日本の古代史を考える—⑳上宮法皇と聖徳太子
法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。(右から縦書きしています)
法隆寺の金堂に安置されている釈迦三尊像の光背に次の文章が刻まれています。(右から縦書きしています)
さて、天智天皇は即位してみると、大海人皇子の影響力が大きくなっていることに改めて危惧を抱いたかも知れません。「大皇弟」という尊称を奉った大海人皇子は、自分の後を継ぐ大友皇子を大きく引き離しています。オオキミが捕虜になったとは言え、「倭國」はなくなってしまったわけではありません。中大兄皇子としては倭國と修好し、あるいは倭國の力を引き出すのに、大海人皇子は得がたい協力者でした。また、国内統治という点でも、軍備という点でも大海人皇子と皇子に随従してきた官僚たちは、卓越した識見を示し、事態の収拾と政策の実現に奔走してくれました。感謝してもしきれないとはこのことです。
続きを読む古代の画期といえば、「大化の改新」を挙げるのが従来の定説でした。しかし、最近は所謂「改新の詔」が後代、律令制が施行されてから創作されたものであることが確実になり、また、天智天皇の施策も「改新」めいた点が見られないことから、「大化の改新」と言えるほどのことはなかったのではないかとも言われています。
ではその契機となった「乙巳の変」もなかったかというとそんなことはありません。「入鹿神社」という蘇我入鹿を祭った神社が伝世されています。菅原道真の例を見れば分かる通り、死後その人を祀るというのは、恨みを呑んで死んだその人の霊が祟りをなすと懼れられたからです。蘇我入鹿も死後祟りをなすような死に方をした、つまり、蘇我入鹿を殺し、蘇我宗家を滅ぼした事変は確かにあったのです。
続きを読む九州王朝について補足しておきます。
1. 北九州は大陸、朝鮮半島に対する表玄関である。
これは地図を見れば明らかですね。縄文時代より大陸、朝鮮半島から渡来人/帰化人がやってきて住み着いたとすれば、
遼東→朝鮮半島→対馬→壱岐→博多湾岸のルート
江南→(台湾)→琉球→南西諸島→薩摩、天草、北九州
のいずれかのルートで到来したことは明白です。常に先進文明を真っ先に受容する地に日本最初の王権が登場したとして何の不思議があるでしょう。奈良の田舎に誕生したとする現在の学説の方がよほど奇異です。
続きを読む重要な項目を検討し忘れていたので、ここで補おうと思います。古代日本で「壬申の乱」と並ぶ大内乱「磐井の乱」です。
此御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。
筑紫の君石井が皇命に從わないで、無禮な事が多くあった。そこで物部の荒甲の大連、大伴の金村の連の兩名を遣わして、石井を殺させた。
と内乱があったことが記されています。万事簡略な『古事記』ゆえ、言及されていること自体が驚きです。実際、雄略天皇の頃にあったとされる「吉備氏の乱」も、その後にあったという「星川皇子の乱」にも一言も触れていません。それだけこの乱が重視される謂われがあると見なさなくてはなりません。一方、『日本書紀』も「磐井の乱」の模様を伝えています。巻十七「男大迹天皇 繼體天皇」に、
続きを読む『漢書』地理志に始まり、『舊唐書』東夷伝倭国条・日本國条まで見てきたが、先入観のない素朴な目で見ると、従来学校で教えられてきた歴史の内容に大きな疑問を抱かざるを得ない点が次々に見つかった。これを列挙し、機会があれば日本の古代史を専門とする歴史学者に問うてみたい。
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