売国奴お断り - No Traitors Allowed

日本のことについてとりとめのないことを綴っていくブログです。日本が嫌いな人は見てはいけません

日本の古代史を考える—⑱大化改新(後編)

2013-06-13 歴史 日本史

蘇我氏という氏族は不思議な氏族です。はっきりしている系譜もその宗家は稲目馬子蝦夷入鹿と、四代しかありません。現在伝わっている系譜では武内宿禰の末裔とされており、葛城氏を出自とする一族とも言われています。あるいは百済系の渡来人とする人もあり、どうやって力を付けたのか不思議な氏族です。もちろん傍系にはたくさんの人間がいたでしょうし、出自が古代の名族葛城氏とはいえ、実質たった四代で成り上がったほとんど新興と言ってよい豪族なのは間違いありません。

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日本の古代史を考える—⑰大化改新(前編)

2013-06-13 歴史 日本史

古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。

ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祀るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。

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日本の古代史を考える—⑯九州王朝について補足

2013-06-12 歴史 日本史

九州王朝について補足しておきます。

1. 北九州は大陸、朝鮮半島に対する表玄関である。

これは地図を見れば明らかですね。縄文時代より大陸、朝鮮半島から渡来人/帰化人がやってきて住み着いたとすれば、

遼東→朝鮮半島→対馬→壱岐→博多湾岸のルート
江南→(台湾)→琉球→南西諸島→薩摩、天草、北九州

のいずれかのルートで到来したことは明白です。常に先進文明を真っ先に受容する地に日本最初の王権が登場したとして何の不思議があるでしょう。奈良の田舎に誕生したとする現在の学説の方がよほど奇異です。

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日本の古代史を考える—⑮磐井の乱

2013-06-11 歴史 日本史

重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。

古事記継体天皇の条に、

此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。

筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。

と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、

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日本の古代史を考える—⑭歴史学者への疑問提示

漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。

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日本の古代史を考える—⑬漢書地理志再考

漢書』地理志について、考証、説明が不足していたので改めて取り上げます。

然東夷天性柔順異於三方之外故孔子悼道不行設浮於海欲居九夷有以也夫樂浪海中有倭人分爲百餘國以歳時來獻見云

かくして、東夷の天性は柔順であり、そこが北狄、南蛮、西戎とは異なる点である。故に孔先生は道が行われないのを遺憾に思い、筏に乗って海に浮かび、九夷の地に行きたいと仰った。それには理由があったのである。楽浪郡の先の海中に倭人の地があり、全部で百あまりの国がある。定期的に貢ぎ物を持ってきて天子へお目見えしていたと伝わっている。

前漢武帝以来、儒教は漢の国是でした。孔子は聖人であり、単なる憶測や伝聞でその人となりを揶揄するようなまねは厳に慎まなければならないことでした。畢竟、孔子に筆が及ぶということは、相当の確信があってのことだということになります。そのような時代背景で記述された『漢書』においてもそれは同様です。

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日本の古代史を考える—⑫舊唐書東夷伝倭国条・日本國条

」の後は「」ということで、「」の歴史書での倭国、日本を見ていくわけですが、『唐書』と呼ばれる書物は二種類あります。ひとつは、五代十国時代に「後晋」で編纂された『唐書』です。西暦945年に完成しています。ただ、その翌年に「後晋」が滅んでしまっていることで察することができるように、国自体が安定しておらず、編纂責任者も途中で交代していたりいます。そのため錯誤や遺漏が多く、記事も初唐の頃に偏っており晩唐の頃の物がほとんどないなど、後世の評判は良くありませんでした。そこで、北宋(こちらは、平清盛日宋貿易を行った、あのです)の時代になってから、欧陽脩らによって新しい『唐書』が編まれ、西暦1060年に仁宗に献上されました。そこで古い方の『唐書』を『舊唐書』、新しい『唐書』を『新唐書』あるいは単に『唐書』と呼びます。新しいものができているなら、古い『舊唐書』は無視して良いかというと、実は作りが雑だということは、生の資料がそのまま引き写しされているという利点があるということでもあり、決して資料価値が低いわけではありません。

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