「倭」の地にまで及んでいたと語っている。倭人はその証拠として駆り出されているのである。『漢書』が編纂された後漢において儒教は国家の規範であり、政治の基本でもあった。従ってその祖であり聖人と見なされている孔子に筆が及ぶと言うことは単なる風聞ではなく、歴とした証拠があったと見なくてはならない。その孔子が、礼が行われていると見なした根拠として挙げられている朝見だが、当然それは周礼に基づいたものであることは言うまでもない。後世、『魏志倭人伝』で「其使詣中國皆自稱大夫」「中国にやってくる遣使は、皆大夫を自称した」とあるところから、大夫による朝見であったことが推測される。大夫による朝見は、年一回と決まっていた。ゆえにこの歳時とは一年であることもわかるのである。また、歳時を四時=四季に対応した言葉であると考えるなら、やはり一年を意味することとなる。ところで孔子が生きた春秋時代はもとより、その後の戦国時代も混沌として天下を統べる王が不在の時期であった。だから、倭人が朝見していた天子というのは、西周の天子であることもまたわかるのである。
この最後の一文「以歳時來獻見云」を前漢の武帝以降、つまり楽浪郡が置かれてから倭の遣使が朝貢してきたのだと誤解している人が余りに多いことに驚く。前漢の時代に実際に朝貢があったのなら、班固は「云」とわざわざ伝聞で書いたりしない。然るべき記録を参照し、本紀はともかく、少なくとも朝鮮伝のついでくらいにはその事実を書くはずである。そうしなかったのは、前漢に倭の遣使が朝貢した事実がなかったことを物語る。前漢は楽浪郡を置いたことからもわかるようにとの通商は、衛氏朝鮮と対立しておりが独占しており、そこを遣使が通過して前漢に朝貢することはできなかった。また、衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を含む四郡を設置しても、短期間で楽浪郡以外を放棄せざるを得なかったように、その支配も安定していたとは言い難い。つまり、前漢を通して倭が遣使を出して朝貢する機会はなかったのである。渤海を抜けて遼河から中国に入るルートがあるとお考えの方もおられるだろうが、そこは匈奴の支配下であり、やはり前漢と対立していたので、遣使は不可能であった。では前漢以前はと言うと、秦は天下を支配した期間があまりに短く(だから秦漢とひとまとめにされることが多いのだが)、朝貢を受けた天子は、周の天子以外にありえない。なら東周の天子かというと、中華は春秋時代・戦国時代(しかもその途中で東周は滅ぼされている)であり、戦乱に明け暮れた時代である。洛陽(東周の都)まで遣使の無事が保証されなかった。そんな時代に遣使することは考えられず、従って倭が「以歳時來獻見」した天子は西周の天子に外ならないという結論に至るのである。縄文時代の人々がなぜ周に朝貢しようなどと考えたか、それは殷周革命と呼ばれる戦乱に原因がある。殷は九夷=東夷の助けを得て王朝を建てたと伝えられており、殷末の三公(西伯昌、九候、郭候)のうちの「九候」も九夷の首長と考えられる。従って殷が滅びた影響で、殷の族や遼東・山東の族が周の追撃を逃れて朝鮮や日本に逃げ込んだことは充分に考えられるのである。一方でその殷自体、高宗武丁王の頃に江南を支配下に置いており、後の呉越の族の一部が西南諸島を経由して日本や朝鮮に逃げ込んだこともまた確実である。中華に燦然たる王朝があることはこうして日本に伝わり、その冊封を受けて族や国の安全を図ろうとすることは何の不思議もないのである。(この項、2013年6月29日に追記)
コメントでご指摘頂いた分とBlog Cafe『よみがえる魏志倭人伝』さんの記事に従い訳文を修正した。最期に「燕之分也」で終わる句だが、これはあるいは倭人が「燕」にも朝貢していたのかも知れないと思い始めた。燕地条自体にも書いてあるが、戦国時代に「燕」は王を称しており、「燕」までなら戦乱に巻き込まれることもなくたどりつけるからである。あるいは、『山海經』第十二「海内北經」に「蓋國在鉅燕南倭北倭屬燕」とあるのを引いたのか、別の資料を引いたのか出典は定かでないものの、無視できる内容ではない。(この項、2013年7月20日に追記)